未だ戻らぬ
少しの期待と共に、タケルは広瀬に自分たちと合流するまでに小学校らしい建物を見なかったかと聞いてみたが、驚いたことにショーガッコーて何だと問い返された。今生きている人は学校を知らないんだ、と思うと少し寂しい。
目覚めた時の記憶を思い返して、できる限り詳しい外観を説明したタケルだが、それらしいものは見ていないという。本当に今いるここはどこなのだろうか。
やはり先頭を行くのはリトル・ミス、傍らには紅暁であるが、マロもふたりの足元をちょろちょろしながら前を歩く。後ろに大きな登山バッグを担いだ広瀬で、水晶は広瀬の右手を握りしめて一歩後ろを歩き、そのさらに一歩後ろがタケルである。
すれ違う人は皆青い、量産のお化け屋敷じみた店が立ち並ぶ商店街を歩く。
年中大特価、と書かれた看板に穴が開いている。転がったビールケースの中に、原形をとどめている瓶などひとつもない。猫の額ほどの路地裏にうずくまる浮浪児の意識体が放つ暗い眼光。三つに一つの確率でしまっている店のシャッターの落書きは、絵か文字かで書かれたのが最終日の前かあとかが大体わかる。読める奴は無論のこと、書ける奴だって今は少数派なのだ。
『あーくそ、こんなヒュードロドロみたいなとこじゃなけりゃデートなのにな。なあ水晶』
もう、という感じに顔を赤らめた水晶が、恥じらいながらも広瀬の腕に体を寄せる。対して広瀬は実に自然な動きで彼女の頭に口づけし、ぼふ、と全身を茹で上がらせた彼女を見てくすぐったそうに笑っていた。見ちゃ駄目だ、と思うタケルである。
『あ、そうだ。タケルはさ、どこまで記憶思い出したんだ? 自分の心残りは何か見当ついたか?』
『えっ?』
首を反らしてタケルを見ながら広瀬が言う。わざと広瀬の方を見ないようにしていたタケルだが、それを取り繕うように妙に明るい声で、
『……あ、あぁはい! その、まだ心残りの点は、わかんないんですけど……。でも記憶は、何だかもう、面白いくらいどんどん思い出しちゃって! しかも時系列に沿って記憶がよみがえるから、はは、自分の中でも整理つけやすいんです』
ややテンパり気味だが、嘘はついていない。良い調子じゃん、よかったなと、広瀬は歯をむき出してニシシと笑う。
『んじゃ、整理がてらお前の思い出教えてくんねえ? のちのちテレビのネタになるかもしんねえし』
されてたまるか、と言い出してもおかしくないところだが、人に話したいという欲求があったこともあり、特別文句も言わずにタケルは話し始めた。
『ほとんど、記憶の中に出てくるのはふたりだけなんです。おれともうひとり、年下の女の子。思い出すのは、ふたりで過ごした何でもない日常の一場面ばっかりで』
少々大げさな身振りで広瀬が頷く。それらしい素振りは見せないが、リトル・ミスも紅暁も背中で広瀬の話に耳をそばだてている。
『その子、幼なじみなんです。四つ違いで、おれが十二歳の時に初めて会って。お互い孤児で、他の孤児グループには入れてもらえなかったから、身を寄せ合って、色んな街を流れ歩きながら生きていたんです』
「なんで入れてもらえなかったの?」
折れた電柱の上に飛び乗りながらリトル・ミス。
『他の孤児グループは、みんなロボット持ちだったからです』
広瀬は首をかしげたが、リトル・ミスと紅暁はああ――、という感じに頷いた。
戦後、貧乏政府による救済措置にあやかれた戦災孤児などほんの一握りで、多くの子供たちが餓死もしくは闇商人に物品同然の扱いを受けていた。
そんな彼らの中にも、自分たちの力だけでたくましく生き抜こうとした輩がおり、寄り集まって独自のグループを形成したりしていた。大概、多大なリスクを冒して屍山から戦闘ロボットをぶんどってきた者が中心となって集団を作っていて、持たざる者は使えないとして仲間に入れないか、召使い同然の扱いだったらしい。また、手持ちのロボットの強さがそのままグループ内の階級へと直結していたそうである。こういう手合いがあふれかえっていた時期の金持ち連中は、自前の警備用ロボットを護衛につけていたりしたが、それが逆に目立って愚連隊の焼き打ちにあった名家も少なくない。
そんな状況で、ふたりぼっちで生き延びていたとは。
『そりゃ、危ない目にも遭いましたよ。ロボットを運び出すのは無理でも、屍山は金の山でしたからね。鉄屑狙って忍び込んで、警備ロボットにぶん殴られて死にかけたこともありますし、たまたま近くにいたってだけで愚連隊の下っ端と勘違いされて捕まりそうにもなりました。それでも死ぬ気でやれば人間、どこでも生きていけるものですから』
『わかる、それすっげーわかる』と、広瀬が合いの手を打つ。
『少しでも苦労させたくなくて頑張るんですけど、いつも最後は女の子を死ぬほど心配させちゃって。気丈な子だったから泣くことはなかったんですけど、泣くのをこらえるとき、何でかおれに顔を引っ張らせるんです』
こんな感じに、と実演してみせるタケル。動作を見る限り、相手の顔に両掌を押しつけて思いっきり外側に引っ張る、という技のように見える。
広瀬は感想を一言、
『変だなそれ』
タケルは吹き出した。
『本当に。おれにも意味はよくわからなかったです』
タケルの話はまだ終わらない。
『でも、本当に心配してる時とか、自分が怖くてたまらない時には、こう、』
両手を伸ばし、大きめのお椀を持つ時のような仕草をとる。
『おれの顔を包む癖があったんです。危ない山を渡ったあとなんかはよくしてましたね。たぶん、本人の前で言ったら怒られるんだろうけど、おれはそれがすごく好きだった。きつくて苦しくても、あの手が頬に触れた時の柔らかさを感じたら、うまくいかなかった時でもやった甲斐があったって思えた。ひとりじゃないって感じられて、うれしかった』
自然とタケルの顔に、はにかみながらも笑みが浮かび始めていた。比例するように「はっはぁ~ん」という感じのやらしい笑みが、広瀬の満面を埋め尽くしていく。
『すごいんだ。八歳で天涯孤独になっちゃって、普通ならそれがトラウマになって昔のことなんか考えたくもないはずなんだけど、違うんだよ。やせ我慢なんかじゃない普通の笑顔で、こんな公園でおとうさんとおかあさんとお弁当食べたんだよ、とか、これ学校で友達と読んだ本だ、とか、いつもいつも、本当に楽しそうに話すんだ。なくしたものを思い返して悲しむんじゃなくて、幸せだった頃の思い出を笑顔で語れる子だった。強い子だったよ。いつだって笑ってた』
タケルは夢中になっていた。遠慮も敬語もかなぐり捨てて、記憶の少女がどんな人だったか、一生懸命に話して聞かせる。広瀬は勢いに若干驚きながらも、前に話を聞いた時よりずっと積極的に話すタケルに、にやけた顔を向けながら相づちを打っていた。水晶も柔らかく微笑みながら、たどたどしいタケルの話に耳を澄ます。
リトル・ミスは振り返らなかった。遠くを見るような目で、降り始めた雨を眺めている。そんな主を、流し目で紅暁が見つめている。
『で? もったいぶらずに教えろよ。その子、何つー名前なんだ?』
この一言でタケルは一挙に我に返る。
そして、今最も考えたくない、話したくない話題をずばり広瀬が口にしてしまったことで、浮かれ上がった心が急速に墜落していくのを感じた。
笑みが静かに凍り付いていく。
こわばった顔がどうしても動かない。
広瀬が不思議そうな顔をする。胸がぞわぞわする。彼は大したことを聞いたわけではないのだ。そうなのだ、大したことではないのだ。胸がぞわぞわする。だから普通に答えればいいのだ。
なのに。なんで、胸が、
「あなたは、あまり笑わないね」
すっかり忘れていたリトル・ミスに助け舟を出されて、タケルは救われたような顔をした。あまり明るい話題ではないが、今の話題からそれてくれるならこの際何でもよかった。一刻も早く気分を変えて、胸のぞわぞわを体から叩き出したかった。
「記憶の中の、あなた。笑わないし、いつもくもり空みたいな顔してる」
『そうなのか?』
広瀬が問う。隠すことではないので素直に頷く。
『な、何だろ。まだ思い出せてないんですけど、あの子と出会う前に、何かがあったような気がします。おれにとってすごく重要なことのような、よく理解できないようなことが』
『なんだそりゃ』
『だ、だから、おれもまだわからないんですってば』
言い合うふたりの声を背にリトル・ミスは考える。タケルの言う通りで、彼は時系列順に記憶を取り戻している。タケルの言う「何か」があったのは、記憶の少女に会う前だという。
その「何か」は、少女の存在より前に思い出してしかるべきもののはずである。
しかし思い出せない。なぜか。
自分にとって、思い出せない方が都合いいから。
『でも、そのせいで昔のおれは、彼女に触れることをためらっているような節があるんです。ということは、やっぱり重要なことだったんだと思うんですけど』
何でもないように言ったタケルの一言が、広瀬の顔から笑みを消した。




