2 メリザと青年
「あなた、見たところ軽装だけど、ご旅行? どちらまで?」
ほらきたとメリザは心の中で嘆息した。感謝しているのなら、なぜそんな詮索をするのか、と。顔を正面に向けたまま、視線を向けないのを返事とした。
「ああ、そうよね。そんなことを言ったところで詮無いことよね。これだけたくさんの人の中で、偶然居合わせただけですものね。最近、物騒だから、どこに行くかなんて言うべきじゃないのかもしれないわね」
女がそう言うと、メリザはひと口コーヒーをすすった。
「私ね、ノーステリアに行くの。故郷に帰るのよ。この街で一生過ごすつもりだったけど、ここは人が多すぎたわ。やっぱり、田舎者には田舎の水が合ってるんでしょうね」
メリザは女の方をちらと見た。品のよさそうな女性だが、メイクでは隠しきれないあざが顔にあった。
「途中まであなたと一緒なら安心できると思ったのだけど、そんな都合のいい事ないわよね。この子のためにも、私がこれからしっかりしなくちゃいけないのにね」
再び列車の到着を告げるアナウンスが流れ、人の流れがまた慌ただしくなった。
「ノーステリアに行くのなら、次の列車じゃないんですか?」
メリザが女をせかすように言った。が、女はメリザの方を向き、笑みをたたえていた。
「よかった。やっと口を利いてくれた。せっかく知り合えたのに、ひと言も交わせないままじゃ、寂しいものね」
女は少年の手を取り立ち上がった。
「そうね。それじゃあ、そろそろ行くわ。でも、慌てる必要なんかないのよね。ひと便くらい乗れなくたって、故郷に帰れないわけじゃない。乗れなかったら、またここに戻ってくるわね。こんなおばさんでよかったら、また話し相手になってちょうだいね。あ、あなたが暇を持て余していれば、の話だけど」
メリザは頬杖をついたまま、そっぽを向いていた。女が少年を促す。
「ほら。あなたもお姉ちゃんにお礼を言いなさい」
すると少年はメリザの正面に立つように移動し、屈託のない笑顔を向けた。
「ありがとう。お姉ちゃん」
コーヒーを渡したときのよそよそしい態度は子供特有の照れだったのか、あるいは自分に子供を怯えさせる態度があったのか、メリザはそんな風に思った。
「それじゃあね。あなたは迷惑だったかもしれないけど、私は楽しかったわ。くれぐれも変な気は起こさないでね」
はっとして思わず女の顔を見上げた。相変わらず穏やかな笑みをたたえている。
「私ね、つい最近までここに頻繁に通ってたの。列車に乗るわけじゃない。別の目的があったの。でも、この子のおかげで思い止まれたわ。その頃の私と雰囲気が似ているのよ、あなた。ただの思い過ごしであればいいんだけど。そんな私が余計なお世話と思うけど、あなたにも、きっと大切な人がいるはずよ。今は思い当たらなくても、近い将来、きっとそんな出会いがあるはずよ。だから、列車に乗る目的でないのなら、あなたはここにいるべきではないわ」
メリザは溜息を吐き、
「本当にただの思い過ごしで、大きなお世話ですね。私はちゃんと列車に乗るためにここに来て、ここに座ってるんです。テレビドラマの見過ぎなんじゃないんですか」
「そう。ならよかったわ。確かに、私は少し神経が過敏になってるのかもね。失礼なこと言ってごめんなさいね」
女は笑顔を絶やさぬまま、少年の手を引きつつ人波に消えた。メリザは息を吐いてベンチにもたれかかった。周囲は相変わらずの雑踏。大勢の人間がまるでロボットのように行き交っている。
次のノーステリア方面行きの便。女が言ったとおり、メリザはこの便にするつもりだったのだが、あの親子と知り合ってしまったためにその気も失せた。メリザはもうひと便待つことにした。
待つこと数分、発車のアナウンスが流れ始めた。やがて列車が一本、発車したが、ついにあの親子は戻らなかった。無事に乗車できたのだろう。メリザは立ち上がり、切符の購入に向かった。行き先はどこでもいい。
自動券売機の前は来たときと変わらず行列が絶えない。並ぶのもうんざりするがどうせもう二度と並ぶこともないのだ。並ぶ者の中には毎日この苦行に耐えている者もいるのだろう。それを思えば行列に参加するくらい大したことはない。そう、自分に言い聞かせた。
「どうぞ」
メリザの前に並ぶ人間があと一人となったところで、前の青年が切符を買い終えてメリザを促した。怪訝に思いつつ軽く会釈し、券売機の前に立った。
メリザが漠然と買った切符は三番線のものだった。行き先など特にないし、何番線であろうと構わない。とにかく切符がなければホームに入れないのだ。
切符を手に、ホームに降りるエスカレーターに向かう。すると柱にもたれかかっている青年と目が合った。今しがた自分のすぐ前で切符を買った、あの青年だ。目が合うと青年は嬉しそうに微笑み、軽く手を挙げた。
どこかで会ったことがあるのだろうか? メリザはしばし記憶を辿ったが、券売機で後ろに並んでいたこと以外覚えがない。全くの行きずりだ。しかし手を挙げられ、不審に思いつつも会釈してしまった。それを認めた青年はメリザの元へ歩み寄ってきた。
「やあ。さっき、僕のすぐ後ろに並んでたよね。三番線に行くってことは、君もカレントに行くんだよね。君一人?」
何かと思えばただのガールハントのようだ。長髪で、ラフな服装で、見た目からして軽薄そうな青年だ。大方、小旅行のついでにアバンチュールでも楽しみたい向きなのだろうと思った。青年には一瞥もくれず、降りのエスカレーターにそそくさと乗った。その間も青年はなにかと声をかけてきたが、メリザは無視を決め込んだ。適当にあしらえばお高くとまってんじゃねえよ、クソ女が、といった、お決まりの捨て台詞を吐いて消えてくれるものと思った。案の定、エスカレーターからホームに着き、しばらく歩くと声が聞こえなくなった。悪態をつかなかったところをみると、まだ良識のある青年だったのかなと少し見直した。
そのまま改札を潜り、ホームに入ると再び人の波に呑まれた。みな、一秒でも早く乗りたいのか、ただの習性か、線路の際の待機線まで隙間なく並んでいる。列の後方に目をやるとベンチに座る者など一人もいない。これ幸いとメリザはベンチに腰を下ろした。
ベンチから眺める列車を待つ人の群れは、いつかテレビで見た河を渡る水牛の群れを連想させた。一体なぜそんな危険な場所を渡らねばならないのか分からないが、とにかく危険を冒して、仲間を犠牲にしながら、弱い者から脱落し、生き残ろうとする意志の強い者が他者を押しのけ対岸に至る。彼等も似ている。前に並ぶ者を押しのけ、少しでも自分が前に出ようとする。他者のことなどどうでもいい。群れていながら自分さえ良ければいいのだ。もしもここに飢えたライオンやワニが現れたなら、彼らは自分だけが生き残ろうと、他者を踏みつけわれ先に逃げ出すのだろう。そんな人間ばかりの世の中はやはり間違っている。そう思った。
「みんななにをそんなに急いでるんだろう。自分さえ席に座れればそれでいいのかしら、なんて考えてたでしょ」
横から声がして振り向くと、さっきの青年が性懲りもなくベンチの傍に立っていた。