顛末の断片
真っ先に気づいたのはやはり水晶だった。どうしたの、と広瀬の腕を軽く叩くが反応がない。何かが引っ掛かったのか、広瀬は足を止めてその場で考え込む。異変を感じて他の四人も立ち止まって広瀬を注視する。マロはリトル・ミスと紅暁の周りをぐるぐる回り出した。
『触れる』『ためらう』、この二つの単語を何度もつぶやきながら、広瀬は足元の地面を見つめて動かない。水晶が心配してつないだ手を強く握ろうとするが、驚いたことに広瀬はその手を振りほどいた。目を丸くして、すぐあとに泣きそうな顔をする水晶だが、広瀬にとっては無自覚の行為だったらしくなかなか気づかない。考えがまとまって顔を上げた時初めて水晶の表情を見て、宙ぶらりんになった自分の手を見て、慌てて謝る。どうしたんですか、そう言いかけたタケルに至極真面目な顔つきで、
『言っとくがな、』
言葉を溜める数秒があり、
『今から言うことは、オレの推測、っつーか、妄想に近い考えだかんな。真に受けんじゃねえぞ。話半分に聞いとけ』
『は、はい』
こんな前振りをしておいて、話半分になんて到底無理な話なのだが、ともかくタケルは了解した。でも本当は嫌だった。せっかく抑えたはずのぞわぞわが、また。
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『オレはさ、終わる前の世界がどうだったかはもちろん話に聞くだけだし、その世界で生きていた人たちが肌で感じていた空気はよくわからん。だけどな、国とか、政府とか、そういうもんの庇護にあずかれなかった奴らにとっちゃ、生き辛い世の中だったんだろうな、ってのはなんとなく感じる。そういう点では今のこの世界も一緒さ。どんだけ清廉潔白であろうとしたって、手を汚さにゃ生きられん』
水晶が不安そうな表情で広瀬の手をとる。再びつながれた手を見て、広瀬はなぜか痛みをこらえる時に似た顔で薄く笑った。
『やっぱさ、いいかっこしたいよな。大事な女後ろに背負って、ここはオレに任せとけってしたいよな。
守り切れたら誇らしいよな。心配してくれたらうれしいし、笑顔を見たら天にも昇れるわな。だけどな、やっぱりそこは物語じゃねえから、もちろん続きがある』
雨が激しさを増していく。
『血で血を洗う大決戦の末に勝利を勝ち取ったとしようや。大事な女を守れたとしようや。現実は、そこでめでたしめでたしにはならない。頭からつま先まで血を浴びたとしても、それが一生落ちないもんだとしても、汚れたその手で女の手を引いていくんだ。それで、一緒にいればいるほど、愛しさは募る。大切だと思うほど触れたくなる。離したくなくなる。重なりたくなる。でもそれが怖いんだ。やっぱりさ、男はこういう時は汚す側だからさ』
話していて恥ずかしくなったのか、広瀬はそうだろ?と紅暁に話を振った。「さてねえ」と紅暁。
「俺には生殖能力がありませんので、その辺の事情は分かりませんわ」
『……なんでお前はそーやってさあ、人がオブラートに包み包み話してることを、そこまでダイレクトに言うかなあ』
ともあれ、少し調子を取り戻した広瀬はなおも言う。
『その、体関係のことに限った話じゃないんだぞ。つまりさ、昔のお前ってもしかしたら、自分でも許せない何かをやらかしてしまったんじゃねえかな。一旦汚れちまった奴は、相手がきれいであればあるほど触れたくなくなるんだ。大事に思うほど遠ざけたくなる。お前もそうだったんじゃねえかな』
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言い切って、広瀬はどこか挑戦するような目つきでタケルを見た。水晶は心細げに広瀬とタケルを見比べる。リトル・ミスも、紅暁も振り返った。
全員の視線を受けて、それでもタケルは笑った。
笑い返してみせた。
そこから止まらなくなった。
たがが外れたように笑う。笑い続ける。めちゃくちゃに頭を掻きむしる。瞳孔が開き、打ちのめされた表情のまま、それでも込み上げてくる痙攣じみた哄笑に体を折り曲げる。ぎょっとして身を引く広瀬と水晶。リトル・ミスと紅暁は刃の目つきでタケルの豹変を見定めようとする。
『な、なんで、』
ひいひいと息継ぎながら、
『どうして、同じこと、』
眼中の白だけを残して、タケルの全身が暗がりの色に染まっていく。雨音が遠ざかり、商店街が薄闇に閉ざされていく。
何かが起きているという事実と、何かに犯されかけているという直感が、広瀬の背筋から蛇のように這い上がってくる。
このふたつの前では、幽霊は物理的干渉が出来ないなどというお題目は屁の突っ張りにもならかった。殺される、とさえ思った。
しかしリトル・ミスは動かない。
聞いている人間の方が乱心しそうな笑い声の合間に紛れている、タケルの断片的な思念を読み取ろうとする。
涙
断
理由
おれは?
ぼくは?
私は?
わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないなんでどうして嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
手
落
見つか
怖い
何がそんなに
泣いて
抑えられ、
来るな
轟。
静。
「え?」
あぁああああああああああぁああああぁあああああああああぁああああああああああああああああああああぁああああああああああああああぁああああああああああぁあああああああぁああああああああああああああぁあああああああああああぁああああああああぁぁ
反魂鈴が鳴った。
疾風もかくやという速度で距離を詰めたリトル・ミスは、刀の紅暁でためらうことなくタケルの心臓を突いた。
見開かれる双眸。
下から貫く眼光。
彼女とは似ても似つかぬその面持ちを見て、タケルはやっとリトル・ミスに感じる懐かしさの正体を知った。
リトル・ミスの顔が、今は追憶の彼方にある少女のそれと重なる。
リトル・ミスの輪郭が溶けて、十六歳となった少女の打ちひしがれた表情が形作られる。
死の直前に見せた最初で最後の涙が、惜しげもなく両目から膨れ上がっては伝っていく。
痛みを感じるほど懐かしい、少女の柔らかい両手が頬に触れた。
血の気を失った彼女の唇が、今、
開いて、
「なんで? どうしてこんなことしたの?」
体の奥で、何かが砕ける音を聞いた。
タケルの視界から光が消える。




