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異世界探偵  作者: かえる
13/13

そして勝利の太鼓は高々と

 「約束通り、一人できたのね。律儀、というのかしら。まぁ、大事な愛娘のためなら当たり前よね」


 嫌な風が吹く。

 日が落ち始め、辺りは薄い橙色に染まっていた。

 幾つかあるヴァルハレアの塔、それらに囲まれた形で設けられた屋上に来ていた。

 申し訳程度の植木とベンチが並び、普段は子ども達の遊び場や、貴族等の憩いの場となっている。そこに呼び出された。

 呼び出した相手は、その屋上の縁を背にして待っていた。腕の中にはまだ幼い、五十三歳になったばかりの幼児を抱えていた。背後から左腕を首に回し、右腕は体の後ろに垂らしている。

 幼児は怯えた表情を作ってはいるものの、何が起きているのか分かっていないようだった。その幼児を拘束している犯人は、見た目こそ百歳を越えているようだが、その実、腕の中の少女と対して変わらない歳である。

 西日が浮かび上がらせる、その幼い顔が不敵に笑う。

 「国王といっても、やはり我が子が可愛いのね、お父様」

 「儂を父と呼ぶことは禁じたはずだぞ、フレデリカ」

 するとフレデリカは更に口角を上げた。

 「そうね。私に父はいない。あなたは国王陛下で、私はただの侍女」

 「その通りだ。故に言葉遣いも弁えよ」

 デインのその言葉にフレデリカは肩を竦めて応えた。


 フレデリカはデインがニンゲンとの間にもうけた、フレイヤ付きの侍女だった。

 エルフは千年を生きると言われる長寿であるのに対して、子孫がほとんど生まれない種族だ。それはアルフヘイムの王であるデインも例外ではなく、よわい八百歳を越えるというのに、純血の子はフレイとフレイヤの二人だけだった。

 この儚い希望を未来へと繋げなければならない。その希望の守護者として、エルフ族では伝統的に他種族との交配種を利用していた。その中でも特に、エルフ族とは比べ物にならないほどの繁殖力を有するニンゲンとの交配種、半エルフの利用は最も一般的であった。

 その為、デインもフレイヤの出生に合わせてフレデリカをもうけたのだった。


 「フレデリカ、自分が今何をしているのか解っているのか。これは反逆罪だ。フレイヤの首を絞めて王を呼びつける等、悪ふざけでも許されん。早くフレイヤを放すのだ」デインは蓄えた白髭を揺らして唾を飛ばした。

 体を固定されているフレイヤは、物々しい父と侍女とのやりとりに、やはりおどおどとしている。

 「全く。フレイヤが拐われた等と騒ぎよるから来てみれば、こんなこととは」

 デインはこの時点ではまだ、所詮子どものやることと侮っていた。だから過ちを犯した子どもに言い聞かせるように、苦言を呈す。フレデリカは侍女ではあるが、他に替えの利く者でもない。物心がついた頃からフレイヤと一緒にいる臣下、という点が肝心だからだ。


 しかしフレデリカは、デインの予想に反する返答をする。

 「ええ。勿論解っているわ、陛下」

 フレデリカは微笑を浮かべたまま、垂らしていた右腕を持ち上げた。そこには刃物が握られている。刀身は燃えるように赤く、柄は金色の─。デインは絶句した。

 「そ、それは…願望剣ティルヴィング!?何故…それを持っている…っ!!」

 「何故?何故かしら。鍵番の男がプレゼントしてくれたのだけど…。ティルヴィングというのね」フレデリカは惚けた調子で言い、刃物を弄んだ。

 「鍵番だと!?…彼奴め……フレデリカ、それを渡せ!それは三種の神器の一つ!貴様が持って良いものではない!」デインは語気を強めたが、フレデリカは気にする素振りもない。

 「渡せ、ですって?まだ飲み込めていないみたいね、この状況が」

 フレデリカが宝剣の切っ先をフレイヤの首に当てた。フレイヤがひっ、と息を飲む。

 「フレデリカ!貴様、いい加減に─」

 「─いい加減にするのはあんたの方よ!」フレデリカが突然激昂した。宝剣を王女の首に押し付ける。「いい加減気付きなさい!これは悪ふざけでも何でもないわ!この宝剣は願いを叶える願望剣。私が願えば、譬えあんたが私を殺しても、フレイヤの首を刎ねることが出来るのよ!」

 少女が睨み付けてくる。その様子から必死なことが伝わってきた。小動物が体格の違う肉食動物に、震えながらも果敢に挑んでいる。そんな情景にも感じられた。


 「…何が望みなのだ」デインは静かな口調で言った。そうまでして、王族を脅してまでこの半エルフは、一体何を叶えたいのか。

 「…急に物分かりが良くなったわね、お父様」

 フレデリカも呼応するように静かになる。だが刃物は下ろさない。「望みね…それはもう、ほぼ叶っているのだけど」緩やかに微笑む。

 叶っている。その言葉を聞いて、デインは思い至る。


 「…もしや、儂を“父”と、呼びたかったのか?」

 エルフのために生み出された半エルフ。その寿命はエルフの半分ほどしかなく、精々が五百年程。また子孫を作る上でも規則があり、エルフと結ばれることは許されない。エルフの血をその身に受けながらも、決して血族とは認められない存在。その身はただ、どれだけ願っても永遠に仲間と見なされないエルフのためにこそある。

 その一生に不満があるのか。エルフと認めてほしい。エルフの王に、娘であると言ってほしい。そう願っているのだろうか。


 デインの問いかけに、フレデリカは表情を緩めた。その様子に、デインは確信を強める。

 フレデリカが口を開いた。


 「本当に─おめでたい人ね」


 その言葉に、デインはすぐに反応できない。「…何と申した?」

 「本当に愚かしいわねと、そう言ったのよ」フレデリカが愉しげに唇を歪める。

 「貴様─」

 その時、フレイヤが小さな悲鳴を上げた。魔力で目を凝らして見ると、切っ先が少し食い込んでいる。ぷっくりと赤い鮮血が、小さく膨らむ。

 それを見てデインは押し黙る。


 「あんたを“父”と、親しみの籠った敬称で呼びたいと?この私が?…あんたが、あんた達が今まで私をどう扱ってきたのか、覚えていないの?」

 デインは、フレデリカの言っている意味が分からなかった。

 この者は何を言っているのか。ニンゲンの血の混じった雑種。その時点でエルフではない。エルフとは、エルフ同士の間に生まれた子のみだ。それ以外の、劣等種の血を継ぐ者が、身の程知らずの発言をしている。デインにはそうとしか聞こえなかった。

 王の惚けた顔に、フレデリカは飽きれた声を出して笑った。

 「そうでしょうね。あんたには何も理解できない。悠久の時をかけて凝り固めた価値観。それは譬え、最も大切なものを失ったとしても溶けることはないんでしょ」

 「大切なもの?」デインの脳裏に嫌な推測が走る。「…フレイヤに何をするつもりだ?」

 「フレイヤ?バカなの?あんたにはもっと大切なものがあるでしょう。富、名声、栄誉、誇り…。そう、エルフという崇高な種族。その自負が」フレデリカはせせら笑う。

 「何を当たり前のことを。エルフは最優の種族。儂はその王である。貴様はその、世界最高の権力に楯突いているのだ。正気の沙汰とは云えんだろう」

 「ふふ、そうね。世界最高の権力。最強の種族。その族長ともなればさぞ悲しいでしょう。─一夜にして一族郎党絶滅するだなんてね」


 デインはその言葉にきょとんとし、不意に笑い出した。腹を抱え、しばらく体を揺する。

 「─何を言い出すかと思えば、エルフを滅ぼすだと?うははっ!これは随分と大きく出たな!」膝を打ち、脇を押さえて、エルフの王はしつこく笑い続けた。その様子を、微笑ましい光景でも見るようにフレデリカは見つめていた。

 「エルフ一万人を殺して回ると?一夜で?くふふ。まさかそのティルヴィングでか?はははっ!確かにそれは願望を叶えられるが、それにも限度があるのだぞ」

 王は愚者に教え諭すように言った。「それが願いを叶える機構は奇跡でも何でもない。ただ周囲から魔力を収集して貯蔵し、所有者にその魔力の使用権を譲渡しているにすぎない。これは魔力生体学の見地からも明らかとされている。その宝剣が幾ら魔力を貯蔵していようとも一晩で一万ものエルフを殺して回るほどの余力はない」


 デインの様子にフレデリカは眉尻を下げた。

 「違うわ。全然違う。予言の詩を忘れたの?」

 「予言?ミーミルのか」

 「そうよ」フレデリカはこちらをしっかりと注視しながらも、韻を踏むように口ずさんだ。

 「朝に父が目を覚まし

  昼に太鼓の囃子がす

  巨が足を踏み鳴らし

  黄昏に月が地を揺らしめる

  太鼓囃子は鳴り止みて

  嵐が木々を打ち鳴らす

  異国の旅人は進み出て

  大樹の根を指し示す

  すると日はまた昇り

  勝利の太鼓が高々と」

 「それが一体なんだというのだ」

 「あら、勘が悪いのね。まぁ、見れば分かることだわ。もう準備は済んでいるのだし」

 デインは眉をひそめる。「準備、だと」

 「ええ。レイラに術式を考えてもらってね、もう敷いてあるの。あれも、知識量は膨大だけれど、先見の明がないのが残念ね。やはり人は使いようってことかしら」

 敷いている。嫌な予感がして、デインは周囲の魔力を感知してみた。すると、ヴァルハレア城一帯の土地に微かな痕跡を感じた。

 「これは何だ。…召喚陣か?」思わず溢れたデインの独り言にフレデリカは愉しげに反応した。

 「正解。アルフヘイム全域と、ここヴァルハレアに召喚陣を敷いたの。では、私は何を召喚するのでしょう」デインを茶化すようにフレデリカは意地悪い笑みを浮かべた。

 「貴様…」

 デインがそう凄むと、フレデリカは剣先をフレイヤの首に押し付ける。

 「あらダメよ、お父様。いい加減自覚なさい。あんたはもう、ここに来た時点で敗北しているのよ。…ああでも、あれね。あの聖槍があれば痛み分けには持っていけるかも。あれば、だけど」

 その言葉にデインは顔を歪めた。あれ(●●)は表向き紛失したことになっている。事実、今の所有権はデインにはなかった。譬え目の前にあったとしても、デインには扱うことは出来ない。


 「その様子だと、本当にないみたいね。まぁあれば詰んでいたのだけど。でも安心して。エルフは滅んでも、また再興するわ。あなた達が忌み嫌った血によってね」

 「…どういう意味だ。何をする気なのだ」

 デインは問い掛けたが、最早フレデリカは答える気もないらしい。

 「さあ。手伝ってティルヴィング。材料と術式を揃えても、安定した召喚は実質不可能だもの。実在しない、幻想の彼方から引っ張って来ようというのだから」

 地鳴りがし始める。大地の根元から揺れるように、足元が震動した。

 尋常ではない魔力の収束を感じた。アルフヘイム全土からこの場所へと、魔力が見たこともないような濃度で流れ込んでくる。

 ここに至って、漸くデインは戦慄した。これほどの膨大な魔力を、一体何処から、何のために集めているのか。得体の知れない、理解を越えた魔力の奔流に、デインは身を震わせた。


 「─安心して。この城にいる限り、一緒に取り込まれることはないわ。あんたには特等席を用意しているの。栄誉ある特等席。後世に伝えてあげるわ。あんたがこれを召喚したんだって、ね。強ち間違いでもないでしょう。だからあんたは安心して、コイツの腹の中で自分の武勇伝でも聞いてなさい」

 フレデリカが願望剣を前に突き出す。その束が燃えるように揺らめく。金の装飾が焦げるように変色した。


 『─ああ、哀れなるや。愚かなるや。神の世は終わる。全て無へと帰す神々の黄昏(ラグナロク)。月を喰らい、この世を終焉へと導け─』


 黄昏時の橙に、おぞましい微笑が照らし出される。その吊り上げられた口が終末を告げた。





 『─終焉を彩る者(フェンリル)


 フレデリカのその声に合わせて、彼女の背後の空間が割れた。青々とした長閑な空がぱっくりと開き、黒々としたよく分からないものが俺達の方を覗いている。その深淵は空を引き裂いて、みるみるうちに広がる。

 遠近感が崩れている。その亀裂はフレデリカの背後にあるはずなのに、目の前にあるかのように錯覚する。

 フレデリカの手にはいつの間にか剣があった。その刀身が燃えている。


 真っ黒な穴が空く。その穴の前に、金色に輝くものがむくむくと膨らんだ。焦点を合わせると、あの図書館で見た金色のドラゴンだった。

 トーマスだ、とすぐ分かる。俺達の前で、巨大な亀裂と対峙する。


 黄金の翼がばさりと音を立てて広がった。兎のような角を生やしたドラゴンが雄叫びを上げる。その声が腹の底に響いた。体の奥から震動する。その感覚が心地よい。俺は、自分が昂っているのを感じた。

 そうだ。トーマスがいるんだ。それがとても頼もしく、相手の手の内もよく分からないのに俺はどこか安心していた。

 「…味方になるとこんなに頼もしいのかよ。さすが伝説の三英傑は違うな」偽ドリスも同じことを感じたのか、興奮した様子で言った。

 「ほんと。あんたとは大違いよね」

 「うっせーわ!あんなのと比べんなよ、アマリア!」

 緊張感は漂っているものの、エルフの二人は軽口を叩いている。

 辺りにも比較的穏やかな空気が流れ始める。さっきまで恐慌を来していた人々も、黄金に輝く巨竜を見ると落ち着き始めた。そしてトーマスの雄叫びに呼応するように喚いた。

 やってしまえーっ、黄金竜!あの女に鉄槌をっ!ぶっ殺せっ!目にもの見せてやれっ!

 言いたいことを口々に叫んでいる。


 そんな興奮の坩堝るつぼの中で、巨竜の真後ろにいる少女だけがおろおろとしていた。両手を一杯に広げて巨大な尻尾にかぶり付いている。

 「駄目よトーマス!下がって!下がりなさいっ!」

 フレイヤが懸命に声を張り上げた。

 黄金竜はちらりをその様子を見たが、すぐに正面に向き直った。

 「トーマス!やめてっ!早くここから─っ」フレイヤは諦めずにくっついている。

 その時大きな尻尾が小さく動いた。するとフレイヤは呆気なく振りほどかれる。そのまま尻餅をつく。

 「─っつ。トーマスっ!」

 再び巨竜が雄叫びを上げる。それに周りの人も同調し、声が何倍にも膨れ上がる。まるで、晴天に立ち上るロケットに自分達の声を貼り付けようとするように、誰もが叫んでいた。俺もいつの間にか拳を振り上げている。その場の雰囲気に飲み込まれ、一緒になって叫んでいた。

 少女の訴えはその中に埋もれていった。


 その雄叫びが途切れた。ロケットが忽然と姿を消し、そこに貼り付けられていた幾つもの声だけが、居場所をなくしふわふわと霧散する。

 遠くの方で轟音が上がる。音の方を見ると、もうもうと砂煙が立ち上っていた。視線を前に戻す。そこに金色のドラゴンはいなかった。

 代わりに巨大な爪があった。青黒く、血色の悪い巨大な獣の前肢。それがおぞましい空間の亀裂からこちらに飛び出している。

 「え」誰かの気の抜けた声がした。そこにフレデリカの冷めた声が重なる。


 「だから言ったでしょう。黄金竜では力不足だと」


 「トーマスっ!」フレイヤが砂煙の方へ駆け出した。それを誰もがただ眺めていた。

 獣の前肢から血がしたたる。その爪が地に降りた。押し潰すような、低い地響きが鳴る。前肢が草原にめり込み、回りの緑が、皮膚が捲り上がるように、内側の茶色を剥き出しにして盛り上がる。

 唸り声がこだました。醜悪な悪魔が笑うような、醜い怪物が泣き喚くような、聞くに耐えないおどろおどろしさ。その声が、まるでてろてろとした、変に褐色のよい舌が纏わりついてくるように俺の全身を舐め回してくる。そのイメージに総毛立つ。


 「あ……あぁああ」誰かが震えた声を漏らしながら後退る。

 大音量の狼の遠吠えが反響した。それが合図とでも言うように誰も彼もが我先にと逃げ出した。半狂乱となった群衆が走り抜ける中、俺は全く状況を飲み込めないでいた。

 今、何が起きたんだ?トーマスはどうした?

 「…まさか、一撃……?…黄金竜を……ウソだろ………?」偽ドリスが悪夢を見ているように呆然と呟いた。

 トーマスが?トーマスがどうしたって?一撃?何が?

 「バカ!ダニエルっ!逃げるのよ!早く!セシリアを連れてっ!」

 「…っ!逃げる!?どこにだよ!ここはあいつの夢ん中だろ!どこに逃げるってんだよっ!」


 「アンディ!」名前を呼ばれてはっとする。視線を向けるとしゃがんだユッコと目があった。その手元には倒れた椅子がある。

 「ソフィアさんの車椅子が倒れちゃって、手伝ってくれない」

 見ると確かに、空中に浮いていた車椅子ごとソフィアが倒れ込んでいた。逃げる誰かに引っかけられたのか、打ち所が悪かったらしく腕を押さえて呻いている。

 俺は言われるままおろおろと手伝おうとした。けれどその時背後から、ばりばりと何かが引き裂かれる音がした。振り返ると空間の裂け目が大きくなっていて、その縁に別の獣の巨大な前肢が掛かっていた。その前肢が横に動く。すると更に音を立ててあなが広がった。奥で真っ赤な二つの光が爛々と踊っている。

 暗闇から濡れててかてかとした黒いものがずいっと伸びてきた。狼の鼻だと遅れて気付く。その下に鋭利な、黄ばんだ牙がずらりと並んでいる。青黒い毛羽立った体毛に覆われた鼻筋が顕になる。


 図書館で読んだ文節が蘇る。


 “─月を喰らう狼(フェンリル)


 アルフヘイムの国民全てを生贄に呼び出された怪物。そのために最盛期を迎えていた国が滅んだ。だがあれは確か倒されたんじゃなかったか。そこで別の記憶が蘇る。


 “─でも召喚された怪物は強力過ぎて消滅させることが出来なかったから、バラバラにして七賢人がそれぞれ封印したんだって─”


 これはソフィアだったか。そうだ。封印したと言っていた。でも何でそんなものがここに?封印が解けたということ─。

 瞬間、今まで起きてきたことが濁流のように繋がった。


 “─領主権限の発生源。無尽蔵の魔力の源。そのようなものが七つもあると?”

 “─これらはイグドレイシア七ヶ国、その全ての領主の持ち物。かつてアルフヘイムを七つに割いたとき、私が各々に渡したもの。各国を支配するために必要な領主権限の源。膨大な魔力発生源、そのものよ”

 “─ミトレシアのピアス。これで全て。七つの魔石が揃ったわ”

 “─怪物を封印した物は七つの国の王の管理下だし”


 俺の視点はフレデリカの手元に釘付けとなっていた。

 あれが。あの魔石が。領主権限を司っていたとかいうあれらが、フェンリルを封印していたもの?

 じゃあ始めから─。最初からフレデリカにはあの切札があったということ?


 大気が悲鳴を上げる。フレイヤが作り出したという幻のアルフヘイムは音を立てて崩れ始めた。地面が捲れて浮き、空には亀裂が走りあちらこちらに洞が空き始める。


 そして狼が顔を覗かせた。


 毛並みの悪い青黒い体毛。赤い三白眼。頬から顎にかけて毛が白んでおり、口の端が引き攣ったように吊り上がっている。生臭い息が黄ばんだ牙の隙間から漂ってきて、鼻先にこびりつく。

 その体高はさっきのドラゴンの比ではなかった。少なくとも一回りは大きい。大きすぎて狼との距離間が掴めない。瞬きでもしようものなら、一瞬にして飲み込まれる。そんな恐怖に支配される。


 その場に残っていた俺とユッコも、クライム・ヘイヴンの三人も、狼を見つめたまま固まって動かない。

 薄笑いを浮かべた巨大な怪物も微動だにしたない。しかしその視線は絶えずこちらに注がれている。


 「あら、逃げなくていいの?ほら、フェンリルよ」フレデリカが化け物と同じような薄笑いを浮かべて尋ねてきた。そのとなりには無表情のパトリックが立っている。


 『─神の加護より我等を守りたまえ!ネ・ソレム・スヴェル!』

 頑強な音を響かせて、巨大な白い靄のようなものが目の前に立ち上がった。と同時に誰かが俺達の前に飛び出してくる。今朝の、学生服を着たままの桃地さんだった。

 「下がりなさい!あなた達がここにいても邪魔なだ─」

 ズバンっ!と酷い音がした。白い靄が頂から両断されていた。桃地さんが崩れ落ちる。桃地さんから血が噴き出していた。

 すぐ隣から悲鳴が上がる。ユッコがその惨劇を前に絶叫した。


 「凄いじゃない。フェンリルの爪が少し欠けてしまったわ。エルフ数人分の働きをしたのではないかしら」


 狼が動いたところも見えなかった。狼は変わらず薄笑いを浮かべてこちらを見ている。

 俺の脳裏で、血飛沫が飛び散る。肉体が裂け、断末魔が途絶え、ごろりと頭部が転がる。それは一体誰のものかと目で追ったら、絶望の表情を浮かべたユッコ─。

 その想像をした瞬間、俺は脱力した。何事にも喩えがたい虚脱感に襲われた。そして直後に下腹に力が入った。このままでは本当にそうなってしまう。それは駄目だ。それだけは。

 どうにかしないと。でも、どうすれば─。


 ひゅんと、風を切る音がした。同時に目の前で地面が破裂した。

 死んだと思った。結局何も出来ず、ユッコも守れずに。

 誰かの力む声が頭上から降ってきた。恐る恐る目を開けてみると、白いふわふわとした毛が目の前にあった。そこにぽたぽたと赤い滴が落ちる。見上げると、白い豊かな毛を真っ赤に染めたトーマスが立っていた。彼の上にはどうやら獣の前肢があるらしい。踏み潰されそうになるのを懸命に耐えている。

 「……逃げ、ろ…!早く………っ!」トーマスの声が途切れ途切れ言った。

 「フェンリルの一撃を防ぐなんて、流石黄金竜ね。でもそれが限界かしら」フレデリカの楽しげな声が聞こえてくる。


 「トーマスっ!」フレイヤの声が飛んできた。

 「ああ。フェンリル、あれは潰しちゃ駄目よ。あれはまだ使うのだから」フレデリカが怪物に指示を出す。「パトリック、あれを捕縛なさい。いい加減うろちょろされると面倒だわ。貴方の大切な許嫁なのだから」

 「……いいな…づけ、だと……っ!?」トーマスが喘ぎながら反応する。どこにそんな力があるのか、彼は怪物の手を横に払いのけた。怪物の手は地面にめり込み、草花を吹き飛ばす。

 「フレイヤ様に一体何を─っ!」

 「フェンリル」

 今度は怪物の前肢がトーマスを殴り飛ばす様が見えた。といっても何か青いものが白いものぶつかった瞬間がちらりと見えただけだったが。気付けばまたトーマスは居なくなっており、眼前には狼の爪があるだけとなっている。

 フレイヤが悲鳴を上げる。見るとフレイヤの近くに飛ばされたトーマスがもんどりうっていた。彼の呻き声がする。

 「何をするってそれは勿論、エルフを再興するのよ」

 トーマスに駆け寄ったフレイヤが、きっとフレデリカを睨む。「再興?一体どの口でそんな戯言を!?あなたが滅ぼしたんじゃない!」

 「ええそうよ。わたくしが壊したわ。でもそれはあれが腐っていたからよ。腐ったものは棄てて、新しく作り直すのが手っ取り早いでしょ」

 「腐る…?腐っているのはあなたの方よ!国を滅ぼして、こんな怪物生み出して…。さっきも沢山の人を殺したわ!どうかしているのはあなたの─」


 「あんたに何が分かんのよ!」突然フレデリカが激昂した。あまりに唐突な変わりように誰もが閉口し、たじろいだ。

 フレデリカの持っている宝剣がわなわなと震えている。爆発した感情を抑えようと必死になっているのか、けれど結局刺々とした声を発した。

 「あんたの家族とやらがわたしにどんな仕打ちをしたと思ってるの!?あんたと同じ親を持って、あんたと一緒に育ってきたのに!ただニンゲンの血が入ってるってだけで!他の人より成長が早いってだけで、どうして私があんな目に遭わないといけないの!?」

 フレイヤはフレデリカの発作的な吐露を真に受けて泡を食っている。

 「それもこれも、あの国が、エルフ共が築いてきた文明とやらが腐っていたからよ!だから滅ぼしたの!そして再興するのよ!今度は嫌でも私を認めなきゃいけない国を、文明を、世界を創るのよ!」


 しんっとした空気が支配する。フレデリカは肩で息をしていた。

 「─それ、で」その空気を、喘ぎ声が破いた。「それで……フレイヤ…様を許嫁に…か……」

 「…トーマス?」放心している様子のフレイヤが、うわ言のように言った。

 「…なるほど、な……。くっ……そこの、パトリック…っ………そいつはエルフとの…半エルフ(クォーター)だな」

 クォーター?俺はパトリックを見た。彼の表情筋は相も変わらず死んでいる。

 「…半エルフ?パトリックが?」

 「ウソだろ?だってあいつ、普通に成長遅ぇじゃん」

 「…クォーター、だ……。エルフと半エルフ(フレデリカ)の子…。ハーフより…成長が遅いが、普通のエルフよりは…」

 「確かに、普通よりは早い気はしてたけど…」納得がいかないのか、偽ドリスがもごもごと口を動かす。「けど何のためだよ?今さら禁忌犯して、あんなの作ってどうすんだよ」あんなの、と言いながらパトリックを指差す。

 その質問に、フレイヤがぼそっと答えた。

 「……民族、浄化」


 背中に怖気が走った。その言葉が具体的に何を示しているのか分からなかったが、民族を浄化する、というその言葉だけで酷くおぞましいということは分かった。

 「民族浄化…?何だよ、そりゃ…」

 「…既存の、種族を淘汰して……新たなものに…置き換える………。純血主義のエルフを、滅ぼして……半エルフに由来する、ものに…置換する……。…自ら(フレデリカ)を起源とする…エルフの国に、作り替える気だ……!」

 「……っ!?」


 フレデリカが小刻みに揺れだした。やがて爆発を伴って高笑いに変化した。

 「ええ、そう!私を蔑んだ屑共!そいつらが大切にしていた“種族”が、私の存在なしでは自分達を語れない存在へと堕ちる!しかもそれはちゃんと、かつての王族の血を受け継いでいるの!それはあんたの血よ、フレイヤっ!」

 「え─」

 多くの顔が困惑の色を隠せないでいる中、フレデリカは得意になったように喋り続ける。「エルフはあんたの名の元に復興するの!正統な王位継承者であるあんたのね!そしてその相手、王位に就くのは愛しい我が子(パトリック)!その子孫の血には半エルフ()の血が入る!あんた達が今後どれだけ繁栄しようとも、その土台は全て私になる!その呪いを未来永劫、刻み付けてやるのよっ!」

 最早、聞こえるのはフレデリカの高笑いだけだった。声を発するものは他にない。

 「さあパトリック、分かったらさっさとあれを捕縛なさい。そうすれば─」

 「─るな」

 「え」高笑いが止む。


 「お前が勝手に決めるな」

 火花が散った。

 フレデリカの胸から鮮血が噴き出した。それを俺はただぼうっと眺めている。





 突然、背中から衝撃があった。そして目の前では赤い洪水が起きていた。

 何が起きたか理解が出来ない。理解出来ないまま、息苦しいことに気付く。慌てて息を吸おうとすると、ひゅうと音がして、逆にこぽこぽと何かが湧いてきた。それが口から溢れて、垂れる。

 視界が低くなっている。何故?パトリックの方を振り返ろうとすると、上手く出来ずにバランスを崩した。回転する視界の中で、パトリックが私を見下ろしていた。


 がざがざと耳元で音がして、視界を緑で縁取られる。その額縁の中でパトリックがこちらに何かを言っていた。彼の背景はくすんだ青色で、空にはとても見えない。そんな不吉なものを背負って立つ彼は鬼のような形相だった。パトリックがこんな顔をしているところを初めて見た。


 いや、そもそも彼の表情らしい表情を見たことがあったろうか。


 その鬼が私の右の方に手を伸ばす。その動きに釣られて私もそちらの方に目を向けると、生い茂る草原くさはらの中で何かが燃えて見えた。

 願望剣ティルヴィングだ。私はそう直感する。そして思い出す。この宝剣は所持者の願いを三度だけ叶える。その後、所持者は悲惨な最期を遂げる─。

 右手に力が籠る。まだだ。まだ─。喉が揺れた気配がした。もう何も聞こえなかったが、何事かを喚いた気がする。

 鬼が殊更に恐ろしい顔をして剣を奪おうとした。拳が振り上げられる。

 まだ願いは二つしか叶っていない。百年前と今回と、フェンリルを喚び出すことしかまだ願っていない。あと一つ叶うはずだ。するとどこからか声が聞こえた気がした。

 “もう叶えただろ。あの時願ったじゃないか。ずっとこうしたかったって”


 視界が真っ白に光る。殴られたのだと遅れて気付く。顔は横をむいていた。


 もう、めを動かす余りょくもない。もやがかかったようにし界がしらんでいた。そこにさらにしょう撃がくる。


 とたんにわたしのせかいはあんてんして、ぷつりととぎれてなくなった。





 フレデリカが血の噴水を撒き散らした。彼女自身、何が起こったのか分かっていないようだった。力なく膝を付き、口からも血を溢す。膝立ちになっていることも知らないのか、無理に体を捻って振り返ろうとし、そのままバランスを崩して仰向けに倒れた。


 「お前が勝手に決めるなよ!」パトリックは壊れた玩具のように同じ言葉を口にした。今まで能面のようだった顔が、怒りに醜く歪んでいる。

 「何の目的があってやっているかと思えばこんなことか!ああ嫌いだ!大嫌いだ!仕事と私怨を混同するなど、言語道断だ!ふざけるな!こんなことに私の時間を使いやがって!私を何だと思っているっ!私は道具じゃない!私は、私は─っ!」

 その続きの言葉が出てこない。その事に彼自身が苛立ちを増長させるように、地団駄を踏み体を揺すった。そして衝動的に体を屈めると、フレデリカの脇に手を伸ばした。

 「ああぁあっ!寄越せ!それを!仕事というものを教えてやる!殺すなら、徹底的に殺すんだ!」

 そこでフレデリカが喚き声を上げた。それはもう言葉にもなっておらず、ただの獣の鳴き声に近かった。

 その鳴き声めがけてパトリックが拳を振るった。鈍い音がして、フレデリカの声が途絶えた。


 すると彼の頭上で変化が起きた。大きく空いた洞から半身飛び出していた怪物の体が、まるで操り人形の糸が切れたように、一瞬揺れた。そして怪物は、恐怖の形相を浮かべて発狂し、暴れ出した。


 あ、と発したのは誰だったろうか。

 振り回される怪物の前肢が、宝剣を奪い取ったパトリックの頭の上に落ちていった。映像をスローモーションにしたような景色の中で、パトリックの満足そうな顔が、一瞬見えた気がした。



 大気が揺れる。空がどんどんと崩れる。怪物が絶叫した。それに合わせて世界の崩壊が加速する。

 「…駄目!これ以上保たない!」フレイヤが大声を発した。

 「くっ……!…最悪だ……。あれの、コントロールが完全に…外れている…っ。フレデリカが縛っていたときは…まだ抑えられたが……もう、止められる者が…いない」トーマスが喘ぎながらも立ち上がろうともがいた。けれど、体が言うことを聞かないのか、まともに動くことも出来ない。「……このままでは、外に…出てしまう……っ。そうなればただの…災害だ。…今度は、イグドレイシアが…なくなってしまう……っ!」


 「んなこと言ったって、どうしろってんだよ!おいレイラ!お前どうにかしろ!さっきから黙り決め込みやがって、お前もあれに関与してたんだろが!」偽ドリスは座り込んで静観していたドワーフに喚いた。

 しかし彼女はひくひくと鼻を動かすだけだった。「無理よ、あれが出てきた時点で。確かにあれの封印術式は私が組んだけど、あの時はしっかり事前準備をして、魔力も潤沢に用意していたもの。準備も何もないのに、あんなのどうしようもないわ」

 「ああ!?他人事かよ!老い先短いとすぐ諦めんのかよ!」


 怪物は両前肢を踏ん張って、天に向かって咆哮した。自らの絶望を包み隠さず告白するような、逼迫ひっぱくした切実さを感じた。


 あの怪物はやがて、フレイヤが作ったこのアルフヘイムを飛び出して、本物の世界を滅ぼしてしまうらしい、ということは分かった。そして外には俺達がこの世界へ来た道も繋がっているはずだ。もしかすると影響はないかもしれない。けれど断定も出来ない。魔法だなんだということは俺の裁量を越えている。つまり、ここから出さないに越したことはない。それに、と俺は視線を動かす。それにここには、ユッコがいる。

 俺がどうにかしないと。どうにか─。


 そのとき、頭の中に何やら詞のような浮かんできた。


 “朝に父が目を覚まし、昼に太鼓の囃子がす”


 これは、何だったか。どこかで聞いたような─。


 “巨が足を踏み鳴らし、黄昏に月が地を揺らしめる”


 突然、ズボンのポケットに違和感を覚えた。慌ててその部分を確認する。そこにあるのはアンディ・レイの衣装であるスボン。その下、内側だ、と直感が働く。この衣装は、元々着ていた服の上から纏ったのだった。

 俺は構わずアンディ・レイのズボンを下ろした。すると自分の履いてきたスボンが顕になる。その様子をユッコがじっと眺めていた。


 “太鼓囃子は鳴り止みて、嵐が木々を打ち鳴らす”


 その左ポケットが光っていた。俺はその光に誘われるようにポケットに手を入れて、そこに入っているものを取り出した。それは絵里愛の、黄金のヘアピンだった。


 “異国の旅人は進み出て、大樹の根を指し示す”


 大樹の根。それって確か─。

 フレイヤの方を見る。彼女の背中が見えた。既視感を覚える。上手く思い出せないが、ずいぶん前に見た気がした。

 俺はかぶりを振る。その背中までは少し距離があった。手渡すのは難しい。俺はヘアピンを右手に持ち替えて、振りかぶった。

 俺にはこれがそれ(●●)にはとても見えない。しかし、異国の旅人が俺なのだとしたら、俺が指し示すものは、それしかない。


 「フレイヤっ!」俺はそう叫んだ。初めて、彼女の名前を呼んだ気がした。彼女に向かって、思い切りヘアピンを投げる。

 フレイヤは何事かとこちらを見た。そして飛んでくる金色の光に目を留めた。


 そして俺はそれを指差した。その名前を大声で叫ぶ。


 「─世界樹の根(グングニル)だっ!!」





 聞き慣れない声に名前を呼ばれた気がした。



 フレデリカが殺された。そして殺したパトリックも潰れてしまった。

 悪夢のようだった。フレデリカの溜まりに溜まったおりを顔面に投げつけられて、わたしは息が出来ないほどに苦しくなっていた。

 わたしは何も知らなかった。彼女の苦しみも、自国の闇も。そうしてあんなことを彼女に言ってしまった。でももう謝れない。彼女は死んでしまった。彼女の呪いの権化のような怪物を残して。


 でもわたしは諦めたくなかった。傲慢かもしれないが、それでもわたしは祖国を取り戻したいと思った。

 懺悔もしよう。反省もしよう。けれどそれでも祖国が愛しいのだ。あの穏やかな、この平和がいつまでも続けばよいのにと、誰もが願った世界を取り戻したいのだ。そのためならば、譬えどれだけ非難されようとも、わたしは諦めたくない。

 そして今度こそ、誰もが幸せになれる世界を目指そう。夢物語かもしれないけど、父上の治世でも、フレデリカの治世でもなく、みんなが笑って過ごせる世界樹イグドレイシアを築くのだ。

 フレデリカの悲しみを聞いて、わたしはそう心に誓った。そしてそのためには、今目の前にあるフレデリカの、わたし達の過ちを乗り越えないといけない。


 思い出の世界が崩壊する中、わたしは両足に力を込めて立ち上がった。勝算はない。どうにか出来ないかと考えを巡らせたけど、思い付く手ではフェンリル(あれ)は止められそうにない。それでも、諦めるわけにはいかない。フレデリカの悲しみを後世に伝えなければならない。


 そんなときだった。名前を呼ばれたのは。


 はっとして、声の方に目を向けると、金色に瞬く何かが飛んできていた。その更に向こう、それを投げて寄越したと思しき人物が目に入る。

 紫色を基調とした衣装に身を包んだその人物は、その光を指して叫んだ。

 「─グングニルだっ!!」


 何を言っているのか分からなかった。けれど彼がそう叫んだ瞬間、黄金の光が伸び始めた。そして回転しながらわたし目がけて飛んできた。

 わたしは咄嗟に右手を出して自分を庇うようにした。するとその光は、手に吸い付くようにくっついて、纏わりつくように回転した。

 その回転に合わせて、わたしの手が、腕が、独りでに動いた。光はくるくるとわたしの回りを一通り回ると、その柄をわたしの脇に当て、すっぽりと納まった。


 そこでようやく、それが何なのか分かった。

 槍だ。黄金に輝く、一本の立派な槍だった。初めて触ったはずのそれは、しかし長年一緒に過ごしてきたようにわたしの手に馴染んでいた。その感覚が心地よい。この槍となら、どんな困難だって乗り越えられる。そんな根拠のない自信が湧いてくる。


 怪物が雄叫びを上げた。そちらを見ると体を震わせながら地面を、空を、殴り付け、噛み砕き、破壊していた。その様子はまるで、おいおいと咽び泣いているようだった。

 思い出のアルフヘイムは洞だらけになって、最早原型を留めていない。遠くにあの評議会館が見える気がした。

 わたしは槍を構えた。片手で肩の高さまで持ち上げて、切先を怪物に向ける。槍が一層光を強くした。真っ暗な闇の中で槍だけが光を放っていた。

 トーマスが何かを言っていたが、何も聞こえなかった。ここにはわたしと怪物しかいないような錯覚に陥る。


 槍を体の後ろに引く。そこにありったけの魔力を込める。

 足元が崩れていく。それでもわたしは動じなかった。負ける気がしない。


 『─其は神槍。理を束ねる樹木の分身─』

 わたしの唇が、独りでに呪文を紡いだ。知らない言葉が滔々と溢れてくる。

 槍が神々しく輝く。光の奔流が辺りを覆い尽くした。


 『─我等に繁栄を、不倶戴天に滅亡を─っ!』


 壊れかけた地面を左足で思い切り踏みしめる。


 『─以て我等の勝利となる!|確約したるは勝利の聖槍グングニルっ!!』


 目一杯の力で投擲した。足元の地面が吹き飛ぶ。止めどない輝きで目の前が真っ白になる。その先で聖槍が、闇を切り裂く稲妻のように一直線に怪物へと突き進んだ。

 そして全てが煌々とした光に包まれた。





 「アンディ、おはよー」背後から声をかけられた。俺のことをそう呼ぶ友人は決まっていて、それがユッコだとすぐに分かった。

 先日までの暑さが嘘のような、涼しげな秋晴れだった。電線の上で小鳥が忙しなく動いている。

 「一昨日の台風、やばくなかった?」ユッコが追い付きながら話題を振ってきた。

 「超大型だったからなー。西日本の方は結構酷かったらしいな」

 「ねー。こないだの分の爪痕が残ってるうちにまた来るんだもんね。地球やばいんじゃない?」

 「だなー」俺は晴天を見上げながら気のない返事を返した。

 「だなーって、何でそんな気が抜けてるわけ?興味ないの?同じ地球号のクルーなのにさ」

 「…何だよ地球号って」

 「昨日テレビでやってたんだよ。ドキュメンタリーで。異常気象の特集?みたいなやつで、最後に言ってたよ。私達は同じ地球号のクルーなのです。手を取り合って共に地球を守りましょーって」ユッコは言いながら自分の前で両手をむんずと掴んでみせた。そして急に話題を変える。「あ、そういえばさ、昨日の帰りに葛原さん見たよ」

 「何で急に葛原さん?」

 「ほら前、近藤さんと花山さんとつるんでたじゃん。でも最近あんまり一緒にいないよね」

 「そうなんだ?」

 「そうだよ。ほらあの頃から。あの桃源神社の…有平さんとか……」

 「アルヘイ、さん…?誰?」

 するとユッコはきょとんとした。「え………誰だっけ」

 「…え、何こわいんだけど」

 「何だっけ…思い出せないや。…とにかく、葛原さん昨日は桃地さんと一緒だったよ」

 「あの桃地さんと?何かスゴいな」


 葛原さんと桃地さんの間には先週くらいにいざこざがあった。いざこざというか、葛原さんが一方的に桃地さんを虐めていたのだが。その二人が仲良くやっているというのは、中々衝撃的だった。


 「何、感想それだけ?もうちょい驚いたら」

 「いや、充分驚いてるから」

 「ちがうって。もっとこう、驚いたっ!、てくらいのさ」

 驚いたっ!のところで急に大声を出すものだから、俺は思わずびくっとなった。

 「今だよ今。今の声で驚いたって」

 「だから違うんだってば」


 「─おう、カップル。何の話してんだよ」後ろから話しかけられて、振り返ると坊主頭のヤスがいた。

 「だからカップルじゃないぞ」俺はすかさず指摘する。

 「おはよ、ヤス。アンディが全然驚かないって話だよ」

 「だから何でユッコは否定しないんだよ」それがびっくりだわ、と俺は続ける。

 「安藤が驚かない理由?神経が通ってないんじゃないか」

 「失礼な仮説を立てるなよ」

 「じゃあ何だったら驚くわけ?あ、私達が実は宇宙人でした、とか?」

 「代わり映えしない発想が驚きだよ」

 「えー。じゃあ…じゃあ─」そう言いながらユッコはうんうん唸りながら頭を抱え始めた。俺はまたしょうもないことを言い出すぞ、と身構える。

 程なくしてユッコが指を立てた。

 「じゃあ─目が覚めたら異世界でした、とかは?」


 予想外の言葉に面食らい、たどたどしく俺は答えた。

 「それはきっと…スゴいびっくりすると思う」





 「よかったのですか」私は訊ねた。もう決定していることなのに、訊ねずには居られなかった。

 「ええ。よかったのよ。モモがそう望んだのだから」フレイヤは微笑みを返してきた。「彼女が向こうに残りたいって言ったときは驚いたけれど、でもそう思える所だったということでしょ?それは素敵なことだわ。トーマス、これからは自由な時代なの。そうしていかなければならないわ。住む場所も、誰と過ごすのかも、個々人が好きに決めていいのよ」

 確かに、島流しにされていたモモ・ティッサリがあちらに居たいというのは、想定外ではあった。だが私が聞きたいことはそれではなかった。

 「彼等の記憶のことです。消してしまって、本当によかったのですか」


 そう聞くと、フレイヤは少し寂しそうな顔をした。けれどやはり笑顔を作って言ってのけた。

 「ええ。彼等の世界はきっと、わたし達とは一緒にない方がいいと思うの。今までで散々罪を被せてきたのだもの。だから、金輪際関わらない方が、彼等のためなのよ」

 「しかし…」

 「さあ。お話はここまでよ、トーマス。これ以上、民を待たすものではないわ」

 フレイヤは着飾った鮮やかな青色のドレスを翻した。トーマスもしずしずとそれに続く。


 広間に面した窓の前に立ち、ふとフレイヤが言った。「でも、本当だったわね」

 「…何がです」

 「本当に名探偵は─英雄ヒーローだったわ」





 わたしは急いでいた。見知らぬ土地を足早に通り抜ける。

 これを早くどこかに隠さなくては。その考えで頭が一杯だった。


 やがてわたしは少し開けた所に出た。そこには幼児が二人遊んでいた。

 そちらに近付いたのはほんの気紛れだった。


 「はじめまして。あなたは何ていうお名前なの?」気付いたらわたしは声をかけていた。好奇心旺盛な幼い顔がこちらを見た。

 「あんでぃれい、だよ」そう聞こえた。

 「アンディ・レイね」

 「ちがうよ、あんでぃだよ」男の子は言い直したが、さっきとどこが違うのか分からなかった。


 わたしはその後、二人と遊んでいた。急いでいたはずなのに、どうしてそんなことをしたのか。

 空が橙色に染まり始めたとき、ようやくわたしは使命を思い出した。時間がもうないことに気付き、目の前の可能性に飛び付いた。

 「ねぇアンディ、これを持っていてほしいの」

 首から下げていたミーミル石を手に取った。

 「それなあに?」あんでぃと名乗った少年は興味津々にそれを見た。

 「とても大切なもの。あんでぃにあげる。大事にしてくれる?」

 「うん!」

 「わたしもほしい!」隣にいた幼女が駄々をこねる。だが渡せるものが何もない。どうしたものかと悩んだ末、髪留めをあげることにした。亡き父から誕生日のプレゼントで貰ったものだった。

 「じゃあ、あなたにはこれを」

 「わぁ、きれい!」幼女ははしゃぎながら髪に付けてとせがむ。だからそれを付けてあげる。

 その様子をアンディ少年はじっと見ていた。そして不意に言った。

 「それも、おねえちゃんのだいじなもの?」

 「…え、どうして?」

 「だってなんか、あげたくなさそうだったから」

 その言葉にはっとする。そして、よく人を見ている子だなと感心した。

 「そうね…。うん。とても大切なものなの」

 するとアンディ少年はしばらく黙り込むと、不意に踵を返して駆け出した。そして近くのベンチまで行くと、何かを持って戻ってきた。

 「これあげる」

 「え?」見るとその手には本が一冊あった。

 「…これをくれるの?」

 「うん。ぼくのたからもの」

 「宝物?そんな大事なものは受け取れないわ」

 「ううん。おねえちゃんのだいじなものをもらうから、ぼくもだいじなものをあげるんだ」

 そして少年はきらきらとした表情を浮かべてこう言った。


 「ねえ。めいたんていってしってる?すごいかっこいい、ヒーローなんだよ!」

この物語はフィクションです。


ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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