届かない支出報告書の行方
ドサッと、あまり嬉しくない音が、王宮の南棟1階にある自習室に響いた。
目の前に書類を積まれた、今年で17歳になる青年の顔はみるみる引き攣って、嫌だと言外に訴える。
彼の机に書類を積んだ、ほんの少し茶色がかった髪をアップにしてバレッタで留めた女官、香村小雪は、その表情を見ても気にも留めずにさらりと流し、必要な諸々の説明を始めた。
「以上が、この書類の内容になります。ご確認をお願いします」
「・・・・・ご確認」
りなが提出されていないと気にかけていた、警護第一部隊の先月分の支出報告書だ。先月は年度末だったので、いつもより量が多い。それを溜めに溜めて、仕方なくまとめて片付けましたと言わんばかりの量がある。
机に一山盛られた青年は、見たくもないと言わんばかりに、指で書類の束を摘まんで、パラパラと見るともなしに弾く。
それを彼の隣で眺めていた、この国の第一姫である鈴香未沙は、二人の様子をコロコロと鈴を転がすように楽しそうに笑いながら眺めていた。
そんな未沙姫の勉強を見ていた青年、りなの兄である宮木架名は、嫌そうに顔をしかめ、笑う姫にじとっとした目を向ける。
「姫、笑い事じゃないです」
「ごめんなさい、架名。だって、あまりに嫌そうな顔をするから」
堪えられないとばかりにくすくすと笑う姫を見て、架名が渋面を作って積まれた書類に視線を移し、それから持ってきた小雪に目を向けた。
「嫌ですよ。何この量。何でこんなに溜まってんの?」
むうぅと口を尖らせ文句が含まれたセリフをぶつけると、小雪はその疑問には答えず、ポジティブにも前へ進む為の連絡事項を口にした。
「架名様、折角の美人が台無しですよ?この書類、今日中に片付けて下さいね?」
「俺、美人って言われても嬉しくない。てか、今日中とか絶対無理。何の嫌がらせかなぁ小雪さん」
嫌がらせをされる心当たりがない。いや、結構色々と迷惑をかけてはいるから、その仕返しかもしれないが。
「貴方が所属する警護第一部隊の仕事の一貫です。これくらい、一時間もあれば出来ますでしょう?」
「一時間とかありえない」と、架名が心の中で喚く。口元が、わずかにピクッと引き攣った。
「架名、観念したら?今までだって勝てた例ないんだし」
未沙が、結末が分かった表情で架名を見やる。その架名は、そう簡単に諦めるつもりはないらしい。
「姫、挑戦する心を失くしてはいけません!何度駄目だろうが、挑戦し続ければいずれは勝つかもしれませんよ?人間、挑戦しなくなったら終わりです」
哲学のような立派な心がけだ。その言葉に、小雪は美しい顔を綻ばせて頷く。
「そうですね架名様、苦手な書類処理も、挑戦し続ければきっと得意になられますよ?こんなしょうもない挑戦をしていないで、早く書類を片付けて下さいね?」
才色兼備な彼女の素敵な笑顔が、一層眩しく感じる。
墓穴を掘るとはまさにこのことだと、未沙は実例として学習した。
「書類処理は別なの。りなにやらせればいいだろ?あいつのが俺より早く片付くだろうし」
「りな様は今、予算の執行確認でご多忙なのです。これ以上仕事を増やすわけには参りません」
りなは、架名の実弟である。
容姿端麗 頭脳明晰で、現在、国王の史上最年少の側近、王閣の史上最年少の閣僚として、10歳の頃から国家予算案作成に携わっている天才児だが、一癖も二癖もあるのが難点だ。
「そっか、それでこんなのが俺に・・・・・・それにしても・・・・・・」
他に誰かいるだろ?と言いかけた言葉は、小雪に遮られてしまう。
「本日お時間があって、上長確認欄に印鑑が押せる警護部隊所属の人員は架名様しかいらっしゃいませんでしたので」
随分と都合が良い。
タイミング良すぎないか?それ。と疑いたくもなったが、そう言われてしまうと引き受けるしか道はない。きっと、ギリギリでしか報告書を仕上げなかったから、こんな状態になっているのだろう。
結局架名はしぶしぶ引き受けて、小雪は「失礼します」と仕事に戻っていった。
パタンと閉まったドアを、もの言いたげに眺めてから、架名は深々と溜息をつく。
「頑張って!架名ならすぐ終わるわよ、ね?」
気を遣って明るく励ます未沙に、架名がげんなりした顔を向けた。
「姫、そんな微笑みながら・・・・・・。いいですよ、やりますよ、引き受けたんだし・・・・・いや、引き受けさせられたのか。こんな面倒なの、やりたくないけど・・・・・・。ほら、姫も次の問題解いて下さい。先程の基礎問題の応用です」
次の問題を指で示してから、架名は書類を手に取る。嫌々ながらもきちんと目を通すところは、架名の真面目さを表していた。
その様子を見て、未沙は柔らかく微笑む。
宮木架名は、未沙の教育係兼専属ボディガードだ。
容姿端麗、頭脳は平均よりはずっとか明晰だが、弟のりなと比べては見事に劣る。
運動神経は抜群で、諸々の訓練では、王宮の警護兵の中では右に出る者は数人しかいないだろうと囁かれる程の好成績を修めていた。
架名もまた、現国王、鈴香牧の戸籍外養子である。
兄弟の両親は、架名がまだ小学校低学年の頃に殺された。
犯人はまだ捕まっていない。
特殊な能力を保持するというのは、非常に厄介だ。
彼らの命を守る為、また、世の中の偏見から隔絶して育てる為に、彼らの持つ能力等は国家機密として指定し、成長してその面差しが変わるまで、王宮の奥深くで育てられた。
養父母の愛情や、王宮で働く宮仕え達の優しさを一身に受けて、壮絶な過去を持つ兄弟は、人格に変調をきたすことなく立派に成長した。
ちょっと、完璧すぎて怖いくらいである。
色々と事情はあるものの、まるでそんな問題はないかのように、日々、平和な時間がゆったりと流れているのだった。
未沙は、ペンを片手に問題と睨めっこするも、先程の架名と小雪のやり取りで集中力が切れてしまったらしく、全く手が進まなかった。
架名はと言えば、嫌だ何だと駄々をこねた割に、積まれた書類にさらさらと目を通して片付けていく。
「分かりませんか?」
手が止まっていることに気が付いて声をかけると、未沙が「う~ん」と煮え切らない返事を返した。
「頭に入ってこないのよね」
未沙は真面目ではあるが、学業と名のつく勉強はあまり好きではない。
母の華菜が自由にフラフラとお花畑を駆け回るのが好きで、子供の頃から「勉強嫌いっ」と脱走してしまう問題児だっただけあって、その遺伝子が受け継がれたらしい。父の牧の血が半分流れているので、こうして大人しく勉強してはいるものの、実際の性質的には華菜の血が色濃く出ているのでは?と架名は推測しているのだった。
「上手いこと言いましたね」
“ 頭に入ってこない ” んじゃなくて、“ やる気がない ” が正しいのでは?と架名は口には出さず、心の中で突っ込む。
「ねえ架名、ちょっと休憩しちゃダメ?」
「ダメです。さっき十分笑って休憩したでしょう?あと30分は頑張ってお勉強して下さい」
「・・・・・・架名の意地悪」
口を尖らせると、架名は聞こえなかったかのようにさらりと流した。
「何か仰いましたか?」
「何でもない」
ふくれっ面の未沙を横目に、まあ俺も勉強嫌いだったから、気持ちはよく分かると苦笑する。
「ほら、私も書類処理頑張りますから、姫もお勉強頑張って下さい。因みにこの問題、使う公式はこっちの式ですよ」
教科書に並ぶ公式を指さしてヒントを出すと、架名は再び書類に目を通し始めた。