死神とチェリー
死にたいわけじゃない。
ただ、毎日がつまらないだけ。
そんな私の前に現れた、実体のない君。
「君は、千絵里さんだね」
「あなた、誰。どうして私の名を知ってるの?」
「僕は死神。君の監視をするため現世にやってきたんだ」
なるほど死神。にわかに信じがたいが、あるいはそういうことも起こりうるのかもしれない。ありえないという証明もできなければ、あるという証明もできないのだから、今私に見えているものを事実として受け取るほかない。これが幻覚でなければ、の話だが。
そして死神が現れたということは、私はもう間もなく死ぬということらしい。死にたいわけじゃなかったけど、でもそういう運命なら、それはそれで納得できる。
こんな世界に生きてても、くだらない偽物だらけの日々が繰り返されるだけなのだから。
「死神さん、私はいつ死ぬの? どうやって死ぬの? 教えてくれない」
「それはもちろん、何十年も先に、寿命で亡くなるよ」
一瞬素直に納得しそうになり、慌ててそうじゃないだろと顔を上げる。死神の、当然だろうというような澄ました顔を凝視した。
「えっ……? どうゆうこと。あなたは私を迎えに来たんじゃ」
死神は、深いため息をつきながら、やれやれと首を振る。
「君たち人間はよく勘違いしてるみたいだけど、死神の仕事は別に人を死に導くことだけじゃないんだからね、全く。だいたい誰が迎えに来たなんて言ったかな。僕はあくまで‘監視’しに来たんだ。実はある人に頼まれてね、どうも君に悪い気がまとわりついているみたいだから、君が正しい運命から外れないように見てきてくれって。普段はこんなことしないんだけど、その人には借りがあるから仕方なくね」
なんだ、たいそうに覚悟決めてこれからの人生を諦めた私が馬鹿みたいじゃないか。
「安心した?」
「当たり前でしょ。急に死神が現れたら、そりゃ誰だって死ぬと思うもの」
そこまで言ってから、はっと気づく。自分は思いの外生きたかったのだということに。自分の人生に希望なんかないと思い、ただなんとなく日々を過ごしていたはずなのに、それでも私は生きたかったのだ。そう、死にたくないのではなく。
「君は随分素直じゃないんだな。ま、死神の僕には関係ないことだけどさ。まぁ、そういうことだからしばらくの間よろしくな」
そうして私は実体のないそれと握手をし、死神はふっと姿を消した。
景色はいつも通りの帰宅路で、鳥のさえずりも木々のざわめきもなにも変化はなかった。あまりにも一緒だから、白昼夢でも見ていたのかもしれない、本気でそう考えた。
しかし、あれは夢ではなかった。
死神に会って数日後のことである。通学途中、いつもの道が急変した。目の前で事故が起きたのだ。車は人を巻き込んで建物に突っ込み静止する。私は、それを数メートル手前で呆然と眺めていた。女性が、車の中から子どもを連れ去る。やがて車から火が上がり、野次馬が増すと同時にサイレンの音が遠くから響いてくる。
いつまでたってもサイレンの音は近づいてこない。むしろ段々と遠のいていき、はっと気がつくと、目の前には呆れた顔の死神の姿が。
「あーあ、かわいそうに。千絵里、危なかったね」
「あ、あなたが助けてくれたの?」
「僕は見てただけだよ。千絵里だって事故を目撃しただけで被害には遭っていないだろう。僕は必要以上の介入はしないつもりだからね」
死神は頭の後ろで手を組んで空中に寝そべり、一つあくびする。
「でもまぁ、千絵里の運が一時的に激減してるっているってことも分かったよ。運の減少は正しき運命を狂わせるからね。実際には運命なんてけっこう曖昧なものだけど、頼まれた以上は運命から外れないようにするから。千絵里は死にはしないと思って普通に過ごしてくれればいいよ。じゃあまたね」
死神には言いたいことだけ言うとさっさと消えてしまった。聞きたいことがあったはずなのに、思い出せない。
運とか狂わせるとか、死神には形のないものまで見て感じることができるらしい。よく分からないことばかりで、また目の前で起きた衝撃的な出来事のこともあり頭はすっかり混乱している。私は目をつむると、額に手を当て座り込んだ。それに気づいた、いつの間に駆けつけていたのか警察らしき人が私のそばまで来て声をかけてきた。
その後事故の様子などを聞かれ、答えられる範囲で細かに説明する。学校には随分と遅刻だが無事到着し、非日常的なやけに疲れた一日は終わりを迎える。
お風呂の中で、一人考えた。死神のこと、その発言、今日の出来事……考えても答えなどないのだからどうしようもないのだが、それでも思いを巡らす。
不意に、いつから私はお風呂からすぐ上がるようになったのだろう、と思う。昔はよくこうして、何かあるたびに長風呂して色々悩んでいた。
けど、色々ってなに? なにを悩んでいた?
思い出せない。とても大事なことだった気がするのに、そこだけ記憶が抜け落ちてしまったかのように、なにも出てこない。
その頃は、もっと毎日が楽しくて希望に満ち溢れていたような。笑いあったり、喧嘩したり、怒ったり泣かされたり。
でも、誰と?
「はぁ、今度は窒息死? 自ら死にに行くのだけはやめてくれないかな」
頭上から今朝聞いたばかりの声が降ってくる。驚きつつも慎重に上を見ると、案の定死神が風呂場の天井付近を漂っていた。
仮にも女である私の入浴中にも現れるかと、怒りに任せて桶を手に取り投げようとするも、死神には実体がなかったことを思い出し、おとなしく風呂に浸かり顔が出る手前のところまで風呂の蓋をかぶせる。上目遣いで死神を睨むと、目線が合わないことに気づいた。どうやら、死神も気を利かせているらしい。そういった配慮もできるのかと少し感心しかけて、いや進入してる時点でダメだろと自分につっこむ。
「へんたい……」
私が半分口を湯船につけながら呟くと、死神は呆れたようにため息をつく。
「念のため言っておくけど、僕ら死神には人間みたいに性別はないんだからね。今僕はたまたま人間でいう男の姿をしているだけだ」
「そ、そうなんだ……」
けどやっぱり、見た目だけでも男だと意識してしまう。
「人間は男だの女だのうるさいから、これでも気を使っている方なんだぞ」
それはなんとなく、分かるけどさ。
「じゃあなんで女の格好をしてこなかったのよ」
「死神といっても万能ではないってこと。死神が人の姿をとるときは、必ず誰かに借りなければならないんだ。今回は、僕に頼んできた人の姿を借りたまでだよ。とにかく、千絵里にここで死なれては困る。それをちゃんと分かってて欲しいね。じゃあ水をかけられても困るから」
相変わらず最低限のことだけ伝えると死神は消えてしまう。でも、少しだけ分かった気がする。
死神に私のことを頼んだのは、人間だということ。
でも死神が頼みを聞く人間て、何者なんだろう。その人はなぜ、私に生きて欲しいのだろう。
考えても仕方ない、か。
もともとこんな超常現象、人間にはどうしようもないのだ。心当たりのある人なんていないし、いたとしてもきっとその人はもうこの世にいない。
この世に、いない。
なぜ、そう思ったの?
翌朝から、なぜか酷く頭が痛かった。学校を休んで一日寝たが、一向に良くなる気配がしない。夜には吐き気もして、昼間に寝すぎた影響もあり、呻き声を上げながらベッドの隅でうずくまっていた。
不意に髪が揺れるのを感じ、何かと思い顔を上げると、死神が勉強机に腰掛けつまらなさそうにこちらを見ていた。
机に座るな、と言ってやろうとしたのに言葉は喉元で掻き消えた。不満はあるものの無理をする気も、できる体調でもないので諦めて息を吐く。いつまでもこっちを見ている死神に対し、私も負けじと睨んでいると、急に胃の中から何かが込み上げてきた。
慌てて傍にある桶を掴み死神に構わず吐き出すと、酷い声が出た。しばらく目をつむって荒い呼吸を整えていると、死神が感心したような声音でつぶやいた。
「へぇ、凄いの出たね」
こっちだって出したくて出したわけじゃない。それも人前でなんて……人じゃないけど。
大きく息を吸い込んで腹の底に溜め、顔を少しだけ横に向け死神を睨む。頬がわずかに痙攣した。死神は興味深そうに私を観察していた。今までは常に気だるげだったが、今は少しだけ好奇に満ちた目をしている。惨めな姿の私を、内心であざ笑っているのだろうか。なんて悪趣味な。
しかし、ふと嘔吐物特有の鼻を刺す匂いがしないことに気づき、桶に視線を移す。するとそこには、口から漏れた唾で少し濡れている程度で、他にはなんの変化もないただの桶があった。
おかしい、まだ胃から何かが上がってきて口から出た感覚が残っているのに。けど、そう思うと胃酸で食堂が溶けたような痛みもない。
「何をそんなに不思議がる必要がある」
死神が澄ました顔で語り出した。私はゆっくりと違和感のあるその顔に視線を向け、そして釘付けになった。
「千絵里がたった今吐き出したもの、それは今まで無意識に集めていた悪い気だよ。黒くて醜くて不吉で、とにかく気持ち悪いやつ、って人間は感じるもの。僕らにとっては日常的に目にするもの。でもまぁ、人間から一度にこれだけの気が出てくるのは初めて見たよ。まぁそんな訳で、その悪い気が千絵里の運を減少させていた、というより悪い気が不運を引き寄せていたってことだね。君は生来的にはものすごい幸運の持ち主みたいだから、逆にこの程度で済んだのかも。良かったね死ななくて、僕も仕事が増えずにすんだよ」
口を開けて、死神の話をじっと聞いていた。しっかり一言一句逃さずに耳を澄ませていたはずなのに、全く理解ができずぽかんとしてしまう。そんな私をほっといて、死神はさっさと話をまとめる。
「じゃあ僕は君の無事を見届けたし、もう帰るね。次に会うのは、本当に死んだ時かな。せいぜい長生きしなよ、千絵里。僕に頼みごとをしてきた彼の思いに報いるんだな」
どうにか、どうにか何かを発さなければと口を出たのは一言。
「待って」
背を向けていた死神が振り向き首をかしげる。
「あぁそうだ、言い忘れてた。まだ千絵里の中の悪い気全てが出た訳じゃないから、これからもちょっとは注意しなよ。まぁ君のその運があればどうに出もなるだろうけど。ではこれで」
「ま、まだ! 聞きたいことが」
「何、できるだけ簡単にね」
面倒くさそうな見覚えのあるその顔に、問う。
「あなたは、誰」
ここ最近ずっと、何かを忘れてしまったような、失ってしまったような、私の一部がごっそり抜け落ちてしまったような、どうしようもない虚無感に襲われていた。昨日まで笑いあった友達が変によそよそしくて、くだらないことを話していてもどこか気を使われている気がする。
物凄く居心地悪く、気持ち悪かった。
このまま私はいじめにでも遭うのだろうか、落ち着かない。覚悟はしたが、納得ができなかった。私は一体、何をした?
しかし、そんな私をよそに、時は淡々と流れる。
普段と何も変わらない。それなのにずっと私の胸中を支配す違和感。
みんな本当は知っているんでしょう、何があったか。私に隠して何してるの。ねぇ、教えてよ。余所余所しくしないでよ。変だよねぇ、みんな。ねぇ、あの、えっと……えぇっと、あなたは、あなたの名前は……なんだっけ。
死にたいとは思わない。ただ生きるのは、苦しかった。
「僕は何者でもない、ただの死神だよ」
違う、そんなことを聞きたいんじゃないんだ。私はただ、あなたが誰なのか知りたいだけ。
「分かってる、千絵里が本当に知りたいことはなんなのか。けど教えないよ、だって千絵里が忘れてるだけなんだから。残業は、しない主義でね」
死神は再び背を向ける。影が、薄くなりだした。
「待って、お願い待って! あなたが誰なのか、まだ私は思い出せない。懐かしい気がするの、でも何かが違う」
「当然さ、僕は彼の姿をした彼ではない死神なんだから」
死神の姿が歪む。それが単に視界がぼやけているせいなのか、本当に死神の姿が空間の歪みに入り込んでいるからなのかは分からない。とにかく、死神をこのまま行かせてはならない。
「お願い、声だけでも……彼の、声だけでも聞かせて。彼の言葉で、彼の意思で」
死神はその場からじっとうこかない。しかししばらくして、小さく息を吐いた。
「仕方ない。彼と、君に免じて。特別に無償奉仕してあげるよ」
淡い光に包まれる死神の体。いや、私のいるこの空間全てが光に包まれる。眩しくて目を閉じた。その一瞬、声が。
優しく囁く、その声が。
久しぶり、千絵里。そしてさよなら。次に会うのは、きっと何十年も先だよ。生きて、よぼよぼのおばあちゃんになって、会いに来て。ずっと見守っているから。あとあんまりわがままを言ってはだめだからね。
光に耐えながらどうにか目を開けた時、そこはもういつもの私の部屋だった。ただ一つ、死神の存在だけが非日常であった。当の本人はつまらなさそうに空中で足を組み、あくびをしている。
「じゃあ僕は本当にもう帰るから」
私はうつむき、小さく頷く。
「たく見送りがそんなんじゃあなぁ。せっかく一肌脱いであげたっていうのに」
「ご、ごめん。ありがとう」
「まぁ良いよ。ちゃんと君が死んだ時は僕が迎えに行ってあげるから、安心して生きな。長いさよならだ、千絵里」
その声に、言葉に、はっと顔を上げる。
不敵に笑む死神と目が合い、そして、消えた。
その夜私は、懐かしい夢を見た。
ちぇりーちゃんちぇりーちゃん、と何度も呼ぶ声。
仲良しの幼馴染と、絵本を片手に笑いあった日々だ。
絵本に出てくる女の子が可愛くて、あまり内容を理解していなかった私はその女の子に憧れ、同じ名前で呼んでと幼馴染にせがんだ。
すると幼馴染は、じゃあ僕は死神になる、と言う。死神とは、女の子の魂を奪いにくるもう一人の主人公。
私は笑顔で頷いた。
私たちは絵本の登場人物になりきって、いつまでも遊んでいた。
目が覚めると、今までの出来事全てが夢の中の話だったかのように、懐かしい夢とともに記憶が曖昧になっていた。
けれど胸に残る僅かな苦しさが、私を支えている。覚えてる、大丈夫。
今は、意地の悪い笑顔でも愛おしい。
彼に、会いたい。
けどその願いは、当分叶いはしないんだ、分かってる。分かってるから、私は生きるしかない。分かってるうちは、私は忘れないでいられる。
知ってしまったあの日。全てを忘れ、なかったことにした。私の中の、彼を消した。自ら、失ったんだ。
けれど彼が私を生かすなら、私は忘れてはいけない。再開するその時まで、私はこの痛みを抱えて生きるんだ。それが生と言うものなんだ。
そういえば、あのころ大好きだったあの本のタイトル、なんだっけ。
確か、えぇと……
「死神とチェリー」 -fin-
ここまで読んでいただきありがとうございます。あいも変わらず短編です。短編もどんどん短くなっていくので、私の核能力の低下が伺えますね。
多分夏頃にホラーぽくてホラーじゃないのを書きたかったんだと思います。結果今秋ですし(気温は夏日)、ホラーのホの字もかすってないし、なんだこれ。
思い返すと何が言いたいのか分からない作品ですが、でもなぜか満足してます。
間空きすぎて書き始めの気持ちを忘れてしまったのでこの辺で。
それではまた。
2016年10月6日(木) 春風 優華