異世界探偵 後編
ユッコは目の前の光景が信じられない。
石畳。石造りの建物。その間を縦横無尽に走る線路。そして、馬車。いや違う、あれは─。
「…け……けけ…けんたうろす…?」
引き車の前に人がいる。けれどその人は、腰から下が人ではない。艶々とした栗毛の、逞しい筋肉を隆起させながら、右往左往と忙しなく行き交っている。
これは、何だろう。新手のアミューズメントパークかな。
そんな、人馬が混沌とした中を、何事もないようにアンディと桃地さんが進んでいく。
状況が飲み込めないユッコは、けれど置いていかれては堪らないと、駆け足で付いていく。
そして大通りの角、広い敷地を占める建物に近付いた。
「安藤くん、ここでいいの?」桃地さんが隣のアンディに話しかけている。
白く四角い、大きな建物だった。石造りで統一された街並みには不釣り合いなほど、不自然で人工的な白さ。その中央に入り口だろうか、適当に空けたような縦長の長方形の穴が開いていた。巨人の往来でも想定しているように大きい。その口の上に幾何学的な模様が並んでいて、それがレイクダイモンと読める。何故読めるのか、ユッコには分からない。
「うん、ありがとう。ここからは、そうだな─」
アンディがこっちを振り返る。奇々怪々とした景色の中にアンディがいる。違和感しかない。
「─ここからは、ユッコに頼もうかな」
何を?そんな当たり前な疑問よりも先に聞きたいことがあった。
ここどこ?
ついさっきまで神社にいた。ほんと、数分前だ。…数十秒前かもしれない。いや、そんなことはどうでもいい。
とりあえず、どうしてこうなったのか。ユッコは順を追って思い出そうとした。
「─君は、クライム・ヘイヴンだね」
アンディがそう言ったとき、ユッコの頭の中は真っ白になった。その言葉を、なんでアンディに言わせまいとしていたのか、自分でも釈然としない。アンディの面子のためか、それとも自分の─?
とにかく、これ以上喋らせてはダメだ。それだけで頭が一杯になる。必死だった。
「あーーーっ!」あたしの大声が響いた。自分でも何故叫んでいるのか分からない。あたしの隣でアンディは耳を塞いだ。
桃地さんは、そんな声も聞こえないみたいに、固まったままだった。
「ユッコ、うるさいぞ」アンディがたしなめてくる。けれど、あたしはそれどころではない。どうにか取り繕わないと、と懸命に頭を働かせる。
「ちちちちがうんだっ!桃地さん!えとーこれはそのー…そうっ!ゲーム!ゲームの話なんだっ!だよね、アンディ!?」
これは中々ファインプレーじゃないか?混乱した状態であたしはそう自己分析したのだけど、アンディは溜め息を吐いた。
「ゲームじゃないって。さっき説明したじゃないか。で、彼女はエルフなんだよ」アンディが顎で桃地さんの方を指した。彼女は目を見開いて凍りついたまま動かない。あたしからはそれが、突然の中二病発言に唖然としているようにしか見えない。
「あー、あー…そうだよねー!うん、そうそう!ゲームに出てくるエルフにそっくりなんだよねっ!桃地さんが!」
「何を言ってるんだよ、ユッコ。全部説明しただろ?昨日のことは本当なんだって。俺とフレイヤが入れ替わってて、俺がアルフヘイムに居たんだ。桃地さんはこっちに島流しされたエルフなんだよ」
まったく、とアンディはあたしの方に振り返り、言葉を続けた。
「録音の中でクライム・ヘイヴンが言ってたじゃないか。“モモ”がこっちに居るって。しかも昨日の“俺”がスキュラとかいう人に“何で戻ってきたんだ?”って言っていた。スキュラは正規ルートで来たと言っていた。その後にあの“戻ってきた”だ。つまり、正規ルートはこの神社にあって、それを取り計らっているのが“モモ”というエルフということになる」
「いやいや!それが桃地さんって限った話じゃないし!別の人、人違いってこともあるんじゃない!?」
「それもあまり考えられない。モモは“最近、現地の人間にちょっかいを出されて困っている”とも言っていた。この神社にいて、対人関係に困っているモモとなると─」アンディが言葉を止めて桃地さんの方へ向き直る。彼女の目にはもう驚きはなく、呆れたような色しか窺えない。
「─彼女、ということになる」
あたしは頭を抱えた。そのまま、唸りながら首を捻るという荒業を見せる。このままではアンディが頭のおかしいヤツということになってしまう。なにか、なにか…。
「でもー、でもー……あっ!ほらっ!お父さんっ!桃地さんのお父さんだよ!そっちがその“モモ”かもしれないよ!最近困ってたのかも!」
「確かに、その可能性もある。けれど、それはどっちでもいいことなんだよ。どっちみち、ここに“モモ”が居るということに変わりはない」
「そう…だけどー……そうなんだけどー……」
「ただ俺は見たことないんだよ」アンディが桃地さんの目を見据えて言う。
……何を?あたしの無言の質問に、アンディは答えた。
「この神社で、桃地さんのお父さんを、だよ」
桃地さんの、お父さん…。桃地さんのお父さん?
そこで昨日の記憶がまざまざと蘇る。確かに、昨日、救急車を呼んでくれたのも、救急隊員を誘導してくれたのも、そのあと対応してくれたのも全部…桃地さんだった。
桃地さんのお父さんの姿を、その声すらも、あたしは知らない。
「桃地さんのお父さんがどうかはこの際いいんだ。ただ、この神社に確実に居ると判明しているのは、桃地さんだけ。つまり─」
「─もういいわ」突然、桃地さんが声を発した。
静かな湖畔に馴染むような、凜とした声。いつもの、なよなよしく、優しいものではない。
「─ご明察よ、安藤くん。まさか百年も経って、正体を見破られるなんてね」
ご明察?あたしは桃地さんを見た。そこにはもう、人当たりのよい顔はなかった。感情の希薄な人形のような、更に言えば人間ではないような表情があるだけだった。
「じゃあ、本当に君は─」
「そうよ。私の名前はモモ・ティッサリ。最初のクライム・ヘイヴンよ」
あたし達の間に、風が吹いた、気がした。
クライム・ヘイヴン。桃地さんがそう言った。アンディの妄想の中に現れた名前を、事も無げに口にした。わけが分からなかった。
「それで、私に連れていって欲しい所があるんだって?」
別人のように落ち着き払った桃地さんがアンディに訊ねる。何事もないように。
アンディの夢物語に桃地さんが同調している。どうして?桃地さんも同じ夢を見たとか?いやいやあり得ない。…じゃあ本当にエルフとか?もっとあり得ない。だとすると…桃地さんがアンディをからかっている、とか?…それはなんか腹立つ。
「イグトレイシアに行きたいんだ」アンディの口から狂気の単語が飛び出る。けれどそれに桃地さんは平然と返した。
「何で?観光かしら」
「返したいものがあるんだ」
「返したいもの?誰に」
「フレイヤ・アルフヘイムに」
桃地さんの表情に少しひびが入った。アンディは言葉を続ける。
「君はフレイヤの助けになりたい、そう思っている。だよね」
桃地さんはしばらく黙っていた。やがて口を開いた。
「何の話をしているの?」
「フレイヤ・アルフヘイムの計画の話だよ」
再び桃地さんは黙る。アンディを値踏みするように睨み付ける。
「彼女の計画は、名探偵に扮して姿をくらまし、頃合いを見計らって証拠を手に汚名を晴らす。ということでいいんだよね」
「……あなた、どこまで」
桃地さんは信じられないものをみるような目で、アンディを見た。これを、アンディをからかう為にやっているのだとしたら大した演技だ。
「さっきも言ったけど、昨日一日、俺はフレイヤと体を入れ替えられていたんだ。その事に気付いたのは今朝だけど、それまでに得られた情報をまとめると、そういうことになるんだよ」
アンディが、有平さんと体が入れ替わっていたという話を口にした。口にしてしまった。その妄想、どう考えても二番煎じじゃん!流石に桃地さんも笑い出すのではないかとあたしは戦いたが、そうはならない。
「…それで?そのフレイヤ様の計画と、あなたの返したいものとが関係あるの?」
フレイヤ様、という言葉が耳に引っ掛かる。
「いや、あまり関係ないんだ」
「え?」あたしは思わず声を出した。それに桃地さんの声も重なる。
「でも、危険が迫っていることに気付いてしまった。俺はもう、あの人の顔を覚えていないんだけど、それでもあの日、遊んでくれたことは覚えているんだ」
何の話だろう。あたしには分からない。
「だから何というか、見て見ぬふりはしたくない。俺に出来ることならしたいんだ。返すのはそのついで、かな」
「そう。あなたの在り方は分かったわ。悪意で動く人間ではないということも、普段の生活を見ているから知ってるし。でも、危険というのは何?体が入れ替わっていたと言ったけど、じゃあ昨日こちらにフレイヤ様が来られていたというの?」
「そういうことになる」
すると桃地さんの目が鋭く光った。隙を見せた相手に飛び掛かる猛禽類のように。
「それはあり得ないわ。あの方がこの世界に来られたのなら、私が気付かないはずもないもの」
いや普通気付かないよ。
「そんなこと言われてもなぁ…。あ、あれじゃないか?魔法が使えなかったから、とか」
「魔法が使えなかった?どういうこと」
あたしには、会話が成立していることが信じられない。真面目な顔で魔法について語り合う二人は、それこそゲームの話をしているようにしか見えない。
「俺が魔法使えるように見える?この体に入っていたから気付かなかったんじゃないかな。そういえばあのスキュラも、はじめは仲間だと分からなかったみたいだし」
「それはさっき言っていた録音のこと?よければ聞かせてもらえないかしら」
桃地さんにそう言われ、アンディは自分のスマホを取り出して操作し始める。あたしはもう、置いてきぼりとなっていた。
やがてアンディのスマホから爆笑が聞こえた。さっき聞いた録音の、出だしのところだ。
アンディがラビュリントスだとか言った辺りまで聞き終えると、桃地さんは静かに溜め息を溢した。
「そう…安藤くんの話は分かったわ。でも、危険というのは?具体的にフレイヤ様はどういう状況なのかしら」
「それはさっき言った通り、俺が魔法を使えないことに起因するんだ。正確には、魔法を使えないヤツと体を入れ換えてしまったこと、かな。フレイヤの計画では多分、名探偵に変身して水面下で動くことだったんだと思うんだけど、俺が向こうに行ったことで変身が解けてしまった」
すると、そこまで聞いた桃地さんの顔が、さっと青くなった。
「俺は向こうにいる間、ずっとフレイヤだった。だからクライム・ヘイヴンにも命を狙われていた。こんなことは多分、計画には含まれていなかったはずだ」
「…じゃあ、今フレイヤ様は…?」桃地さんが狼狽している。さっきから初めて見る桃地さんばかりで、夢でも見ている気分だ。…もしかしたら、まだ病院でうたた寝しているのかもしれない。
「分からない。正体はバレている。俺が向こうで見た最後の光景は、図書館だった」
「図書館?どこの?」
「ドワーフの。大国立図書館、だったかな」
「…それは、あまり良くないわね」
「そうなのか?そこでクライム・ヘイヴンに襲撃されて、それをトーマスが助けてくれたんだけど」
「トーマス?トーマス・キャロットのこと?」
「そうそう。レイクダイモン課長の」
かちょう……え課長って言ったの今?
「レイクダイモン?ああ、警察国の?課長なのね、トーマスさん」
「それは知らないのか」
「ずっとこっちにいるからね。でも…大国立図書館にいるのは良くないわ。レイラ・タレスのお膝元だし」
「レイラ・タレスって、領主だっけ?いい人そうだったけど、駄目なのか?」
「いい人ではないわ。彼女がクライム・ヘイヴンを主導しているのよ」
アンディが絶句した。かくゆうあたしは会話についていけていない。横文字だらけで、もうよく分かんない。
「でも…確かレイラさんはトーマスの元上司じゃなかったっけ?じゃあトーマスも…?」
「トーマスさんは大丈夫じゃない?クライム・ヘイヴンから守ってくれたんでしょ?その襲撃は、恐らくレイラの仕組んだもの。そのクライム・ヘイヴンから守るってことは、そういうことね」
桃地さんの話にアンディが安堵を浮かべた。その表情を見ただけで、何故かあたしもほっとする。
「でも、立場的には厳しいわよね、それ。トーマスさんが警察なのだとしたら、職務を放棄しないと、フレイヤ様を守れない」
「その場合はどうなるんだい?」
「最悪、連行されているんじゃないかしら」
「連行?警察に?」
「いいえ。恐らくヴァルハレア。今日はちょうど定例評議会なの。フレイヤ様もそれを狙って動かれたのでしょうけど、相手はそれを逆手に取るのではないかしら」
「評議会って確か、中央都市で開かれる、政治を執り行うやつだっけ」
「そう。この国、ニホンで言うなら行政、司法、立法の三権、これを司るもの。だからこの評議会で、直接裁く気なのではないかしら。不意を突くにはお誂え向きよね」
「そうか…。じゃあそれを前提に動こうか」
「待って。これはあくまで最悪の場合よ?その状況にあるかどうか分からないわ」
「確かに、それは行ってみないと分からない。でももし、その状況に陥っているのだとしたら、あまり悠長には構えていられないだろ?今日がその定例評議会なんだから。だとしたら、最悪を想定して、最善に動くのが得策だと思うよ」
桃地さんはしばらく思案するように黙った。「…分かったわ。ヴァルハレアに連行されていなかったとしても、されていることを前提に動いて支障はなさそうね。で?何か考えがあるのでしょ?」
「ああ、もちろん」
アンディが今後の動きを説明した後、あたしたちは桃地さんに連れられて境内を移動した。
桃地さんは自分の敷地ということもあるのか、一切の迷いも見せずにずんずん進む。
桃地さんはいつまでアンディの話に付き合うのだろう。あたしが言うのも何だけど、朝練があるんじゃなかったっけ?あたしが言うのも何だけど。
そうこうしている間にお社に着く。
桃源神社のお社はそこまで大きくはない。控えめな賽銭箱がひとつと、その上からは根本に大きな鈴を付けた綱が赤、白、青のカラフルな螺旋を描いて垂れている。その奥では小さめな障子が閉まっていた。
大きくはなくても、やはりこの前に立つと何だか厳かな気分になる。小さい頃から事ある毎に参拝した、地元の身近な神社だからだろうか。この前で柏手を打つことが体に染み付いている気がする。
その聖域とも言うべき場所に、桃地さんは歩みを止めることなく入っていく。そして賽銭箱を避け、あろうことか奥の、ぴたりと閉まっている障子に手をかけた。
そこ開けていいの!?アンディの妄想に付き合って、そこを開けるって、何か罰が当たるんじゃないの!?
あたしの心配をよそに、桃地さんは障子を開け放つ。そして、こちらを振り向いて手招きした。
全く怯むことなくアンディが続く。
だからあたしも、恐る恐る付いていった。
桃地さんに付いて障子をくぐると、空間が急に広がった。
小さな家に入ったときに、案外、中は広いんだなと思ったことはあるけれど、このお社はそういうのとも違う気がした。
あの、さほど大きくない外観からは想像もつかない広さ。しかも内装がおかしい。
大理石。どういうものが大理石なのかはよく知らないから、断定はできないけど、真っ白い石の床が一面に広がっていた。そして同じく白い柱が高々と幾本も伸びている。それらが支えている天井は透けていて、今朝の青空が窺えた。
これほんとにお社?まるで中身だけ別の建物のようだ。
桃地さんは部屋の中心に向かう。そこには生贄でも捧げるような、大きめの丸い台があった。その脇の、数段の階段を上がり、桃地さんがこちらを向いた。
「ここよ」
アンディが桃地さんに倣って祭壇に上がる。
「結城さんも連れていくの?」桃地さんが何を言っているのか分からない。
「ああ。ユッコも行くだろ?」アンディも何を言っているのか分からない。
「…え、どこか…行くの?」
状況が飲み込めていないあたしを見て、桃地さんは首をかしげた。「安藤くん、本当に連れていくの?」
「ユッコには頼みたいことがあるんだ。それに、一緒にいないと具合が悪いみたいだし」
アンディがそう答えて、あたしの方に手を差し出した。
あたしは戸惑いながらも、その手を掴んだ。
桃地さんが溜め息を吐く。「全く。本当に仲が良いのね」
「そういうんじゃないよ。幼馴染みなだけだって」アンディが面倒臭そうに言い返す。
「でさ、ここで何するわけ?」
「だから何でユッコは否定しないんだよ」
アンディのその言いぐさに、桃地さんはふふ、と息を洩らした。そして突然、あたしの手を握ってきた。びくっとなるあたしに構わずに、桃地さんは空いた方の手を自分の正面に差し出した。
「じゃあ、いくよ……『世の理を司りし天輪よ、新たな常世へ我らを導け─!』」
桃地さんがそう唱えると、祭壇の周りが銀色に包まれた。きらきらと瞬く白銀の雲のような、綿のようなものが渦を巻き、ごうごうと辺りに立ち上る。
マジックかな。どういう仕掛け何だろう。それとも本当に…。あたしはアンディの手を力一杯握り締めた。
『─メタスタシス!』
轟音が響く。鼓膜ごと脳を殴り付けられたような衝撃。銀色と轟音に全てが飲み込まれ、自分の体が溶けてなくなってしまったかのようだった。
そして気付いたら、銀色の霧が晴れていた。
目の前の、建屋の内装が、先程までと比べて随分と荒れてしまったように見える。大理石は割れ、柱にはヒビが走り、天井はすりガラスのように曇って見える。まるで寂れた廃屋のような有り様だ。今の衝撃のせいだろうか。
「……もう、着いたのか?」アンディも辺りをきょろきょろと見回している。
「ええ。ここはまだレイクダイモンの端に放棄された祭壇だけどね」
「な─っ!…クライム・ヘイヴンへの入り口は、警察国の領内にあるのか!?」
「木を隠すなら森。灯台もと暗し。ニホンでもそういうでしょ」
桃地さんは、さっき上った、祭壇の脇にある階段を、今度は下る。アンディもそれに続くので、彼の握った手を放さないように付いていく。
桃地さんが廃屋を出る。あたしたちも一緒になって後にする。
森だった。人気のない、雑草や蔦が伸び放題の森だった。
おかしい。さっきは整えられた石畳の上を歩いてお社に来たはずだ。出口が違ったのだろうか。そう思いながら振り返る。
そこには苔の生えた、石造りの建家があった。木造の、お社ではない。
理解が追い付かない。また前を向く。見覚えのない森がある。また振り返る。お社はどこにもない。
「ユッコ」アンディの声がして、はっとする。彼が隣から心配そうに覗き込んでいた。
「次いくよ。あまり時間もないのだから」いつの間にか隣に来ていた桃地さんが、またあたしの手を取る。呆然とするあたしはされるがままになる。
「ここからコリンソスにいくのか?」
「ええ。そこに用があるのでしょ?」
桃地さんがそう答えた途端、景色が目まぐるしく揺れた。
そうして気付いたら石造りの街の中に立っていた。
思い返してみても、わけが分からない。歩いたわけでも、走ったわけでもない。電車もバスも車も自転車も、ましてや飛行機も使っていない。立っていただけ。立っていただけなのに、瞬きをしている間に神社が廃屋になり、森がヨーロッパの街並みに変わった。
記憶はどこも間違っていないはずなのに、何もかも間違っている。
「─ここからは、ユッコに頼もうかな」アンディのその言葉にも反応できない。
「安藤くん、結城さん完全にパンクしてるみたいだけど」
桃地さんが喋る。もし、さっきのアンディの言葉が本当なら、桃地さんはエルフで、エルフはゲームとかファンタジーに出てくるアレで、そのエルフが“パンク”とか言ってて…。
「大丈夫だ。ユッコなら分かってくれる」
アンディが自信満々にそう答え、当のあたしはきょとんとなる。
「…まぁいいわ。それで?ソフィアってどんな人なの?」何がいいのか知らないけど、エルフな桃地さんが勝手に話を進める。
「それは俺の記憶しかないんだけど、そこから復元するんだろ?言葉で伝えた方がいいのか?」
「いいえ。そのあなたの記憶を直接読み取るの。だからソフィアっていう警察官を、頭の中で正確に思い描いてほしいんだけど」
二人の会話がカオスだ。
「そんなことができるのか。やっぱ凄いな、魔法って」真顔でそう頷くと、アンディは目を閉じて眉間に皺を寄せた。
健気にも言われた通りに思い描こうとしているらしい。この表情を見て、桃地さんがほくそ笑んでいるんじゃないかと彼女を見たけど、桃地さんも真面目な顔でアンディの頭に手を添えるものだから、あたしは全く笑えない。
人混みの中で一体何をしているのだろう。そう思って辺りを窺ってみるが、そこには人馬が駆け回っている。あたしは自分の頭がおかしくなったとしか思えなかった。
桃地さんが、空いた手の方をあたしに向けて開く。あたしはその手のひらをぼうっとした心持ちで眺めた。
すると違和感を覚えた。体がふわりと浮いたみたいに、視界が上に動いたのだ。そこであたしは確信する。あ、これは夢だ。
「…こんな感じかしら」
桃地さんはいつの間にか両手を下げていた。着ている服が全部、窮屈に感じた。アンディが閉じた目を開く。
「おお…っ!ソフィアだ!凄いな!」
アンディがあたしを見て、何かに感動している。てか、ソフィアって誰よ。
アンディが自分のスマートフォンを取り出した。それを少し操作して、その液晶をあたしに向ける。
「ほら。これが今のユッコだよ」
向けられた画面はどうやらカメラアプリのインカメラものらしい。そこにはあたしが映っ─。
「…………え、だれこれ」
白人女性がこちらを見ている。…なんで?
あたしは受け取ったスマホをきょろきょろと動かした。すると白人女性が角度を変えながら、それでもこちらを向いていた。
白い肌。高い鼻。ぱちりとしたブルーの目。金色の髪。見たこともない外国人が、あたしの動きに合わせて首を動かす。
……なにこれ。
あたしは無意識に視線を下げていた。
そこには自分のものとは思えない大きさの胸があった。
「………なにこれ」唖然とするあたしを余所に、アンディは浮かれた口調で言った。
「セイズ級の変身魔法だよ!それで今、桃地さんに、ソフィアの姿をユッコに投影してもらったんだ」
「……いや、ちょっと何言ってるのか分かんない」言いながらあたしは、両手を自分のものと思われる胸に当てる。「わおすごいぼいんぼいん」
「何だよその感想」
「アンディこういうのが趣味だったんだ?」
「何でそうなるんだよ…てかなんかデジャヴだよ」
「言われた通り、結城さんに魔法をかけたわ。…でも本当に大丈夫なの?すぐバレる気がする」
「大丈夫だって、ユッコなら。そっくりなんだから」
無条件に信頼してもらえるのはありがたいけど、一体あたしが何にそっくりなんだろうか。
「ユッコには今からあれを取ってきて貰いたいんだ」
「……あれ?あれって何?」
アンディを見ると目の高さが同じだった。なるほど、夢の中だから身長も思いのままなんだ。
「さっきも言ったじゃないか。名探偵の、アンディ・レイの衣装だよ」
長い廊下を歩く。
入り口にいた人も、すれ違う人も、あたしに敬礼して挨拶してくる。だからあたしも見よう見まねで敬礼して返す。
改めて自分の胸元を見下ろした。相変わらず違和感の塊みたいな胸がそこにある。
変身魔法とかいうのをかけられた直後は、着けていた下着のサイズが全く合わず、とても苦しかったのだが、それを訴えると桃地さんが指を振った。するとそれに合わせて苦しさがなくなった。
「布の繊維の隙間を広げて無理矢理大きくしたのよ」
大したことではないと言いながら、桃地さんは尚も指を振り、ブラウスとスカートのサイズも調整してくれた。途端に窮屈さが消え、着心地がよくなる。
「服のサイズまで変えれるのか。もう何でも─」あたしを見ながら感心していたアンディが突然視線を逸らした。何だか顔が赤くなっている。何だというのか、とまたあたしは自分の体を見下ろす。
「無理に伸ばしてるから、やっぱりどうしても、布が薄くなっちゃうのだけどね」
あたしは目の前の光景に絶句した。ブラが…透けてる!?
慌てて両手で隠す。顔がかっかと熱くなった。
「目眩ましの魔法をかけておくわ。それで見えないでしょ」
「それ、先にかけといてよ!」あたしは絞り出した声で抗議した。けど桃地さんはけろりとしている。
「今更恥ずかしがるものでもないでしょう。二人付き合ってるんでしょ?」
「だから違うって!」
その後、桃地さんにちゃんと見えないようにしてもらい、あたしは顔の赤いアンディから説明を受けた。
「中に入ったら、ゼップという人を探して」
「ゼップ?」
「そう。トロールのゼッポレ・ディ・サンジュゼッペさん」
「トロール!?大丈夫なの、それ!」トロールってあの、大体モンスターとして出てくるヤツだよね!?大きくて緑色で凶暴で何か棍棒とか持ってて─。
「ユッコ、それは偏見だよ。トロールは怪物じゃないんだから」
「そ…そうなの?捕って喰われたりとか…」
「しないしない。ゼップはいい人だよ」
「人じゃないと思うんだけど…」
「とにかく、彼にはゼッポレって言ってあげて。否定されても、間違ってないからね」
「何それ、どういう説明?」
そこに桃地さんが割り込んできた。
「一応、翻訳魔法もかけておいたから、会話はできるわ。とにかく、その衣装さえ手に入ればいいんだから」
だからアンディの衣装って何。
あたしはもう、今の状況を夢として認識していた。アンディが変なのも、桃地さんが魔法使いなのも、ケンタウロスが走っているのも、瞬間移動も、身長が伸びるのも、全部夢の中だからだ。そう思うと急に心が軽くなった。そうと分かれば好きに過ごせばいいだけだ。
あたしは白一色の廊下を、我が物顔で闊歩した。大きな駅の中のように広い。けれどその壁にたまに付いている扉も大きく、駅というより巨人の洞穴みたいだ。上を見ると、天井にはぽつりぽつりと、等間隔に電灯が並んでいる。
メルヘンな夢の中でも電気はあるんだなぁ。
そんなことを考えながら歩いていると、前方から声がした。
「ぬお、ストレングス刑事じゃねぇかー?また誰か殴ったのかー?」
低く間延びした、力の抜ける声だった。
誰に話しかけているのか。それを確認しようと、電灯から目を離し前を向こうとした。
正面から何かにぶつかった。よろめいて転びそうになる。すると背中を、大きな何かに支えられた。
「おい、だいじょーぶかー、刑事ー?」
「ああ、ごめんなさい」刑事ってあたしのことか。…今刑事だったんだ。知らなかった。声のした方を見上げる。随分と高いところから声がした気が─。
見上げた先で、巨人がこちらを覗き込んでいた。
「ひっ─!」
「あー、おう、すまねぇー刑事ー。今のはセクハラじゃねーぞー」言いながら巨人がのしのしと、両手を上げて後ずさる。「刑事がぶつかって、倒れそうになってたからよー」
「い…いえ……こちらこそ、ごめんなさい」
「何だよー。今日はよそよそしいなー。何か企んでるのかー?」
巨人がうろんな目で見つめてくる。彫りが深く卵のように丸い顔。古い映画に出てくる、フランケンシュタインの怪物みたいだ。
そこで、さっきのアンディの言葉を思い出した。
“トロールは怪物じゃないんだから”
「…もしかして……ゼッポレ?」
「だからパンじゃねーって。ゼンポール・ジョセフ・ペランドールだよー」巨人は面倒臭そうに答えた。「てか、俺のこと分からねーのかー?刑事も記憶喪失なのかー?」
「…記憶喪失?」
「レイさんのことだろー。あの人の警護は終わったのかー?」
「いや、えと……今は別件で来たの」
「別件ー?」巨人が頬をぽりぽりと掻く。その姿に愛嬌があって、思わず笑ってしまった。
「ぬお、どうしたんだー?」
「いや、ごめんなさい。何だか可愛かったから」初めて会った巨人に、面と向かって可愛いなんて言うとは。
自分でも信じられなかったが、夢の中だから、思ったことを口にしてしまう性分にブレーキがかからなくなったんだろうか。
あたしの可愛い発言に、巨人は固まった。やっぱ可愛いはマズかったかな。
「…あ、えっとね、アンディの衣装を貰いに来たんだけど」
「ぬ、ぬおっ。ア、アンディの衣装ー?そんなの、どどうするんだー?」
口調がゆっくりな上にたどたどしい。トロールってみんなこんな感じなのかな。
「さぁ。持ってきてって言われただけだから」
「キャロット警部に言われたのかー」
「いや、アンディに─」
すると巨人は怪訝そうに眉をひそめた。「アンディー?」
「…あ、いやそう!警部に!警部に頼まれたんだっ!」
「そうかー。分かったよー。じゃあちょっと、そっちの部屋で待っててくれー。今持ってくるからー」
巨人は右手にあった巨大な扉を指差すと、のっそのっそと歩いていった。
あたしはその背中を見送ってから、扉の方を見やった。
また随分と大きな扉だ。奈良の大仏…ほどはないけど、圧迫感が凄い。形だけなら、ヨーロッパの古いお城にありそうなだ。その扉の中腹にノブだろうか、巨大な輪っかがぶら下がっている。
部屋で待っててって言ってたけど、どうやって開けるわけ?あのノブはどう考えても届かない。そう思いながら視線を下ろしていくと、ちょうどあたしの肩くらいの高さのところに縦の棒が付いていた。
よかったー。これで入れる。あたしはその棒を掴んで押してみた。ぴくりとも動かない。押してダメなら─と一般的な対処法を試みたけど、引いてもダメだった。
今度は全体重をかけて押す。更に引く。そうして悪戦苦闘し、もしかしたらこんななりして、実は引き戸かもしれない、と考え始めていた頃、のっしのっしと巨人が帰ってきた。
「ぬお、部屋の中で待っててって言わなかったかー?どうしたんだ、そんな汗だくでー」巨人があたしを気遣ってきた。手に何か、紫色のものを持っている。
「いやーあのー…筋トレ?…とか?」あたしは額の汗を拭いながら答えた。「で、アンディの衣装は?」
「あー、これだろー?」
巨人が摘まむように持ったそれを渡してきた。その大きな手から受け取ってみると、何だかわしゃわしゃとしてこそばゆい。何が痒いのか、とそれを広げてみて、言葉を失った。
ラメが入った紫。その上下セット。襟首と袖口の所には色とりどりの羽根。背中には赤いマントと、付属品には仮面舞踏会みたいな黒いマスク。
「趣味わる」思ったことが口を突く。
「だよなー。こんなの似合うのアンディ・レイくらいだよなー」
「いや、アンディを何だと思ってるわけ」
「え」
「え」
無言のまま、巨人と見つめ合う形になる。巨木の虚のような窪み。
「と─とにかく、わ渡したからなー」
巨人が何故かわたわたと慌てふためく。
「ありがとうございます。えとー…ゼッポレさん、でしたっけ」
「だからパンじゃねーって。ゼンポール・ジョセフ・ペランドールだってー」慣れた言い回しなのか、今度は淀まずにすらすらと口にする。あまり威圧感も感じない。アンディが言った通り、どうやらこのトロールはいい人らしい。
「ごめんなさい、ゼンポールさん」
「え………。ぜ…ゼップで、いいよー」
「ゼップ…さん?ありがとうございました。じゃあ行きますね」
あたしははきはきと挨拶をすると、回れ右をして来た道を戻った。
途中、ふと振り返ってみてみると、ゼップは脱力したようにこちらを見ていた。そして、あたしの視線に気づくとばたばたと挙動不審に動き、最終的にこちらに手を振ってきた。だからあたしも手を振り返して、出口へと急いだ。
「で、何で私たちが外なんですか!?おかしくないですか!?」隣でソフィアが喚いている。トーマスは溜め息を落とした。
ヴァルハレア城内。評議会の前で、トーマスは部下に手を焼いていた。
「君は重傷なのだ。もう少し大人しくしておきたまえ」言いながらソフィアを眺める。彼女は包帯やガーゼで白く覆われていた。
右上腕骨、尺骨、橈骨、左大腿骨、肋骨複数骨折。内臓破裂。折れた肋骨が刺さったことによる気胸。その他擦過傷、裂傷、打撲等々。医療魔法によって幾分かは治療されてはいるが、まだ歩くことも儘ならない。そんなソフィアは今、浮遊補助椅子の世話になっていた。
「重傷?どこがですか?もう私は完治してますよ!ぴんぴ──っ!」ギブスを巻いた手を振り回していたソフィアは、激痛に襲われたらしく、息を詰まらせた。
「言わんことではない。君は此処で大人しくしていたまえ」
「ぐっ………ここでって、どういう意味ですか」痛みを堪えながら、ソフィアが睨んでくる。
「中へは私一人で行ってくる」
「…何でですか。入室は許可されていません。入れないですよ、警部」
「それでもだ。私は、行かねばならない」
「ワケわかんないですよ!何があったんですか?」
いつもおどけた調子のソフィアが、真剣な様子で訊ねてくる。それにトーマスは応えられない。
「おかしいですよ!警部は規則違反しようとしてるし、レイはどこにもいないし、クライム・ヘイヴンとアンディ・レイは捕まるし、各国の領主も…。私が寝ている間に何が起きたんですか?教えてくださいよ、警部!」
「それは…君は知らない方がいい。知れば恐らく、ただでは済まない。これ以上君に何かあれば、私は─」
「十分ですよ、警部」
トーマスはソフィアを見た。満身創痍にもかかわらず、彼女は強い目をしていた。
「家族を失って…こんなになって……。もう、既にただでは済んでないですよ。それでも私は、レイを護ると決めたんです。アレックスが護り抜いたものを、今度は私が護るんです。レイは…レイは、どこに行ったんですか!」
トーマスは揺れた。ソフィアの気持ちも汲んでやりたい。しかし、これから行おうとしているのは、謀叛だ。世界に反旗を翻す行いだ。勝算はない。動機はただ、トーマス自身が黙って見ていることができない、それだけだ。その戦いに果たして、ソフィアを巻き込んでよいものか。一朝一夕に答えが出るものではなかった。
その時、遠くから足音がした。トーマスの耳がぴくぴくと反応する。数は三。こちらに向かって歩いている。
「ソフィア、よかった。無事だったんだな」男の声がした。トーマスが振り返ると、男が一人と、人間の少女が一人、そしてエルフの女性が一人がいた。
「あ!さっきのあたしじゃない!?そうだよね、さっきの刑事さん!」人間の少女がソフィアを見つめて大声を上げた。それにソフィアは面食らっている。
「失礼だが、君達は?」状況を掴みかけたトーマスは、とりあえず質問した。
「お久しぶりです、トーマスさん」エルフが話しかけてきた。
はて、何処かで会ったろうか。思い出そうとするが、上手くいかない。すると彼女は少し寂しそうにふふっと笑った。
「覚えていらっしゃらないのも無理はありません。私はヴァルハレアに詰めていた者の一人です。何度か擦れ違ったくらいの者ですし、何よりあの日以降、島流しにされていたので」
そこまで聞いて漸く思い至る。「なるほど…最初のクライム・ヘイヴン。君が最初の犠牲者か」
トーマスが感慨に耽っている間に、男はソフィアに話しかけていた。
「ソフィア、合言葉は覚えている?」
「…合言葉?」
「何それ?いつそんなの決めたわけ?」
身に覚えのないらしいソフィアの傍で、少女が騒がしい。男はその騒音を気にも留めない。
「ミュテイネラで決めたじゃないか」
「………え、それって─」
「コナン」
ソフィアは言葉を失って男を見ていた。そしてまごつきながらも、どうとか、と口にした。
「ドイルだって」男の声が笑う。「そんなに長くないじゃないか」
「え………うそ待って……レイ、なの?」ソフィアのその発言に、トーマスは合点がいった。
「…そうか。君はレイさんなのか」
「はい。昨日は守っていただいて、ありがとうございました」
すると傍らの少女がトーマスのことをじっと見つめ、急に大声を出した。「あーっ!!あのウサちゃんねっ!姫を守ったナイトなウサちゃん!」
「おいユッコ!失礼だろっ」
ウサちゃん?トーマスは首を傾げる。一体何を示す言葉なのか。
「ちょっと待ってよ!…え、レイなの?でもレイは女子のはずじゃ…」
ソフィアはまだ理解できていないらしく、両手で頭を抱えていた。「…というか、何その格好」
「ごめんソフィア。説明したいんだけど、今はあまり時間がないから」
その言葉に、トーマスは引っ掛かる。この場所で時間がないという状況は限られている。
「…レイさん、何かするつもりなのか」
するとレイは仮面の下で、軽やかに笑ってみせた。
「もちろん、お姫様を助けるんですよ」
「─あなたはいつも、大事なところでポカをするんだから」フレデリカが囁くように、微笑んでいる。
いつの間にか、視線が低くなっている。視界の端で赤い髪が揺れている。アンディ・レイに変身しているはずのわたしは、本来の姿に戻っていた。強制的に戻された。呆然とするわたしを余所に、フレデリカは会場に響くように言葉を続けた。
「彼女こそが、かの名探偵アンディ・レイの正体。百年前に滅亡したアルフヘイムの元王女、フレイヤ・アルフヘイムです!」
会場がざわめきに満たされる。会館内の全ての目がわたしに向けられている。
「そして彼女こそ、現在問題となっており、今回その一部の逮捕に成功した、犯罪組織クライム・ヘイヴンのリーダーなのです!」
どよめきが大きくなる。わたしは思考が上手く働かず、形勢が絶望的になっていることに、なかなか気付けなかった。そんなわたしに、フレデリカが静かに囁いてくる。
「もう少しだったのにね。残念」
わたしはフレデリカを睨み付けた。けれど何も言えなかった。
何故負けたんだ。お父様の、兄上様の、アルフヘイムの民達の無念を張らそうとここまで来たのに。何故こうなった。
いつの間にか視界が滲んでいた。わたしの涙でふやけたフレデリカが、続ける。
「これでもう、貴女はおしまい。手を煩わされたけど、でも安心して。命までは取らないわ。貴女は大切な血なのだから」
その言葉の意味が、わたしには分からない。
ざわめきが落ち着き始める。フレデリカはまた、場内を煽動するように、声を張り上げた。
「かつて自身の国を、自らの欲望のために滅ぼした、滅亡王デイン・アルフヘイム。ここにいる彼女は、その凄惨な栄光を再び我々に思い知らせようとしていたのです!」
フレデリカの演説に、拳をぎゅっと握る。悔しさに、唇がわなわなと震えた。彼女は詫びれることすらなく、またお父様を名を貶めた。赦せない。でももう、何もできない。名探偵の仮面は壊れてしまった。ここにはもう、犯罪者としてのわたししかいない。この場にいる誰もがわたしを有罪だと糾弾するだろう。そうなればもう、わたしの主張は誰にも届かない。
わたしは、もう─。
その時、背後で扉の開く音がした。
「今回、五人の領主が逮捕されるという、我らがイグドレイシアにおいて未曾有の混乱、その諸悪の根元こそがここにいる、フレイヤ・アルフヘイムなのです!」
会場が罵声に包まれる。その通りだ、吊し上げろ!あの親にこの子ありだ!イグドレイシアの恥め!恥知らずの血族が!
かつてアルフヘイムの、デイン王の城であり、その格式高い元貴族会館で、かつての王族への罵詈雑言が飛び交っている。その光景が、悲しく、寂しく、わたしには映った。
その、狂乱怒濤の騒音を静かに切るように、一人の男の声がすっと響いた。
「─と、いうことにしたかったんですよね、領主様」
会館中の視線がわたしの後ろに向けられた。誰もが、驚きのあまり一言も発せられない、と無言で訴えるように、口をあんぐりと開いたまま固まった。
「─誰ですか。貴方は」フレデリカの冷たい声がした。顔を見上げると、そこには先程までの余裕な表情はなく、目を強張らせ凝視していた。「あり得ない。そんなはずは─」
「…誰とは。お言葉ですが領主様、一目瞭然でしょう」男の声が、会場に染み込む。
わたしはその声に惹かれるように、ゆっくりと振り返った。
そして言葉を失った。紫だ。きらびやかな深い紫のジャケット、その首回り、そして手首にはカラフルな鳥の羽根があしらわれ、絢爛な様子を見せている。胴には縦に黒いラインが走り、腰辺りには紫が膨らんでいた。タイトな紫のパンツはシルエットを綺麗に演出している。それらの衣装を颯爽と着こなした男が、ハイセンスな黒いマスクを身に付け、そこにいた。
わたしも驚きを隠せない。その姿はまさしく、名探偵のものだ。わたしがデザインしたわたしだけの衣装。それを着たわたしが、わたしの目の前にいる。
「─見ればわかるでしょう」男が一歩を踏み出す。それに合わせて会場が息を飲む。
「しかし、敢えて名乗らなければならないというのならば、仕方ありません」男の靴がかつんと鳴る。澄んだ水面に波紋を生むように。
男は両足を揃え、背筋を伸ばす。
「─そう、この俺、…いや、この私こそが名探偵─」高々とポーズを決め、評議員の全員を睨み付ける。
そして、誰もが固唾を飲んで見つめる中、それを引き裂くように口を開いた。
「─異世界探偵、アンディ・レイだ!」
第十二話「フレデリカ」は8月25日に投稿予定です。




