1988(1)
ジリリリリ……
――あたしメリーさん、いまゴミ捨て場にいるの。
ジリリリリ……
――あたしメリーさん、いま駄菓子屋にいるの。
ジリリリリ……
――あたしメリーさん、いま玄関の前にいるの。
ジリリリリ……
――あたしメリーさん、いま、あなたの後ろにいるの……
どこかの小学校で僕と同い年の子が死んだってさ。
自宅の鴨居に紐をかけて、そこからブラリとぶら下がっていたらしいよ。電話の受話器が外れていたってさ。グルグルのコードが伸びた状態で、受話器もブラリとぶら下がっていたんだ。ツー、ツーって、音を鳴らしながらね。
どうしてそんなことを知っているかって、それは。
「またメリーさんが現れたみたいだぞ……」
教室の隅で根本大輔が言った。彼を中心に数人の男子たちが集まっている。
今日は授業が午前中のみで、給食の時間が終わると共に掃除となった。彼らはおざなりにT字型のホウキを振りながら立ち話をしている。この間まではドラクエ3のことばかり話していたのに、いまではファミコンゲームの存在なんか忘れてしまったかのように、メリーさんの話だけで盛り上がっている。
メリーさんとは、子供たちの間で話題になっているお化けだ。「あたしメリーさん」と何度も電話をかけてきて、最終的には電話口にいる人の背後に立つお化け。捨てられた古い西洋人形が化けたものらしく、少女の姿をして現れる。
「前回は首吊り。今回はベランダから飛び降りたんだってよ」
「本気と書いてマジ?」
男子たちは楽しそうにしている。けれどその会話の内容は物騒なものだった。
そう。メリーさんに会った人は死んでしまうのだ。
どこかの小学生はメリーさんに殺された。誰だって知っていることさ。
「友達の友達のいとこの同級生が犠牲者なんだ……」
大輔はいよいよホウキを投げ出して、身振り手振りを交えながら語り始めた。
ところが、教室中に響いた一つの声によって、その話はさえぎられてしまった。
「ちょっと男子ー、真面目に掃除してよー」
この五年二組の学級委員を務める野崎久美子の声だ。
話の腰を折られた大輔は不服そうに舌を打ち、両手を大袈裟に広げてみせた。
「真面目にやってんじゃねえかよ。掃除してねえのは直樹だけだろ」
「えー、直樹くんはさ、ほら、ね……」
僕のことを巻き込むのは勘弁してもらいたい。そう願ったものの、言い淀む野崎の姿を見て勝利を確信したのか、大輔はますます僕の名前を口にした。
「野崎よー、直樹が一番サボってんだろ? 俺たちは床を掃いてたぜ。それなのに直樹は席に着いたままだ。文句があるなら、まず直樹に言えよ」
野崎は返す言葉が浮かばなかったらしく、こちらに寄ってきて僕のことを見下ろした。
「ねえ、直樹くん。早く給食を食べちゃってくれない?」
「ど、努力は、してるよ……」
僕の目の前にはいまだ食べかけの給食が置いてあった。アルマイト製の皿の上に福神漬けが佇んでいる。
今日のメニューはカレーライス、のはずだった。けれど給食当番が配分を失敗して、最後のほうに取りにいった僕の皿には、カレーライスではなく、福神漬けライスが盛られたのだった。福神漬けは僕にとって、地震、雷、火事、オヤジに次ぐ脅威だ。人間の食べ物とは思えない。とはいえ、この学校では給食を食べ終えるまで席を立ってはいけないという決まりがあり、残すことはできなかった。皿の上にコイツがいる限り、掃除が始まろうと、もっと言えば深夜になろうと、座っていなければならない。
先割れスプーンで茶色い物体をつつきながら思う。前の学校なら、こんな思いをしないで済んだのに。
昨年度まで僕は東京の学校に通っていた。でも父さんの仕事の都合で、四月から、この埼玉の小学校に通うこととなった。それから三ヶ月が経ったいまになっても、僕は周りの環境に馴染めずにいる。特に給食はとにかく口に合わない。いいや、口に合わないだけではなく、そもそも見た目からしてもう駄目だ。前の学校ならばセラミック製の白い皿が使われていたのに、ここではボコボコに歪んだ銀色の皿。こんな器に盛られたのではどんな食べ物も犬の餌に見えてしまう。犬といえばここの男子たちはみんな野良犬みたいで、ハアハア、ハアハアと呼吸を乱しながら校庭やら廊下やらをすぐに走り回る。そういえば転入してきたばかりの頃、まだ外は肌寒いというのに大半の男子が半袖半ズボンだった。思うに彼らは犬なので防寒着を必要としないのだろう。そのわりには青い鼻を垂らしている奴がいるのだから不思議だ。
大輔の取り巻きの一人が鼻水を肩で拭いながら言う。
「なあ、今日のレク、なにする?」
午前中のみで授業が終わる日は校庭が開放され、学級遊び、通称レクリエーションが行なわれる。自由参加とはなっているものの、実際にはほぼ強制参加。できるならば参加なんてしたくない催しだ。
「なにすっかなあ。フットベースが良いけど六年が邪魔なんだよな」
「じゃあさ、ポートボールは?」
「ねー、男子ー、ゴミを集めて捨ててー」
「俺、ドッジに一票」
「久美ちゃん、女子はゴム跳びにする?」
「おっし、三組の連中とドッジ対決しようぜ」
一斉に喋るな。黙って掃除しろよ。不味い給食がますます不味くなる。
そんな僕の気持ちなどお構いなしに、男子も女子も手より口を動かし続けた。
やがて、キンコンカンと、犬たちをなだめる間の抜けたチャイムの音が鳴る。大輔は熟練職人のような鮮やかな動きでゴミを捨て、ランドセルを背負った。
「校庭まで競走な。ビリの奴はメリーさんの次の生贄だ」
ほかの男子も慌ててランドセルを背負う。
「……直樹、お前は女子と一緒にゴム跳びでもしてな。ヨーイ、ドンッ」
大輔の掛け声と共に犬たちは走り出した。
足音が遠ざかると、隣に立つ野崎が憐れむように口を開いた。
「直樹くん、どうする?」
「な、なにが?」
「仲間外れにしたってことになると、わたしが先生に怒られちゃうんだけど……わたしたちと一緒にゴム跳びする?」
「しないよ。これを食べ終えたら帰るよ」
「じゃあ、先生に自分からレクに参加しなかったって伝えてね」
渋々頷く。すると女子たちも教室を後にした。
誰もいなくなったことを十分に確認し、机から『夏休みの過ごし方』と書かれた藁半紙を取り出す。僕は、福神漬けをその藁半紙で包み、ゴミ箱に捨てた。
集合住宅の四階、左から四つ目の部屋、ここが僕の家だ。『4』という数字は縁起が悪いからか、部屋番号は『505』となっていて、非常にややこしい。念のため、というより習慣的に、『佐藤』という表札を確認してから鍵を開ける。中に入ると、薄暗い玄関はひんやりとしていて、暑さと共に騒々しさからも逃げおおせた気がした。
これでようやく一人になれる。そう息をついたのも束の間、部屋の奥から母さんの声が聞こえてきた。どうやら今日はパートが休みらしい。
「……だから、駄目だって言ったでしょ」
とても強い口調。機嫌が悪そうだ。
その声に被せるように、もう一つ声がした。
「ねー、お母さーん。ラケット買ってよー」
姉ちゃんだ。二人は口喧嘩をしているようだった。
「ただいま……」
声をかけても気が付く様子はない。
「そんなの買っても中学生の間しか使わないんでしょ」
「みんな自分のラケット持ってるんだよー」
「みんなはみんな、うちはうち」
「わたしだけなんだよー、学校の備品を使ってるのはー」
「貸してもらえるならそれで良いじゃない」
「備品は臭いんだって」
「とにかく、買いません」
中学一年生の姉ちゃんは僕とは違って社交的で、友達も多く、軟式テニス部に入っている。よっぽどマイラケットが欲しいのか、近頃は母さんにおねだりばかりしている。この攻防も、かれこれ百万回くらい見せられたのではないだろうか。
「お母さんの、デブ!」
「コラ、貴子! いまなんて言ったの!」
「ベー」
姉ちゃんは舌を出すと、クルリと振り返り、こちら向かって歩いてきた。
そして。
「直樹。なに見てんのよ」
そう言って僕の頬をつねった。
「痛ってえな。やめろよ」
すかさず腕を払いのける。
「フンッ」
わざとらしく鼻を鳴らされる。
姉ちゃんはそのまま悪びれもせず、ポーチを持って外へ出ていった。たぶん友達の家にでも遊びにいったのだろう。鉄の扉が自動的に閉じ、ガガンッと大きな音が響く。
静かになると、母さんがエプロンを畳みながら僕に視線を寄越した。
「あら、直樹、帰ってたの? ちゃんと『ただいま』くらい言いなさい」
「言っただろ……」
小声でささやかな抵抗を試みる。けれどその声は届かなかったみたいで、母さんは惚けた顔で話を続けた。
「これから買い物に行ってくるから、留守番よろしくね」
「分かったよ。鍵、掛けてってね」
横目で背中を見送ってから、僕は子供部屋に入ってランドセルを投げ出した。
今度こそ本当に一人きりになれた。学校でも家でも気の休まる瞬間は限られていた。この部屋にしても姉ちゃんとの相部屋なので、夜になれば常に平安を脅かされかねない状況に陥る。いきなり八つ当たりをされたり、布団を敷かせられたり、もう懲りごりだ。だけど、ほかに空いている部屋がないのでは我慢せざるを得ない。
やり切れない思いを振り払おうと、僕は勉強机の引き出しからCDプレイヤーを取り出した。誕生日に買ってもらった携帯用のものだ。さっそくヘッドホンを装着し、再生ボタンを押す。中には僕の好きなロックバンドのCDが入っている。
前の学校でも、いまの学校でも、クラスメイトたちの聴いている曲はアニメソングやアイドルの歌ばかりだった。それに対して僕は、このバンドの曲ばかり聴いている。たぶんロックを聴いている小学生なんてなかなかいないだろう。そもそも自分の小遣いでCDを買っている奴に会ったことがない。かくいう僕も、これが初めてかつ唯一の購入したCDだったりする。もちろんプレイヤーを買ってもらったからには、これから何枚も購入するつもりではいる。ただし、このバンドが新しい曲を発表することはもうない。
このバンド、BOOWYは、今年の春に解散してしまった。
BOOWYのことを知ったのは一年前、ラジオから流れてきた曲『Dreamin』をたまたま聴いたからだった。皮肉の効いた歌詞と切れの良い音に一瞬で魅せられて、それ以降、僕はラジオにリクエストハガキを送ったり、親戚にカセットテープのダビングをお願いしたりした。そして誕生日にプレイヤーを買ってもらい、これからは小遣いを貯めてCDを集めようと思った矢先、新聞広告でバンドの解散が発表された。
『夢を見ている奴らに贈るぜ!』
ヘッドホンからボーカルの掛け声が聞こえる。
僕の夢はなんだろう。好きなものを追って、好きなものに囲まれて、それから。それから。よく分からない。いまはただ逃げ出したいだけだ。
励ますように力強い歌声が耳に流れ込んでくる。と同時に、ジリリリリという音が聞こえてきた。最初はCDの雑音かと思ったけれど、どうやら違うみたいだ。リビングから聞こえてくる。僕はヘッドホンを外して首に掛け、隣の部屋を覗いた。
時代遅れのダイヤル式黒電話が、けたたましくベルを鳴らしている。家族はみんな出払っているので、僕が応対をしなければならない。これも鍵っ子の宿命だ。そう自分自身に言い聞かせ、僕は、電話に歩み寄って受話器を手に取った。
その時、玄関の扉が開かれた。
「買い物しに行ったのに、お財布を忘れちゃったわよ」
母さんだ。
母さんはサンダルを脱いで部屋に上がると、僕のことを見て首を傾げた。
「あら、電話? 誰から?」
受話器を耳に当てたまま返事をする。
「間違い電話だと思う」
受話器からは、ツー、ツーという音が零れていた。
母さんは興味なさげに小さく頷き、それから険しい顔をした。
「それはそうと直樹、あんた宿題やったの? そんな変な音楽ばかり聴いてないで、ちゃんと勉強しなさいね。勉強しないと、CDを取り上げるわよ」