名前と思い出
全体的に男性陣が振り回され気味な、栄えある第2章の1話目です。
束の間の日差しが地上を照らしている。のっぺりとした雨雲はまだそこにあるから、今晩もまた雨は降るのだろう。何年たっても梅雨はあるんだな、とタケルは思う。晴れも、雲も、雨も。
もう梅雨も終わりごろなのにじくじく雨が降り続く上に、気温はこれからの季節に向けてぐいぐい上がってきているせいで、今年はとんでもなく蒸すそうである。タケルにはもうわからない感覚だが、広瀬はタケルたちと別れるまであっちいあっちいとわめいていた。
目の前を、淡い青色をした半透明の猫が横切っていく。一瞬驚いたがすぐに納得した。音によって殺されたのは何も人間だけではあるまい。
リトル・ミス曰く、トンボの塔方面を通る道が一番近いのだが、またあの手の戦闘ロボットに襲われるのはめんどくさいので迂回路を行く、とのことだった。広瀬もまたトンボの塔に戻る気にはなれないので、善三じぃやんのねぐらへ直接訪ねるとのことで別行動である。
目指すは例の小学校だった。
一番手がかりを見つけやすいだろうからという、まことに安直な発想である。
広瀬による興味本位の質問攻めに答えているうちにわかってきたのだが、どうやらタケルの失われた記憶は主に自分の人生の来歴のようで、滅びる前の世界の姿に関する質問などには驚くほど正確に答えた。物語を語る人間は聞くのも好きなようで、広瀬はまさに童心にかえったような顔つきでタケルの話に聞き入っていたし、最後の方は彼の笑い声に興味をひかれた水晶も一緒になって耳を傾けていた。
反面、紅暁はピンポイントに重要なところが抜けているんですねと毒づいていたが、まあよくあることでしょとリトル・ミスに返されていた。ふたりとも口には出さなかったが、幽霊が自分にとって都合の悪いことを忘れている、ということは日常茶飯事であって、喪失した記憶と心残りが密接に絡んでいる場合は厄介な事態に陥ることが多いということを、身をもって知っているのだ。
車が捨て置かれたままになっている、電柱が倒れて横倒しになっている、チャリをとばしてゲーセンに向かう意識体の中学生とすれ違う、面白いものなど何もない国道を、三人で黙々と歩く。転がっていた小石を蹴り蹴りリトル・ミスが前を歩き、その横に紅暁、四歩ほど後ろにせわしなくあたりを見回しながらタケル、という配列である。
タケルとしては、少しでも記憶を思い出そうとしているのだが、昔と様変わりしている景色を見て、あるかないかもわからない思い出を探るのはやはり難しい。
おまけにリトル・ミスはことあるごとに気がそれて立ち止まり、だぶだぶの雨合羽の裾を翻しながらあちらこちらで遊んでいくので、一向に前へ進まない。丸い道路標識をフリスビーみたいに飛ばそうとするのはまだかわいい方で、もう赤い光のともらない誘導棒を見つけたと思えばチャンバラ遊びを始め、字が書ける柔らかい石を見つけて下手くそな動物園を描き上げるころには一時間が過ぎていた。ついさっきは突如錆だらけのオープンカーに上から跳び込んで、中から狸の子供を見つけ出して大はしゃぎしていたし、タケルは本当に自分を助けてくれる気はあるのかと不安になってきた。
紅暁はといえば、慣れているのか諦めているのかほとんど文句も言わない。名前つけてとリトル・ミスに子狸を頭の上に乗っけられ、ずいぶん時間をかけていやいや「ボン太郎」と言った直後に却下された時は、さすがに不服そうだったが。
「ねえ、」
眼前に突き出される毛むくじゃらの物体。
『うわあああ!?』
思わず叫んでひっくり返った。その程度で何をそこまで、などと言ってはいけない。リトル・ミスがタケルの目の前で子狸を見せようとしてジャンプしたはいいが、高く跳び過ぎたせいで子狸の上半身がタケルの顔にめり込んでしまったのだ。子狸にもタケルが見えているらしく、人外の体に突っ込まれた恐ろしさに身もだえしながら鳴きわめいている。
リトル・ミスはぺたんと座り込み、子狸をあやすように撫でさすりながら、
「この子に名前、つけて」
尻もちをついたまま、タケルは弱り果ててしまった。いきなりつけろと言われても困る、そう言いたかったのに、変に期待に満ちているまなざしに口を封じられ、さらにうずうずと身を揺するその動作に追い詰められてしまう。勘弁してくれという目つきで子狸を見れば、そう言われてもと言いたげな目つきであちらも見返してくる。
その両目の上にぽつり、ぽつりと、黒い斑点がふたつあった。
タケルはわらにもすがる思いで、
『ま、……マロ』
まゆ、と言い終える前に、リトル・ミスは晴れ渡るような笑顔を浮かべた。顔を赤らめるタケルに一言、
「決まり」
「俺のとどう違うんですか……」という紅暁のぼやきには答えず、マロ、マロと呼ばわりながら頬を擦り付ける。子狸改めマロは、こいつに悪意はないと判断したらしく体の緊張を解いて、自分から鼻面をすり寄せていた。微笑ましい光景に自然と頬を緩ませ、どうにか助かったと安堵しながら、タケルは払う必要もないのに尻をはたいて立ち上がり、その光景を俯瞰した。
刹那、タケルの焦点が現実ではなく過去の映像に結ばれる。
子狸は子犬にすり替わり、淡い陽光は燃え立つ夕陽の赤に輝き出し、リトル・ミスは十歳くらいの少女に姿を変えた。
髪の長さが首までの少女だった。一見黒に見える深い色をした少女の髪は、夕焼けの光に照らされ明るい茶色に輝いていた。泥だらけで、くたびれた感じのシャツとズボンはいかにも着たきりすずめといった感じだが、その表情や振る舞いには不幸の色も苦労の跡もうかがえない。少女は全身で笑いながら、うす汚れた子犬に顔を押し当てる。子犬もうれしくてたまらないというように、舌を出してところ構わず少女をなめまくった。くすぐったいくすぐったいと大喜びする少女の視線が確信めいた色をたたえて、隣にヤンキー座りをしている少年を見やる。
――――ほら、タケル。やっぱりこの子さみしかったんだよ。
少女や犬と同じくらいすすけている少年は、ちょうど幽霊のタケルを七つ幼くして表情に陰りを与えれば一致するだろうといった面立ちをしていた。幽霊のタケルからは、むっつりと頬を膨らませて背中を向ける、彼の右回りのつむじが見える。
――――知らんからな。死にそうなほど腹が減ってても、エサはお前の分けるんだぞ。寝る時もこっちつれてくんなよな。
本気で意地悪を言っているわけではないのだ。彼女のためを思い、言葉を尽くして展開した理論攻撃が、絶対自分が面倒見るからの一点集中攻撃に結局負けて、自分が折れることになったことが悔しいだけで。
少女もそれがわかっていたはずだ。だから両手でタケルの頬を包み、笑顔でこう言う。
――――たまにはみんなで一緒に寝ようよ。ね、
そこで、在りし日の光景が現実に押し返されて消えた。
子犬はマロに、燃える夕日は梅雨時の弱々しい光に、何より少女は下からタケルの顔を覗き込むリトル・ミスに戻った。
『あ』
何か言わないと。しかし、そこから先の思考ができない。ぐずぐず考えているうちに、リトル・ミスの方からぽつりと、
「いまの女の子だれ?」
――――み、
『見えてたんですか!?』
こくりと頷く。「俺にも見えました」と紅暁が続く。
『な、……なんで』
リトル・ミスはこともなげに、
「幽霊って、からだっていう器がないから。内側に閉じ込めておくことができなくて、記憶とか、激しい感情とか、そういうのがあふれ出してきちゃうの」
「早い話が脳内丸見えってことですよ」
『そ、そうなんだ……』
少しショックを受ける。ということは、自分はこれから記憶を取り戻していくたびに、その内容を覗かれることになるということか。プライバシーも何もあったもんじゃない。
でも、だけど。
『ひとつ思い出しました! この調子でいけば、おれの心残りも思い出せるかもしれないってことですよね!』
タケルの喜びが伝わってきたのか、リトル・ミスもうれしそうに微笑んだ。