その3
その頃からだろうか。
あたしは山口さんの話を聞くようになる。
今まで全く聞いてなかったわけじゃないが、意識して耳をそっちに向けるようになる。
「一教えてもらったら、百やる。社会に出るんだったらそれを覚えておきなさい」
いつだったか山口さんはそう言った。
あたしは「はい」と返事をする。
「一度職に就いたら何が何でもそこにしがみつくこと。転職は、考えない方がいいわ。条件が下がるだけだから」
あたしは「はい」と返事をする。
「社会に出る前に、今のうちにたくさん学んでおきなさい。きっと役に立つから」
あたしは「はい」と返事をする。
山口さんは、笑った。
例えば言いにくいことがあるとき、あたしの場合、
「あのね、あたしも出来てなかったりすることがあるから、そんなにえらそうなことは言えないんだけど、ここはね・・・・・・」
と言う。
山口さんの場合
「これはこうでしょ。何度言ったら分かるの」
山口さんは言葉を包まない。
相手に伝えるのはあくまで用件だけだ。
その代わり、自分を護ることもしない。
自分が失敗した際の、言い訳にしない。
それは強い覚悟の上で成り立つ、強い
投げてよこされたブラックコーヒーはあたしには熱くて、苦すぎて飲めない。
一口飲んでは顔をしかめて、どっか目の届かないところにやりたくなる。
それでも飲まなければならなくて、ちみちみと一口ずつ口に運ぶ。
山口さんは一息にぐい、と飲み干すと、口を拭う。
あたしはそれでもまだ、ちみちみと口に運ぶ。
そうして、飲んでいる内に気付く。
それは暖かく、飲みやすい温度に変わる。
それは、少しだけ、ほんの少しだけ、砂糖が入っている。
その微々たる甘さを求めて、やはりちみちみと口に運ぶ。
山口さんは待っている。
あたしがそれに慣れて飲み終わるのを、文句を言わず待っている。
あたしは飲んでいる途中で顔を上げる。
「今日、星きれいだね」
山口さんは空を見上げてそう言うと、うれしそうに笑った。