1 メリザと少年
メリザは生まれて初めて地下鉄駅の構内という場所に入った。どこか遠くへ旅立つわけではない。しかし明日には自分も見たことのない光景を見ることになるのだろう。そう思えば、改札前の雑踏にも感慨を覚える。行き交う人々それぞれに人生があり、家族があり、知り合いがいる。だが、自分にはそんなものはない。かといって天涯孤独というわけでもない。人間関係が希薄なのだ。それがつまるところ、自身の未来を閉ざしてしまった。いつまでも羽ばたけない。メリザはこの世界には自分の居場所などないような、そんな生き辛さをずっと抱えていた。それなのに、なぜ世界中の人々はなんの疑問も抱かずに日々を生きていけるのか。それが悔しくて堪らなかった。でも、それも今日限りだ。
重くもなく、軽くもないキャリーバッグを転がしながら、メリザは一人ごちた。
構内にアナウンスが流れ、人の流れに変化が起きる。メリザはその流れに飲まれないよう、人波から離れ、自動販売機でコーヒーを一杯買って、ベンチに腰掛けた。手にしたコーヒーのぬくもりを感じながら、しばし人の流れを見つめる。と、すぐ目の前に佇む一人の少年がじっとこちらを見つめているのに気付いた。年の頃は三歳から五歳といったところか。もの欲しそうにメリザの手にしたカップを見つめていた。
「飲む?」
メリザがカップを差し出すと少年は少し驚きの表情を見せ、恐る恐る手を差し出すと両手でカップを受け取った。少年は特になにか言うでもなく、そそくさと立ち去った。
別に感謝やお礼を期待していたわけではない。恵まれない子供に施してやっただけだ。感謝を求めるくらいなら施しなどしない方がよっぽどいい。ましてや相手は年端もいかぬ子供だ。感謝を示す知能もなければ教養もないのだろう。むしろその方が良心が痛まずにすむ。メリザは鼻歌でも歌いたい気分だった。
やがて発車のアナウンスが流れ、人の波も一応の落ち着きを取り戻す。だが人間が発する雑音は一向に収まる気配はない。地下鉄駅の構内とは、年がら年中、三百六十五日、このように騒がしい場所なのかと思った。こんな騒がしい場所がこの世にあるとは今まで知らずに生きてきたのかと思うと、少し不思議な感じがした。
「この、お姉さん?」
不意に、雑音の中でその声は鮮明に聞こえた。声のした方に目をやると、一人の女性が立っていた。そしてその手には手荷物、もう片方の手には先ほどの少年の手が繋がれていた。メリザは心中で舌打ちした。この女が少年の母親であることは想像に難くない。大方、今しがたの自分の施しを咎めにでもきたのだろう。あるいは、くれてやったコーヒーを突き返しにきたか、どちらにせよ、大きなお世話だった。
「このお姉さんなのね?」
女は再び少年に念を押すと、少年はバツが悪そうに頷く。すると女はメリザに深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。ちょっと目を離した隙に、どうもこの子がコーヒーを頂いたみたいで。この子ったら、なにか失礼なことでもしたんじゃないでしょうか?」
申し訳なさそうな母親を一顧だにせず、メリザは頬杖を突いたまま顔を逸らした。自分は関係ないという意思表示のつもりだった。だが、女は繋いだ少年の手を引っ張った。
「このお姉さんなんでしょ?」
母親にそう言われると、少年は大きく頷いた。その様子を横目で見ながら、なおもメリザは顔を逸らせたまま、人波を眺め続けた。
「あ、そうだ。ここで待ってなさいね」
女はなにか思いついたように少年をその場に待たせると、足早に目の前の自動販売機でコーヒーを二杯、買って戻ってきた。女はそのままメリザの隣に腰掛け、促されて少年もその隣に座った。メリザは思わずキャリーバッグを引き寄せた。
「ごめんなさいね。私ったら、地下鉄に乗るのは久しぶりで、切符を買うのに右往左往していたら、いつの間にかこの子がコーヒーを持ってて、どうしたのか聞くと、優しくて綺麗なお姉さんから貰ったなんて言うもんだから、じゃあお礼はちゃんと言ったのって聞くと、なにも言わなかったって。それで、ちゃんと御礼をしておかなきゃって思って」
女はそう言うと片方のコーヒーを差し出した。メリザは仕方なくそれを受け取った。
「ありがとうございます。私、自分のことで頭が一杯になってたのね。この子のことを満足に考えてなくて。きっと、焦ってて、イラついてて、疲れてたのね。それでこの子がいつの間にかコーヒーを飲んでるから、ハッとしたのよ」
女はメリザに語るというより、自身に言い聞かせるような様子があった。その隣で少年は足をぶらぶらさせている。が、退屈そうなそぶりはない。女は続ける
「そうよね。なにも慌てることなんかなかった。こうやって腰掛けて、人の波でも眺めながらコーヒーを飲む余裕を持てばよかったのよ。自分のことにばかりかまけて、この子を満足に見てなかった。ちょっとだけ目を離したつもりだったけど、見ず知らずのお姉さんにコーヒーを貰うくらいの冒険をしてたんだわ。これだけの人ごみだもの。迷子にでもなったら私、ますますパニックを起してたわ。ううん、今時ですもの。もしかすると誘拐されたり、事故にあってたかもしれない」
女はコーヒーをひと口飲んで、ほっと息を吐いた。
「でも、よかったわ。あなたのような親切な人にコーヒーを貰って、そのおかげで私も救われたような気がする。きっと、私に落ち着けっていうことだったのね。本当にありがとう」
女が改めて礼を言った。メリザは軽く会釈して返したが、正直、いい迷惑だった。自分にそんなつもりはなかった。ただの気まぐれだ。そこにどんな解釈をするのは個人の勝手だが、それを自分にまで押し付けられてはたまったものではない。メリザにはこの女が次になにを言い出すのか、もう予想がついていた。