新しい朝
同じ屋敷の中で、喧騒から離れた一室。今もまだ穏やかな静寂に包まれ、布団の中に納まっている少女―穂高の娘である―千秋は眠気を振り払うために呟いた。
「あさ…」
その呟きは空気に溶けて部屋に再び静寂が訪れる。起きなくてはいけないとわかってはいるのだが、いまだに残る眠気に春先のまだ冷たい空気も加勢して布団から出る気になれなかった。もぞもぞと動いてみたり、何度か寝返りをうってみたり、起きようとする思いともう一眠りしてしまおうかという思いの間を漂っていた。実年齢より幼く見られる顔立ちに、大人に成りきれていない体型で幾分も子供っぽい容姿。傍から見れば子供が起きたくないと葛藤しているように見えるかもしれない。
だが、そんな迷いはすぐに振り切られた。
「姫、そろそろ起きないと」
部屋の外から男が声をかけた。
姫、と呼ばれているが千秋は一国の姫、などというたいそうなものではない。ただ、ただ他の多くの少女達とは違う、『妖を見、従えることの出来る』性質を持って生まれた。だから一部の者達から『姫』と呼ばれている。そして、『姫』にはそれぞれ『守護者』と言う者たちがいる。『守護者』は『姫』を有害とされる妖、古都では『外道の妖』と呼ばれるモノから守る役割を担っている。それに守護者は厳密に言えば人間ではない。また、妖怪でもない。俗に人妖と呼ばれ、人間の形をした『なにか』である。守護者自身にも人間、妖怪との違いはわからないらしいが、どうも両者の間の存在らしいと思っているものが多い。人から生まれてくることが多いが、妖怪が親であるとする者も多く、生まれついて体のどこかに血が滲んだ様な痣がある。生家も士族、農民、商人、貴族など様々である。ただ、多くが男であり、容姿が美しいものが多い。『姫』や『守護者』、またその両親や血族は一切『光苑』という古都の政治の中心にもっとも近い組織に管理されている。守護者も光苑から許可を得なければ姫につけることは出来ないし、つくことも出来ない。『姫』も『守護者』も子供に持てば親は無条件に、やや特異ではあるが『貴族』になることが出来るため、自らの子にそうなることを望むものは多い。千秋の両親も生まれは農民でありうっすらとは望んではいたらしいが、まさか本当にそうなるとは、と笑いながら話していた両親を千秋は見たことがある。
千秋は「うん」と返事をして慌てて起き上がり、改めて空気の冷たさを知る。
「さむい」
思わず口をついて出た言葉に、いつの間にか部屋に入っていた男が
「春って言ってもまだ朝と夜は寒いね」
と言って厚手の薄桃色の羽織を差し出した。
「ありがとう」
千秋はそれを受け取り羽織ると伸びをした。
「おはよう、姫」
「おはよう、幸樹くん」
守護者の一人である幸樹の名前を呼びながら挨拶をすると、太陽のような笑顔が返ってきた。幸樹は寒いと言っている割りに薄着で、着物の上からでも鍛えていることがわかる。
それに、髪や瞳も橙色がかっており、ますます太陽のようだ。
幸樹は布団をたたみ、押入れになおし、千秋は扉の外で控えていた女達を呼び込み、手伝ってもらいながら就寝用の着物から外出用の着物に着替えた。
「幸樹、何をしている。早くしなければ穂高様にも迷惑をかけるだろう」
そこにもう一人、幸樹と年の頃はそう変わらない男が現れた。ただ背は幸樹より小さく、体格も細身である。黒髪に深い青色の瞳、やや冷たい印象もあるが生真面目さがにじみ出ている。彼もまた守護者であり、直行という。
直行に「おはよう」と千秋がためらいがちに声を掛けると「おはようございます」と丁寧にお辞儀をしながら返し、すぐに幸樹に向き直り、
「穂高様がそろそろ朝餉の時間だと言い出す。ぐずぐずされては困る」
と言った。
「何で俺がそんなこと言われなくちゃいけないんだよ」
怒ったように幸樹が言い返すも、何食わぬ顔で淡々と受け流し答える。
「お前が姫を起こしに来るのが遅れたからだ」
「そんなこと言うなら、直行が機転を利かせて起こしにきたらよかっただろ」
「今日は幸樹の当番だ。…こうやって言い合っている時間も無駄だ。早く支度を済ませて食事へ行くぞ」
「直行が言い始めたんだろ!」
苛立ちが収まらない幸樹を尻目に直行は千秋の方を向き「姫も準備ができたなら行きましょう」と言った。