その4
「辞めるんだって、山口さん」
一瞬の真空。
あたしはその声が飲み込めない。
ちょっと待って、今なんて・・・・・・。
「8月までらしいよ」
あたしは喉元までせりあがってくる焦燥を、押さえ込むのに必死になる。
新シフトが発表された。
あたしは週4。その半分は山口さんと一緒だ。
山口さんは週2。つまり、アルバイトに入る時は必然的にあたしと一緒になる。
「よろしく」
そう言った山口さんを、初めて本当の笑顔で受け入れられた直後の話だった。
「内緒よ」
そう言うのは、やはり他のバイト先の先輩だ。
心臓が暴れ狂う。
疑問符がそこらじゅうに浮かぶ。
なんで。なんで。なんで。
「大丈夫よ。いけるわね」
山口さんがいなくなる。
「単車危ないから、気をつけてね」
しつこいほど念を押して言っていたのは、決して申し訳程度なんかじゃなくて、本心から出た言葉じゃない、なんてことはなくて。
初めて怒られたときよりもずっとショックを受ける。
ガードをゆるめたときにあてられたパンチは、容赦なく腹をえぐった。
あたしは脳内を大きく占めていた要素が抜け落ちる感覚がする。
強い憧れだった。
普通怯むもんだと思う。
だってブラックコーヒーなんて苦いし、なんたって苦いし。
眉をしかめて遠ざける。
たぶん山口さんだってそんなに好きじゃないはずだ。
なのになんであんなにおいしそうに飲む?
なんであんなに早く飲み込める?
なんであんなふうに笑える?
あたしは確かに山口さんに惹かれていた。
自分にないものを確かに持っていて、
それはあたしが常に欲しがっているもので、それをなんなく取り込んでいて、
「これはね」
処理の仕方を教えるためにその場へ行く。
あたしは刷り込みの完了したひよこのように、どこにだって山口さんの後を追う。
山口さんはいつだってエネルギーに溢れている。
あたしは近くにいるだけで、そのパワーがもらえるような気がしていた。
そうして一番苦手だった山口さんが、一番大好きになった。
だから怖かった。
8月にいなくなる。
週2で会える贅沢とともに、傷口が大きくなるような気がする。
会わない人間がいなくなろうと、大して自分に影響はないが、
会う人間がいなくなるのは、それが大切な人間であればあるほど、受けるショックが大きくなる。
あたしはブラックコーヒーにひるまない山口さんが、大好きだった。
「学んでおきなさい」
あの時、自分がいなくなるのが分かってたんだ。
だからあんな風に言ったんだ。
現実は変わらなくて、
山口さんがいなくなるのは事実で、
ならばあたしはせめていい思い出になるように、
足手まといにならないように、最低限、
「ほらここ、抜けてる」
「はい、すいません」
あたしはブラックコーヒーを好きになる。
いつかきっと、笑って飲み干す。だから
「うん。もうあたしいらないね」
そんなこと言わないで。
そっと隠れていた、微々たるお砂糖。
あたしはブラックコーヒーを好きになる。
読んでいただいてありがとうございました。