ラナンキュラス
好きなもの。雨にぬれた芝生。ぴかぴかしたさくらんぼ。やさしいピアノ。手入れされた小指のつめ。じゃがいもが溶けるくらいまで煮込んだカレー。古いにおいのする本。
わたしの夢は、このたくさんの好きなものたちに囲まれて暮らすこと。太陽の光があたるベランダでピンク色のお花を育てる。日が沈んだら椅子とCDラジカセを窓のそばにはこんで、大好きなピアノ曲を聞きながら月を眺める。片手にはおいしいお酒。
たとえば好きな人ができたとしても、自分から積極的に関われるほど自信がない。こういう言い方をするとそれができる人はみんな自分に自信があるみたいだ。ならば何と言うのが正解なのだろう。そこまで自分に素直になれない、そうだこれがいちばんしっくりくる。
砂浜を歩いてもなるべく足跡をつけずに歩こうとしてしまう。きっと壊すのを恐れている。わたしのせいで平らな砂をぼこぼこにしてしまってごめんなさいと誰かに謝っている。そんなわたしの横を、女の子が気持ちよさそうに駆けぬけていく。笑えるくらいの足跡を残して。
ちょっとだけ出たおでこのかたちときれいなあごが愛おしい。左の眉の上にある傷はいつから? あまり目立たない傷がやけにわたしに向かって主張している。普段胸の奥底で静かにしている欲求が突然暴れ出す。美しいですね、ええ、触ってみたい。
自分の気持ちと相手の気持ちどちらが大事? どちらかを優先すれば必ずもう一方はないがしろにされてしまう。好きですと言った緊張した声が、何度も頭の奥で響く。火傷みたいにひりひりする。告白されたのは初めてではなかった。なのにどうして上手く対応できなかったのか。もし、好きな人がいないなら、おれと付き合ってくれませんか。違う、だまされるなと警報が聞こえた。好きな人がいないからは理由にならないぞ、あなたを好きかどうかが重要なのだから。
もうひとつ好きなものがある。それは真っ白なラナンキュラス。花言葉は、純潔。初めて人を好きになったのは中学生のときだ。プールの横の花壇で、わたしたちはラナンキュラスを育てた。せわしなく人が行き来する場所だったから、決してふたりきりではなかったけれど、でもわたしたちはきっとふたりしかいない世界にいた。ねえ、やわらかいとやさしいって、似てるね。彼はふわりと笑った。うん、似てる。うなずいたわたしの声は、届いていたのだろうか。
ラナンキュラスはわたしのやわらかくてやさしい思い出。誰にも汚されないように大事に守ってきた、たったひとつの思い出だ。だからあなたの家に招かれたとき、玄関に小さめの白いラナンキュラスが置いてあったのを見つけて、どうしようもなく泣きたくなったなんて言えるはずがない。終わらないはずの初恋が、ゆっくり、音もたてずに崩れていく。ああ、ずっと壊されずにいたのに。真っ白の純潔はもう保たれない。端のほうからだんだん色がついて、みるみるうちに白い部分はなくなってしまう。さよなら、わたしの、いやわたしたちのラナンキュラス。
あなたはわたしがいかに素敵かを語ってくれた。手放しの賞賛ほど心地よいものはない。きみは美しいよ、見た目はもちろん、おれが惹かれたのはいつも前を向いている気丈さだ。誰よりも背筋をまっすぐ伸ばして、遠くの未来を見ているところだよ。
窓にうつっているのは、やせ型でも太ってもいなくて、短めの黒髪を耳にかけた、どこにでもいそうな女の人。こんなわたしが美しい? それは思い出が支えてくれていたから。彼と育てたラナンキュラスが、さみしいわたしのよりどころだったから。
思い出が壊れちゃったとき、どうする? わたしの唐突な質問にあなたはしばらく黙って考えて、やがてぽつりとつぶやいた。おれなら、思い出に負けないくらいの、夢をつくる。きみの夢は、どんな?
今まで思い描いていた夢に出てくるのはわたしひとりだった。誰かといるなんて、想像すらしなかった。しかし今は、この目の前に座る不器用そうなあなたに、わたしの好きなピアノ曲を聞いてもらうのもいいなと思う。ふたりで幸せを感じた瞬間について話しながら、いただきもののお酒を飲んで、途中で寝てしまったあなたにわたしは毛布をかける。わたしはあなたが好きなのか、いつまでたってもわからない。ずっと触れたかったおでこはやっぱりかたちがおかしくて、眉の上の傷はぶよぶよしていた。
この人なら砂浜を一緒に慎重に歩いてくれるかもしれない。いちばん壊すのが怖かったものがなくなったのだから、馬鹿みたいに大声ではしゃぐのも悪くない。起きたら海に誘おうと決めて、わたしは部屋の電気を消した。