鈴の音
天から降ってきたか地面から湧き出てきたかのような彼女の突然の出現に、反応できたものなどひとりもいなかった。少女はぶかぶかの雨合羽を羽織って、手首に宝玉を詰めた腕輪をはめて、裂空の発射口――爆薬庫にも等しいその箇所を、両手で握る抜き身の白刃刀で深々とえぐった。
「伏せて」
叫んだわけでもないのによく通る、はるか昔に失われた意思疎通方法である「発声による言葉」で、少女はそう言った。
テレビ屋があおむけに倒れ、女性がその上に覆いかぶさり、タケルが状況についていけず立ちすくむ中、裂空の上半身が白い爆発に飲み込まれた。
耳をつんざく破裂音、あたりに密度の濃い黒煙が一面に広がっていく。その煙の中からありえない高さまで跳躍した少女が一番に抜け、空中で幾度も回転しながらトンボの塔の頂上、つまりヘリの垂直尾翼部分に降り立った。
トンボの塔は、爆発の衝撃で揺れている。
飛び散った装甲が、白レンガの上で赤々と燃えている。
傍目に見れば、あのロボットがこの爆発に耐えられたとは考えにくい。にも関わらず、もうもうと立ち込める黒い雲を眼下に、少女は欠け月のように鋭利な眼光を一向に緩めない。じっくり左右に振りながら周囲を見回す少女の頭がある一点を見つけて止まり、飛び退るようにして宙に逃げたその次には、発射されたロケット弾が垂直尾翼を直撃して爆炎と鉄片が散った。かなり遠くの落下地点を予測計算した裂空が、爆発から生き残った左腕で放った刺突は数秒前に着地した少女の刀にいなされて、再び白レンガを打ち砕いて大地に激突する。
それでも裂空は止まらない。柄から手を放し、いつの間にか深紅に染め上げた両目で少女をねめつけ、彼女の顔面大の拳を振り上げて突貫する。対する少女も雨日の燕のように体を沈めて、目のくらむほど白い刃を顔の高さに構えて、戦闘ロボットに真っ向から突っ込んでいく。
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近くからおぞましい気配がひとつ消えたのを感じてから、薄れてきたとはいえまだ暗い煙の中、タケルは無我夢中でテレビ屋を探し始めた。自分が幽霊であったことはまだ呑み込めていないし、信じたくないというのが本音だが、そうも言ってられない現実が目の前に迫ってきていた。あまり遠くないはずだ。爆発の一番近い場所にいた、彼は無事か。まだ生きている彼は。
見つけた。爆風で飛んだらしく結構遠くにいて、やはり怪我をしていた。その場にへたりこんでいて、露出している肌のほとんどが大なり小なりやけどで赤くはれていて、飛んできた鉄で切ったのか服も四か所裂けて出血している。しかし存外元気そうで、タケルが駆け寄るのを見て、『よお』と言いつつ、力なくではあるものの笑ってみせた。
『や、やけど! 傷も! ひどいじゃないですか大丈夫なんですか!?』
『あーうん、死にはしない感じっぽいから平気平気。それよか煙が臭くてかなわん』
隣でテレビ屋の手を握りしめていた女性もそれを聞いて心底安心したのか、頬を緩ませ、気を緩ませ、ついでに涙腺も緩ませてしまった。ほわりとした笑顔が徐々にへしゃげていき、ぽろぽろと両目からしずくをこぼし始める。テレビ屋は彼女の頭を抱きしめ、背中を何度もさすりながら、『ありがとな。助けてくれたんだよな。心配かけてごめんな』となだめていた。
その光景をぼんやり見つめていたタケルだったが、急に我に返ったように、
『いったい何なんですあれ!? 今も野良ロボットが突然襲ってくるのが当たり前なんですか!?』
『いや、この辺では動くロボットすら見たことな』
言うテレビ屋の頭上を、吹き飛ばされうねりを上げて回転する大槍が通過した。縦に回っていたら確実に命はなかったろう。どば、とテレビ屋の満面から汗が噴く。
『と、とととととりあえずこっから逃げ、』
後ずさりしかけたテレビ屋に、
『待ってください! 下手に動くと逆に標的にされるかもしれません』
状況によりけりだが、大方の戦闘ロボットは危険度の高い対象から最初に排除しようとする。所詮やられるのが先かあとかの違いだが、少なくとも女の子が闘っている間はこちらに矛先を向けることは、
女の子。
『ちょ、おい! どこ行くんだ!』
ほんの少しだけ振り返って、
『様子見てきます。おれは感知されないんでしょ!』
ちょっと待てやおい、制止の声を振り切ってタケルは煙の向こうに消える。テレビ屋はあとを追う方が危険だと判断したのか、伸ばしかけた腕を下ろし、今更のようにやけどのただれに顔をしかめ、助けるならもっと気ぃ遣えってのと憎まれ口を叩いた。
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雨が降り始める。初めは細々とした雨脚が点々とレンガを濡らしていたが、瞬く間に勢いと量は増して、巨大な雨粒がレンガの上で跳ね回る。
周囲は昼だと思えないほど暗かった。雨の暗幕を張ったみたいな景色の中を走りながらも、当たり前の話だが肌を打つ冷たさを感じない。もちろん打たれる肌がないからで、雨が自分の体を通り抜けていくのが感覚でなんとなくわかる。自分がもう人ではないという現実を、改めて見せつけられているようですごく嫌だった。
どうしても腑に落ちないことがあった。
それはテレビ屋から世界滅亡の話を聞いても、現在この世界に住む者たちの話を聞いても、答えを導き出せない疑問だった。
廃墟となった小学校。
手を引かれるままにあの場所から出て、道中どれだけ質問をしてもろくな答えを受け取れないまま、雨雲の残骸に時々遮られながらも地上を照らす月光を頼りに、あのトンボの塔まで連れてこられた。
ここで待ってて。
自分は紅暁を探しに行くからいったんここを離れる。でも心配はいらない。太陽が空のてっぺんに昇る少し前に広瀬と水晶が来るから、彼らに大まかな説明は聞くといい。ふたりのテレビは面白いから見て損はないと思う。ついででいいから、善三じぃやんが頼みたいことがあるから夕方まで塔の前にいてって言っていたと、広瀬に伝えてくれるととてもうれしい。少女はそういう意味合いのことを言うだけ言って、タケルが最も知りたいことには何ひとつ答えず、こっちを一度だって振り返らずに、もと来た道を取って返していった。
タケルは待った。
それ以外に何をすればいいかわからなかったから。
眠気で重くなることもない瞼を押し開いて、沈む月を昇る太陽を眺めて、遠くからやってくるテレビ屋の姿を目で追って。
テレビ屋は語ってくれた。
タケルの知る世界は既に朽ち果ててしまったことはよくわかった。
でも、だったら、なぜ。
短時間でよくこれだけ、と思えるほど、トンボの塔から遠ざかった場所から聞こえるあの音を頼りに走った。氷がコップの中でぶつかる音のような、鈴の音色のような、自分を呼ぶ不思議な音。
手すりが折れた階段を三段飛ばしで飛び降りる。
ひっくり返った装甲車の横を駆け抜ける。
そして旧記念公園前の道路と思われる場所にたどり着いたタケルは、それを見た。
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アスファルトに叩きつけられた、バイソンばりにデカいアメ車が木っ端にばらけた。
比べるのも馬鹿馬鹿しいくらいの身長差がある裂空の頭上を、少女が体を反らしながら飛び越える。
左手一本で落下の衝撃を支えた。その掌の下に書かれた「止まれ」の道路標示が何かの冗談のように見える。少女が左手で跳ぶ、一秒の差で叩きこまれる裂空の拳と砕けるアスファルト、今度は両足で地表に着地した少女は水たまりを蹴散らしながら裂空の右に回り込もうとする。
おかしいと気づいたのは裂空の左足の動きである。切れのないその動きの理由は明白で、人間でいう腿のあたりが斜めに切り裂かれ、千切れたチューブから琥珀色のオイルが垂れ流れているのだった。慌てて少女を見る。雨に流されてわかりにくいが、振りかぶった刀のつばが、確かに同じ色の液体で濡れている。
嘘だろと思う。ロボットの鉄の肉を斬る武器などありうるはずがなく、仮にそれが可能ならあの刀はただの妖刀に違いなかった。実際洒落にもならないその見解は悲しくも正鵠を射ている。裂空がそこらに転がる車を掴みあげて放る、スピンしながら飛んでくるファミリーカーは少女が上段の構えから刀を振り下ろすとぱっくりと両断されて、どちらも別々の方向へ吹っ飛んでいった。
裂空の全身から煙が噴き上がっている。戌シリーズの戦闘ロボットは、心臓に当たるメインエンジンが基本的には三つあり、完全停止させるためにはそれらをひとつ残らず潰す必要がある。丸太をブチ込んだわけではないので、ぱっと見ただけでは刀による貫通穴は判断しにくい。しかし、火花を散らす裂空の左胸と腹部を見れば、優位に立っているのはどちらであるかはっきりとしていた。
裂空が吠える。
一発でも当たれば命がないその打撃は道路を穿ち空を突くも、ひとつとして少女の体を撃つには至らない。雨粒を跳ね散らし、らんらんと腕輪の音色を響かせながら、さばき、飛び、残像が見えるほどの横の回転と共に斬りつける、少女の流れるような身のこなしを前に、タケルは眼前の戦いがもう生き死にを賭けたそれには見えなくなっていた。
タケルにはそれが舞いに見える。
荒れ狂う虎と舞う踊り子に見える。
少女が雨合羽を脱ぎ捨てて、振るうようにして裂空の顔面に投げつけた。視界を奪われた裂空が怒るように吠え、無茶苦茶な動きで雨合羽をはぎ取ろうと手を伸ばす。
少女が跳んだ。
ふわりと、一蹴りで裂空の肩に飛び乗る。
青と白を基調としたセーラー服と黒に近い紺色のスカートが、彼女の描いた軌跡をあとから追った。
時間が粘る。少女の動きが、タケルにはひどく緩やかに見える。数分前の裂空とも重なる同じ動きで、少女が刀を振り上げた。同時に裂空が引きちぎるように雨合羽を取り去る。しかしその時には、もう手遅れになっていた。
滑り込むようにして、刀の切っ先が裂空の首と鎖骨の間を貫く。
時を止めたように裂空の動きが停止し、遥か遠方で空が白く光った。
刀を引き抜いて少女が飛び退く。裂空は体を反り返らせ、雲ばかりの黒い空を見上げて、最後に呟きにも似た音を鳴らした。あ、と思う間もなく巨人の体のバランスは崩れ、地響きを立てながら、裂空は背中からアスファルトの大地に倒れこんだ。
怖いわけではない。
興奮しているわけでもない。
ひとえに、戦闘ロボットを女の子が倒したという現実が突拍子もなさ過ぎて、視線の先の光景が理解できない。
オイルが血だまりのように広がっていく。
両の赤い複眼から、急速に光が失われていく。
そして、最後の力を振り絞ったのか偶然か、裂空の首がぎこちなく左を向く。少女のローファーのつま先がそこにあった。
タケルの立つ位置からは、少女の表情は髪に隠れて見えない。見えたのは、壊された砂の山を前に立ちすくむ子供みたいな背中だけだった。
不意に少女がしゃがみこむ。刀を横に置いて、足と足をぴったり合わせて、膝の上に両手をのせて。死にゆく裂空の目を見つめる数秒があった。
――――あ。
言葉もなく、本当に静かに、少女は裂空に向けて手を合わせた。
裂空がそれを見ることができたのかはわからない。それでも、途方もなく長いようで本当のところは一分足らずの時間、少女は裂空の横で手を合わせ続け、その間に彼女がこれ以上濡れないようにと、地面に落ちた雨合羽を拾いつつ泥を払い、かぶせた者がいた。
長身痩躯の青年だった。
髪は白く、右の顔面を長い前髪で隠している。左目の下には三日月形の黒い入れ墨があり、切れ長の瞳は暁というより血を煮詰めた色に見えると揶揄されることもあるが、本人に応えた様子は全くない。めったに表情を変えることのないその顔が少女を上から見つめ、やがて視線を上げて彼方の稲光を無表情に見つめ、ふと気づいたように琥珀色のオイルで濡れた己の右手をしげしげと見つめる。
たった一言、
「ばっちい」
そう言い捨てて、紅暁はオイルを払うように腕を横に振った。
遠雷の音が近づいてくる。