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エニシ斬リ  作者:
  
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プロローグ


 あの日から、だいぶあとの話になる。



 不思議な音で彼は目覚めた。氷がガラスのコップの中でぶつかる音に酷似していたが、鈴の音にもよく似ていた。その音がなぜか自分を呼んでいるような気がして、彼は耳をそばだてる。その音は遠くから一定で長い間隔を刻みながら、非常に緩やかな速度でこちらへ近づいてきていた。


 粉々に砕けた窓から漏れる月明りが、教室の真ん中で立ち尽くす彼の背中を、舞台照明のように淡く照らしている。



 あたりを緩慢に見回した。所々ランドセルが入れっぱなしのロッカーが、割れた特大の三角定規と分度器が、彼に向かって左の黒板に書かれた「い■まで■■達 6■■」が、右の黒板に書かれた「■■■と■ 正影第■■学■」が、時の営みの中でかつての形を失い、苔と錆と黴にまみれながら彼と同じように佇んでいる。木造の壁や床は、幼さがはっきりとにじむ筆使いで書かれたアニメのキャラクターやつたない恋文や、解読不能な数限りない落書きで埋め尽くされていて、色あせたマジックで描かれたそれらはまるでエイリアンの暗号に見えた。再び鳴り渡るあの音。急かすでもなく、ただただ彼を呼んでいる。



 何だろう。



 ようやく湧いてきた疑問が彼を動かす。足を引きずるようにして死んだ教室をあとにした彼は、自分が立っていた位置に横たわっていた白骨死体に最後まで気付かなかった。


‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥


 教室を出てすぐの向かい側にあったのは放送室で、彼の背丈と比べればおもちゃじみた机と椅子はその横の壁際に並べられていた。教室と放送室を隔てる、木製の廊下がぽつりぽつりと濡れて染みになっているのは、天井板の腐敗による雨漏りによるもので、つまり彼が意識を取り戻す少し前まで雨が降っていたことを指す。それらすべては、まだ半分以上は夢見心地な彼にとっては気にもならない些事で、音の出所を探して虚空を彷徨う瞳は左を向いた。


 五メートルほど行った先のT字路になった突き当たりの壁に、やはり粉々に砕けた窓があり、白い月光の眩しさに外の景色さえ満足に見えない。あちらにも机や椅子が積み立てられていて、その傍らに建てられた箒ともども影絵となっている。床には卒業証書を収める筒が錯乱していて、そのうちの一つがT字路の右から現れたローファーのつま先に蹴られ、周りの仲間たちを巻き込みながらボウリングのピンのように転がっていく。


 驚くことも忘れた。

 何も考えられなかった。



 右の角から、身の丈の二回りもある、エメラルドグリーンの雨合羽を着た何かが出てきた。



 フードのせいで顔が見えず、姿から見て取れるのはやや小柄な点くらいで、老若男女の別さえ判然としない。フードに隠された横顔を彼に見せながら、そいつはまっすぐ前を向き、背筋を伸ばして、雨合羽の袖から除く白い腕を胸の前で打ち振りながら、一歩一歩を踏みしめるように歩いていた。



 不思議な音の正体はそれだった。

 楽器なのかアクセサリーなのか、彼には判断できない。そいつの左手首にはめられていたのは、ガラスを思わせる素材で作られた細いパイプ状の腕輪で、中で大きさも色も異なる宝石同士がぶつかり合いながら透明な音色を奏でている。月の光を受け十色の宝玉は内側から輝いているように見え、鮮やかな色彩を帯びた影がワックスのはがれた廊下に映し出されていた。



 ゼンマイ式の人形が止まる時のように、そいつは窓の真ん前で、ゆっくりと前へ進むのをやめた。



 首だけがこちらを向く。顔が陰になって全く見えない。怖いとか薄気味悪いとかいう以前に、五メートル先に立っている謎の存在が持つ底なしの不可解さが思考するのを許さない。身構えることもなく立ち呆ける彼に、そいつが向き直る。りん、とも、からり、とも違う、透き通るような音色をもう一度響かせて、



「聞こえているね」



 自分に話しかけていると気づくまで数秒かかった。

 こちらの返事も待たず、そいつはじわりじわりと彼との距離を狭めてきた。もう腕輪は鳴らす気がないらしく、腕をぶら下げた拍子に袖に隠れてしまった。不意に吹き抜けた強風が雨合羽を左にはためかせ、ぱたぱたと音を鳴らす。



『……幽霊?』



 彼の声を合図にしたように、そいつの行進が止まった。

 手を伸ばしても届きそうで届かない、絶妙な距離だった。


 こちらの顔を覗くように見つめる数秒があり、やがてそいつの右手が持ち上がり、フードを掴んで後ろに引く。



 フードの中から、キャスケット帽をかぶった、髪の短い、女の子と女性の狭間くらいの年頃の、少女の顔が出てきた。



 不思議な顔だった。

 初めて見る顔なのに、どこかで見たことがある気がする懐かしさを感じさせるその顔が、柔らかく顔をほころばせて言った。




「あなたがね」




 彼は名前をタケルという。




初回である今回のみ、2話同時更新です。完結させることを重視して書いたお話ですので、少々荒い箇所がありますが、どうぞお付き合いいただければ幸いです。

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