オッケー・グーグル
異世界で目が覚めた。
わんわんと、けたたましい音が耳障りだ。
天井がある。恐らく屋内だと推測できる。天井の、焦点より少し左上に円盤状の半透明な物体がくっついている。正体は不明。
手を動かしてみる。肌触りの良い布を滑った。視界に男の手が現れる。少し痩せ気味、細く長い指は中々に綺麗な部類に入る。体を起き上がらせようと腹に力を込める。難なく起き上がれた。筋力は最低限備わっているようだ。改めて両手を視界に入れた。表裏とひっくり返して観察する。傷もなく、ごつごつともしていない。爪は適度な長さに切り揃えられており、清潔感があった。そこから職業は絞れない。
音が鳴り続けている。流石に鬱陶しい。音の発生源を探すと、羅針盤のような物を発見した。目玉のようにこちらを見ている。これは時計か?時計が何故鳴るのか。理解に苦しむ。理解に苦しむが五月蝿いのは問題である。
『タキトゥス』呪文を唱えると、聞き慣れない男の声が喉から出た。
しかし時計は静まらない。
『タキトゥス!タキトゥース!』何度か時計に向かって指を振った。しかし何も変わらなかった。
何故だ!あまりの騒々しさに苛立ちを覚え、衝動的に時計を掴むと壁に投げつけた。時計は酷い音をしこたま響かせた後、ようやっと沈黙した。
「ちょっと、何!何の音!?」部屋の外から女の警戒した声が聞こえた。言葉が分かる。しかし今はどうでもいい。苦労の果てに手に入れた静謐に心が安らいだ。
成功だ。異世界への転生を成功させたのだ。ここが目的の世界かどうかはまだ不明だが、現地の住人と体を入れ替えたのだ。言語を理解できるがその証拠。この体に備わった語学スキルが発動しているのだ。
「ふふふ、ふはははははっ!」歓喜のあまり、笑いがこみ上げてきた。
「ちょっと怜!?起きてるの?さっきから何騒いでるの?」先程の女の声が部屋の外から聞こえ、はたと高笑いが止まった。
今…レイと言ったか?何故、何故レイだと…?
今まで腹の中にあった喜びはすっかり鳴りを潜め、今度は不安が充満した。成功したのではないのか。部屋の中もじっくり観察したかったのだが、悠長なことは言っていられない。
ベッドから飛び出る気持ちでもぞもぞと這い出ると、この部屋に唯一の扉に向かった。扉はちょうど良く洗練されていた。派手さはなく、シンプルなデザインながら貧相ではない。上流階級の屋敷の、使用人室の脇にある物置き部屋の扉にぴったりだ。その物置き扉のノブを回し、押した。が、動かなかったので引いてみた。明るい部屋に出る。
清潔感と生活感のある部屋だった。さほど広いわけではないものの、今見えている部屋の約半分を占める空間が右手側に広がっている。その床は板張りで丸く柔らかい絨毯が敷かれていた。右手の壁には大きな窓があり、光を十二分に取り込んでいた。その窓の手前に、胸から上だけの人がいた。黒縁の枠の中で、深刻そうな顔で何か堅苦しい言い回しをしている。確かに胸から上しかないことはとても深刻なことだ。
「おはよう。さっきの音なんだったの?」反対側から女の声がして、視線を回す。大きめのテーブルが見えた。ダイニングか。そこに男が一人席につき食事をしていた。その向こう、キッチンには女がいてこちらを振り返っていた。なるほど、先程からの声はこの女か。
「どうしたのよ、ぼうっとして」女が近付いて来た。この女、私のファミリーネームを口にしていたな。顔を観察する。平たく黄色い丸顔。鼻は低く堀もない。目は小さく瞳は黒い。それに合わせたように、肩までの髪も黒かった。背は低く、この視点よりも下だ。見覚えはない。人種もよく分からない。ゴブリンか?いや、外見的特徴は合わない。
正体は分からないが、とりあえず私のことをファミリーネームで呼ぶのだ。ここの家主、そしてこの身はここに居候している者、と推測できる。
「おはようございます、お母さん。良い朝ですね」すると女はきょとんとした。
しまった!何処か間違えてしまったのか。何処だ?お母さんの所か?おばさんと言った方が正解だったか?
「なぁに?改まって。何か企んでるの?さっさとご飯食べてしまいなさい」女はけたけたと笑いながらキッチンに戻っていった。
間違いはなかったようだ。全く紛らわしい!
「顔を洗ってきます」そう言うとテーブルの男が怪訝そうにこちらを見た。女に比べると浅黒く、彫りが少しある面長。その切れ長の目が左に動く。なるほど、流しはそちらにあるのか。何食わぬ顔でダイニングの横を通る。すると廊下に出た。左側の壁に入り口があり、光が漏れている。あそこか?光に誘引される虫のように入り口に入る。
狭い部屋だった。人が二人もいたら苦しくなるほど狭かった。右手には鏡とその前に大きなボウルのような物が備えられていて、その手前の扉には摺りガラスのような物がはめ込まれていた。そして光は天井に灯っていた。ランプよりも強い光を放つそれは球体をしている。一体どういう構造か。中に火を灯しているなら明るすぎる。魔法か?これまた不明だが、とにかく鏡に近付いた。
鏡に男の顔が映り込んだ。知らない顔だ。本来の私のものではない。大家の女同様に平たく黄色い顔。だが面長で切れ長の目をしている。首を動かしあらゆる角度から観察した。冴えない顔だ。子供に見える。エルフには見えないから歳は14、5くらいか?いや、ひょっとすると10にもなっていないかもしれない。
果たしてこの顔で先程の女は一体どうして私が私だと分かったのか。顔を動かす度、はねた寝癖がひょこひょこした。そのひょこひょこに釣られるようにして一つの仮設が浮かんだ。ひょっとすると、偶然にも同じファミリーネームの人間と体を入れ換えたのかもしらん。それならば得心がいく。
「なにやってんの?」急に隣から声がして体がびくついた。その方を見るとさっきとは別の女がこちらを見ていた。半分寝ている切れ長の眠たげな目、薄い唇に低い鼻、長めの髪は鏡に映る男同様、縦横無尽に跳びはねていた。歳はだいぶ若い。それこそこの男と大して変わらない。他人の家に居候する若い男女。そこまで考えて正体に察しがついた。
「やぁ、おはよう。いい朝だね、我が愛しき妻よ」
恐らくこの男の妻だ。間違いない。まだ若過ぎるようにも感じるが、ここは異世界。私の常識など通用しない。柔軟な発想と鋭敏な思考を持ってして事に当たらねば、真実になど辿り着けはしないのだ。
妻と呼ばれた女の眉間に深い皺が走った。そして私は本能的に察した。あ、これは殺気だな。寝起きであるを感じさせないほど、女が流れるように体を動かし構えた。これは日常的に格闘技を行っている者の動きだ。この構えは何だ?レイクダイモンで奨励されている拳闘術にも似ている。恐らく拳を飛ばしてくる気であろう。なるほどそれがこの世界での夫婦の朝の挨拶か。しかし今日の私は私ではなくこの私。相手が悪かったな。
女が動いた。一歩踏み出すと同時に体の後ろまで引いていた右拳を凄まじい速度で放ってきた。しかしそこに魔力は感じられない。
『アルマ・トゥテーラ!』私はプロテクション魔法の呪文を口にした。女の拳が左頬に触れる。しかし我が魔法の前ではその程度のただの物理攻撃、むしろそちらの拳を痛め─。
拳が頬に食い込んだ。何が起きたのか理解する前に衝撃で頭が揺れ、視界が回った。狭い部屋の中で何回転もした後、何処かに頭をしたたかに打ち付けた。どすん、と派手な音が鳴る。気付くと床の上で絡まったロープのように倒れていた。
意識がぐわんぐわんとなり、遅れて頬に鈍い痛みが来た。な…何故だ、今確かにプロテクション魔法を…。
「しね」女はこちらを見下ろしながら、追い討ちをかけるように死の呪文を口にした。こ、殺される!
「ちょっと!今度は何!?凄い音がしたけど!?」朝から騒々しいわね、と大家の女の声が揺れる頭にきんきんと響く。これは新手の拷問か。声はどんどんと近付いて来た。そして私を回転させた女の後ろから大家が顔を出し、息を呑んだ。
「怜!?こら絵里愛!!怜になにしてんの!?」
エリア?エリアだと!?私は驚愕のあまり目をひん剥いて若い女を見上げた。まさかこいつ、領主か!?私はすとんと腑に落ちた。領主が相手では仕方がない。恐らく、領主権限によりこのエリア一帯の魔力使用を禁じているのだ。それで私の沈黙魔法もプロテクション魔法も発動しなかったのだろう。ああ、こんな場所に出て来てしまうとは、何という不運か!しかしその権限の魔力源はどうしているのか…。
「こいつが朝っぱらからわけ分かんないこと言ってきたから、殴っただけ」
「ば─!怜は素人でしょ!あんた殴っちゃ駄目でしょ!」
何だこの大家。領主に向かって説教を…。そこで私はとんでもない勘違いをしていることに気付いた。そうか!大家ではない!乳母だったのだ!この領主はまだ若い。一人前になるまで世話をする人間が必要だ。それがこの大家と思っていた女だったのだ!すると私は?先程この乳母に“お母さん”と言うと、すんなり受け入れられたな…。しまった!転生早々大失態だ!この私はこの乳母の本当の息子!つまり領主からすれば一介の使用人の子ども!そんな者に我が妻呼ばわりされては腹も立つと言うもの!ああ、やってしまった!早く平伏し謝らねば─!
「…こ、この度は大変失礼な発言をしてしまいました。何卒、お許しを」私はロープのように飛び散らかった手足を何とかまとめ、その場に膝を付き平伏した。
「怜…何してるの?」
「…は?きしょ」
きしょ?きしょとは何だ?許してもらえたということか?
「絵里愛!なんてこと言うの!?」
「てか、流し使うから退いてくんない?邪魔」
「絵里愛!聞いてるの!」
何だかよく分からないが、下がってよいとのことだな。私はすたこらさっさとその部屋を後にした。
左頬がじんじんと痛む。しかしあの暴言にしてこの程度の体罰で済んだのだとしたら、かなり良心的な領主と考えられる。
私は痛む頬を擦りながらもと来た部屋、物置き扉の部屋に戻った。なるほどこの扉、この部屋のことももっとしっかりと考えておけば、このようなことにはならなかったのだ。過ぎてしまったことは仕方がないが、状況が把握できたことは良かった。これはかなり幸先良いのではないか?
「大丈夫?」
部屋で一人頬を擦っていると乳母で母の女が心配そうに声をかけてきた。
「ああ、大丈夫だよ。ありがとう、母さん」
「そう。ご飯出来てるから食べちゃいなさい」それだけ言うと部屋から出ていった。
これで間違いない。あの女はこの私の母なのだ。であればあの男は、父か?いや早計だ。慎重に正体を見極めねば同じ轍を踏むことになる。私は覚悟を持って再度部屋を出た。
ダイニングでは例の男が巨大な紙を広げていた。何だあれは。灰色で所々黒ずんでいる。男をじっと観察していると目があった。
「顔を洗いに行ったんじゃなかったのか」
「…ああ。そうでした。ありがとうございます」
「…なんで敬語なんだ?」訝しげに男がその細い目をさらに細めた。
「ああいや、…殴られた衝撃で少し混乱していて…」敬語を使う仲ではない。ということはやはり父親か。そうなると、この男も召使の一人…なるほど見えてきた。信頼に足る召使夫婦とその息子と暮らしているのか。ふむふむ、漸く自らの立場を理解できた。
私は気分が良くなり、意気揚々と流しへ戻る。すると領主が顔を洗っていた。水が出ている。あれは蛇口か。知っている物と随分形が違うため気付かなかった。あの水はどこから…。原理は不明だがともかく使い方を学ぼうと領主を観察した。すると私の視線に気付いたのか、濡れた顔をタオルで拭いながら領主がこちらを見た。いや、睨みつけた。
「…何?キモいんだけど」
きもいとは何か。分からないが不機嫌そうだ。やはり後にしよう。
「失礼致しました」きびきびとお辞儀をし、立ち去る。
ダイニングに戻るとテーブルの上にパンとサラダ、コーヒーが置かれていた。野菜が皿の上できらきらと輝いていてみずみずしい。採れたてか。近くに畑があるのかもしれない。
「ご飯、置いておいたから」母親が声をかけてきた。
「ありがとう」そう言って席につき朝食を頬張る。
うん、美味い。コーヒーは少し味気ないが充足を感じた。恍惚な表情で朝食を嗜んでいると、視界の先で黒縁の中に変化を見た。先程までの、胸から上しかない男が消え、風景になったのだ。そこで思い至った。あれは魔道具か。遥か遠い場所の様子を映し出す、遠隔魔鏡だな。このような高価なものを部屋に無造作に置き、映像を垂れ流しにするとは、やはり領主の家は違うな。
そのように領主家の経済的奔放さに感心していると、流しの方から領主が現れた。眠気は消え、寝癖はなくなり、服装はまだ寝間着のものの、どことなく威厳さえ漂わせていた。視線を感じたのか、領主の首がこちらに動いた。慌てて目が合わないように逸らす。そしてあなたには全く関心はないのですよ、と装いつつ朝食を流し込み、顔を洗いに席を立った。
蛇口の使い方はこうだったな。レバーを上に動かした。すると勢いよく水が出て慌てた。レバーを操作して水量を調整する。異世界ではここまで勝手が違うのだな、などと感慨に耽りながら顔を洗う。近くにあった適当なタオルで顔を拭いた。その後跳ね回る寝癖を水のついた手で撫で付け、そのまま癖で化粧用品を探してしまう。自宅でないことを思い出し化粧は諦めた。
さっぱりした顔でダイニングに入ると、「あんたも早く着替えなさい。遅刻するわよ」と母親が忙しなく忠告してきた。
遅刻。どこかに行く予定があるのか。
「どこか行くんだっけ?」失念してしまった体を装い、さり気なく訊ねた。
「何言ってんの。学校でしょ。早くなさい」
使用人室に戻る。はて、学校。この身は召使ではなかったか。それとも子どものうちは召使でも教育の場に行くことを義務付けられているのか。ともすればここは中々に成熟した文明なのだ。そうかふむふむと、独り頷きながら着替えを探した。机の上に畳まれた衣服が置いてあった。予め用意していたらしい。この体の主は何事も事前に成しておく性格のようだ。
畳んで重ねられた衣服を一枚一枚手に取って確認する。シャツ、パンツ共にイクドレイシアとさして違いはない。遠隔魔鏡に映っていた男もジャケットにシャツだった。悉く違うのかと思ったが同じところもあるようだ。しかし一枚だけ分からない物があった。この白くて薄い物は何だ。ジャケットの代わりか?考察している時間はあまりない。このままだと遅刻するそうだ。えいままよ、と思い付くままに服を着重ねた。
部屋を出る。すると丸絨毯の上で領主が腕を組み、遠隔魔鏡と対峙していた。服は既に着替えていた。この男と同様に白いシャツと、下はパンツスタイルではなく、ふわりとしたスカート。しかし、そのスカートの柔軟さを踏み殺すような立ち姿だった。もはや一分の隙もない。感嘆する他なく領主の仁王立ちに見惚れていると、キッチンの方から笑い声がした。
「ちょっとあんた、何て格好してんの」母親が腹を抱えていた。息苦しそうだ。「何で肌着をシャツの上に着てるのよ」
肌着。肌につけるということか。となるとシャツの上でなく下だったのか。
そう見解を改めていると反対側からも笑いが上がった。見ると領主がその腹を捩れさせていた。「バカなの!?朝からふざけんなよ!」しかしそこには不快さは感じられない。
「これは…失礼しました」そして自室に引き下がった。不可抗力とはいえ領主の機嫌を治せたのは良かった。このくらいで良いのであれば、これはもしかするとかの領主に取り入るのは殊の外簡単なのかもしれん。私は服の上下を正しながら独りほくそ笑んだ。
さあこれならどうだ、と勢い込んで部屋を飛び出ると、領主の声がした。
「へい、シリ。今日の天気は」
こちらにはもう塵ほどの興味も無いようで、何やら掌サイズの板に声をかけていた。何事かと様子を見ていると何処からともなく返事があった。
「今日の天気予報です」
「晴れか。傘要らないな」
あ…ああ…あれは!もしや、本来術者の魂に由来する使い魔を、家具の中に擬似的に再現した、アガシオン・インテリアではないか!!AIは魔法が使える者と使えない者との間に立つコミュニケーション・ツール。それをなぜ領主が持っているのか。まさか魔法が使えない?いや、そんな馬鹿な!…あるいは領主権限の弊害か?しかし使い魔の使用すら制限できるほど強力なものとは…。そこではたと思い出した。この体で起きたとき、あの騒々しい時計の隣に似たような板が置いてあった。あれはこの体の持ち主のためのAIか。一家に一台あればよいものを、よもや一人一台持っているのか。驚愕しながらも自室に戻る。
あと幾度この部屋への往復を繰り返せばよいのか。そんな自虐的な思想に囚われつつも板に手を伸ばした。板の黒い表面に自分の顔が反射する。これは手鏡か。鏡に使い魔を再現することはよくある。それを個人用に考えるならば、手鏡というのは存外理に適っているといえよう。その手鏡には紐のようなものが刺さっていた。そしてそれはそのまま壁まで伸び繋がっている。これは…何だ?壁と繋がっている必要があるのか。魔術的なものか。良く観察しようと手鏡をあっちへこっちへ振り回していると、手鏡から紐が抜けた。
ぬ、抜いてしまった…!修復しようと慌てたが、その前に板が光った。黒い表面から私のこの顔が消え、丸や四角などの様々な幾何学模様が並んでいる。…何だ、おかしくなったのか?ともあれと、先程領主が口にしていた呪文を唱えてみた。
『ヘイ・シリ』
…何も起こらない。
発音の問題かと思い、やり直す。
『ヘイ・シゥルゥィイ!』
「バカにしてんの?」突然背後から声がして飛び上がるほど驚いた。不機嫌丸出しの領主様がこちらを睨み付けていた。
「い、いやそんな…!滅相もございませんっ!」慌ててその場に平伏する。
「あんたのAndroidなんだから、シリ入ってるわけないでしょ」バカにしてたんだろ、と領主が見下ろしてくる。今にも蹴りが炸裂するのではないかと、心底びくびくした。
そんなとき部屋の向こうで、弾むような軽快な音の後に続いて声がした。
「オッケーグーグル」
すると手に持った手鏡から音がした。慌てて手鏡を確認した。すると先程までの幾何学模様達は姿を消し、一面の白の上に“はい、どんなご用でしょう?”という文字と、青、赤、黄、緑の粒が並んでいた。
「こ、これは─」一体誰が…!
領主に一言詫びながら急いで部屋を出ると、遠隔魔鏡の中に似たような印象の模様が並んでいた。そして“てれびをつけて”等と言っている。
まさか、遠隔魔鏡越しにも使い魔を呼び出すことが出来るのか!?理解がついていかず、私はその場に凍りついてしまった。
「…何?ほんとキモいんだけど」領主が私の傍を通り過ぎながら、またよく分からない言葉を発した。そしてそのまま、いってきます、と出ていった。
「あんた、何してんの?早く行きなさい」母親のその声ではっと我に返る。振り返ると目が合った。
「学校でしょ。…大丈夫?熱でもあるの?」
「…だ、大丈夫です!あ…ああ、大丈夫だとも!全く問題ないさ、母さん!」
「ほんと?…何か変じゃない?」く、母親というものはやはり中々に鋭い。
「変じゃないさ!はは!学校だろ?勿論行くさ、今からね!」言いながら自室に飛び込む。
遠隔魔鏡とAIとの相互作用に関して思考を展開してしまい、心ここにあらずとなっていた。反省せねば。しかし…学校?場所も知らんぞ!
どうしたものかと悩む視界に手鏡が入る。覗き込むと“これは”の下に、“お調べしました”と続き、文字の羅列と絵が並んでいた。文字の羅列には“これは”が複数見られた。
そうだ!AIを使えば良いのだ。私は呪文を口にした。
『オッケイ・グーグル』
「はい、どんなご用でしょう?」
案の定の返事が出る。ふふふ、ふはは!異世界のAI、懐柔せし!私はふんぞり返り高々と指示を出した。
「よし!ならば、私を学校まで案内せよ!」
「はーい、じゃあ出席取るぞー」山中が気だるそうに教壇に立った。
昨日に続き、今日も良く晴れている。おかげで少し暑さがぶり返してきている。ユッコは窓の外の天気を確認した後、斜め前の席を見やった。アンディの席は空いていた。
「なんだ、今日は安藤休みか」
山中は今更気付いたの。出席簿と照らし合わせないと分からないとか、生徒の位置もろくに覚えていないらしい。
仕方ない、と山中は漏らしながら、アンディを飛ばして名前を呼び出した。
アンディどうしたんだろ。いつも同じ時間に登校している為、朝練もサボりがちなユッコは朝よく見かけるのだけど、今朝に限っては見当たらなかった。寝坊か?アンディが?あり得ない。なら風邪か?少し気になってLINEを送ってみたが何の返答もなく、結局分からずじまいだった。
「結城ー」
「はーい」ユッコは名前を呼ばれたので、返事をした。
「安藤から何か聞いてないのか」山中はそのまま訊ねてきた。出席確認の合間に話しかけるのは有りなのか。
「知りませーん。何も聞いてませーん」何であたしが知っていると思ったのか。山中、何を考えている?
「んーそか…まぁいいか」何がいいのか分からないが、山中はそのまま点呼に戻った。
アンディ以外の安否を無事確認すると、山中は転校生がいまーすと、重要なことをさらりと言った。教室がざわついた。
「えー、こんな中途半端な時期だが、家庭の都合でこっちに引っ越してきたそうだ。じゃあ、どうぞー」山中の中途半端な紹介の後、教室の前方の扉が開いて少女が入ってきた。途端にざわつきが大きくなる。でもそれも仕方ない。
日本女子にはあるまじき白い肌、華奢で線の細い体、肩までの髪は目を惹く程の赤毛、そして日本人離れした高い鼻。しかし、そこまで派手な見た目とは裏腹に、恥ずかしげに俯きつつ歩を進めるその姿は、どこか儚げで現実味にかけていた。
そんな御伽の国からやって来ましたとでも言いそうな女の子は教壇の横で止まり、俯いたままこちらを向いた。垂れた赤い前髪の奥で、青い伏し目がきょろきょろと教室内を確認している。
「…はい、じゃあ自己紹介を、どうぞ」タイミングが取れなかったのか、山中がぎこちない少女にぎこちなく声をかけた。
「え…えと、あの…あ、アルヘイ・フレイヤ…と言います。よろしく…お願いします」
尻すぼみで、最後の方は聞き取れなかったけど、紛れもなく流暢な日本語だった。え、て言うか、あるへい?あるへいふれいや?何て衝撃的な名前なわけ!何人?日本人?違うよね。漢字も思い付かないよ!そう思っていると山中が徐に、黒板に彼女の名前を、何も見ずに書き出した。山中は有平フレイヤと縦書きした。
漢字だったんだ!衝撃の二重奏で口をあんぐりと開けてしまう。“ありひら”と書いて“あるへい”だなんて、そんなどっかのお菓子にでもありそうな名前だなんて!いや、あるいはあたしが知らないだけで、案外一般的な読み方かもしれない。だとしたらこのあんぐり口、アングリーマウスとでもいうべきこの口は、結構恥ずかしいんじゃないか。そう思い恐る恐る周囲を確認してみると、見渡す限りアングリーマウスだった。あたしは心底安堵した。
「…えーっと、アル、アルヘイさんはどことのハーフだっけ。ロシアだったかな」山中は慣れない有平の発音に四苦八苦としている。
「あの…フィン、ランド、の方です」有平さんはフィンランドまで恥ずかしげだ。
「…まぁ、とりあえず、皆仲良くするようにー」山中は早々に有平さんとの意思疏通を止めた。多分その奇抜な名前と見た目、それに対する余りにも消極的な態度のギャップに為す術をなくしたんだ。あたしはそう直感した。
じゃあアルヘイさんはあそこの席に、と山中が雑に女子を席へ案内していると、廊下の奥から誰かの高笑いが反響してきた。その高笑いはどんどんと近付いてきた。
アングリーマウスで静まり返っていた教室にざわつきが戻り始める。高笑いは、あろうことかこの教室の後方の扉の前で立ち止まると、その扉が勢いよく開け放たれた。
廊下の高笑いが教室内を蹂躙した。教室中の視線がその発信源に集中する。そこではアンディが機嫌良く高笑っていた。
早くも第二次アングリーマウス現象が教室を席巻した。けれど当の本人は全く気にする素振りもなく、私にかかればこの程度!とボリュームさえ一切下げずに宣ってみせた。
「この教室に至るまでの道筋、それはとても簡単なことであった!そう!それはこの手帳とこの紙を見つけたためである!」そう言いながらアンディが掲げたそれは、学生証と今日の数学のプリントだった。
「最初、AIに我が学校について尋ねたとき、有用な返答は得られなかった。…しかし!鞄の中から発見したこの手帳、及びこの紙により、学校名、及び所属するクラス名、2年B組というものを把握した!ここまで来れば後は造作もない。AIに学校名を告げそこまでの道を提示させる!建物にさえ到着すれば、周囲を確認することで全ての入り口を把握できる!そこから一番汚れている、使用頻度の高い入り口を選択し侵入!クラス名に“2”と入っていることから、目的地が2階フロアと判断できる!ふふふ、ははは!他愛もない!我が手にかかればこの程度の謎!他愛もないことなのだよ!はぁっはっはっはっはっ!」
「おい五月蝿いぞ安藤、遅刻の言い訳のつもりか?」
演説でもするかのように学生証とプリントを振り回していたアンディに、山中がすげなく言った。すると高笑いはぴたりと止み、アンディは驚いた様子で山中を見返した。
「…き、貴様…何故我が名前を知っている」
山中は呆然としている。それから私の方に向き直り、「結城、こいつどうしたんだ」と聞いてきた。
「知りませーん。何も聞いてませーん」だから何で、あたしが知ってると思うんだ。でも仕方ないので振り返りアンディに声をかけた。
「アンディ、訳分かんないこと言ってないで、早く謝って座ったら?」
すると半ば恐怖の表情でアンディがこちらを見た。…え、何?怖いんだけど。気味が悪かったものの、幼馴染みのよしみで再度声をかけた。
「謝罪。それから着席」
「…はい」意外と素直だな。
この度はお騒がせして誠に申し訳ございません。アンディはそう頭を下げながら、目の前の空いている席に着こうとした。
「何やってるの。そこ、アルヘイさんの席。アンディのはあっちでしょ」再三声をかけ、漸くアンディは自分の席へ向かった。その動きを眺め、ふと転校生の方を見やると、彼女はアンディを凝視していた。その口がアンディ、と動いたように見えた。
「朝のあれは何だったの」女が話しかけてきた。今朝、教室に入ったとき私に指図してきた女だ。その女はそのまま、私の席の前に座った。
周囲にもクラスメイトと思われる人間がちらほらとおり、部屋の後ろの方では「アルヘイさんて前どこにいたの、ホッカイドウ?」とか、「フィンランドってどこだっけ、サンタさんのとこだっけ」やら、「アルヘイさん、モモちゃんと知り合いだったの?」等と騒がしかった。
目の前の女は手にパンを携えていた。今は昼食時か。そういえば腹が減った。女は私の目の前で、パンを齧った。美味しそうに頬張っている。薄く黄色みがかったパンはチーズだろうか、とても芳ばしい薫りを立ち上らせ、私の鼻先をくすぐった。女の歯が食い込む度にふんわりと黄色が潰れる。食べたこともないのにチーズが口の中に広がるように感じた。どんな味なのだろう。セーフリームニルのベーコンなど合わせればさぞ─。
─は!いかんいかん!空腹のせいでパンの事ばかり観察してしまった。この女、そういう魂胆か!おのれ負けぬぞと、女をきっと睨み付ける。
「…へ?な、何よ」女はもぐもぐと困惑を示した。
「何故、私の名前を知っている」
女の一挙手一投足も見逃さぬように観察した。黄色く平たい卵のような顔。鼻は低く少し上を向いている。その下で小さな口がパンで膨らんでいた。黒髪を結って短くし、活発な印象を与えてくる。それらの真ん中で黒い大きな目がぱちくりと動いた。
「……何言ってんの?」
「さっき私の名を口にしたろう。しかし私はお前に見覚えがない。どういうことだ」
「お前って…。頭大丈夫?見覚えないって相当ヤバいと思うけど」女は訝しそうにパンを頬張っている。
「な─!…それは、どういう」
「おう、カップル。今日もお熱いねー」
突然背後から声が飛んできた。さっと振り返ると男が立っていた。浅黒い長方形の顔の上に、刈り上げられた極端に短い髪。鋭い目に小さく整えられた眉、彫りは深くないものの鼻筋はしっかりしていた。どちらかというと色男の部類に入ると思われるが、何か茶色く四角いものをちゅうちゅうと滑稽な音を立てながら吸っており、幼さが際立って見えた。
「ヤス、アンディがおかしいんだけど」
「アンディがおかしいのはいつものことじゃないか」
「カップル…カップルと言ったな!…そうか、つまりお前は我がフィアンセか」
途端、その場が凍りついた。…この空気は何だ?変なことでも言ったか?しかし見覚えがないとおかしいというこの女の言葉、更にカップルという単語。これらが意味するのは“マイ・フィアンセ”ではないのか。
私が黙して前後整理に精を出していると、顔に何かがぶつかった。慌てて膝の上に落ちたそれを確認すると、齧られたチーズパンだった。
「─ばか」
急に前から声がして、そちらに目をやると女が立ち去るところだった。
「おい、ユッコ!」ヤスと呼ばれた男が女を呼んだが、振り返ることもなく部屋から出ていった。
私は膝の上のパンに視線を戻した。それに手を伸ばす。
「…あーまぁ、何だ?…ドンマイ」ヤスの手が私の肩に乗った。
私は手にしたチーズパンの香りを確認し、頬張った。濃厚なチーズが、先程想像した濃さ以上の存在感で口の中に広がった。甘美で満たされる。溜め息をつくと鼻から芳醇な薫りが抜けた。何と美味しいのだろう。やはりセーフリームニルのベーコンがとても良く合うのではないだろうか。私の予測は正しかった。
しかし、投げて寄越してくれて良かった。ちょうど腹が減っていたところだったのだ。
私がもぐもぐとチーズパンを堪能していると、ヤスが「…お前、すげぇな」と呟いた。
─ばか。ばか。ばか。ばか。ばか!
頭の中はそれでいっぱいだった。歩いていたはずなのに、いつの間にか駆け足になっている。
アンディのばか!
頭の中で散々罵倒した後、ふと気が付くと中庭まで来ていた。無意識に階段を下りてきたようだ。その中庭で人の声がした。押し殺した笑い声。ふわふわした気持ちのままに視線を泳がせると、女子が3人でいるのを見つけた。その顔を見て、げ、と思った。あたしの視線に気付いたのか向こうもこちらを見た。そして柔らかい笑みを浮かべた。
「あら、結城さん。ちょうどお話ししたいことがあったのだけれど、少しいいかしら」そう葛原さんが言った。
「あなた、安藤くんと仲良かったわよね」葛原さんが優しく問いかけてきた。けれど花山さんと近藤さんが左右に控えており、残念ながらその優しさを打ち消している。
「それがどうかしたの。あ、あれ?アンディに告白したいとか?やめてよ、手紙とか渡されても困るんだけど」軽口を叩きながら、陰湿だなぁ、と内心毒づいた。
話があると連れてこられたのは体育館裏だった。定番か!そう指摘してあげたいのは山々なのだけど、多勢に無勢なので自重した。
体育館の裏手は手入れもろくにしていないようで、雑草達が我が世の春を謳歌していた。もう秋だけど。そんなところに上履きのままで踏み込むことは出来ず、体育館と排水溝の間のコンクリートを勝手に室内と認定して踏みしめていた。葛原さん達3人もあたしのコンクリートの延長線上に陣取って、あたしが教室に戻れないように白い道を塞いでいた。
「面白いことを仰るのね。でも違うわ。安藤くんに恋心なんて抱いてないから安心して」軽い気持ちで叩いたものが思わぬ威力を伴って返ってきた。予想外のことに驚いて返す言葉も見つけられないでいると、葛原さんは愉快げに口角を上げた。こんにゃろう、こっちは不愉快だ。
「結城さん、今日日直だったよね。午前中の数学のノート集めて先生の所に持っていくでしょ?その時に安藤くんのノートをこれと取り替えておいて欲しいのだけど」そう葛原さんが言うと、花山さんがは真新しいノートを差し出してきた。ノートには数字の文字と“安藤怜”という名前が入っている。
「この提出ってただの下駄でしょ?成績不振の時の転ばぬ先の杖。安藤くんは優秀で転ぶこともないだろうから、これくらい何ともないと思うのだけど」
「そうよねー。安藤くん優秀だもん。赤点なんて採るわけないしー」近藤さんが合いの手を入れてくる。
「ねぇ、どうかしら。これは昨日のお礼なのだけど、それほど痛くもないでしょ?それとも、あなたの─」
「オッケーグーグル!この会話を録音して!」
あたしは葛原さんの話の途中に割り込んだ。これ以上喋らせたら良くない気がした。
あたしの言葉を聞いて、葛原さん達はさっと顔を強張らせた。あたしは言葉を続けた。
「ごめん葛原さん、あたし記憶力悪くて。だから最初からもう一度話してくれないかな。えっと、アンディのノートが何だっけ」
「あ、あんたねぇっ!」花山さんがすぐさま癇癪を起こした。折角用意した真新しいノートを振り回している。それを葛原さんは黙って制した。目はこちらを睨み付けている。
効果覿面とはこの事だ!どんなもんだ!あたしは得意になってふんぞり返った。まぁこの対処法を考えたのはあたしではなく、アンディなのだけど。
あたしは昔から友達が少ない。この性格が原因なのだと思う。協調性がなく、思ったことがすぐ口を突く。自分と関係ないと興味もないが、関係するとなると間違ったことは正したい。だから長いものに巻かれる事勿れ主義との相性がとても悪い。しかし事勿れ主義者というのは意外と多く、詰まるところ敵が多い。けれど敵の数で怯むあたしでもなく、最近は自重も少しは出来るようになったものの、反発精神は止まらない。だから案の定というべきか、いじめの対象にしばしばなった。
そんなあたしを守ってくれたのが幼馴染みのアンディだ。アンディは口で負けることは先ずなく、あたしを気に食わない人達を悉く論破してくれた。だけど日なが一日アンディと一緒に居るわけにもいかず、中学、高校と進学するほどにアンディの防衛力は下がっていった。そんな折、アンディが提案したのが“録音牽制作戦”だ。
「最近はAIも結構一般的になってきてるだろ?AIスピーカーとか云うものも一般家庭に置かれるほど身近になって、今やスマホにAIが入っているのも当たり前だ」
「そうだよねー。便利な世の中になったもんだ」
「その便利さを逆手に取るんだ」
「どういうこと?」
「例えば1対多数とか、不利な状況で圧力をかけられるとするだろ」
「あー、よくあるね、そういうの。身に覚えなら数限りない」
「そういうときにAIに録音するように頼むんだ。大声で、相手に聞こえるように」
「大声で?」
「そう。相手に聞かせることに意味がある。悟られなければ別にボイスレコーダーのアプリを入れておく必要もないし、なんならスマホを持っていなくてもいい。ただ、これを聞いた相手は下手な発言が出来なくなる」
「なるほど。本当に録音してるか分からないからか」
「強引な相手ならスマホを奪おうとしてくるだろうけど、そこまでする暇な奴もそういないだろう。そこまで暇ではない、でもちょっとからかってやろう的な奴相手ならこの一言だけで形勢逆転、あわよくば撃退できる」
アンディの想定した通り、葛原さん達は急に勢いを弱くした。葛原さんに限っては声すら出さない。録音されては困ると思ったのだろう。
「葛原さんどうしたの。話、あるじゃなかったっけ」対するあたしは勢いづいて一歩前に踏み出した。
「ユッコ、見つけたぞ!こんなところにいたのか!」葛原さん達の向こうから、ボリューム調整できていない声がした。あたしは口をつぐんだ。今しがた膨らんでいた勢いがみるみるしぼんでいく。今は会いたくなかった。来てほしくなかった。
3人の頭の向こうにアンディがいるのが見えた。生い茂る雑草をもろともせず、ずんずんこちらに向かってくる。…え、履き替えてきたの?
葛原さんは血相を変えて振り返った。
「あんた、何でここに!?」近藤さんが悲鳴に似た声を出した。
「おぉ…これは見目麗しい。お初にお目にかかります、お嬢さん」アンディがその場で深々とお辞儀した。後ろから見る葛原さんの肩がわなわな震えていた。
「…花ちゃん、近ちゃん、行こ」葛原さんはこちらに目もくれず歩き出した。そしてアンディの傍を通るときに小さく、「死ね」と言った。アンディの表情が凍り付いた。葛原さん達はそのまま去っていった。
あたしとアンディだけが残った。気まずい。目も合わせられない。アンディは外履きの運動靴だった。
あたしを探して外まで行ったのかな。その気持ちは嬉しかったものの、あたしは素直になれず、「…ありがと」と小さく言い、立ち去ろうとした。
しかし、すれ違いざま「…さっきは、その…すまなかった」
突然の謝罪に驚いて、アンディの目を見てしまった。申し訳なさそうに視線を泳がせているアンディがいた。
「実は…ちょっとした記憶喪失…みたいなんだ。朝しこたま頭をぶつけてね。それまでの記憶が曖昧なんだ」
「…え、記憶喪失?ほんとに?あたしのことも分かんないの?」
「…実はそうなんだ」
「でも、さっきあたしの名前を呼んだよね」
「それは…ヤスがそう呼んでいたから。ヤスのことも君がそう呼んでいた」
「そう…なんだ」
にわかには信じがたい。けど今朝からのアンディは変だった。それも記憶喪失だからと言えば、分からないでもない。
「…朝、頭をぶつけるってどういうイベント?」
「よく覚えていないんだが、殴られたんだ」
「あ、絵里愛ちゃんか」
「な─!マスターを知っているのか!?」
「…ん、マスター?」どういう記憶形成?
「あ…いや、何でもない。ただその人物に殴られた拍子に壁に頭を打ち付けたらしいんだ」
「そうなんだ…。ごめん、気付けなくて。…でも、じゃあ!病院に行った方が─」そう言いかけたけど、そこから先は言えなかった。
アンディに突然抱きすくめられてしまった。
心臓が跳び跳ねた。口から出るかと思った。
「本当にすまない…。フィアンセの君のことまで忘れてしまって…!」
ちょっと待って!フィアンセ?ふぃあんせって何だっけ?顔が火照るのを感じる。ああ、鼓動がうるさい。頭がうまく回らない。ちょっと待って。
意外と大きなアンディの胸の中で、あたしは金縛りにでもあったように動けなくなっていた。
息が苦しい。でもだからと空気を吸い込むと、アンディの匂いがくっついてきて余計苦しくなる。思うように酸素も吸えない。
アンディが腕の力を緩めた。これ幸いと抜け出そうと思ったが、体が言うことを聞かない。アンディの手が肩に触れ、顔が目の前にいっぱいになった。
「許してくれるだろうか」
あー、近い近い近い近い近い!もう全身が飛び跳ねているんじゃないか!?アンディの目があたしの目を交互に見てくる。鼓動がうるさい!頭がぼうっとする。
あたしの視線がアンディの口元に吸い寄せられる。ここでなのかな。あたしのファーストキスはここで…。何だかチーズの芳しい薫りがする。あたしのはじめてはチーズ味─。
「おーカップル。こんなとこでイチャイチャしてたのか」ヤスが隣で珈琲牛乳をちゅうちゅう吸っていた。
「ぃ─ぎゃあああぁああ!!!」心臓が止まるかと思った。
「ああ、ヤス。君も来ていたのか」
「何だよ。心配して損したよ。あーやだやだ、これだからリア充は」
アンディは何もなかったように会話を続けている。でもあたしは跳び回って高温になっていた心臓が一瞬にして凍結して、死にそうになっていた。しんどい。胸がとてもしんどい。
「…!大丈夫か、ユッコ!」アンディが大きな声で気にかけてきた。けどこっちはそれどころではない。どれもこれもなにもかも全て、アンディのせいだ!
「…アンディの…アンディの、ばかぁっ!!」金縛りの解けたあたしは力いっぱいアンディをどんっと押すと、そのまま走って逃げ出した。
全力疾走。理由も分からない涙が横に流れ去る。その暖かさがまた切ない気持ちにさせた。あたしは疾風のごとく校舎内に入った。
「待って!待ってくれユッコ!許してくれないのか!」背後からアンディの大声が聞こえてきてぞっとした。
振り返るとアンディが不格好なフォームで走って追いかけてきていた。え、ていうか靴!外履きじゃなかった!?
「来ないで!てか室内で何で運動靴なわけ!?」
「…ん?運動靴とは何だ?室内では履き替えるものなのか?」
記憶喪失って、そこからかよ!あたしは脚を絡ませてすっ転んだ。
「…大、丈夫か」追いついたアンディの息切れが気遣ってきた。でも、あたしは床に突っ伏したまま肩で息をするだけだった。
「安藤、何で外履きなんだ」ジョークが高尚すぎてついてけねーわ、と歩いてきたヤスが珈琲牛乳ごしに言ってきた。
「なるほど、これは外用で、室内では履き替えるのか。それは勉強になった」
何が勉強になったんだよ!もう意味不明過ぎる。朝から変な転校生は来るわ、幼馴染みは高笑うわ、記憶喪失だと言って抱き締めてくるわ、挙げ句上履き知らないわ。悪夢を見ている気分だ。
夢なら覚めて欲しい。あたしは床に横たわったまま、切に願った。