夢Ⅶ
周囲は静まりかえっていた。
神殿へ辿り着き中へ入ってみると、清々しい空気を感じる。
恐いほど天井は高く、どうやってつくったのか分からないほど、とても大きな神殿だった。中へ入っていけば、道の両脇にはどういう仕組みか、水が柱のように上から流れ、自分の腰くらいの高さの水の中に灯りがともっている。地面へたどりついた水は、道の両脇のくぼみに沿って流れ、神殿の外へ流れていっているようだった。
とても神秘的で、何とも言えない場所だった。
しばらく奥へ歩いていけば、目前に水が流れていて、行き止まりになっていた。
「どうしよう」
水の壁の向こう側には道がありそうな気がした。周囲を見回しても、ここしか進む場所はなさそうなので、僕は濡れる覚悟でその水の壁をくぐることにする。
「!」
通り越してみれば、僕は全く濡れていないことに気付く。振り返って水の壁に手を差し伸べてみれば、これまたどういう仕組みなのか、突っ込んだ手の周辺は、水が避けてぽっかり開いている。何度やってみてもそうだった。
何だろう? この神殿は。
不思議なことばかりで、段々先ほどの想いも落ち着いてきて、遊び心が出てきてしまう。
僕は再び奥へ歩き続けた。暗く狭いトンネルのような場所を通り抜けると、先の方に、蝋燭の火のような灯りが見え始める。
柔らかい色の灯りに、ふと心が落ち着いた気がした。
「!」
僕は突然の侵入者だったのか、奥の間に辿り着くと、両脇を誰かに固められた。びっくりして硬直するが、目前にいた人影に、僕は声を失った。
「誰かと思えば・・・・」
さっき、母と一緒にいた男性だ。ということは、辿り着いた先はきっと間違っていないのだろう。
「あ、あの・・・・」
どう切り出していいか分からず、どもって・・・・そのまま沈黙してしまう。
「離してやれ。下がっていいぞ」
「は」
僕の後ろで、両脇を抱えていた誰かは、言下、空気のようにいなくなってしまった。
彼と目が合うと、彼は金色の目を僅かに細めた。
「アルシーナに・・・・会いに来たか?」
「は、はい」
「だそうだ」
彼は振り返った。
後ろには母の姿があった。
「エヴァンズ」
風のように僕の胸へ飛び込んで来る。
「逢いたかったわ、顔をよく見せてちょうだい」
先ほどとはうって変わって、母は僕の顔に手を掛け、じっと眺めている。
「大きくなったわね。いくつになったの?」
「十七歳です」
「そう・・・・。もう、そんなに経ってしまうのね」
わずかに悲しな瞳が潤む。
優しい白い手が僕の髪を撫でて、頬に触れる。
「こうしていると・・・・自分が死んだことを忘れそうよ、エヴァンズ。とても嬉しくて、神に感謝したくなってしまう」
「僕も、母さまに逢えて・・・・嬉しいです」
「本当かしら?」
ふふ、と笑う。
母には分かったのだろうか? 僕が心のどこかで、目前の母をまだ信じられない部分があることを。
それでも気にした風はなかったようだった。
「エドワードには会った?」
エドワードと聞いて、僕は父のことだとすぐに理解できずに、その名前を頭の中で回転させた。
「あ、いえ・・・・」
「まぁ。お祖父さまったら、約束するって言ったのに」
「あの、ひいお祖父さまは?」
「お祖父さまがどうかしたの?」
「え?」
「?」
母との間で、お互いに疑問符が頭の上に飛び散った。
僕はひいお祖父さまがここへ来ているのだと思いこんでいたけれど、そうではないようだ。
「ひいお祖父さまと、途中でお会いしました。でも、離ればなれになって・・・・」
「お祖父さまが館へいらっしゃっているの? だとしたら、めいっぱい文句言って差し上げなくては」
そう言いつつも、母の姿をした悪魔のように、罵る様子ではないことに、僕はほっとした気がした。
「じゃあ、案内人の方は?」
館の案内人にも会っていないことに気付く。
僕の問いに、母はキョトンとした様子でいる。
「彼ならそこにいるわ」
「そこ?」
「そこ」
指差した方角を見れば、先ほど母と一緒に居た男性がいる。
「え?」
僕は頭の中がごちゃごちゃになって、思考回路がショートしてしまったことに気付かない。口を開けたまま、僕は彼を見入っていると、彼は苦笑して口を開いた。
「申し訳ない、エヴァンズ。私はあらゆるところで、あらゆる姿になる。言動も全て違ってきてしまうので、多分分からないから、言わないでおこうと思っていた」
「じゃあ、あなたが案内をして下さった・・・・?」
彼は僅かに苦笑した後、一瞬のうちに執事の姿の老人へと変わっていた。今まで館の中を案内してくれた老人その人の姿だった。
「まぁ、エヴァンズったらおじいさんが好みなの?」
「アルシーナさま、そうおっしゃいますな。わたくしの姿は、エヴァンズ様の想いとして生まれたわけではなく、これは自然変異なのでございますよ」
「でも、最初からその姿ではないでしょう?」
「最初は・・・・」
老人は僕を振り返って、少々困ったような表情を浮かべる。
「誰だったの? エヴァンズ」
母は案内人に尋ねるのを止めて、僕の方を見る。別に隠すことでもないのかと思い、答えてみる。
「最初は・・・・ひいお祖父さまでした」
「まぁ・・・・」
母は口元を手で覆って、淋しそうな瞳を返してくる。
「エヴァンズの大切な人はお祖父さまなのね。ちょっと悔しいわ」
「そうおっしゃいますな、アルシーナ様。それほど、ローレンス様も・・・・エヴァンズ様を愛しておいででした」
「分かっているけれど・・・・けれど」
ぽろぽろと、白い肌に涙がこぼれる。
僕には最初、ひいお祖父さまの姿をした案内人が現れたことは、そんなに重要なことではなかったけれど、この世界では、その人の一番想い人が案内人の姿になる・・・・というのを思い出して、僕は心が痛んだ。
「あの、ごめんなさい。僕・・・・」
言おうとして、何を言えばいいのか分からなくなった。
「お~い、誰かいるか?」
静まった一室の外、神殿の入口の方から声がした。その声は・・・・。
「もう、頭にきたわ。言ってやらなくちゃ」
いつの間に持っていたのか、ハンカチを取り出して涙を拭い、母は入口の方へ歩き始めた。
「おぉ、ここかここか」
辿り着いたのはひいお祖父さまだった。
「お祖父さま! 私もう、我慢なりませんわ」
「おぉ、アルシーナ。どうしたそんなにカリカリして。お、エヴァンズはもう辿り着いたのか。早いな」
「お祖父さま聞いてらっしゃるの?」
「アルシーナ。探して探してようやく逢えたというのに、訳も分からず怒られては困ってしまうぞ」
「お祖父さま!」
二人のやりとりを見て、僕は思わず笑い出したくなってしまった。
そう言えばひいお祖父さまは、自分が怒られると、聞いているか聞いていないかのようにはぐらかしてしまうクセがあるのだ。
逆に母は時折子供のように無邪気に怒り出してしまう。
僕は初めて二人の姿を見た。とても嬉しい気持ちと、とても……哀しい気持ちとがごっちゃになって、わずかに涙が滲んでくる。
この人たちは、僕が現実の世界に行けば、もう……いないんだ。
そんな僕の想いをよそに、ひいお祖父さまは疲れたように母の肩を叩いた。
「分かった、分かった。お前の話は聞いてやるから、待ちなさい。時に、エヴァンズは大丈夫だったか?」
急に話を振られて、びっくりして顔を上げる。
「あ・・・・はい。母さまに助けて頂きましたし」
「そうか」
ひいお祖父さまはただわずかに微笑み、その後の言葉を飲み込んだ。
「そうか、じゃないわお祖父さま。私怒っていますのよ」
「エヴァンズのことなら、わしも色々想っておる」
「エヴァンズの?」
頷きもせず、ひいお祖父さまはただ僕の方に目を向けた。
「エヴァンズ、そろそろ元の世界に帰らないと危ないかも知れないな」
「危ない?」
「悪魔どもが騒いでおる。お前の魂を喰わんと、あちこちから悪魔がお前を探している。わしらはとっくに死んでいるからまだ逃げられるが、生身の魂となるとそうもいかん。狼に生肉をちらつかせているのと同じような状態だ」
「でも、どうすれば?」
「・・・・・・・」
ひいお祖父さまはそのまま黙りこくってしまった。僕が元の世界に戻れる方法を、ひいお祖父さまも知らないのかもしれない。それでも、その時は一時も早いほうがいいだろうと、そういうことなのだろう。
「でも、僕は母さまを捜しに来たのです」
「もう、逢えただろう?」
「ただ逢いに来ただけじゃありません。だって・・・・ひいお祖父さまがおっしゃったではありませんか」
「・・・・そうだったな」
ひいお祖父さまは哀しそうに目を伏せた。
「どういうことなの? エヴァンズ?」
問われて、僕は何も言えずに口を閉ざした。
「エヴァンズ、戻れるのなら早く帰りなさい。シャイディ、エルシェスタはどこにいるの?」
母は案内人の老人を振り返る。彼はわずかに間をおいて、首を振った。
「・・・・どこにいらっしゃるかつかめません」
母はそう、とわずかに息をつく。
時に、僕は案内人の名前が「シャイディ」というらしいのを、
今になって初めて知った。今まで気にもしていなかったのが、不思議な感じだ。
母は僕を振り返って、額に接吻する。
「エヴァンズ、とにかく帰りなさい。ここにいてはダメよ」
ね、と優しい声に、僕はわずかに俯いた。
「・・・・帰りました、一度は」
「一度は?」
「僕・・・・ひいお祖父さまが母さまを探してるって聞いて、それで母さまがどうしたいのか聞きたくて・・・・ここに残ったんです」
「エヴァンズ・・・・」
「だから、僕はそれが解決するまでは戻りません。聞きたいんです。母さまがどうしたいのか?」
僕が言ったその言葉は、もっと事情を知っていれば聞いてはいけないことだったのかもしれない。母が今後どうしたいか否か? 僕やひいお祖父さまが知っていた情報が少なすぎて、僕はそれを聞いた時、後悔することになる。それでも、僕はそのために来たのだから聞く権利はあるんじゃないかと、この時は思っていた。
「ダメよ。それだけは言えない」
「どうして?」
「それも言えないわ。エヴァンズ、何も知らずにいた方がいいことだってあるのよ」
「そんなの・・・・分かりません。納得がいかない」
「誰だって聞いて欲しくないことはあるでしょう? お願いエヴァンズ、何も聞かないで。このまま神のおられる世界に帰りなさい。ここは神のいない世界。神がおられれば、私は裁かれるわ。永遠に・・・・!」
「母さま?」
一体何を隠したいのか、何が起こっているのか分からない。僕は母がここに留まるか否かでも聞きたいのに、それすらも答えられないと言った。僕が選択したこの道は、間違っていたの?
「母さま、でも・・・・」
「アルシーナ、それではここまで来たエヴァンズが納得できないのもムリもないだろう? お前の言葉で、きちんと話してやりなさい」
「できない・・・・」
「アルシーナ」
「できないのよ! もう、これ以上聞かないで!」
生前には見たことのない、母の姿だった。
どうしてだろう?
なんだか複雑な気分になった。全てうまく終わるのだと勝手に勘違いして、勝手にそういう想像をしていた。何もかもうまく終わる事なんて、ない時もあるのにね・・・・。
「エヴァンズ、帰って!」
「・・・・・・」
母の言葉に、この出会いが最後でも? と、とても心苦しくなった。だからこそ、素直に「はい」とは言えない。こんな風に哀しい別れ方をしなければならないなんて、納得できないよ。
「アルシーナ・・・・」
「愛して・・・・しまったの」
「誰を?」
「・・・・・・」
言えない・・・・わずかにかすれた声が聞こえた。
悲しみが溢れてくる。透明な雫が細い指先を伝って滑り落ちていく。
一体、誰を愛してしまったの? 神に許されないほどの愛を、一体誰に?
「アルシーナ」
知らない間に周囲が漆黒の空気をまとっている。いつの間にか現れた影に、なんだか、恐い程に身を凍えさせられる。
「エルシェスタ・・・・」
母の声が名を呼ぶ。その瞬間、僕は思った。
この人だ。
黒いローブを目深にかぶり、顔も見せない相手。この人だ、と。
「お館さま・・・・」
「悪魔どもが騒いでいるな。君か」
暗いローブの中から深紅の光が僕を捕らえる。
恐い。
自分でも思いがけず後退りする僕の身体を、後ろにいたひいお祖父さまに肩を抱かれる。
「なるほどな、そういうことか」
ひいお祖父さまの言葉の意味を解したのは、恐らく僕だけだろう。深紅の瞳が、わずかに細まる。
「なんのことだ」
「いや、独り言だ」
ひいお祖父さまの言葉に、冷めた瞳がこちらを向く。
「!」
彼の冷たい手が僕の顎に手を掛ける。氷のようで、身体を震わせずにはいられなかった。それでも、気にした様子はない。
「よくここまで来られたものだな。もっとも、この先どうなるかは私の知ったことではないが」
「ずいぶんと・・・・冷たいんですね」
「お前が悪魔どもに喰われようと、それはそれで、ここでのお前の運命だ。そうだろう?」
「ここでの運命・・・・?」
「違うか?」
何だろう。この人といると、とても身体の中で不安が起こる。ざわざわと、胸の内をかき立てられるように・・・・。
その様子を知ってか知らずか、母が横から彼の視線を奪った。
「エルシェスタ、エヴァンズを無事に帰して欲しいの。神のおられる場所まで」
一瞬呆気にとられたような表情をしていたが、一寸口を閉じて、また開く。
「それを・・・・お前が私に頼むのか?」
「あなただからお願いするの。エルシェスタ・・・・この子は私の大切な、たった一人の息子なの」
「・・・・・・」
「お願い・・・・」
母の言葉に、エルシェスタと呼ばれた人は、わずかにため息をついたように見えた。
「しかし、このままむりやり連れて帰ってもムダだろう。お前が根本的な解決をこの子に与えない限りはな。何かを聞きに来たのだろう?」
「それは・・・・」
「まあ、私には関係のないことだ。お前の好きにするがいい。ただ、もうお前もここにいるのはやめろ」
その一言に、母の表情が凍り付いたのを見逃しはしなかった。わずかに震える右手を、左手で胸に押し当てる。
「・・・・どうして?」
「どうしてもだ」
「そんなの理由になってないわ」
「それはお前も同じ事をしているだろう?」
「・・・・・・」
それは先ほどの僕と母の会話のことを言っているのだろうか? でももしかすると、この人は感づいているのかも知れないと思った・・・・とは、あくまで僕がそう思っただけの話だけど。
「もう、ここに留まるな。その方がお前のためだ」
「そんな・・・・そんな言葉聞かないわ。聞きたくない」
「アルシーナ」
わがままを言うな、と彼の手が母の肩に触れる瞬間、すさまじい爆発音に似たものが、神殿の外で響いた。
「! な、なんだ!」
驚愕してみな入口を振り返ると、また二度、三度と同じものが続いた。
「お館様・・・・」
不安に案内人の老人が主人を振り返れば、静かに口の端に笑みを浮かべる姿がある。
「ふ、私も見くびられたものだ。たかが人間の魂を求めて、私の腕に自ら飛び込むとは・・・・」
黒いローブがいつしか光の色に染まり、それが空に舞えば、光の結晶が辺りを浮遊している。
「なに・・・・?」
綺麗な結晶ではあるけれど、薔薇を「美しいものには棘がある」と称されているような、そんな痛さを伴ったものだった。
「私の館で私を相手に、生きて帰れると思うな」
紅い目が細められ、結晶は一斉に入口方面へ向かった。その後に聞こえたのは・・・・。
「!」
悪魔たちの阿鼻叫喚。普通の日常では考えられない、絶対に聞かない、身も凍るような悲痛の叫び。
「エルシェスタ・・・・」
怯えて不安気な母の瞳に、先ほどとはうって変わった優しい眼差しを返し、額にキスをする。
「怖がらせたな。だが、もうしばらくは大丈夫だろう。さあ、これからどうするか?」
「どうするか」とは、僕に向けての言葉だった。
何となく・・・・何となく、母がエルシェスタと呼ばれた、この館の主を何故愛してしまったのが、分かった気がした。性別を通り越して、この館の主人には、人を恐怖させるのと同時に、人を魅了させる力がある。主人を見て、心底で恐怖を感じながらも、どこかでその存在に惹かれている自分がいるのを、僕は感じた。
「僕は・・・・」
「あまり元の身体から離れすぎると、帰れなくなるぞ。その前に、お前の用を済ませろ。もっとも・・・・それには母の返答か?」
彼の瞳に、僕は頷いた。そして、母を振り返る。
母は、何とも言えない表情だった。ただ、冥界には行きたくない、という決意は目に見えて分かった。
「母さま・・・・」
「・・・・・・」
「僕、もう一度聞きたいんです」
僕はこの時、すでに心のどこかで言ってはいけない、聞いてはいけない言葉だと思っていた。けれど、人の欲というのはこういうところにも現れるのかも知れない。僕は母からの言葉を聞きたい願望と共に、それを欲望という形でも露わにしていた。もちろん、本人はそんなことに気づきはしない。
「母さま」
僕の言葉に母は怯えていた。身体が震えて、まるで・・・・愛しい人の死を前にしているような表情だった。
「エドを想うと・・・・とても心が痛いの。愛していたのに・・・・愛していたはずなのに・・・・わたし・・・・」
震えるかすかな声が空気を伝って感じる。
「わたし・・・・エルシェスタを・・・・愛してしまったから」
「・・・・・・」
「例え神に裁かれようと、ここで朽ち果てようと・・・・そばに・・・・いたいの」
それは母の真の願いで、想いだろう。
僕はとても胸が痛くなるのを感じた。まるで、母の亡くなった日のように、とてもとても心苦しくて、息苦しくて、でもあの時と違うのは・・・・とてもたくさん涙が出たこと。知らないうちに、透明な粒がいくつもいくつも僕の瞳から流れて、止まらなかった。
僕の心の中は、たくさんの感情が出てきて、たくさんの想いで何をどう返していいのかも、それすら頭にない状態だった。
「エヴァンズ・・・・」
まるで壊れてしまった機械のようにとめどなく流れる涙を見て、ひいお祖父さまはただ黙って、僕の後ろから生前と同じような温もりをくれる。
この感情がなんなのかは、この時まだ分からなかった。もっとも、後で思い返してみても、それが本当に『後悔』 というものだったかも分からないのだけど。
「エヴァンズ、ごめんねエヴァンズ・・・・」
母の想いが伝わってくる。生前愛していた父への想い、僕への想い・・・・そして、今この世界での耐え難い苦痛を伴った愛を。
分からない、僕は悔しかったのだろうか? 僕への愛は永遠に続いていると思っていた。もちろん、今でもあると思う。けれど、それ以上の愛を手に入れる人物が、父以外にいるという事実、それが・・・・今まで父に逢ったことがないにもかかわらず・・・・父への裏切りのような気がして・・・・そうして僕は気付く。自分はなんて醜い人間なんだろうって! 母の幸せを願うつもりが、なんてエゴイスティックに満ちた自分がここにいるんだろうって!
「ごめ・・・・なさ」
僕は言葉にできない言葉を、必死に作り出した。その言葉に、まるで枷を急に外されたような勢いで母が僕を抱く。
「ごめんね、エヴァンズ。でも、今でもあなたやエドも愛しているの! こんな身勝手なこと、ないかもしれないけれど、今でも昔と変わらず愛しているの! でも、ダメなのよ。冥府へもいかなくていい。わたし、わたし・・・・」
「母さま・・・・」
「心残りがたくさんありすぎて、その想いを堪えるの必死だったわ。ずっとあなたを見ていたかったけど、神の御使いが冥府への道を開いた時、わたし恐くて行けなかった! どうして愛している人たちのそばにいられないんだろう? どうしてって!」
「そして・・・・」
ようやく、母と僕以外の声が重い響きを放つ。
「アルシーナは逃げ出した。逃げて逃げて、彷徨って辿り着いたのがここだ。その間に悪魔に追いかけられもした。それを助けたのが・・・・私だ」
「ですが、お館様も、大分お悩みになりました。冥府への魂をここで保護する訳には参りません。ここは『神に見離された地』でございますから・・・・」
「でも、助けたんでしょう?」
「否定はしない」
彼はそう言って、初めてローブを後ろにはなった。瞬間目眩を覚える。鈍器で頭を殴られたのではないかというほどの頭痛に近い圧力。
「・・・・・・」
思わず立ち眩み、ひいお祖父さまに支えられ、それでも立っていられずにしゃがみこむ。
「エヴァンズ」
心配そうなひいお祖父さまの声がする。それでも、答えられない。
不思議な、全ての困惑を備えた紅い瞳に捕らわれる。その中に一際困惑した欠片があった。
「・・・・・・」
僕はその存在を感じて、なんだかとても胸の中に痛みを感じてしまった。拒否したいのに拒否できない。否定したいのに否定できない。そしてそれを受け入れたいのに受け入れられない葛藤。抗い続けても、抗い続けようがない奥底の想い。
不意に周囲が暗くなって、自分と彼だけがその空間にいる。
「彼女を、神の世界へ戻してくれ」
「でも・・・・・・あなたはそれを望んでいない」
「・・・・・・どうだろうな」
「受け入れることも、受け入れないこともできないで、人にその結果を委ねるなんて」
「・・・・・・否定はしない」
でもそれはきっと母の為の最良の方法が、彼にも解らないからなのだろうことは感じた。
「あなたはどうしたいのですか?」
「私の想いなど、本来あるべきものではない。私の存在価値が、無のものであるのと同じ。私の想いは、空想の産物に過ぎないのだ」
「意味がわからない」
「私という存在を、人と同じにするな。私は無から生まれ出でたもの。決して形而下の存在などない」
「でも、そこに生まれた物は確かにあるはず。何故それを否定するのです?」
「それは只の夢だ」
「夢?」
人と同じ存在ではないと言うけれど、それでも抱いてしまった想いを、無から有したものを、無駄だからと否定してしまうの?
僕は一体どうしたら良いのか解らなかった。
「エヴァンズ、私は『神に見離された存在』なのだよ。人が夢を見るのと同じ。夢は夢であって現実ではない。夢の中にあるものは、見るだけで存在しない」
「わからない! あなたは自分の存在を否定し続けて、それがなんになるというのです。生まれて出たものはないと信じたいだけじゃないですか!」
「ならば仮に存在すると肯定したところで何になる? 彼女が神の世界に帰らないなら、彼女の存在自体、お前達の世界から消える。それでも、肯定しろと?」
「・・・・・・?」
存在が消える? そんなことあり得ない。
「母が生きていた事実は消えないでしょう」
「それが消えるから肯定できない。お前がお前でなくなる可能性だってある。ここは夢に近いが現実なのだ。いいや、真の現実ではないが、現実と近い場所にある」
「そんな・・・・・・」
それが彼に容易に肯定できない理由?
「エヴァンズ、もう一度言う。私は無で、形而下の存在はない。私が抱いているものは夢。そして彼女が想っていることも夢の一つだ。それを終わらせる為に、現実に生きているお前の力をここに導いた」
「僕には何もできない」
「お前でなければできない。それは現実に、お前は生きているからだ。お前が死んだ者であるなら、意味がないこと」
「そうであっても、母がもしあなたと共にいることを望むのだとしたら、僕にはそれを否定する理由なんて・・・・・・」
ない、と告げられなかった。
「言ったはずだ。お前の存在も消え得る、と」
彼は恐らく、僕に生の執着心があれば、自分が生きるために母を神の世界に導いてくれるだろうと期待しているのだろう。滑稽だ。僕には、生に対する執着なんて・・・・。
「残念ですが・・・・僕が消えたところで、悲しむ人はいない」
「・・・・・・」
「僕は疎まれていた。今は少しは受け入れてもらえてたと思うけど・・・・」
「なら、現実がどうなっているのか見せてやろう」
彼の手の中から柔らかな光が球状に現れ、その中には現実の世界であろう僕の姿があった。
現実の僕の姿は、病院の一室で、祖母が側にいる。そして、友人のフレッドが心配そうな表情で、見ている。祖母は医師に、僕がどういう状態かわからず、このまま昏睡状態が続くかも知れないと告げられ、茫然としている。それを聞かされたフレッドは・・・・。
「・・・・僕を欺きたいのですか?」
「それは現実だ」
「もし母の存在が消え、僕の存在が消えてしまっても、誰もわからない。存在が消えるってことは、最初からいなかったってことでしょう?」
「・・・・・・」
「なら、僕はそれでも・・・・」
『それは困る』
不意に聞いたことのない、いや耳で聞いているのではない。頭の中に直接語りかけてくる存在がある。
『エル、お前にしては手間取っているね』
「・・・・・・」
ふと自嘲気味に一笑する彼に、存在は語りかける。
『エヴァンズ、アルシーナは神の召し子だ。神の下へ還られなければ、現実の世界に色々支障がきたされる。お前は疎まれているのではない。それは試練なのだ。これから巡りゆくお前の現実の』
暗い空間に、輝かしい光の繭が生まれ、それはすぐに殻を割り、中から人の形をした存在が現れた。そして背中に6枚の翼がはえている。長くまとわる光の髪色の中から、繊細な顔が現れ、閉ざされていた瞳が開けば、その瞳も光の色をしていた。館の主人とはまた違った存在。
「ご苦労なことだな、セラフ・・・・」
皮肉を込めた言葉に、その皮肉すら打ち消してしまうような微笑を返す。
『苦労など厭わぬ。困っている友のためにも』
「よくも言う」
気心の知れた仲間のような会話を交わして、二人は僕に向いた。それは、今まであったようなさざ波のような空気ではない。凜として、凍ってしまいそうな張り詰めた空気だ。
『エヴァンズ、アルシーナはキリストの母・マリアの血族だ。だからこそ、神はアルシーナを探している。今まで、この館でいられたのは、この神に見離された地に、直接的ではないが、守護があったからだ。アルシーナを守る為の。だが、アルシーナがここから還らないということになれば、話は別だ』
直接頭の中に響く声が、そう告げる。
「事を穏便に済ませるためにお前を呼び寄せた。だが、そうでなくなるならば…」
言いかけ、館の主人は口を閉じた。
『そんなことはさせない』
「どうかな」
自嘲して逸らされた視線は、もう僕には向いていない。
「あの…」
『なんです?』
「神さまのところに、彼を一緒に連れて行ってはダメなのですか?」
『……』
事情はよくわからないけれど、母さまが神さまのところに帰らなくてはならないのなら、彼も一緒に行けば、話は早いのだと思った。けれど、そんな簡単なものではなかったようだ。
『その方がよほど…最悪なことが起きますね』
「どうして?」
『……』
言えないような最悪のこととは一体なんなのだろう。
「…いや、それでも良いのかも知れぬ」
『エル! それでは何の意味も…!』
「ここは神に見離された地。私は神に見離された存在だ。その存在を消されるのであれば、無になるだけだ。私は私に戻れるのだ」
『屁理屈を言うな。私はお前を失くしたくない』
「………方法がもうない」
諦めたように閉ざされた瞳。その姿を追った翼の人は、不意に僕に目を向けた。
『いや、まだ方法はある…』
僅かに悲しそうな瞳が映る。その後見えたのは、赤い血いもの…。
鈍い感覚が胸の辺りを支配する。
「! エヴァンズ!」
館の主人が初めて感情を現した瞬間、僕は自分の身体の感覚を失った。そして次の瞬間には、神殿の元の部屋に戻り、驚愕と悲鳴の声を聞く。
「エヴァンズ!」
母の声が聞こえると、僕は自分がどうなったのか、少しだけ理解した。
僕は翼の人に、胸を貫かれたのだ。何でかはわからない。もう気づいたときには鮮血が身体を流れて、身体が立つことを放棄していた。もう、意識が朦朧として…何も考えられない。
『アルシーナ、神の御許へ戻られよ』
翼の人は言った。僕の首下には白い十字架の先が向けられている。十字の先は鋭い剣先のように煌めいて。
『あなたが帰られればこれ以上のことはしない。けれど、あなたが望まぬのならば、このまま彼の身体を引き裂くまで』
「………」
恐怖した母の顔が引きつる。
「最高位の天使が…悪魔と同じ所行をするのか?」
『私は己の欲望の為に、彼を貪ろうというのではない。私は純粋に、神の御使いとして、その責務を全うするのみ。悪魔の所行と同じにしてもらっては困るな』
「セラフ…」
僕は朦朧した中で、翼の人が何をしようとしているのかなんとなく理解した気がした。僕は、それに利用されたに過ぎないが、もうそれでもよかった。僕が死ぬのなら、もうそれで…。
『!』
身体が重い。痛い。苦しい。
かろうじて吐く息の通り道を、身体の中から這い上がってくるものがある。
「エヴァンズ…」
知らない間に血い色が辺りを染めている。
母はその場でへたり込んで、ひどい泣き顔をしていた。
僕の目からも涙がこぼれ落ちる。でも、こぼれて落ちれば、それは闇を拡げていくようだった。
「やめて…エヴァンズを殺さないで。この子はまだ…生きているの…。生きている子を殺さないで…」
悲痛な想いだった。
『ならば神の御許へ還られるか?』
その問いに、助けを求めるように向けられる館の主人への眼差し。けれど、それは助けられることも、答えを出されることもなく、視線を逸らされる。
早く…早くこの苦しみから解放されたい。怖い、恐い畏い…。
涙が溢れる。こぼれ落ちる。闇が…拡がっていく。
「セラフ…もうやめろ…」
『ならばアルシーナを説得すればよい』
「これ以上は…」
やめるんだ、と呟かれる言葉。
悲しみと混沌が産まれる。それを感じながら、僕は堕ちていく。形而下の現実よりも、神に見離された地よりももっと深く…。そして、僕は館の主人の本当の姿と、この神に見離された地に居続ける理由を見つける。けれど、それももう遅いのかな…?
「アルシーナ、神への祈りを捧げろ!」
「…?」
「ここは神に見離された地だが、神はお前の声を聞くだろう。見離されて尚、お前は神に愛され、守護され続けるのだ。でなければ、このままエヴァンズは二度と戻らない。エヴァンズは地獄へ堕ちる!」
「そんな…」
「だから、神に祈りを捧げるのだ!」
ダメだよ、神に祈りを捧げたら…あなたは…。
「………」
想いが言葉にならない。
母の両手が合わさり、頬に流れる雫が組んだ指先に落ちる。
「神さま、どうかエヴァンズを…息子を助けて…」
『………』
ダメ、祈らないで母さま。祈るなら、僕は…。
「堕ちていくな、エヴァンズ!」
「………」
「堕ちて…いくな」
透明な光。
ダメだよ、これ以上呼ばないで…。
もう、僕が混沌の中に消えれば、そうすればあなたは…。




