神々の黄昏
長かった。ここまで来るのに、本当に。ざっと…100年か。随分と遠回りした気もする。祖国を失い、家族を亡くし、貶められ、手を汚し、それでもここまで辿り着いた。─もうすぐだ。目指した場所は目の前だ。この時のために私は、私は─。
柔らかな風が頬を撫でた。トーマスのふわりとした白い毛が静かに波打つ。穏やかだ。こんな日がいつまでも続けばいいのに。ドヴェルグヘイムの元国防兵長が随分と丸くなったものだ、とまたデイン王に言われてしまうかもしれんな。そんなことを思って、頬が弛んだ。
「トーマス、なに笑ってるの?」隣から幼い声がして振り返る。そこには鮮やかな赤毛を揺らす幼子がいた。金色の髪留めが光る。少女は大きな目をぱちりと開き、不思議そうに首を傾げている。
「…いえ、このような平和が続けばよいなと、思ったのです。フレイヤ様」
「つづくよ!だってトーマスがいるもん!トーマスはさいきょうなんだって、おとうさまがいつも言ってるわ」フレイヤと呼ばれた少女は無邪気に笑った。その笑顔に、心が安らいだ。
「そうですね。…私は大した者ではありませんが、しかし陛下がそうあれとお望みになられるのであれば、ええ、きっと私は最強でありましょう」
「ええ!きっとよ、トーマス!」
そう弾けた笑顔を見せるフレイヤに手を引かれ、トーマスは草原を下る。彼女は、ラナがケーキを焼いてくれたんだ、いっしょに食べよ、とスキップする。
この幼気な少女を守らねば、とトーマスは決意を新たにする。
アルフヘイムの現国王、デイン・アルフヘイムには子供が二人しかいない。エルフは長寿で知られているが、子孫を残す能力はとても低く、子どもが生まれにくいことでも有名である。エルフと対をなすドワーフも同じ傾向にあるため、後継者不足の問題はトーマスにとっても身近なことだった。
そのため、デイン王が側室を設けていることにも理解を持っていた。フレイヤはその側室の子で、第二王位継承者。第一王位継承権を持つ兄のフレイとは腹違いではあるものの、二人の中は悪くない。寧ろ周りの大人たちが覇権を競って忙しくしている有り様で、当人達、少なくともフレイヤに至ってはどこ吹く風といった様子である。
「ラナがね、毎朝言うの。そんなことではりっぱな王女さまになれませんよって。だからね、じゃあいいよ、王女さまよりこのまま寝てるのがいいって言ったの。そうしたらぷんぷん怒るのよ」
「ラナもフレイヤ様のことを案じているのでしょう。それもフレイヤ様を想ってのことですよ」彼女の、侍女への愚痴をあしらう。彼女が機嫌良く振る腕に振り回される。普段宮中において、その立ち位置のために心をすり減らしているトーマスの、肩の凝りを解してくれているように感じる。
フレイヤの付き添いの任はデイン王から直々に申し付けられた。千年戦争終結の後、ドヴェルグヘイムとアルフヘイムの友好の証と云う名目でトーマスはアルフヘイムに召し上げられ、フレイ、フレイヤの教育係を任命された。ただそれはあくまで表向きの大義名分であって、本来の目的はドヴェルグヘイムの兵力を削ぎ、反抗できないようにすることだった。
ドヴェルグヘイムの英雄を自国の中に囲い、目を光らせ、怪しい動きがあれば直ちに対処できるように抑え込む。その上で教育係とし、その戦闘能力を次期当主に引き継がせる。
その事をトーマスも、ドヴェルグヘイムの女王レイラ・タレスも承知していた。しかしトーマスはそれでよいと思っていた。アルフヘイムは大国で、相応の力を持っている。事実イグドレイシアを統一せしめて見せた。神話の時代から存在し、アルフヘイムともかつてより関係を有するドヴェルグヘイムは、しかし小国で、アルフヘイムの下に付くというのは当然のことだと考えていた。いくら黄金竜と煽てられてもアルフヘイムには敵わない。それがトーマスの、千年戦争の頃から肌に感じていた実感だった。
それに、と思う。それに、トーマスはフレイやフレイヤ、デイン王の人柄が好きだったのだ。こざっぱりとした太平楽な気性で、しかし為すべき事は押し通す芯を持つ、そういった物の考え方が好みだった。それはミルガルズの英雄、アリス・ストレングスにも通じるところがあるが、それを持ち出すのは野暮というものだろう。
如何な逆境であろうとも、何とかなるさと笑って見せて、事実何とかしてみせる。ストレングスの武勇伝は、敵ながら天晴れと言ってしまうほどに鮮やかに、爽やかなものだった。千年戦争の前半を彩ったその英雄とは同じ時代を生きてはいないものの、トーマスにとっては彼女と同じく三英傑に数えられる事は誇らしかった。しかしその事をドヴェルグヘイムのレイラ女王やアルフヘイムのデイン王の前で口にすることは憚られる。彼等にとっては、例え一個人として好意があろうとも、当主としては苦い顔をせざるを得ないだろうから。
だからデイン王への忠義の示し方も苦心する必要があった。王への好意の拠り所は敵対した英雄にも共通するもので、しかも苦汁の飲まされた自らの君主の、レイラ女王の想いもある。
この身は既にアルフヘイムに属してはいるものの、必要に迫られればこの命をドヴェルグヘイムのために捨てる覚悟をせねばならない。その匙加減が難しかった。
だがそうした、トーマスの心を砕く責務も、フレイヤと過ごす時間の中では忘れられた。何処までも無垢で、駆け引きや調略等とは無縁の子どもの御守りは、その事自体がまさにこの状況を生み出しているのだとしても、心の休まる時間だった。どうかこの平穏な日々が続くように、と願ってしまう。
丘を下った先に別の少女が待っていた。フレイヤとは倍ほども歳が離れていそうな彼女は、しかしフレイヤと同じ歳である。白い肌に金色の髪がふわりと揺れた。
「フレデリカ!こんなところでどうしたの?」フレイヤが甲高い声を上げた。そう呼び掛けられた少女は優しく微笑みを返す。
「トーマス、レイラ様が探していらっしゃったわ」フレイヤより大人びた口調で、フレデリカは穏やかに言葉を紡ぐ。
「そうですか。ありがとうございます、フレデリカ様」
そう返答してからトーマスはフレイヤを見た。するとトーマスの考えを読んだのか、フレデリカが提案してきた。
「じゃあ、フレイヤなら私が見ておくわ」
「よろしいのですか?」
「ええ」そうして作り物めいて微笑む。
「フレデリカ、遊んでくれるの?」
「ええ、遊びましょ。フレイヤの好きなもので」
「やった!じゃあじゃあ、あれしよ!ペンテロトのやつ!」
「チェスのこと?フレイヤ勝てたことないじゃない」いつも大事なところでポカするんだから、と笑った。
「今日は勝つんだもん!」フレイヤは意地になったように言い、それから「あ、ケーキも食べよ。ラナがね、焼いてくれたんだ」
フレイヤの手が離れ、フレデリカにくっついた。同い年の、けれど歳の離れた姉妹のような二人は、きゃあきゃあと騒ぎながら去っていった。その後ろ姿を何とはなしに眺める。
フレデリカもまた、難しい立場にある娘だった。デイン王の血を引くものの、その身には人間の血も入っている、半エルフ。王が囲った人間の、妾の子。だがそれも、昔よりしばしば行われてきたことである。
人間の繁殖力はエルフとは比べ物にならない。それを利用し、王家の子ども等の側近として共に育てる。半エルフの寿命はエルフの半分ほどしかないという点も都合が良いのだろう。成長は倍ほども早いがその分老いも早い。王家の子がまだ力の無いうちに力を付けそれを守り、その子が力を付けてきた頃合いで居なくなる。人間との間に子どもを作れないドワーフには出来ない戦略だ。
だがそうして生まれてきた半エルフはどう思っているのだろう。自らも王の血を受けながら、しかし純粋なエルフではないために王位継承権を有さない。トーマスにはフレデリカの心中を上手く推し量る事が出来なかった。
離れていく、二人の背中を見守った後、トーマスは踵を返した。
デインは蓄えた白い顎髭に手をやりながら、考え込んでいた。訴えを起こしたギリス人の代表として謁見を申し出た五人が黙ってそれを眺めている。この玉座の間においてデインの一挙手一投足に苦言を呈する者など存在しない。この国ではデインが法であり秩序なのだ。
玉座の間は彼の威厳を最大限に増幅させるように作られていた。白く輝く大理石の上に深紅の絨毯が玉座まで伸びている。その絨毯の上に平伏す五人の延長線上、階段を何段も上がった先にデインは鎮座していた。まるでそこに跪く者達の、その先に続くであろう未来が、その一切が、赤い絨毯を踏みつけるが如く、全てが王の裁量に委ねられている。その圧倒感を演出する。純白の柱や壁は天井に向かって徐々に窄むようになっており、高所に居る者がより大きく見えるように出来ている。そして玉座の頭上、その壁面にはステンドグラスが嵌め込まれ、そこから差し込む光は王の恩恵で降り注いでいるように見せていた。
この玉座の前、王の前では、あらゆる者達が平等に矮小な存在であり、王とは比べるべくもないのだと実感する。そう理解させるための構造だった。
しかしそれもやはり低俗な者には分からぬらしく、やがて痺れを切らしたケンタウロスのペリアンドロスが声を上げた。
「王様、そんな悩んでる時間なんてありませんよ!動くなら今しかねぇって!」
その不遜な言葉遣いに、王の傍らに待機していたフレイ王子が目を強張らせた。「ケンタウロス!貴様、陛下に対して無礼だぞ!身の程を弁えよ!」
窘められたペリアンドロスは不服そうに、けれど深々と頭を下げて自身の無礼を詫びた。残りの四人もそれに倣う。その旋毛に向かってフレイは尚も続ける。
「貴様らギリス人は、我らが王の恩寵でこの国に居られることを忘れたのか!」
頭を垂れるギリス人達の周りに、不満げな空気が舞った。
「フレイ、少し下がっておれ」頃合いを見て、デインはフレイに声をかけた。為政者たる王と、その国に亡命している民。形式的なことではあるが、立場を明確に示すことは必要であるとデインも考えていた。
「それで、ピッタコンス…と申したな。お主らは今、ロテイマ帝国に攻め入るべきだと言うのだな」
ピッタコンスと声をかけられた男は、膝をついたまま、頭も上げずに返答した。「は。三英傑と謳われた彼の暴君、スルトの力が弱まっている今こそが好機。我らギリスの土地を奪った巨人共を屠る絶好の機会かと」
その物言いにまたフレイが食って掛かる。「貴様らの土地がどうなどと、我らにとってはどうでもよいことだ。ロテイマの巨人共を殺す意義を貴様らに用意される筋合いもない」
「しかし…恐れながら、ロテイマ帝国は予てよりイグドレイシアへも敵対を示しておりました。このまま野放しにしていても益はありません。この期を逃す手はないと存じます」ピッタコンスは平伏したままも退かない。
「諄いぞ!貴様らはあくまで他国の者。それが我が国の施政に口を出そうなど、思い上がったか!」
申し訳ございません、出過ぎたことを。ピッタコンスはそう謝罪したものの、その焦りは拭えないらしい。
「…ピッタコンス。主らの言い分は分かった」
「な、父う…陛下。それは─」
「ご理解戴けましたか。では─」亡命者達は色めき立った。
「うむ、却下だ」デインは裁を決した。その瞬間、跪く五人のどよめきは消えた。
ややあって、そのうちの一人が口を開いた。「何故にございますか、陛下」
「陛下の決められたことに口を出すと言うのか。立場も分からぬ不埒者らしい」フレイが殺気立つ。周囲の魔力が震えた。目の前の五人を吹き飛ばすつもりなのか。
「止めよ、フレイ。玉座の間での戦闘行為は許さぬ」
デインのその言葉に、フレイは魔力を引っ込めた。「は、申し訳ありません」
「ギリスの民よ。今はまだその時ではない。以上だ。下がれ」
デインの素気無い言葉に、ギリス人達はまだ何か言いたげだったが、デインが冷たい視線を送ると、すごすごと下がっていった。
「…父上、スルトを討つのは今ではない、というのはやはり…」
二人きりになったこともあって、フレイは呼び慣れた敬称でデインに訊ねた。
「そうだ。今ではない。未だ、ミーミルの予言の時ではない」
「ミーミルの予言。あれは本当なのでしょうか」そのフレイの疑問に引き摺られて、予言の文言がデインの頭の中に浮かんだ。
朝に父が目を覚まし
昼に太鼓の囃子がす
巨が足を踏み鳴らし
黄昏に月が地を揺らしめる
太鼓囃子は鳴り止みて
嵐が木々を打ち鳴らす
異国の旅人は進み出て
大樹の根を指し示す
すると日はまた昇り
勝利の太鼓は高々と
フレイもまた同じことを考えていたのか、その予言を引用した。「“異国の旅人”…これはギリス人のことを示している。そういう見解もあるそうですが…」
フレイの言う通り、確かにそういう見解は考古学の権威達の間で一定の支持を得ているとも聞いていた。そしてその場合であれば、残る予言は勝利に関することだけになり、まさにイグドレイシアの脅威であり続けたロテイマ帝国を討ち滅ぼすに相応しい好機、ということになる。となれば今回の訴え、ギリス人達の巨人討伐の案は既定された流れとも言える。しかし、デインには懸念があった。
「うむ、可能性はある。…だが、だとすればその前の部分がどうしても符合せんのだ」
「その前の部分…つまり“黄昏に月が地を揺らしめる”というところですか」
「そうだ。“月が地を揺らしめる”…それは─」
「月を喰らう狼─ですね」フレイが言葉を継いだ。
「ああ。そう言われている」
災厄の怪物。終焉を彩るもの。フェルリルを示す言葉は数多い。世界蛇、冥府の主人と共に神が生み出したとされる怪物の一つ。
「しかしフェルリルというのは、空想上の怪物ではないのですか」フレイが疑わしげに首を捻った。
フェルリルはイグトレイシアの歴史の中でも神話の時代にしか登場しない。そのため本来は存在し得ないものというのが一般的だった。
「うむ。だからこの予言の記述は何らかの比喩ともされている」デインは自らの顎髭を撫で付けた。「しかしそうであっても、フェルリルと喩えられる程の災厄は起きていない」
「確かに、そうですね」
「そして何よりも、勇士達の魂も集まりきってはおらん」
「ワルキューレの数も創設史上最低となっております。収集効率は悪くなるばかり…」
勇士の魂の選定者とは、ミーミルが提唱して発足したとされる、女性エルフだけで編成された隊。ミーミルがその予言を得た際、来る困難に立ち向かう為にワルキューレ、そして勇士の魂を集積する叡智の結晶と名付けられた宝石を用意したと伝えられている。
「ワルキューレにハーフエルフを導入する話もありましたが…」
「いや、それは伝統に悖る。そうして選られた魂が、純度不十分となってしまっては目も当てられぬからな」
「ではやはり、フレイヤが成人するまでは」
「そうだ。ワルキューレはフレイヤに任せる。あの子ならきっとワルキューレを束ね、お前が王となったときに支えとなってくれるに違いない」
「は、ありがとうございます」
陛下、間もなく貴族会のお時間です。書記長が玉座の間に入ってきて、平伏しながら申した。デインはうむ、とだけ言うと腰を上げた。そこに慌ただしい足音が近付いてきた。書記長の肩越しに近衛兵長が真っ赤にした顔を覗かせた。肩で息をしながらも律儀に平伏する。
「も、申し上げます!」
「どうした、騒々しい」ただ事ではない気配を感じつつも、フレイは平静を装った。
「王女殿下が…フレイヤ様が…」
「フレイヤがどうした」
「フレイヤ様が、拉致されました!」
トーマスは目の前の状況に唖然としていた。図書館だった瓦礫の、炎の燻る荒涼とした景色の中で、どう見てもサイズの合っていない囚人服を窮屈そうに身に纏った男が、通る声を響かせていた。
「─依頼した通り、この私から目を離さないで下さっていたようですね!そう!この私、名探偵アンディ・レイから!」
ご機嫌な様子のアンディ・レイに対して、その場に居合わせたトーマスとパトリックは言葉を失っていた。
胸が苦しくなるほどの沈黙の後、アンディ・レイは自信の膝の上で横になっているソフィアに気が付いた。
「ストレングス刑事!この怪我は、一体どうしたというのです!?」
そうしてからやっと、周囲の状況に目をやり始めた。
「これは…この瓦礫は……。!…あれは、クライム・ヘイヴン!?…キャロット警部、これは……」
瓦礫の中で身を寄せるように座る二人のエルフを認めたらしく、アンディ・レイはばたばたと口走った。トーマスの顔を見ながら疑問を投げかけてくる。
「クライム・ヘイヴンをご存知とは、流石は名探偵」パトリックが口を開いた。トーマスの隣で共に呆気に取られていた彼は、早くも気を取り直したのか余裕の笑みすら浮かべている。「そこな連中を逮捕するために、キャロット課長が骨を折ってくれたのですよ」
「なっ……パトリック…警部殿」
「おや、私の事もご存知でしたか。名探偵殿」
トーマスは焦燥に駆られていた。何と間の悪い。このタイミングで戻ってこようとは。トーマスは懸命に頭を働かせたが、今から手を打とうにも最早どれも付け焼き刃にしかならない。
「この者達を…トーマスが…?」
「ええ。元ドヴェルグヘイムの国防兵長は伊達ではない、ということらしい。しかし、彼にばかり手柄を立てさせるのも悔しいですから、私も一人検挙したのですよ」そう言って自身が先程下りてきた階段の上に目をやった。そこには一人のドワーフが、一課と思しき警察官らに挟まれて立っていた。
「タ、タレス様!?」トーマスは思わず声を上げた。そこで捕縛されていたのは、この叡智都市国家の領主、レイラ・タレスだった。レイラは耳を項垂れて、大人しく立ち尽くしていた。
「キーロニウス課長、これは一体どういうことですか!」トーマスは声を荒げた。「彼の御仁がどなたか、わかっているのですか!」
「分かっているとも、キャロット課長」パトリックは冷めた目をトーマスへ向けた。「あれはイグドレイシア七賢人の一人にして、ミトレシア現当主。そして、クライム・ヘイヴンとの関係が疑われている人物だ」
「な─」
「七国家転覆罪、特殊犯罪教唆、特殊指定組織との共謀罪等々。あれには聴かねばならんことが数えきれんほどにある」
あれ。パトリックがレイラを指して“あれ”と口にする度に、トーマスは思考が焼ききれるような痛みに駆られた。自身が侮辱される以上の屈辱に、唇がわなわなと震えるのを感じる。
「─どうか言葉にお気を付け下さい、キーロニウス課長。あの方がどれ程の御仁か。タレス様がそのようなことに荷担するなどという嫌疑、間違いでは済まされません」トーマスは自身を精一杯押し殺した。けれど言葉の端々に感情が滲む。
しかしパトリックはそんなトーマスの言葉にも無感情に、まるで陶磁器で出来た人形のように応えた。
「間違い?私が雑な仕事をするとでも?笑わせてくれるな、キャロット課長。仕事は徹頭徹尾完璧に、完全に熟すもの。そこに不完全なものなど挟むべきではない。何事も悦楽が必要だと宣う者も居るらしいが、それこそ不要。遊びや馴れ合い、不確定要素を挟み込み、これがプロの仕事だなどと取り違えた愚か者と一緒にするな。全てを徹底的に、残す隈無く完遂する。その私が、確実な証拠を積み上げてこの逮捕に至ったのだ。間違いなど、微塵にすらあろうはずもない」
パトリックは抑揚すら付けない。トーマスを見据える目には軽蔑の色すら浮かんでいた。
「あれは全て認めた。貴様こそ自身の立場を弁えよ。貴様はもうあれの臣下ではない。ドヴェルグヘイムなどもう存在しない。その、二課の課長風情がこの私に口答えするとは何事か」
トーマスはやっとの思いで頭を下げた。しかし謝罪の言葉は口に出来ない。口を開いた途端、怒りに任せて呪文を口走ってしまうかもしれない。この身の程知らずの小僧に、そんな言葉が頭の中で乱れ飛んだ。体の中では望郷の思いを踏みにじられた怒りが煮え滾っていた。その溶岩がトーマスの皮膚を溶かして溢れようとするのを、どうにか堪える。
そんな、二人のやり取りを黙って窺っていたアンディ・レイは、自信に満ちあふれたパトリックに世辞の言葉を並べた。
「それは素晴らしい。流石はキーロニウス課長。それではこの者達は裁定の場に連行するということですね」
「その通りです、名探偵殿。明日、ヴァルハレアの定例評議会において、評議員に判決を戴く予定です。それはもちろん、あなたもですよ、名探偵殿。あなたには運輸都市国家の前領主、リュージェ・ペリアンドロス殺害の容疑がかかっていますから」
「ええ。ええ。分かっていますとも」
その話の流れに、ようやくトーマスは冷静さを取り戻した。アンディ・レイは気付いていないようだ。今戻ってきたばかりなのだから無理もない。しかし、パトリックを前に釘を刺す事も出来ない。事ここに至っては、トーマスにはもう為す術がなかった。
互いに不適な笑みを浮かべて睨み合う探偵と警部から目を逸らし、トーマスは改めて階段の上の、レイラを見やった。
またか。また私は、仕える主を失うのか。ならば、私は─。明日の評議会を前に、トーマスは一人、覚悟を固め始めた。
「ねぇトーマス、メイタンテイって知ってる?」
トーマスの脳裏に昔の記憶がふと蘇った。アンディ・レイの、パトリックを睨む横顔を眺めていたからかもしれない。
十年ほど前、当時のトーマスは今と変わらず、レイクダイモンの第二刑事課課長を務めていた。制定された新体制、七ヶ国構想による影響か、イグドレイシアとその周辺が平穏で包まれ、それがもう当たり前となって随分経っていた。
トーマスはとある犯罪組織を追っていた。
クライム・ヘイヴン。その名前を突き止めるだけでもかなり手間取った。用意周到に、痕跡を欠片も残さない。その存在に気付くのにも時間がかかったが、だからこそその組織に国家の関与する可能性を色濃く示していた。そんな組織を調べるのは骨が折れた。下手をすれば反逆罪。権力者達の痛い懐を突いて回ったりなどすれば、どんな火の粉が降りかかるか分かったものではない。捜査の手は広げられず、慎重に慎重を重ね、手探りで煙の中をそろりそろりと進むようにするしかなかった。そんな捜査に劇的な進展などあるはずもなく、ただただ無為に時間が過ぎていく。
そんな、あまりのじれったさに心が折れそうになっていたある夜、帰宅した自宅の扉の下にメモを見つけた。
ラナのケーキはいかが?
食べるなら虹の下で
そのメモを見て、心臓が飛び跳ねた。ラナのケーキ。それだけでメモを挟んだ人物が誰か、トーマスにはすぐに思い至った。その下の暗号も直ちに解読し、トーマスは転移魔法を唱えた。
瞬く間に景色が変わる。先程まで目の前にあったはずの石造りの、コリンソスにある自宅から、絢爛豪華な宮殿の入り口付近に切り替わる。
イグドレイシアの中心。唯一の緩衝地帯、中央都市ヴァルハレア。かつては天下を治めたアルフヘイムの王、デインが暮らした最上の城。今ではここの元貴族会館で評議会が催されている。その城門を感慨深く見上げた。そこから回れ右をしてヴァルハレアと他国とを繋ぐ巨大な橋と向かい合った。百年前まではヴァルハレアとアルフヘイムとを繋いだ橋、今は中央都市への入り口。揺らめく光の橋。大いなる虹の橋。
ここへ来るのも久しぶりだ。しかも王族との謁見のため。トーマスは胸が高鳴るのを抑えきれないまま、いそいそとビフレストの欄干に近付いた。
もう夜も深まっているためか、月明かりはあるものの辺りに人の気配はない。念のため周囲の魔力を確認し、目撃される心配もないと判断してから、トーマスは欄干を跨いで橋の下へ落ちた。
漸く落下した後、たゆたう水面すれすれでトーマスはふわりと停止した。そのまま橋の下を伝うように移動する。
「来てくれたんだ。よかった」
不意にそんな声がした。その声に、感激の雷に打たれたような心持ちになる。振り返るとトーマスの後方にフードを被った人物がいた。トーマスと同様に水面から少し上に浮遊している。「久しぶりね、トーマス。元気だった?」
「フレイヤ様、御無事で何よりでございます」
トーマスは空中にいながら膝を畳み込み頭を垂れた。
「もうわたしは王族ではないわ。だからどうか頭を上げて」そう言いながらその人物はフードを上げた。揺れる水面に反射する月光がその真っ赤な髪をちらちらと照らす。暗闇でも分かる白い肌に寂しげな笑顔があった。
「…本当に立派になられた」成長した王女の姿に言葉を失いながらも、何か言わねばと口を動かした結果、出てきた言葉はそれだった。それにフレイヤは苦笑する。
「もう九十年くらい経つもの。わたしだって大きくなるわ。中身は伴っていないから立派にはなってないけど」
「そのようなことは。アルフヘイムの淑女として立派に成長されたことは、それだけで素晴らしいことです」
「いいえトーマス、わたしは淑女でもないわ」フレイヤは少し視線を落とした。
重たい沈黙が横たわる。それは二人の、かけ離れた時間がさせることのようにも感じた。
やがてフレイヤは、口を開いた。「トーマス、あなたにお願いがあるの」
「私に出来ることであれば何なりと」
「ありがと」
フレイヤはまた口をつぐんだ。どうにも口が重い。しかしトーマスは、フレイヤの言葉を待った。
するとまた少しして、フレイヤは別の事を口にした。
「トーマス、あなた今、レイクダイモンに所属しているそうね」
「はい。恥ずかしながらレイクダイモンの課長をしております」
ややの沈黙の後、意を決したようにフレイヤは言った。「クライム・ヘイヴンは知ってる?」
その単語に、頭が理解する前に耳がぴくりと反応した。遅れて思考が追いつく。何故、王女の口からその単語が出てくるのか。その疑問がのんびりとした速度でやって来た。
「フレイヤ様……何故その名を…?」思ったことをそのまま投げかけた。駆け引きをするつもりもなかった。
「知ってるのね。…その名が何を示しているかも?」
「クライム・ヘイヴンは…犯罪組織と思われる集団、としかまだ分かっておりません」操作情報に関わる内容だったが、トーマスに躊躇いはない。
「そう…。じゃあまだ片鱗しか掴めてない、ということね」
「フレイヤ様は、クライム・ヘイヴンをご存知…なのですか」
「ええ…嫌と言うほどに」
それはつまり…。そう言葉が出かかった。しかし、そこから先は聞きたくなかった。トーマスは知りたくないと、思った。
しかしフレイヤは、言葉を続けた。
「…クライム・ヘイヴン。それが正確に示しているのは、ある場所なの」
「ある…場所?」予想外の答えだった。トーマスはてっきり犯罪組織の名前だと思っていた。
「それは、ここではない場所。別の空間。別の世界」
「異世界…ですか」
「そう。そこはあらゆる罪が赦される世界。…いいえ、違うわ。そこはわたし達の、あらゆる罪を肩代わりさせるための世界。罪の楽園よ」
「肩代わり…?それはどういう」トーマスには話が見えなかった。今聞かされているこれは、先程自分が聞きたくないと思ったことなのか。それとも関係のないことなのか。
フレイヤの話は続く。自身の罪に苦しむように、けれどそれに正面から向き合うように。
「ミーミル石ってあるでしょ」
「ミーミル石…それは確か、アルフヘイムの失われた三種の神器、その一つでしたか」
「失われた…。そうね。世間からは行方知れずになっていると思われているもの」
「それも、その場所もご存知なのですか」トーマスは夢でも見ている気分になっていた。九十年ぶりに現れたかつての主、その彼女が霞のような犯罪組織の名前を口にし、嫌なほど知っていると言い、そして失われた国宝の在処も口にする。現実の事だと思う方が無理がある。「ミーミル石がクライム・ヘイヴンと関係があるのですか」
「ええ。だってミーミル石、叡智の結晶はその、楽園にあるのだもの」
「ミーミル石が…その異世界に……?」
「まるで作り話のようでしょ?そんなこと、誰も考えつくような話ではないのだから」フレイヤは寂しそうに、そう笑った。荒唐無稽な事は承知しているらしい。「けれどそれを考えて実行した者がいるの。ミーミル石の魔法は知ってる?」
「それは…存じ上げません。何かしらの魔法効果があるのですか?」
「魔法効果、何てかわいいものではないわ。あれはセイズ級、神話級の代物。あれはね、魂を集積するの」
「魂を…集積する」確かに、そんなことが可能であるなら、それはセイズ級に相当するだろう。上級魔法の枠には収まらない、青天井の領域。その中でもかなり高位に相当するはずだ。「しかし…何のために」
「それは分からないわ。最果ての賢人が何のためにそれを作ったのか…。けれどその魔法は存在する。遍く死者の中から、勇士の魂を選別して収集する。それがあの魔石の本来の使い方よ」
「本来の…ということは」
「ええ、今は違う。今のミーミル石はこの世界に住む人達の魂から罪の心、闘争や悪徳、争いの原因となる全ての意識だけを収集して、あちらの世界に捨てている。そのためにしか機能してない」
「争いの原因となる意識…ですか」
「本当であればこの世界で起こるべき犯罪行為、戦争行為、それらの起こる可能性をそのままあちらに背負わせているの」
「それは…」あまりに想像の域を出ていて上手く理解できない。
「…アルフヘイムが倒れて以降、この世界では戦争も目立った争いも起こっていない。とても平和な時間が過ぎているでしょ」
「…!まさか、それが…?この平和は」
「アルフヘイムが滅びる直前くらいには、ロテイマ帝国と一触即発の状態にあったと聞いたわ。でもそれ以降、ロテイマ帝国とのいざこざは、小さなものすら起きていない。これは別にイグドレイシアの交渉術が劇的に良くなったわけじゃない。その争いの可能性を、ただそっくり別世界に捨てているだけ。そしてあちらの世界ではそれ以降、世界大戦が二度も起きたと聞いているわ」
世界大戦。それがどの程度の規模か分からない。だがそれが、この世界が本来負うべき罪であったのなら、それは他人に擦り付けて良いものではない。
「…それがクライム・ヘイヴン、ということですか」
「そう。それをわたし達が管理、運営しているの」
「……私達、というのは…?」
フレイヤは大きく深呼吸した。それでトーマスは咄嗟に、自分が聞きたくないことが何だったのか悟った。やがてフレイヤは話し出す。
「…わたしはクライム、クライム・ヘイヴン。自分達の罪を他所に押し付ける、その非道を行う者」
「フレイヤ様が…クライム・ヘイヴン……」
トーマスは、自分の呼吸が荒くなっているのを感じた。自分が今まで、警察業務として追っていた犯罪組織。その正体が、かつて仕えた国の王女。頭が真っ白になる。
自分は今まで、一体何をしていたのか…。自身の主が悪行に手を染めていることにも気付かずに、それを逮捕するために動いていた。トーマスにとっては反逆行為だった。
静かに一人、打ち拉がれているトーマスに、フレイヤは言った。
「トーマス…あなたにお願いがあるの」
その言葉にトーマスは虚ろな目を返した。
「わたしは…どうしようもない犯罪者に堕ちてしまった。そんな身で、トーマスにお願いできる立場ではないことは重々承知しているわ。けれどそれでも、トーマスに頼みたい。…どうか、助けて下さい」
フレイヤはそう言って頭を下げた。その姿にトーマスは狼狽した。フレイヤ様に頭を下げさせるなど、何と烏滸がましい。そして漸く気が付いた。フレイヤが終始見せていた寂しげな様子。自身の罪に苦しむような表情。ここに至るまで、どうしようもない流れに身を置いて、それでもそれらを、全て自分の罪だと知っている。
トーマスは発奮した。何があろうとこの少女を信じ、今度こそ最後まで仕えようと心に決めた。
トーマスは再び平伏した。「何なりとお申し付けを。このトーマス・キャロット、改めて忠誠を誓います」
フレイヤからの返事はない。押し殺した、ひっくひっくという音が聞こえた。恐る恐る盗み見ると、フレイヤは震えていた。細く白い手で目の辺りを拭う。「ごめんなさい……あまりに嬉しくって…」
フレイヤは零れる涙を拭うだけだったが、やがて吹っ切るように首を振ると、まだ涙の残る目でいたずらっぽく笑った。
「…でもねトーマス、さっきも言ったけど、わたしはもう王族ではないわ。だから忠誠なんて誓わないでいいのよ」
「フレイヤ様、私はフレイヤ様が王家の御息女だから仕えるのではありません。私はフレイヤ様だからこそ仕えると決めたのです」
「まぁ、口が上手いのね」フレイヤは軽やかに笑った。先程までの翳りが少し和らいでみえた。
「それで、私に頼みとは何でしょう」トーマスは訊ねた。
「安心して。そんな難しい事ではないの。わたしはクライム・ヘイヴンの悪事を表に出したいの」
「それは…内部告発、ということですか」フレイヤの話では、彼女自身がクライム・ヘイヴンということだった。
「結果的にはそうなのだけど、ただ普通に告発しようとしてもダメなんだ。揉み消されちゃう」
「…それは、国に、ですか」
まだ推測の域を出ない、当てずっぽうを口にしてみた。けれどそれが案外当たったらしい。フレイヤは静かに首肯した。
「あの権力はもう、イグドレイシア全域に及んでるから、そう言っても過言ではないわね。あっちがフェンリルだとしたら、こっちはコカトリスくらいだもの。たった一息で潰されるわ」フレイヤは分かるような分からない喩えを出す。「だから正面から行っても埒が明かないの」
「では…どのように」
「一芝居打とうと思ってるの」そう言ってフレイヤは何かを取り出した。暗くてよく見えなかったが、それはどうやら本らしかった。
「急がば回れ、ということですか」
「ええ、そうね。この本はあちらの、異世界で貰ったものなのだけど」
「あの、楽園の」
フレイヤはその本をぱらぱらと開いてみせた。「この本はね、ある英雄が活躍するんだ」
「異世界の、英雄伝説ですか」
「そのヒーローがね、悪いやつをばったばったとやっつけていくの」フレイヤはその本を優しくなぞった。「ヒーローの名前は、シャーロック・ホームズ」
月明かりの反射の中、フレイヤの赤い髪がふわりの揺れた。その中で、幼い頃のような無邪気な笑顔が咲いた。
「ねぇトーマス、名探偵って知ってる?」
懐かしい廊下を連行される。隣には表情のないパトリック、わたしの後ろにはドヴェルグヘイム、ミトレシアの女王を歴任したレイラ・タレス、クライム・ヘイヴンの怪蛇セシリア・エルヴァスティと怪人ダニエル・メリルオト、そして最後尾では一課の警察官が目を光らせていた。ダニエルが後ろで何かぶつくさ言っていたが、警察官に小突かれたらしく、すぐに黙った。
百年前にはこの廊下を走り回っていたなぁ。そんな感慨に浸りながら、廊下に並ぶ窓の外に目をやった。外はヴァルハレアの中庭になっており、中庭と呼べる規模かは分からないが、池や噴水、庭木の様子は当時とあまり変わりがない気がする。
遂にこの城に帰ってきた。逮捕され、これから評議会にかけられる身ではあるが、その感激は拭えない。昨日レイクダイモンで一時勾留され、一晩そこで過ごしたのだけど、とても眠れなかった。
やっと悲願が達成される。それもトーマスが協力してくれたお陰だ。わたしが探偵の話を持ち出したときの、トーマスの顔ったらなかったけど。
わたし、探偵になろうと思う。
そう言ったわたしの、言葉を飲み込むのに、トーマスはかなり時間をかけた。まぁ、“探偵”という概念がこの世界になかったのだから、仕方がない。
あの時、わたしが練った策は、わたし自身が探偵としてのキャリアを積み、発言権を得る、というものだった。
七賢人達の暴挙を摘発し、アルフヘイムを滅ぼしたという滅亡王デインの名誉を取り戻す。そのためにはしかし、犯罪者のわたしがいくら主張しようとしても、誰も耳を傾けてはくれないだろう。だから名探偵アンディ・レイに変身し、警察官であるトーマスに協力してもらって事件を解決に導き、探偵としての市民権を獲得する。そうすれば民衆はきっと、わたしの話を聞いてくれる。そう考えた。
その時のために、証拠を確保する必要があった。そして目をつけたのがミーミル石だった。
ミーミル石は本来、勇士の魂を全て収集するように作られている。だがその機能が今は、人々の魂の一部だけを収集して吐き出すようになっている。つまりミーミル石の機能を書き換えた者がいるはずだ。そしてその時の痕跡が、ミーミル石に残っているはず。それこそがアルフヘイムを滅ぼした真犯人を示す証拠になる。
ミーミル石はアルフヘイム滅亡以降、行方が分からなくなっていた。わたしがその行方を知ったのは、クライム・ヘイヴンの任に就かされたときだった。あの時、あの『箱庭の牢獄』でのレイラの話によると、ミーミル石は罪の楽園にあるらしく、そこに島流しにされたエルフが管理しているということだった。初めてそれを聞かされたときは、アルフヘイムの滅亡が仕組まれたことだと気付いていなかったため、気にも止めていなかった。
クライム・ヘイヴンはこの世を平和にするために、七賢人が考え出した唯一の汚れ仕事。そういう触れ込みだった。この世の罪という罪をわたしが代わりに行い、パスを繋いだミーミル石に送り込む。そうすることでこの世界はこれまでにない安寧を手に入れられる。そう言われた。けれど、それが間違いであることに、クライム・ヘイヴンとして従事し初めてすぐに気が付いた。
割りを食うのはわたし達ではない。何の関係もない異世界の住民だ。しかし、それを止める手だてが中々思い付かなかった。わたしの手は既に汚れている。辞めたいと言ったところでこの悪事が止まるわけではなく、わたしを処分した後また別の誰かを罪人として充てがうだろう。だから別の手段、別の方法で解決しないといけない。
そんな折、ミーミル石とのパスの強度を確認する定期検査で楽園に行った時、ミーミル石を目の前にして思い付いたのだ。この石に残った魔力の痕跡を調べればよいのでは、と。警察もよく使う手だと聞いていた。死者の検死の際や、落とし物の主を探す際など、その遺体や物の魔力を使い魔に解析させる。それを応用すればいい。
わたしはミーミル石を管理しているエルフに協力を仰いだ。最初は難色を示していた彼女も、何度も通い詰めると最後には折れてくれた。そしてわたしはミーミル石を譲り受けた。
ミーミル石とのパスを強力にするために、島流しにされた彼女は祭壇を造りそれを守っていた。だからそこから石を動かせば、パスは不安定になり、楽園は力が弱くなる。楽園が不安定になれば七ヵ国制度も不安定になり、権力者は何らかの動きを強いられる。近隣のロテイマ帝国にも気を配る必要が生じ、仮初めの平和を続けることは困難になるからだ。そうなれば犯罪が起きやすくなり、権力者のボロも出やすくなり、探偵としての名声も得やすくなる。
それを仕掛けて十年。漸く事が動いた。コリンソスの領主が殺害されたのだ。首謀者は恐らく息子のリック・ペリアンドロス。そう思い、彼の周りを嗅ぎ回ったところ、彼に依頼されたクライム・ヘイヴンによって容疑をわたしに掛けられた。
わたしはこれを僥倖だと感じた。わざと警察に捕まり監視してもらう。探偵が捕まれば権力者は安心して最終的な仕上げに入るだろう。今の七ヵ国制度ではなく、もっと強力な独裁制度へ。そのタイミングを狙った。
監視されるわたしは魂だけをあちらに送り、証拠《ミーミル石》を奪取する。その間その動きを悟られないように、アンディ・レイの変身魔法をセイズ級に押し上げ、安定的な魔力供給さえあれば解除できないようにした。セイズ級に対抗できるのはセイズ級だけ。あの異世界の魔法文明がどれ程のものかは分からないが、セイズ級が扱えるものは早々いないはず。しかし魔力の安定供給のためには最低限の魔力制御が必要。だからわたしは、わたしと近しい者との魂を入れ替える、あの転魂魔法を選んだ。恐らく最低でも上級魔法相当の実力は兼ね備えている者と。
そしてわたしは無事戻ってきた。向こうに行っている間、このわたしの体はフレイヤではなく名探偵アンディ・レイのまま。権力者はこちらの動きには気付いていないはず。全て計画した通り。後は評議会で他の領主を追い出し、独裁へと走ろうとする権力者に証拠を叩きつける。
─長かった。ここまで来るのに、本当に。ざっと…100年か。随分と遠回りした気もする。祖国を失い、家族を亡くし、貶められ、手を汚し、それでもここまで辿り着いた。─もうすぐだ。目指した場所は目の前だ。この時のためにわたしは、わたしは─。
「着いたぞ」パトリックのその声で、評議会館の入り口まで来ていることに気が付いた。わたしは気を引き締める。さぁ、終演だ。アンディ・レイの最初で最後の大舞台。
評議会館の、巨大で荘厳な扉が、相応しい重々しさを伴って、ゆっくりと開いた。
扉の先にあった会場は、半円だけのすり鉢状になっていた。その斜めになった壁面に席がずらりと並んでいる。そのすり鉢の、一番窪んだ中央に出た。既に評議会は始まっているらしく、その中央で誰かが声高に演説をしていた。
「これは何と嘆かわしいことでしょうか。よもや私以外の全ての領主が、犯罪組織と癒着していようとは」その彼女は評議会員に、悲痛に訴えていた。
会場はその言葉に同感する空気が流れていたが、扉が開いたことで、その視線がわたし達に集中した。
その中をやはり無表情なパトリックが進み、中央にいる領主に向かって言った。「陛下、連れてきました。この者達です」
領主はパトリックに優しい微笑みを返すと、評議会員らの方に振り返り、声を上げた。
「我が国の警察官が今、その犯罪組織の者を連行してきました」
評議会にどよめきが走る。警察都市国家の領主は演説を続けた。
「皆さんが驚かれることは無理もありません。そうです。ここにいるミトレシア領主、レイラ・タレスは、犯罪組織クライム・ヘイヴンを編成した張本人。そして、他の領主達も、この非合法な万屋に関与していたのです」そして彼女は用紙を取り出すと、そこに書かれていることを読み上げていった。
「4月27日、医療都市国家領主、エレナ・ピッタコンスより、医療ミス揉み消し依頼。5月11日、産業都市国家領主、エドワード・ビアスより、廃棄物処理場反対派ガレア氏暗殺依頼。5月15日、金融都市国家領主、アレクセイ・ソローンより、税務官ドローア氏汚職捏造依頼。7月23日、市場都市国家領主、ラファエロ・クレオブロスより、脱税処理依頼。9月10日、運輸都市国家次期領主、リック・ペリアンドロスより、領主暗殺依頼。そして9月15日、叡知都市国家領主、レイラ・タレスより、エルフ暗殺依頼。今読み上げたのは、昨日クライム・ヘイヴンの本拠地から押収した帳簿の一部です。この半年の間に、私以外の全ての領主が関与していた証拠です。これは由々しき事態なのです」
レイクダイモンの領主は朗々と演説している。
「そして、犯罪者はここにまだ一人、残っています。皆さんご存知の名探偵、アンディ・レイです」
そろそろ良いだろうか。証拠を取り出し、この権力者の、全てを仕組んだこの領主の化けの皮を剥がしてやる。そう意気込み、口を開いた。
「ふふふ…、警察庁長官、キーロニウス領主殿!それは面白そうな話ですが、その嫌疑は、あな─」
「─皆さんの目の前のこの男。いいえ、男ですらありません。これはアンディ・レイではないのです」
わたしは言葉を失った。彼女は何を言っているのか。唖然とするわたしの方を振り返った領主の顔には、勝ち誇った笑みが浮かんでいた。そして彼女は呪文を唱えた。
「その真の姿を現しなさい。『スペーシエ・ヴェリターティス』」
視線が急に低くなった。しかし、何をされたのか、思い至るのに時間がかかった。今の魔法は、セイズ級の─。
「─変わらないわね、フレイヤ。あなたはいつも、大事なところでポカをするんだから」
わたしを見下ろしながら、レイクダイモン領主、フレデリカ・キーロニウスはふわりと微笑んだ。
第10話「異世界探偵」は6月25日公開予定です