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異世界探偵  作者: かえる
8/13

罪の楽園

 今朝から兄貴の様子がおかしい。


 朝の支度をしている辺りから、しつこく絡んできた。しかも何故か敬語で。あたしが不機嫌な感じを出すと膝をついて謝ってきたりとか。それがさらにあたしの気持ちを逆撫でした。

 スマホもアンドロイドのくせして、ヘイシリとか言ってたし。喧嘩を売ってきているとしか思えなかった。あれはさすがに気持ち悪くて、放っておいて早めに家を出た。


 学校に行っている間は、そんなことは頭の中からどこかに行って、友達とバカ話して過ごした。おかげで家に帰る頃には、兄貴のことはすっかり忘れていたのだけど。

 だから、一緒になってバカ話していたアズサが帰りがけに急に真剣な顔して、「今日塾だよね?あたし宿題やってない。エリんちで一緒にやっていい?」って言ってきたときに、深く考えることもなく二つ返事で、いいよ、と言ってしまった。



 コノハちゃん、ホント可愛くない?だよねー。グループ内で一番可愛いと思う。などと、有名なアイドルグループの女の子について、他愛のない話をしながら家に着いた。

 「ただいまー」あたしが玄関を開けて、敷居を跨ぎながら挨拶すると、後ろからアズサがおじゃましまーす、と続く。

 「あら、おかえり。お友達と一緒なの?」

 お母さんがキッチンから顔を覗かせた。だからどこか居心地悪くなって、うんそう、今日塾だから、と無愛想に答える。

 お母さんはあたしの色気のない返事なんて何ともせずに、にこにことしながらアズサに声をかけた。

 「いらっしゃい。アズサちゃんだっけ?一緒に勉強するの?」

 「そ。一緒に宿題やろってなったんです」

 あたしは二人の掛け合いなんて興味ないですよ、と黙々と靴を脱ぐと、「上がっていいよ」とアズサに言った。

 「そー。頑張ってね。あ、絵里愛。わたしこれからちょっと買い物行ってくるから。味噌を切らしちゃってるの忘れててね」

 「あそ。行ってら」そう返しながらアズサの分のスリッパを棚から出した。上がり框の脇にあった自分のスリッパを履く。蒸れた靴下を通すのに少し躊躇したが、まぁいっかと思った。

 お母さんはあたし達を通すために、壁に背をつけて薄くなろうとしていた。

 気にせず廊下をずいずいと進む。居間に入ってダイニングテーブルの足元に鞄を放った。

 おじゃましまーす、とアズサはまた言いながら付いてきた。あたしに倣って鞄を放る。お母さんもばたばたと居間にやって来た。

 適当に座ってていいよ、とアズサにテーブルを指しながら言って、あたしはキッチンに入る。冷蔵庫からジュースを取り出してもてなす準備をしていると、お母さんのじゃあ行ってくるから、と言う声がして玄関の開く音が鳴った。


 「エリのお母さん細いよね」

 おやつのポテチとジュースの入ったコップを乗せたお盆を持ってテーブルに行くと、アズサが急にそんなことを言ってきたから、どきっとした。

 「…え?どこら辺が?」

 「あたしからしたら十分細いって。だってうちのお母さんなんて、こんなだし」そう言いながら痩せた自分のお腹回りに、やじろべえみたいに両手を垂らしてみせる。

 「まぁ、アズサのお母さんと比べたら、ね」

 「え、なにそれヒドくない?」

 「自分で言ったんじゃんか」それで二人で声を合わせて笑った。

 その後、塾のテキストを部屋から引っ張り出してきて、広げた。アズサは、学校でやろうと思ったんだけどさ、と鞄から出してくる。

 「やればよかったじゃん」

 「だってさ今日、体育と家庭科と音楽あったじゃん。できないし」

 「一時間目は?国語だったよね」

 「国語無理でしょ。浜口スゲー見てくるし」あれ、キモくない?と同意を求めてくるから、あれはヤバイ、ロリコンっぽいと応じた。

 「でしょ?やりにくいんだよねー。これ、デカいし」とテキストをぱんぱんと叩く。


 ジュースとポテチをテーブルの真ん中に置いて、あたし達は宿題をやっつけにかかった。二次方程式の並んでいるのを機械的に解いていく。

 ぱりぱりという音がする。

 これは解の公式使った方がいいかな。

 ぱりぱり。

 「ちょっとアズサ、ポテチばっか食べてない?」

 ふえ?とこちらを見たアズサの口からはポテチが覗いていた。

 「ちゃんとやってんの?もうあんま時間ないけど」

 「へ、まじ?」アズサは口の中のポテチをぱりんと割ると、ごそごそとスマホを取り出した。「まじだ。やべー」その空いた手の方がまたポテチの山へと伸びていく。


 そこで玄関の開く音がした。お母さんかな、と振り返ろうとした時に、いやに元気な声がした。

 「唯今、戻りました!」

 あ、と思った。前を向くと、アズサがポテチを咥えながら目を剥いていた。

 足音が近付いてくる。振り向かないように努める。足音は居間の入り口で停まると「唯今!戻りました!」と兄貴がまた大声を出してきた。アズサのぽかんと空いた口からポテチが落ちる。

 意味分かんない。もう、恥ずかしいやら情けないやらで返事をする気にもならなかった。

 重たい沈黙の中、聞こえていないとでも勘違いしたのか、兄貴が更に口を開こうとした。

 「ただい─!」

 「うるさいっ!」ぴしゃりと言う。振り向いて睨み付けた。兄貴が脅えた表情を作る。

 「も、申し訳ございません!もしや聞こえてらっしゃらないのかと─」

 「うるさいって言ってんでしょ!耳元で喚かないでよ!」

 「申し訳ございません!」そう言って、兄貴がその場に片膝をついて謝ってくる。

 うわきもっ!?気持ち悪すぎて鳥肌が立った。そこではっとし、アズサの方を見る。彼女も気持ち悪いものでも見る目で兄貴を見、その後あたしの方に視線を寄越した。

 ぞっとした。まさか、これ、あたしがさせてるように見えてる?耳が熱くなるのが分かる。

 「このバカ!変なことすんなよ!あたしがさせてるみたいじゃん!」

 「はっ!申し訳ございません!」バカ兄貴は頭を上げない。

 「もう!どっか行ってよ!気持ち悪い!!」そうして、目に入れないように背を向けた。

 兄貴はもぞもぞと立ち上がると、自分の部屋に入っていった。

 けれどほっとしたのもつかの間、荷物を置いただけらしく、バカ兄貴はまたすぐに出てきた。そしてその扉の前で執事のように前で両手を組むと、宙に目をやって立ち尽くした。そのままじっと動かない。

 …え、何?意味不明な行動に思わずじっと見つめてしまう。するとそれに気付いたのか、バカ兄貴はこちらを向くと「何か?」と言ってきた。

 「何か、じゃないよ。…何やってんの?」

 「いえ、御用命があればすぐ動けるようにと、こうして待機している次第でございます」

 「……は?」

 アズサが噴き出した。声をあげて笑う。

 「…何言ってんの?」頭の中にイライラが沸々と煮えてくる。

 「…?ですから、何かございましたら何なりと─」

 「意味分かんないって言ってんの!何なの!?ワケ分かんない!キモいって!早くどっか行ってよ!」あたしは癇癪を起こしたように喚いた。兄貴が顔を引き攣らせる。申し訳ございませんでした、とすごすごと自分の部屋に戻っていった。

 アズサはまだ笑っていた。テーブルをばんばんと叩いている。あたしはイライラが収まらなくて、舌打ちする。もう、恥ずかしい!何なわけ!?

 「─あはは、はぁ。エリのお兄ちゃん、あんなだっけ?スゴい面白いんだけど」

 「面白くなんかないよ!もう、ほんとキモい!」ポテチを鷲掴みにしてばりばりと頬張った。ジュースを一気飲みする。

 「やっぱ外行こ!ここイヤ!早めに塾行って、自習室でやろうよ!」言いながらも、テキストとかを片付け始める。

 「え!まじ?ちょっと待ってよ」アズサが慌てた声を出す。勿体ない、と余ったポテチを口に流し込んだ。



 早く、とアズサを急かして家を出て、徒歩で塾に向かった。尚も笑うアズサを放ってずんずんと歩を進めた。

 自習室でイライラを原動力にして宿題を終わらせた。けれどそれでもまだ収まらず、授業中もバカ兄貴のことが頭の中をかすめ続けた。

 それでずっと不機嫌なままだったのだけど、理科の授業中にそういえば、と思い出した。


 そういえば、今朝兄貴を殴ったんだった。


 何で殴ったのか、よく覚えていない。寝惚けてたし。けど何かムカつくこと言われたんだと思う。まぁ、ムカついたからって殴っていいことにはならないとも思うけど、言った方も悪いと思う。

 ─思うのだけど。……もしかして、それのせいでおかしくなっちゃった…とか?

 兄貴がおかしいのは今朝からだ。昨日はいつも通りだった。手伝え、と声をかけられたのを覚えている。それが今日はずっと敬語だし、態度もおかしい。

 まさか、あたしのせいなの?

 認めたくなかった。でも、殴ったのはあたしで、それで頭とか打って兄貴がおかしくなったのなら、病院とか行かないと…いけないし……。

 今日帰ったら、お母さんに言ってみよう。そう決心して帰路についた。


 夜の9時過ぎ。放課後に塾に行こうってなるんだから、その帰りは大体このくらいになる。

 人気の少なくなった道をとぼとぼと歩いた。アズサは少し方向が違うから、帰りはいつも一人。

 帰ったら兄貴に謝んないといけないかな。そんなことを考えながらコンビニの前を横切る。辺りが暗い中、煌々と光るコンビニは、気持ち悪い虫を誘っているみたい。その前には光沢のある緑色のワゴン車が停まっていた。光に集まったカメムシのようだな。そう思ってちらりと見ると、その横でチャラそうな男達がニタニタと笑って会話していた。その内の一人、ネズミみたいな顔の男と目が合った。慌てて逸らす。

 胸騒ぎがして家路を急いだ。コンビニの脇の道に入る。裏手は小さな公園になっていて、そこの街灯がチカチカと切れかかったように点滅していた。公園の前を通り過ぎようと、歩を早めた。するとすぐ脇の道路に、怪物みたいなカメムシが背後から顔を出してきて、思わずぎょっとした。全身に鳥肌が走る。怖々《こわごわ》とそちらを見ると、さっき見たワゴン車だった。カメムシの腹の、スライドドアが開いて人が出てくる。

 さっき目が合ったネズミ男だった。そいつがにたにたと笑顔作る。「お嬢ちゃん、こんな時間に一人で危ないよ。何なら送っていこっか」

 「いえ、結構です」

 肩に掛けていた鞄をお腹の前で抱き締めて、足早に立ち去ろうとした。するとその方向にも別の男がいた。ネズミ男と喋っていた男だ。カマキリみたいな顔のその男も下品に笑いながら甘ったるい声を出してきた。

 「遠慮すんなって。人の善意は受け取るもんだぜ」

 「どいてください!」キッと睨み付ける。いつでも体を動かせるように呼吸を整えた。

 後ろから右肩を掴まれた。それに体が反応する。反射的に腰を落とすと左手でその手を掴んだ。捻り上げる。男の情けない声が上がった。そのまま体を反転させて肩を掴んできた男と向かい合う。ネズミ男は右腕を変な方向に曲げ、そこに巻き込まれるように体をくねらせながら、苦悶の表情を浮かべていた。

 「ガキが、何してんだ!あっ!」背後から怒声がした。だからネズミの手を引っ張ってやる。捻られた関節が余りに痛いのか、従順に引っ張られてくれた。それを、体を回転させながら後ろのカマキリに向かって誘導した。

 ネズミがカマキリに不恰好にぶつかった。二人揃ってよたよたとバランスを崩す。

 あたしは改めて腰を落として、構えた。

 手加減なんてしない。遠慮すんなって、こいつらも言ってたし。

 カマキリに抱きつくようになっているネズミの、後頭部に狙いを定めた。左足を軸に、右足を振り上げ─。


 突然体が痙攣した。

 体が伸び、全身の筋肉が硬直する。


 息が出来ない。なんで─?

 電気が背骨を走るような感覚に襲われる。目の前がチカチカと弾けた。

 頭の後ろでバチバチと鳴っていた。首筋に刺すような痛みがあった。

 「─ったく。何やってんだ、お前ら」男の呆れ声が遠くに聞こえた。

 いつの間にか体の硬直が解けている。力が入らない。ふわふわと崩れ落ちる。

 体が何かに引っ掛かったように、落下が止まった。視界が黒い。

 「こいつ、ふざけやがって!」

 頬に何か当たった。遅れて挟まれてると気付く。何に─?頭が揺れた。

 「あんまデケー声出すなよ。とりあえず─」

 消え入る意識の中で、耳にねたねたと粘り付いてくるような声が嗤った。


 「─とりあえず、女子げっとー」





 何故ここにこれがあるのだ。私の頭の中で疑問符が列を成して小躍りしていた。

 学校でのイベントが一通り終わった頃を見計らい、自宅に、この体の持ち主の自宅に帰っていた。



 家に着くと領主も既に帰宅していたらしく、声が大きすぎることをたしなめられた。

 領主の学友だろうか、居間には領主と同じ制服を着た少女が居た。癖の強い髪をそのまま自由にさせ、頬のそばかすは自己主張の激しいものがある。一見すると平凡な町民であるものの、しかし領主の連れなのだということを考慮すべきであろう。つまりは、さぞ名のある家の娘であると推察できる。

 私は数秒もかけず、領主の学友を観察し終えると、直ぐ様反省を示して有能さをアピールする。しかし、領主は不機嫌だったらしく評価はされなかった。

 残念だが仕方あるまい。

 気を取り直し、待機する。だがそれも気に入らなかったらしい。領主は怒髪天を衝いたように、罵詈雑言を浴びせてきた。

 幼い領主とはこうも難しいのか。理不尽な物言いに、る方ないと部屋に引き上げた。


 扉の向こうでは、ささくれだった領主を連れの者が宥めている。

 帰宅後は使用人業務に従事しつつ、目的のものを探そうと思っていたのだが、出鼻から挫かれた。手持無沙汰のまま、ベッドに座り暫く放心する。

 暫しの傷心ののち、いやこれはひょっとして、この世界を自由に探索する良い機会なのではないか、という事に気付いた。

 成る程、渡りに船だな。そうと決まれば早速、とベッドから腰を上げようとした時、玄関の扉の開く音がした。同時に隣の部屋の喧騒が止む。

 どうやら領主一行が出ていったらしい。 奇遇なこともあるものだ、と立ち上がる。では私も出掛けよう。そう部屋の出口に向かったものの、ドアノブを掴んではたと思った。


 私が出ていけば、この家には誰も居なくなるのではないか。


 この家のセキュリティはどうなっているのか、それを把握していなかった。鍵か?戸締まりはどうすれば……。

 別に私の家というわけではない。ならば気にせずに出てしまうか。しかし…。

 勝手の分からぬ世界を探索しようという時に、ここは安全な拠点と云える。つまりこの場所はこの世界において、私が優先して防衛すべき家ということになる─。

 ぐぬぬ、と私は奥歯を噛み締めた。これでは誰かが帰ってくるまで探索には行けないではないか。折角、領主から時間を戴いたというのに。

 だが、まぁ仕方あるまい。私は気持ちを切り替えた。

 とりあえずは、この家の中を調べることにしよう。ここは他でもない領主の家なのだ。ここを調べることはこの世界を調べることに値するのではないか。そう自分を鼓舞した。


 よし、では手始めに、キーマン足る領主の部屋…ではなくてこの部屋だな。…うむ、将を射んと欲すれば何とやらだ。焦りは禁物。じわじわと、外堀から埋めていくに越したことはない。断じて臆している訳ではない。

 私は回れ右をして、改めて自室を眺めた。

 部屋の中は全体としては青い印象だ。壁は白く、床は濃い茶色だが、一つだけの窓にはまだ開けていない青いカーテンがあり、ベッドのふんわりとした掛け布団も濃紺のためだろうか。

 明かりの灯っていない部屋の中はどうにも暗い。

 『パルクーレ』明かりを点けようと思わず呪文が口走った。魔法は領主権限で使えないのだったな、と後で思い出す。

 では、と窓に近付く。手狭な部屋の中で、窓はベッドと机に挟まれるような位置にあった。青いカーテンを開く。

 眩しい赤が目を刺した。急なことに左手を夕日に重ねて防いだ。この部屋は西日が射すのだな。夕焼けの橙に目を細めて思った。

 さて、光源は確保した。私はすぐ隣にある机に視線をやった。

 机は床板と色を会わせたように濃い茶色をしていて、天板の奥には簡単な本棚が壁のように備え付けてある。そこに「数学」やら「国語」やらと背表紙に書かれた本が並んでいた。語学スキルで文字は読めるものの、それらの意味は分からなかった。机にはまた、抽斗も備わっていた。少ないながらもある程度の収納能力を有しているらしく、勉学などをするには打って付けの物に思える。名称を付けるならば、「勉学机」等と言えるかもしれない。

 そんな、勉学机の一番上の抽斗を何とはなしに引っ張ってみた。からん、と何かが転がる音がした。現れた抽斗の中は金属の箱が並べられており、それが敷居のような役割を果たしているらしかった。それぞれの箱には何やら走り書きした紙や、小枝のような木の棒、硬いような柔らかいような親指大の白い塊等が入っていた。

 筆記具だろうか。そう推測してみるが答えは出ない。先程の転がる音はこれらだろうか。尚も抽斗を引っ張ってみる。すると抽斗の奥、視界の右上に青い塊が飛び込んできた。


 それが見えた途端、心臓が止まるほど驚いた。実際、苦しさを覚えて自分が息を止めていたことに気付いたくらいだった。

 突き抜けるように透き通った青。その綺麗な楕円形の青を包むように銀色の装飾が、柔らかな羽毛のように縁取っている。

 何故ここにこれがあるのだ。余りに唐突なそれの登場に、半信半疑な心持ちとなる。頭の中では疑問符が押し寄せてきていた。


 ミーミルの首だ。アルフヘイムの失われた三種の神器の一つ。そのペンダントだ。それが何故ここにあるのか。

 今回異世界に来た目的は確かにこれなのだが、こうもあっさりと見つけてしまうと、偽物ではないかと勘繰ってしまう。

 青空をその中に閉じ込めたようなペンダントをじっと見つめる。手は伸ばさない。何らかの魔術的なトラップが仕掛けられているかもしれない。しかし、領主権限の影響か、魔力を感知できない。

 やむを得まい。私は右手の人差し指を立てると、指揮者のように振った。すると空中、目より少し高い位置に、空間の隙間から体を押し出すように、いびつな黒猫が現れた。

 どうやら使い魔までは制限をかけられないらしい。術者の魂に由来する使い魔までに及ぶ程の領主権限など余り例がないとは分かっていたものの、無事に出現させることができて、少し安堵した。

 黒猫はちょこんと座り、玩具のようにふわふわと浮いていた。無闇に大きな頭に黒っぽい牛の被り物をしているのが目立った。黒に黒なので、角の生えた猫のようにも見える。ブルーの両目は今にも溢れそうなくらいに見開いている。不機嫌そうに口角は下がり、白いギザギザとした歯が覗いていた。頭に見合わず体が小さく、どう考えても歩けるようにはできていない。先端が白い尻尾は電気でも流れているように常にびりびりと震えている。

 そんな歪で、不憫な使い魔で魔力探知を試みる。余り時間はかけていられない。誰かに見られれば厄介である。

 猫の大きすぎる瞳がペンダントに向けられた。その目玉が間髪入れずにぐるぐると回り始める。そして不意に回転が止まる。猫は何も言わずに黙っている。

 何も仕掛けられていないらしい。私はペンダントに手を伸ばした。

 ずっしりとした重さがある。装飾の上部からは純金の細い鎖が幾重にも重ねられて、徐々に帯状になっていた。

 改めて見てその重厚感のある気品に圧倒された。本物に見える。もし本物であればあの痕跡が─。再度使い魔を用いて、鑑定しようとした。


 「ただいまー」玄関の開く音と共に女の間延びした声がして、飛び上がる程に驚いた。危うくペンダントを落としそうになる。

 「あれ、絵里愛ー?」居間で人の歩き回る音がする。それが異様に大きく聞こえて慌てた。

 隣で黒猫が大きな口を開けたので、手にあったペンダントを放り込んだ。ペンダントを飲み込んだ猫は、出てきた時のように空間の隙間に体をうずめて、消えた。


 私は体を起こすと深呼吸をし、居間へと向かった。扉を開けると母親が驚いた顔をこちらに見せてきた。

 「あら、帰ってたの。絵里愛は?」

 「さっき出ていかれました」領主に対して随分と馴れ馴れしい。乳母とはこういうものであったか?

 母親は何がおかしいのか、けらけらと笑うと「出ていかれましたか、姫は」とおどけた調子で言った。

 「今日、随分早いのね。由奈ちゃんと喧嘩でもしたの?」母親はテーブルに置いた袋から茶色く四角い物を取り出す次いでのように訊ねてきた。

 「ユナちゃん?」誰のことか。少し思案してすぐに予想がついた。「ああ、ユッコのこと?」

 「他に誰がいるのよ」母親は含み笑いを浮かべて、四角いそれを渡してきた。「ご飯作るから手伝って」





 ユッコは肩のラケットケースを揺すった。部活終わり、すっかり暗くなった夜道をえっちらおっちら歩く。先輩にしこたまシゴかれたせいで、足が痛い。


 何だっての、一日サボったくらいで。毒突いたところで疲労は全く楽にならない。棒のようになった足を引き摺るしかない。

 憂鬱な気持ちがシャボン玉のように膨らんでは、割れた。その度に飛び散る霧のように、不満が口を突く。けれど辞めたいとは思わない。テニスは、シングル自体は好きだった。

 コートの上に一人。相手も一人。いつもみたいに囲まれることもない。その相手と決められたルールの中で競う。屁理屈もない。卑怯なことも、まぁあるけど、でも少ない。言いがかりも、ない。その空間で思いっきり動き回る。その解放感が好きだった。決められた籠の中でのびのびと羽を伸ばす鳥みたいに、体を伸ばす猫みたいに。

 だからサボった罰として外周20周を命じられても、その後先輩と試合をさせられても、甘んじて受けた。

 受験があるからと多くの先輩が来なくなる中、スポーツ推薦を狙うその先輩はよく顔を出した。そしてあたしを見つけては突っ掛かってきた。

 勉強しなくていいのか、と思う。実際言ったこともある。すると先輩は顔を真っ赤にして、両目を三角にして怒鳴ってくる。「あんた、ふざけんなよ。今度こそ徹底的に叩き潰してやる」といつも同じような言い回し。うんざりする。


 電信柱に手をついた。目の前にコンビニがあった。沈み込むような夜闇の中、その光はオアシスのように見えた。お腹すいたな。何か買って行こうかな。コンビニの光に吸い寄せられるように、ふらふらと近寄った。

 「やめてよ」

 そんな声が聞こえた気がした。空耳かな。そう思ったけど、気になった。辺りを見回す。駅からも遠いこの辺りは、コンビニの24時間営業が空しくなるくらい人がいない。やめて、と言った人も見当たらない。やっぱり気のせいかな。一応確認しておこうと、コンビニの脇の道に入って裏手に出た。そこには薄暗く小さな公園があるだけだった。近くの街灯が切れかかっていて、嫌な感じだ。

 その公園の中で人の気配がした。

 身の毛のよだつ感覚に陥る。良くない想像が走った。息を詰め、疲れた足を懸命に動かして、忍び足で公園に入る。

 公園は小さいながらも、入り口の街路樹のせいか鬱蒼とした森のような印象を受けた。その森の奥には、公園に唯一の遊具である滑り台があった。その申し訳程度の小さな滑り台の前に人影が三人分、あった。

 「あんたのせいで、あたしらまでとばっちりなんだけど」

 「あなた達だって─」

 「一緒にしないでよ、このイジメっ子」

 ばしゃっと水の飛び散る音がして、下品な笑い声が上がった。「これで少しはキレイになるんじゃない」

 「醜いもんね、あんた。イジメなんて、最低じゃん。人間じゃないんじゃない?死ねば」

 「ちなみにこれ、イジメじゃないから。友達だもんね、あたしたち。友達として面倒見てあげてるんだから。ね、みよちゃん」

 吐き気がした。想像したこととは違ったものの、これも大嫌いなものだった。言い様のないむかむかとしたものが、体の奥から突き上げてくる。だから一歩踏み出した。

 「あんたら、何してるわけ」


 近藤さんと花山さんが振り返った。その奥に葛原さんが見える。公園に設置された弱々しい明かりの下で、彼女はしっぽりと濡れていた。

 何やってんだか。その三人の様子はどう見ても、近藤さんと花山さんが葛原さんを虐めているとしか取れない。

 「結城、あんたこんなとこで何してんの?」近藤さんが睨んでくる。手には、空になったらしいペットボトルがあった。

 「部活帰り。健全な学生だから」健全な、のところを強調して言う。「それイジメ?」

 「イジメじゃないよ。あたしたち、友達だもん」花山さんがさっと同じ理屈を口にする。

 「あんたには聞いてない。葛原さんに聞いてるの」溜め息が出る。「どうなの、葛原さん。今なら録音とかもできるけど」

 「あんたねぇ!」花山さんが気色ばんだ。近藤さんの、ペットボトルが潰れる音がする。

 あたしは構わず言葉を繋いだ。「オッケーグーグル─」

 凹んだペットボトルが飛んできた。あたしの手前の方で軽い音を立てて、地面に転がる。

 「覚えてなさいよ!」捨て台詞を吐いて近藤さんが、足を鳴らして去っていった。こちらを睨み付けた花山さんも後に続く。

 「こら、ポイ捨て禁止!」彼女らの背中に向かって言ってみたが、立ち止まることはなかった。仕方ない、と拾い上げる。


 「…どういうつもり、結城さん?」葛原さんが滑り台の前から一歩も動かずに訊ねてきた。水に濡れた彼女は、それで以外と様になっているから驚く。水も滴るいい女ってやつか。

 「どうもこうもないよ。嫌いなだけ」

 「嫌い?」

 「目には目を、歯には歯を、だよ」アンディの受け売りを口にする。

 「……私が自業自得ってこと?」葛原の目に敵意が滲んだ。やっぱそういう意味だよね、この言葉。

 「違うって。あたしはイジメが嫌いだから、イジメはやらないってだけ。葛原さんは、悪いけど正直どうでもいい」

 ペットボトルを拾った次いでにと、体を伸ばす。ふくらはぎの筋肉に痛みが走った。「いてて」

 葛原さんは怒っていいのか逡巡するように中途半端な表情を作っていたが、やがて「ありがとう」と言った。

 「お礼とかいいって。じゃ、あたし帰るから。気を付けて帰ってよ。この辺物騒らしいし」

 何か気の利いたことでも言ってやろうと思ったけど、何も思いつかなかった。回れ右してぎこぎこと体を動かす。こんな為体ていたらくで格好なんて付くはずないか。呼び止められるのも嫌だったから、ぎこちない動きで可能な限り足早にその場を後にしようとした。


 公園の、森の出口に人がうずくまっているのが見えた。

 よく悲鳴を上げなかったものだ。あたしは自分で自分を褒めてあげたい。息を殺して様子を窺う。まさか近藤さんと花山さんが待ち伏せているとか?馬鹿馬鹿しい。けどあり得なくもない。

 やがて人影は体を起こした。そのシルエットは、よく知っていた。

 アンディだ。今日は一日中様子がおかしかった幼馴染み。記憶喪失とか言ってたけど、まだ治ってないらしい。何かぶつくさ呟きながら指揮者のように指を振っている。

 大丈夫かな。その様子を見て途端に心配が募った。昼間ちゃんと言えなかったけど、やっぱり病院行った方がいいんじゃないかな。

 声をかけようとした矢先、アンディは歩き出した。慌てて後を追おうと思ったけど、その前に目の前を別の人影が続いた。まるで、アンディを尾行するようにこそこそと赤毛が動いた。


 それは今日来たばかりの転校生だった。





 「ねぇ、絵里愛遅くない?」乳母で母親の女がそんなことを言い出したのは、食後暫く経ってからだった。



 自分達の主よりも先に食事にありつこうとは如何なものか、と再三に口にしたものの、母親はけたけたと笑うだけだった。訳分かんないこと言ってないで早く食べちゃいなさい、と聞く耳を持たなかった。絵里愛は帰ってくるの遅いんだから、と。

 仕方ないと、領主に対する詫びの言葉を口にして、私は食卓についた。


 味噌汁と云うらしい。

 帰宅した母親から茶色く四角い、何かが凄い密度で詰まっているような重量のそれを手渡されながら、作ってと言われたものだ。勿論作り方など分かる筈もなく、どうしようもなくまごついていると、忘れちゃったの?と茶化された。その後は姑に料理を習う嫁のように手取り足取り指導を受けた。

 それが、木製らしいが黒く光沢のあるお椀の中に入って目の前にあった。手に取り口に運ぶ。口内に含んだ途端、何とも言えない幸福感に包まれた。素朴ながら味わい深い、派手さはないが全身をそれに支配されるかのような、静かな安心感が体に染み込んでくる。思わず「おいしい」と唸ってしまう。

 「自分で作っといて何言ってんの」自画自賛ですか、と母親は可笑しげに言うと、自分も味噌汁を啜った。ずずず、という音が耳につく。

 その味噌汁の隣では平皿の上で、白と茶色とが鮮やかなコントラストを描いていた。香辛料か、強い匂いを放っている。これは、食べ物なのか。食べられるのか。どうにもスプーンが進まない。

 私がその、得体の知れないヘドロのようなものと対峙しているのを見ると、母親は「まぁ、カレーに味噌汁ってどうなんだ、てのは分かるけどねぇ」と笑った。

 「でもあなたが料理忘れてるんだもん。味噌汁教えてるだけで大分かかっちゃったし、今手早く出来るものってなるとカレーだったんだから、しょうがないでしょ」

 母親の言い訳を聞き流し、私はカレーなるものへ挑戦した。母親がしているように、白と茶色の境界線を狙ってスプーンを差し込む。掬い上げると、取りきれなかった茶色がべちゃりと落ちた。

 これを、食べるのか。生理的な拒否反応が起こる。しかし、どうやらこの世界では一般的な料理らしく、食べないという選択は母親に疑問を生じさせかねない。唾を飲み込む。

 乗りかかった船だ。私は覚悟を決め、ぎゅっと目を瞑ってスプーンのヘドロを頬張った。


 とんでもない衝撃が走った。

 先程まで口の中を染めていた味噌汁の名残は見事なまでに吹き飛んだ。刺激的で色濃いスパイスが味蕾の隅々にまで行き渡る。何と濃厚な味か。鼻から吐息をつくと、鼻腔がスパイスで焼けた。

 カレーの纏わりつくような旨味を味わいながら、しかしどうやらこの味は茶色の方のものらしいと分かった。白の方は寧ろ淡白過ぎるくらいだ。だがこの組み合わせが良い。淡い白と濃い茶色が絶妙なハーモニーを─。

 「そんなに美味しい?初めて食べるみたいにがっついちゃって。いつも食べてるでしょ」母親が呆れ顔を作っていた。


 食後、私は大きくなって苦しいお腹を撫でていた。カレーをおかわりしてしまった。もう入らん。しかしおいしい。カレーおいしい。

 テーブルには母親が淹れてくれたコーヒーがあった。今朝のものと同じく、やはり少し味気ないものだったが、しかし濃厚なカレーの後には相応しい一杯だ。

 母親はキッチンに改めて入り片付けをしていた。その後ろ姿を漫然と眺めていたが、ふとこの身も召使いであることを思い出し、これではいかんと立ち上がった。だが母親の隣に立つと、「ありがとう。でももう終わるからテレビでも見てたら?」と言われてしまった。

 「てれび…?」

 「今日木曜日でしょ。何かドラマとかあるんじゃないの?」母親が食器洗いの手を休めずに、後ろを向いて何かを顎で指した。振り返ってみるが何を指したのか分からない。「どらま……何かあったっけ?」仕方なしに母親の言葉を疑問形にして返した。

 「知らないけど」言いながら母親は手を、掛かっていた布で拭いた。食器洗いは済んだらしい。そのままテーブルまで行く。テーブルの端にはペン立てのようなものが置かれており、そこには四角く細長いものが幾本か刺さっていた。そのうちの一本を手に取ると、窓際に置かれた遠隔魔鏡に向けた。


 遠隔魔鏡が光り、映像が浮かび上がった。


 呪文、要らないのか!?私は衝撃を受けた。その後、映像がころころと変わる。何が起きているのか、理解が追い付かない。遠隔魔鏡はつまり…現地に漂う魔力を頼りに映像化を…だから使用するためにはこちらとあちらを…しかしこの状況は…んんん??

 原理は一通り理解しているつもりだったが、理解しきれてなかったようだ。私は混乱する頭で考えるのを止めた。

 そうこうしていると、遠隔魔鏡にやがて男が映った。その男は頭を抱えて悶絶していた。よく見ると出血しているらしい。

 何だこれは!?何処の映像なのだ!これは警察等に連絡してあの男を助けなければならないのではないか!逸る気持ちで母親を見ると、彼女は平然とした顔つきでコーヒーを啜っていた。

 こいつ、赤い血が流れていないのか!?私は軽蔑の眼差しを母親に向けた。しかし、彼女は気付いていない。

 映像は未だに流れている。場面が切り替わった。違和感を覚える。視点が目まぐるしく移動した。

 どういうことだ。確かに遠隔魔鏡はあらゆる角度から対象の空間を映すことが出来る。その時、視点が変わる際には滑らかに動くはず。それが目の前のものは違うのだ。まるで途切れたように視点が変わる。その場にいる複数人の視覚情報を見ているようだ。

 また映像が変わる。明るく晴れた空が映し出されたと思うとまた切り替わり、部屋の中で幾人かが歓談している様子が映った。また違和感を覚える。その会話が何処かわざとらしく見えたのだ。そこで思い至る。

 まさかこれは、演劇か。そうして漸く合点がいった。最初に映ったあの男も演技だったのか。だからこの母親は平気な顔をしていたのだな。しかし、遠隔魔鏡で演劇を見るなど聞いたこともない。特権階級の贅沢な嗜みなのか。しかもそれを主の留守に召使いがだらだらと眺めているとは。いやはやこの世界は経済観念が破綻しているのか。

 遠隔魔鏡の演劇は続いた。どうやら犯罪を取り扱う物語らしい。冒頭の男を殺した犯人を、ああでもないこうでもないとやりながら見つけ出すようだ。


 何だ。私の専門ではないか。ならばプロの仕事というものを見せてやらねばな。誰に対してかは自分でも判然としなかったものの、私は俄然やる気を出して遠隔魔鏡に食いついた。

 冒頭の男。奴は左後頭部を押さえていた。その後映った際には既に絶命していたらしい。物語上でもそれ以外に死亡原因は挙げられていないため、恐らく殴打による頭部外傷で出血有り。頭部は出血が止まりにくいため、失血死、或いは出血性ショック死。又は頭蓋内損傷か。左後頭部、ということは犯人は背後から左手で殴りがかった、ということ。陥没の方向が分からないため断定はできないが、左利きというのは考慮に入れるべきであろう。

 遺体が発見されたのは落ち葉の多い山中の川沿い。衣服には乱れたところがあり、落ち葉も大量についているらしかった。なるほど、では殺害現場はその森だな。犯人と揉み合いになり、その末に頭を殴打されたとみえる。

 推定死亡時刻は一昨日の深夜。その時間にその山にいた、左利きの者が犯人と云うことだ。

 ふふふ。ここまで来れば最早造作もない。これは劇だ。つまり犯人は登場人物の中にいる。その中で左利きで動機のある人物─それはそう、被害者の婚約者だ!


 私はここまでの推理を自信満々に披露した。勿論一緒に観賞している母親に向かって。遠隔魔鏡の中では愚図な警察官らしき人物が、ごちゃごちゃと事件をこねくり回している。どうやら彼は被害者の弟を疑っているようだ。てんで見当違いではないか!

 「もう分かったの?相変わらず凄いねぇ」母親は素直に感心してくる。私は鼻高々である。

 私にかかればこの程度!と誇示したいのを我慢して、私は悠々とコーヒーを啜ってみせた。

 物語はどんどんと進行し、新たな情報も加えられていく。それらは私の推理を後押ししてくれているように感じた。

 そうして物語が佳境に入ろうと云う辺りで、母親がふと「ねぇ、絵里愛遅くない?」と言ったのだ。

 すっかり物語に夢中になっていた私も、それでやっと領主のことを思い出した。

 「そうなのかい?御付きの者も一緒なのでしょう?」私は今朝見た、この体の男の父親らしい人物を思い浮かべていた。

 「御付きって…。帰りは一人らしいよ。アズサちゃんも方向違うらしいし」

 「な─!?こんな夜更けに、一人だと…!?」あの、アズサちゃんなる父親は何をしているのか。

 警察官らしき人物が、犯人はお前だ、と弟を指していた。

 「もう帰っててもいい頃なのだけど」母親は急にそわそわとし始めた。自身のものか、AIをぺたぺたと触ったり、耳に当てたりする。「出ないわね…。今どこにいるのかしら」

 あいつのことが憎かったんです、と弟が崩れ落ちた。

 …え、犯人そっち!?被害者の婚約者が弟に向かって、あの人を返してよ、と泣いて縋っていた。え、犯人そっちなの!?

 「今、帰ってる途中みたい。…でも変ね。コンビニの裏手から位置が変わらない…」

 場面が切り替わる。何やら高い所で被害者と弟が言い争いをしていた。そして揉み合いになり、そこから被害者が転落。その遺体を回収した弟は隠蔽を図るために山に向かい、崖から谷底へと遺体を落とした。冒頭の映像はフェイク。頭部の損傷は転落によるもの。左利きは…関係なかった。

 「ねぇ、お父さんも帰ってないし、ちょっと見てきてくれない?」

 落胆している私に、母親はやきもきとした様子で頼んできた。まぁしかし、これは作り物であるし、実際の事件を解決するのとは勝手が違うのだろうし、私の推理も的外れとは言い難い感じがあって─。

 「聞いてる?絵里愛の様子を見てきて欲しいんだけど!」

 母親が服を引っ張ってくる。だから仕方なく私は重い腰を上げた。この身は召使い。如何なる状況であれ、主人のためならば譬え火の中水の中…。まぁ、この程度のことではへこたれない私だ。意気消沈しているわけでもないし、犯人も分かったことだし、仕事をしようではないか。

 母親は自身のAIをこちらに見せて、ここら辺に居るみたいなの、と言ってくる。だから私も自分のAIを取り出し、そこまでの道のりを示させた。



 夜風は生温く私を撫でる。私の、傷付いたプライドをじわりじわりと刺激してくる気がした。

 AIを改めて見る。小さな手鏡は夜暗を照らさんと懸命に光を放っていた。そこに地図を映し出している。

 この辺り一帯の地図だ。今朝学校に行く際に散々試みたため、難なく読むことが出来る。今出たのが此処だから、と体を反転させる。そこには摩天楼のように巨大な壁が天に伸びていた。

 この体の住み処はここの12階だ。見上げてみると首が痛くなる。そんなところから階段で降りてくるのは流石に疲れた。しかし他の手段もないようだった。何やら小さな個室に数人でぎゅうぎゅうと入っている者達も居たが、何をしたいのか分からなかった。正気の沙汰ではない。

 疲れた足に鞭を打ち、摩天楼の敷地の出口へ向かう。これで方向は分かった。地図には青い線がくねくねと示されていた。目的の、領主の居場所までの道筋である。これを辿っていけば良いのだ。私は重たい足を動かした。

 夜道をとぼとぼとする。長い首をぐにゃりとしたような明かりがぽつぽつと道を照らしていた。地図によると、学校への道のりの途中で折れるらしい。であれば一度来た道である。私は辺りを見回すくらいには余裕があった。

 しかし、ほとほと変な世界である。地面は素材の分からぬ黒く固い石が覆い尽くしており、そこかしこに樹が等間隔に生えていたりする。家も様々で、塀の高いものもあれば塀の無い家もある。

 領主ともなればあれほどの摩天楼を住居に持てるらしい。それに比べれば、この辺りにあるものは平民のそれなのだろうが、それでも随分と立派なものに見えた。

 文明の発展度合いが推し量れない。一人に一台あるなど贅沢なことだと思っていたAIも、学校では多くの子どもが持っていた。考えられない。その癖、誰も魔法を使わない。領主権限か?しかしこれほど広範囲で強力なものとなると、消費魔力が恐ろしいことになる。ならば、領主権限ではない…。


 誰も魔法を使わない、のではなく、使えないのか。


 魔法の存在しない世界。しかしそれでは説明できないことがある。私だ。私は今回、転魂魔法を用いてこの世界に来た。転魂魔法は、近しい者同士の魂を入れ替える魔法。だから今回、私が魂を入れ替えたのは私に近しい者、つまり私と同程度の能力を有する存在、ということになる。それは少なくとも上級魔法相当、それだけの力が必要なはず。

 魔法が使える者がいない世界の者とは転魂が出来る理屈はないはずだ。

 では、なぜ誰も魔法を使わないのか。領主権限…。これでは堂々巡りである。まだ考察するには材料が足りぬらしいと、私は問題を棚上げした。


 考え事をしている間に目的地が近付いていた。ここを曲がれば領主がいるはず。そう期待して道を折れる。

 森があった。正確にはごく矮小な空間に樹が生い茂っていた。黒いその塊は風に吹かれてざあざあと鳴いてみせた。まるで異空間への入り口のようだ。そこで古い記憶がまざまざと蘇ってきた。

 「あなたの名前は今日から─」女の老獪な声が頭に響く。

 知らず身震いが起きる。自分を両腕で抱え込み、擦るようにした。そこでふと森の入り口から少し外れた辺りに落とし物があるのが見えた。気になり、近付いてみて息を飲んだ。慌てて拾う。

 長方形の小さな手鏡が割れていた。それは今朝、領主が持っていたもののような気がした。確認しようと声を出す。情けなく震えたものが手鏡に落ちていった。

 「ヘイ…シリ」

 手鏡が反応した。今朝聞いた声が返事をする。やはりだ。これは領主のAIだ。ここに落ちていた…。領主は帰宅が遅れている…。これは─誘拐か。

 唇が妙に乾いていて、舌で湿らせる。生唾を飲み込んだ。

 私の至った考えにこの体が反応している気がする。脈が早くなり、汗が滲んだ。狼狽えている。

 まぁ待て、と私は落ち着いて自身に言い聞かせた。慌てるな。今の私は何時もの私ではなくこの私、アンディ・レイだ。まだ勝手の分からぬ世界ではあるが、この名探偵の仕える領主を拐かすなどと…。


 目に物を見せてくれよう。


 私は立ち上がった。とは言え、痕跡も少ない。割れたAIだけでは本来は追跡出来ようもない。─本来ならば。

 私は指を振った。すると、また空間の隙間から黒猫が現れた。相変わらず不機嫌である。その使い魔に領主のAIを示した。黒猫がそれに鼻を近付ける。

 AIに残った微かな領主の匂いを魔力として変換し、使い魔に解析させる。それを辿るのである。

 使い魔はあらゆる情報を解析する際、それらを一度魔力に変換し取り込む必要がある。よって、魔力に変換する情報は多いに越したことはなく、少なすぎると解析できない。その限度は術者の技量に依るところなのだ。

 そして私ほどにもなれば、微かな残り香さえ残っていれば追跡トラッキングなど余裕である。


 黒猫が動き出した。空中を滑るように、進む。不格好な脚を可愛らしく動かしてはいるが、その歩幅には関係なく動いた。その後を私は小走りでついていった。

 右、左、右、とくねくねと曲がり、大通りへ出る。何やら沢山の閃光が走っていた。観察したいのは山々なものの、今はそれどころではない。今にも暗い空に溶けていきそうな黒猫から目を離せなかった。

 やがて閃光達も鳴りを潜め、暗い山の麓に到達した。そこには光沢のあるカメムシのような巨大な物体と、その近くに旗が揺らめいていた。その旗には『桃源神社』とあった。

 ここは…。

 黒猫はカメムシにも怯まず、ずいずいと山に入っていく。私も後を追って石で出来た門のようなものをくぐった。

 綺麗に切り出され、積まれた石の階段を上る。階段の左右には、木々が重なり合って深い闇を作っていた。それらが囃すようにざわざわと音を立てる。

 階段を上りきると、そこにはまた石で出来た、先のそれよりはこぢんまりとした門のようなものが口を開けていた。それを潜り、黒猫が鋭角に右に曲がる。それに倣って続くと、黒猫は暗い森の中に溶け込もうとするように入っていった。

 意を決して暗黒に脚を踏み入れる。すると奥から興奮した男の、気味の悪い声が聞こえてきた。暗闇の先に小さな明かりが見え、人の動く気配がする。


 「あー、良い匂い。女子の匂いってたまんねぇよなぁ!」

 「お前ら、趣味悪ぃよ。こんなのガキじゃねぇか」

 「何言ってんだよ。んなこと言って、お前もヤる気なんだろ?」


 どうやら間に合ったらしい。私は心の底から安堵した。そして、こういうことはどの世界でも共通なのか、と少し寂しい気持ちになった。

 ともあれ、と私は一歩を踏み出した。少し開けた、小さな空き地のような空間に。

 「そこまでだ!悪党ども!」


 悪党達が振り返る。ゴブリンのような平たい顔が三つ並んでいる。一人は自分のズボンに手をかけていた。その奥に領主が見えた。気を失っているのか、仰向けのまま動かない。上着がたくし上げられていて、その白い肌が暗闇に浮かんで見えた。

 頭が沸騰したように熱を持った。下着は剥がされていないため、辛うじて貞操は守られてはいるものの、その変わり果てた主の姿に、この体は忠臣として怒りに燃えているらしい。

 私は頼もしい味方を得たように嬉しくなって、高らかと声を張った。

 「悪鬼羅刹のごときその蛮行!我が物顔の悪逆非道!譬え秘した所でこの眼からは逃れられん!我が洞察力は全てを透かし、ケンタウロスも馬脚を現す!そう!我こそはイグドレイシアが生んだ奇跡の頭脳!名探─」

 「お前、何言ってやがんだ?頭のネジ外れてんじゃね」

 「何、お前、これの彼氏とか?ちょーウケんだけど」

 私の言葉を遮り、ゴブリン共は嘲笑の声を上げてきた。全く、人の話を聞く礼儀もないのか。

 「犯人としての作法がなっていないな!しかし残念だったな!貴様らのような悪党に効く呪文ならば知っているぞ!」

 私は昼間の出来事を思い出していた。そう。昼間、ユッコなる婚約者フィアンセが使用していたあの呪文─。


 『オッケィ・グぅグル!この会話をロクオンせよっ!!』


 辺りはしん、と静かになった。ふ、やはりな。私は自身の推測が正しかったと確信した。あの時と、ユッコの時と同様の状況になった。この呪文はどうやら、相手の発声を抑制する効果があるらしい。これで奴等はもう─。

 破裂したように爆笑が起きた。ゴブリン共が腹を捩って笑い出した。

 「おいおい、マジかよ」

 「オッケーグーグル、この会話を録音して、だと」

 「お前、バカだろ」


 「な…なん…だと…っ!?」呪文を間違えたのか?いや、ユッコは確かにこう言ってたはず…。

 「おい、コイツ縛って、目の前で観賞させてやろーぜ」

 「お、いいじゃん。それ」ゴブリン共は変わらず騒いでいた。


 くっ!使い馴れない異世界の魔法は勝手が違うのか。ならば馴染みの方を使うしかあるまい。幸い領主は気絶中だ。今ならば領主権限の影響もないであろう。私は右手を前に突き出した。掌を相手に向けて開く。

 「あん?何だそれ?」

 「あ、あれじゃね?中二病」

 「マジか!やべーな!」

 ゴブリン程度に本気を出すなど、大人気ないにも程があるからな。出力は最小限に抑えてやろう。


 『吹き飛べ、ウェルテクス!』


 途端、風が吹いた。そよ風がゴブリンAの前髪を揺らした。

 「うわー、やられたー」ぎゃはは、と品の無い笑い声が立つ。

 「今の何?ビーム?ビームでも出したのか?カッコいいな。ヒーローだな」

 「やべーよ、コイツ。マジで」


 な…っ!?しゅ、出力を下げすぎたのか??旋風つむじかぜが起こるはずだったのだが…。仕方ない!ならば全力で!私は全身の魔力を右手に集中させようとイメージした。そして、全霊を込めて呪文を唱えた。


 『吹き飛べ!ウェルテクスっ!!』


 突風が吹いた。その風が剛腕のように悪党らに殴りかかる。ゴブリン共が吹き飛び、それぞれ後ろに控えていた木々にしたたかにぶつかった。息が詰まった様子でそれらの根元に転がる。

 私としたことが、ゴブリン程度に力を出しすぎたな。まだこの体に不馴れなためか、上手く魔力をコントロール出来ん。しかし、問題は解決した。領主を連れて帰るか。


 「─アンディ?」

 後ろから突然女の声がした。慌てて振り返ると、そこには燃えるような赤毛が揺れていた。

 「…大丈夫、アンディ?何だか今、魔法を使おうとしていたみたいだけど」

 私は金縛りに遭ったように動けなかった。出来の悪い鏡でも覗き込んでいる気分だった。

 「ごめんなさい。私、勝手に手を出してしまって。でも上手く使えないみたいだったから」

 そこで漸く思い出した。そういえば学校にこのような者が居なかったか。あの場の誰しもが私のことをアンディ・レイだと把握しているという危機的状況に手一杯で、しっかりと観察出来なかったが、確かにあの赤毛は見覚えがある。因みにあの問題は私の勘違いで、この体の愛称が単に“アンディ”だったということだとは既に把握している。よって、目の前の女があの教室に居たならば、私のことをアンディと呼ぶことには何の不可思議さもない。


 しかし、ということは…ふむ。成る程、そういうことか。であれば、…隠し立てる必要もあるまい。


 「アンディ。私、きっとあなたに─」

 「─その赤毛。その顔。今は亡きエルフの国、アルフヘイム。その王女、フレイヤ・アルフヘイムとお見受けする」

 その言葉に赤毛の女は顔を強張らせた。それだけで確証を得たも同然である。私は立て続けに口を開いた。

 「我はクライム─。クライム・ヘイヴン。汝のお命─」


 「─頂戴致します」





 「あなた、まさか─」

 深夜の神社の境内に単身踏み込むという、心霊マニアなら飛び上がって喜びそうな状況のユッコは、突然森の中から聞こえた女性の声に飛び上がるほどに驚いた。

 心臓が口から飛び出そうだ。思えば今日は、心臓がバクバクするイベント目白押しだったな。お疲れさま、あたしの心臓。

 自分の内臓を労いつつ、声のした方を見やる。深い黒に染まった山の中は、踏み入った人を残さず飲み込んでしまいそうな程に迫力がある。

 その圧に、もう帰ろうかな、と弱気になる。実際、ここまでの階段を上るのだって苦行だったのだ。


 軽々と進むアンディと有平さんの背中を眺めながら、自分のものじゃないように力の入らない脚を持ち上げた。指先しか引っ掛からないような、高難易度のボルダリングに挑戦している心持ちだった。ボルダリング、したことないけど。


 折れかかった気持ちでもう一度、暗闇に目を向ける。すると奥からまた声がした。

 「─我が偽りの名の元に、展開せよ!ラビュリントゥス!!」

 アンディの声だ。今度は何してんの、全く。あたしは呆れながらも疲れた脚に鞭打って、森に踏み込んだ。

 真っ暗闇の中、小さな明かりがちらちらと瞬いた。それを目指して進む。人の敷地で何やってんだか。あたしは半ば自虐的な気分になる。

 「─ミーミル石を手に入れました」そんなアンディの声がした気がした。みいみるせき?そんな単語は知らないから、聞き間違えたかもしれない。

 ゴツゴツとした木の根が走る悪路で懸命に脚を動かす。その度に背の高い雑草がスカートの下をこそばしてきた。厭らしく掠めるその感触に不快感が募る。アンディに絶対文句言ってやる。勝手についてきたことを棚に上げて、あたしはそんな決意を固めた。

 やがて、やや開けた場所に出る。そこは煩雑とした雰囲気が漂っていた。

 一番奥、ここから一番離れた所にある樹の枝にランタンが掛けてあった。さっきから見えていた明かりはあれらしい。その下でアンディが、女の子に覆い被さっている、ように見えた。


 「ちょ…!ちょちょちょっ!アンディ!?」

 思わず上げたあたしの声に、アンディが振り返る。その向こうに仰向けの絵里愛ちゃんが見えた。

 …え、何これ。…え?……え??そういう…こと…?いやいや!ないから!それはないから!

 混乱するあたしを尻目にアンディは太平楽な声を出した。「ああ、ユッコか。どうしんだい、こんなところで」

 「…いや!いやいや!どうしんだい、はこっちの台詞だから!何やってるわけ!?絵里愛ちゃん、だよね!?」

 「マスターのことを知っているのだったな。…そうなんだ。どうやら誘拐されたらしくってね。それでここまで助けにやって来たってわけさ」

 あ、なるほどね。助けに来たのね。そっかそっか。そーだよね。それなら分かる。うん。分かる分かる─。

 「─って誘拐っ!??何で!?え、ヤバいんじゃないの!?てかちょっと待って、犯人は!??」そこであたしは慌てて口を塞いだ。近くに犯人がいるかもしれない、と思ったのだ。それなのに、あまりの光景に大声を出してしまった。今のを犯人に聞かれたら…。

 「犯人か。それならそこに、ほら伸びているさ」

 アンディが指差した方を見ると、男が三人ほど転がっていて、あたしは息を飲んだ。

 「…え、アンディが、これやったの?」

 「私にかかればこの程度、造作もないのさ」アンディは絵里愛の様子を見ながら答えた。いまいち納得がいかない。

 「絵里愛ちゃん、大丈夫?」

 「…ああ、気を失ってはいるが、目立った外傷はないようだ」

 アンディは立ち上がると、ランタンの下辺りに潜り込んで、何かを拾った。見ると手には縄のようなものがあった。

 「そいつらはこれで縛っておこう。そうだユッコ、君は警察を呼んでくれないか」アンディはそそくさと作業に取りかかった。

 「…警察ね、分かったわ」あたしは鞄からスマートフォンを取り出した。けれどその画面を見て肩を落とした。「ダメ、電波ない」

 「でんぱ?」

 「山の中だもんね。…そうだ、神社まで戻ろうよ。あっちなら警察呼べるんじゃない?」

 「…ここでは駄目なのか?」

 「だから、電波ないってば」

 「そうか。そういうものか」


 やがて犯人達の梱包作業を終えたアンディは、絵里愛を抱き抱えたようとした。けれどバランスが取りにくいのか、立ち上がるときに何度かふらついた。

 おんぶにしたら?と提案し、それを手伝う。アンディの背中から崩れ落ちそうになる絵里愛を、後ろから支えるようにした。

 移動する際、ふと思い出してアンディに訊ねた。「そういえば、有平さんは?こっち来てたよね?」アンディの後頭部に向かって、言葉を投げる。

 「アルヘイさん?」

 「ほら赤毛の、転校生の」フィンランドのハーフの、お伽の国の女の子だ。

 「…ああ。彼女なら、帰ったよ」そう答えるアンディの表情は見えなかった。


 森を抜け、石畳の上に戻ったあたしは心底ホッとした。平らな地面がこれほどありがたいものだと、初めて知った。

 そのままの足取りで境内を進む。どこに行けばいいのだ、という記憶喪失のアンディのために、あっち行ってこっち、と指示を出す。敷地内の隅の方に古びた民家がぽつりとあった。明かりはまだ点いている。

 「ごめんください」インターホンを押しながら木造の家に呼びかけた。すると中の方でばたばたと音がする。

 ややあって開いた扉の向こうには、桃地さんがいた。昨日、葛原さんに虐められていた彼女は、大きな目を殊更大きく開いて、驚いていた。「結城さんと、安藤くん…どうしたの、こんな時間に」

 「ごめんね、桃地さん。ちょっと電話借りたいんだけど、いい?」あたしはここまで来た目的を伝えた。


 桃地さんのお父さんはここ、桃源神社の神主さんをしている。その関係で桃地家はここにある。とはいえその家屋は重要文化財に指定されそうなくらいにオンボロ、もとい古びていて、桃地さんが今開けた扉も軋んだ音を立てていた。建て替えたりしないのかと訊ねると、市の景観がどうとかってうるさいんだ、と桃地さんは困った顔で笑った。

 「それで、電話だっけ?いいけど…どうかしたの?」桃地さんはおどおどとあたしとアンディの顔を交互に見る。

 「実はさ、悪者がそこの森にいてね、絵里愛ちゃんが連れ去られてたんだって」

 「え!連れ去られたって!??それで電話?警察に?そのエリアちゃんてコは?」掴みかかるほどの桃地さんの勢いに若干の恐怖を感じた。

 「い、いや、絵里愛ちゃんは大丈夫。ほら、ここに」 そうあたしが言うと、察したアンディが自分の背中の方を顎で指した。

 桃地さんは安堵した表情を作り、おかげであたしも安堵できた。

 「でもまだ悪者が森にいるんだ。縛って置いてあるんだけど、警察呼んでくれない?」

 「わかった!あ、じゃあ上がって。ウチで少し休んでいって」

 「いいの?いやー助かるよ。実はもう足パンパンでさ」あたしはお言葉に甘えて早速、三和土に上がる前から靴を脱ぎ始めた。

 「じゃあわたし、お父さん呼んでくるから」桃地さんはばたばたと奥に引っ込むと、お父さぁん、と大きな声を出した。

 あたしは上がり框に腰を下ろして一息ついた。息を吐いた瞬間、全身の緊張が解れて、夥しいほどの疲労に襲われるから焦る。おまけに眠気までやって来た。瞼が重くなる。

 急にうとうとし始めたあたしの横にアンディも座った。背中の妹を、宝物のようにそっと床に寝かせる。

 「ユッコ」そう声をかけられて目を開けた。いつの間にか瞼が落ちていたらしい。道理で暗いはずだ。

 「…なに?」と、喉の奥から声を絞り出す。

 「来てくれて本当に助かったよ。ありがとう」

 その言葉に眠気が吹っ飛んだ。アンディにお礼を言われるなんていつ以来だろう。だいたいいつも、あたしの方がお礼を言うことが多いから、何だか得した気分になった。

 「いや、いいよいいよ。あたしとアンディの仲じゃん。まぁなに?普段助けてもらってるし?たまには、ね。ホント、たまにだけだから、もっと有り難がってくれてもいいんだよ。珍しいんだから」気恥ずかしさからか、早口になる。

 「ここからマスターを連れて帰るというのは、かなり手間だと思ってね。マスターを知っているユッコがいてくれると、その点は解決出来るから良かったよ」アンディは言いながらあたしの方に微笑んだ。「ユッコのおかげだな」

 「そうなんだ。自分で言うのもアレだけど、いい仕事したもんね、あたし」アンディの方をまともに見れない。顔が熱い。「アンディの役に立てたなら良かったよ。それでアンディが一人で帰って…」

 帰って……ん?こいつ今何て言った?


 「君達の生活に押し入ってしまって悪かった。だが全て済んだ。得るものも得たし、仕掛けも出来た。これでもう、君達に干渉することもないだろう」

 「ちょっと、さっきから何言ってるわけ?絵里愛ちゃん置いてくって言ったわけ?」信じられない!記憶喪失でも許さないよ、そんなこと!そうなじろうと口を開きかけた。けれどその前にアンディが言葉を繋いだ。

 「君達二人の関係に、部外者の私が横槍を入れてしまって申し訳ないと思っている。だが君はきっとなかなかに、良きお嫁さんに成れると思う」

 良きお嫁さん─。その単語だけで、何と言おうとしていたのか忘れてしまった。あたしの中でアンディの言葉がぷかぷかと浮いていた。

 「ではなユッコ。…こういう形でなければ、友達にもなれたかもしれないね」


 アンディの体が急に弛んだ。操り人形の、糸が突然切れたようになって、あたしの方にもたれ掛かってきた。

 急なことで上手く反応できず、体が硬直した。何…?何が起きているの?問い質したいけれど、その相手はあたしの肩に頭を乗せて寝息を立てていた。その顔は穏やかなものに見える。

 動悸が激しい。鼓動で脈打つ波の音がうるさい。体が火照るのを感じる。アンディの体に、手で触れる勇気が出なくて、そのまま動けない。

 アンディの呼吸が伝わってくる。それに自分の呼吸も合わせてしまう。するとアンディの眠気まで伝染ったようで、再び瞼が重くなった。覚醒したまま眠りにつくような、不思議な感覚に浸る。うつらうつらと した時間が過ぎる。


 そのあと結局、様子を見に戻ってきた桃地さんに、わっ青春だ、と間の抜けたコメントをされるまで、あたしはアンディに肩を貸す羽目になった。

第九話「ラグナロク」は5月25日に投稿予定です

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