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ブラック・アウト  作者: 巴 香織(ともえ かおる)
7/11

夢Ⅴ

目を覚ますと、砂漠にいた。地上に打ち上げられた魚のように身体が乾ききって、今にも干からびてしまいそうに息苦しさを覚える。

 今までの場所が暗かったからか、広がる青い空と太陽はとてもまぶしくて、しばらくまともに目を開けることができなかった。それにしても、こんなにまぶしい太陽を見るのは、現実でもあまりない。とても不思議な世界に迷い込んだと思った。


「ここは?」


 周囲を見回すと、砂漠の広がる空間に、ぽつんと扉が見えた。陽炎のようにゆらゆら揺れて見える。四方を見回すとそれは四方にそれぞれ一つずつ存在している。まるで、館の案内人が「鏡の間」と言ったそれに近いような形で存在している。

 どうすべきなのか、とりあえず考えてみる。

 館の案内人がいない以上、これからの道は自分で進んでいくしかない。僕が何故この世界に留まることになったのかは自分でもよくわからないが、その意思が間違っていなかったことを自分自身に…或いは彼に…証明するために、僕は自ら道を開いていかなくてはならない。最後にその結果を、自分の納得いくものとするために…。

 周囲を見回す。僕は何処の扉を開けるべきなのか。


「あんまり深く考えない方がいいのかも知れない」


 深く考えることで、何か捕らわれなくてもいいものに捕らわれてしまいそうで、僕は決心して目前の扉に進むことにした。

 木製の扉に着いた金メッキの丸いノブに手を掛け、回す。わずかに音がして扉の向こうの世界を覗く。


「?」


 扉を超えた世界は、今までの砂漠の世界とは打って変わって、月夜ほどの薄暗い景色の中に、わずかに淡い桃色の花びらが舞っていた。僕はこの美しい桃色の花を知らない。

 その花をもっと間近で見ようと歩を進めると、木の根元に誰かが座っている。


「あなた…誰?」


 掛けられた声に、なんと返して良いのか解らずに沈黙してしまう。名前でも言えばいいのだろうか。


「キミこそ、一人で何を?」


「花を愛でているの。わからない?」


 わずかに微笑する。

 ストレートの長い黒髪と黒い瞳が印象的だった。どこかアジア系の面持ちではあったが、この世界に来て何処の国の人かと質問するのも愚問に思えて、敢えては聞かなかったが。


「よく…言ってたね」


「何を?」


「桜の下には、死体が埋められているって。だからその血を吸って、花びらはあんなに綺麗なピンク色になるんだって」


「?」


 何の話かわからない。誰かと間違われているのか?


「でも、本当にそうかも知れない。だって…」


「……」


 そのまま手で顔を覆って伏してしまう彼女に、どうしたらいいのかわからず、手をさしのべかける。


「私が埋められてから、今まで以上に綺麗に咲くようになったものね…」


「!」


 不意に、のばしかけていた腕に木の根が絡んだ。そのままどこかに引きずり込まれるように強く引っ張られ、咄嗟に引っ張って離れようとするが、叶わずただ懸命に堪えるのみだ。


「だから、あなたもこの花の一部になって、綺麗な花びらを咲かせて」


「な…」


「私と一緒にて。ずっとずっと…」


 首下に絡みついてくる彼女の手は、とても優しくて温かかった。僕はこの状況から逃れなくてはいけないのに、どうして彼女を突き飛ばすことができないのだろう。

 木の根が絡む腕は、血が通わないほど強く痛いのに、僕は何故か冷静だった。


「ねぇ、キミ」


「……」


「お願いだから離して。僕はキミと一緒に埋もれるわけには行かないんだ」


「ダメよ。だって、ずっと一緒にいてくれるって約束したじゃない」


「それは僕じゃない」


「じゃあ誰だって言うの?」


「キミの胸の中にいるでしょう?」


「胸の中?」


「盲目になってはダメだよ。思い出してみて。自分が好きだったのは誰か、約束したのは誰だったか……」


 彼女は不思議そうに僕を眺めた。そうして、今まで焦点の合っていなかった目が、ようやく本当に焦点を合わせて僕を見ている。


「ここは…どこ?」


「それは…僕にもよくわからない」


「知らない間に、何処に来ちゃったの? 私、これからどうすればいいの?」


「それも…わからない」


「あなたはどうしてここにいるの?」


「僕は…」


 まるで幼い少女のようにあどけなく、本当に困った瞳を向けるものだから、僕は困り果ててしまう。困って視線を落とせば、いつの間にか絡んでいた枝がどこへともなく消え去っていた。痕も残っていない腕を少々さすり、僕は僅かに息を吐く。

 もう遠い記憶の人となってしまった面影を思い出して…。


「大切な人を…探しに来たんだ」


「大切な人…」


「うん」


 いいな、と彼女は呟いた。寂しそうに、悲しそうに、小さく呟いた。


「私にはいない…そんな人」


「そうかな…」


「だって、いたとしても…もう逢えないじゃない。こんなところじゃ…」


「逢えるよ」


「どうやって?」


「……」


 別に方法がわかるからそう答えたわけじゃない。ただ、僕だって生身の魂で、この世界にいなくなった母を探しに来たんだ。こんな体験したら、もう逢えないなんて事は、ないような気がした。


「ホラ、わからないじゃない」


「そうだね、方法はわからない。でもキミに責められる覚えはないよ。自分では何もせず、こんなところで待っているだけなんて…ゼイタクすぎるよ」


「ゼイタク? あなたに何がわかるのよ!」


「何もわからない。僕はキミを知らないし、キミだって僕を知らない。キミがどうしてこの世界に来てしまったのかも知らないけれど…僕は一度目は成り行きできたけど、二度目は僕が選んだんだ。どうしても…逢いたかったから。人を想うっていうのはそういうことでしょう?」


「……」


「誰かが迎えに来てくれないなら、自分で探しに行けばいい! もしかしたら相手だって探し続けているかも知れない! 座り込んでいたって始まらないでしょう」


 そう、この先に何があるのかと畏れずに、不安がらずに、とにかく進んでいくしかないんだ。成り行きだって構わない。一度行くと決めたのなら、道を間違えようが何しようが、進んで体験していけばいい。時には冷静に考えて、時にはヤマカンしてでも進んでいくしかない。もちろん失敗することや、諦めたくなるときだってあるだろう。そうしたら、自分がどうしてこの道を進もうと思ったのか、思い出してみれば言い。進むんじゃなかったなんて言葉は、吐いちゃダメなんだ。自分の過ごしてきた時間に決して間違えなんてないし、例えあったとしても、過ぎたことなら、それを教訓にしてもう一度立ち上がればいい。今度は失敗しないように。


「キミが進まなくても、僕は行くよ。どうやって探せるのかはわからないけれど、いつかは何か見えてくるだろうし、見つからないなら休んで考えるんだ。何で見つからないのか」


「なんで見つからないか? 私が待っているだけだから?」


「その人のことを呼んでる?」


「呼ぶわ。いっぱいいっぱい」


「心に闇を置いちゃダメだ。希望を光に変えないと」


「私、あの人に会いたい」


「そしたら、進んでいくんだ。例え道が閉じていても、穴があいていても……」


 彼女は大きく頷いた。

 神に祈りを捧げるように手を組み、目を閉じる。しばらく沈黙してから、彼女は強い意志を持って立ち上がった。


「ありがとう。私行くわ。きっとたどり着いてみせる」


「うん、がんばって…」


 彼女は優しく力強い笑顔で、闇の中に走り、消えていった。


薄暗い景色は、いつしか淡い光の玉が辺りを照らしていた。ふわふわと雪のように柔らかそうで、また光を反射する宝石のように輝いている。


「きれいだな…」


 そっと手で触れてみようとすると、光は消えて、小さな硝子の破片のようなものがいくつか残った。


「生命の結晶でございますよ」


 顔を上げると、館の案内人がいた。優しい笑みを浮かべて、こちらに歩み寄る。


「希望の結晶とも言います。この館の中は、そのほとんどが闇に埋もれています。けれど、もっとあなた様のような…人に勇気を与えてくれる方がいらっしゃれば、この館ごと、光に包むこともできますでしょうに…」


「勇気…?」


「そうです」


 老人は光の玉を手に硝子の破片を作り出すと、それを空に放った。それは空に放たれると同時に白い鳥となって、空を羽ばたき、そのうちにはじけて光の結晶となり、雨のように降り注いだ。とても幻想的で、とても神秘的で、そのまま何も考えられずにその光景を見入ってしまう。


「人々がもっと生命を大切に、希望を大切に生きていこうとしているのなら、この館も…少しは明るくなることでしょうに」


「?」


「いえ、失言です。今のは聞かなかったことにしてください…」


 わずかに悲しそうに笑んで、老人は空を見上げる。それから僕の方を振り返った。

「館の案内を再開させて頂いてよろしいでしょうか。わたしくの案内はまだ終わっていないようですから…」


「はい、お願いします」


「かしこまりました。それと…あなたのひいお祖父さまは、別の場所へ向かわれました。『その内に合流するから心配するな』とのことです」


「そうですか」


 わずかに淋しい気持ちが残るけれど、全く一人でいるよりは、この館を案内してくれる老人がいるだけでも心強かった。


「では、参りましょうか」


 わずかに会釈して、老人は歩き始めた。

 歩き始めて少しすると、木製の扉が遠くに見え始める。今度はそこの扉をくぐるのだろうと思っていたら、老人は気にもとめずに扉に向かって歩き、そのまま通り過ぎてしまった.老人にとっては何気ない事だったのかも知れないけれど、僕には心臓が止まるような思いだった。


「どうかしましたか?」


 僕が後をついて行かないことに気づいたのか、透き通る扉の向こう側で老人が振り返った。


「あ、あの…」


 思わず伸ばし掛けた手をどうすることもできずに、そのまま無言で下ろしてしまう。


「あぁもしかして…」


 老人はこちらに戻って、再び先ほどと同じように扉をすり抜けてきた。辺りを見回して、ふむ、と頷く。


「何か見えますか?」


「あの、扉がそこに…」


「申し訳ございません。説明が足りませんでした。ここは幻覚の間なのです。わたくしとあなた様と、見える場所と見えるもの違うのです。わたくしにも少々不慣れな場所で、不案内なこともあるかとは存じますが、その際はお許しください」


「いえ、そんな」


「わたくしがこの幻覚の間に来たのはまだ数えるほどです。初めての時は…苦労しました」


「そうなのですか?」


「案内人なのにおかしいと思われるかも知れませんが、主人がわたくしを入れない場所は、他にも何カ所かあるようなのですよ。時々、ふと見知らぬ場所に迷い込み、わたくしも困ることはあります」


「そういう時はどうするのですか?」


「乗り越えていくしかありません。主人は時折知らない場所へ連れて行くことはしますが、それ以上のことはしません。必ずどこかへ通ずる道を示してくださるのですよ」


「不思議な方…ですね」


「えぇ、とても…」


 そう言って老人は優しい微笑みを浮かべている。

 僕は考えていた。僕がこの世界に戻るきっかけをくれたあの人が、もし本当に主人だったとしたら、と。あの人は確かに不思議で、何故か…そう何故か、奥底に慈愛を隠し持っていて、誰かに…似ているような気がしている、と。


「あなた様は主人になにか…想われていらっしゃるようですね」 


「想われて?」


「あなた様を、幸不幸の紙一重の場所で導いているように思えます」


「導く…」


 そう言われるのは何となく不思議だった。僕は自分の意思でどこへ行こうかと選んでいると思っている。けれど、よくよく考えれば、ここは主人が住まう場所で、きっとその主人が僕の行く末を決めることができるのだろう。そう、進んでいく道は僕だけの意思じゃない。主人の意思でもあるのだろう。


「ここへ来られた方達は、皆主人の思うように、またそうでなくとも、どこかへの道を進められていきます。しかし、最終的にその方がどの方向に導かれるのかは、その魂自身が何を望んでいるか、なのですが…」

 老人の言葉を聞いて、僕はそういう内情を僕が聞いてしまっても良いのだろうか、と思った。


「いいのですよ。あなた様だからこそ、わたくしもお話しできるのです」


「え?」


「…あ…」


 老人は気づいたように口元に手を当てた。


「申し訳ございません。わたくしは時々あなた様の心内の言葉を聞いてしまうようです。普段ならこういったことはないのですが…わたくしにもどうしようもないので」


「今、僕が考えていたことが聞こえたんですか?」


「えぇ。お話ししているのと同じ状態で聞こえるのですよ」


「そう…なんですか」


 僕はただびっくりするだけだ。そうしたら、あんまり変なことを考えたら老人には聞こえてしまうのだろうか? と余計な思考を巡らせれば、老人はそれも拾ってしまったようで、珍しく声を出して笑っていた。


「申し訳ありません…何故あなた様の心内が聞こえてしまうのか、わからないのですが…」


 仕方ないと言えばそうなのだけど、僕はそれ以上、なるべく考え事をしないように努めた。老人にも聞こえてしまうのは制御できないようだし、そうなったら自分で気をつければ良いのだ。…とは思ったものの、意外に自分の心をコントロールするのは難しい。僕はその後、何度も老人に心の疑問に答えさせてしまった。

 やがて光の玉の舞う幻覚の間を抜け、屋敷の一部と思われる広い応接間に出た。壁に蝋燭がいくつか置かれ、暗いと思わない程度に明るかった。中央の大きな品の良い柄の描かれたソファに挟まれて、木製の大きめのテーブルがあり、そこに置かれた燭台に老人が火を灯して更に部屋を明るくすると、部屋の壁に大きな油絵が飾ってあった。その油絵を見て、僕は只驚愕するだけだった。


「母さま…」


 優しい微笑みを浮かべて椅子に座る女性は、母・アルシーナと同じ顔の持ち主だった。

 その絵を見たときの老人は、何故か少々青ざめて見えた気がした。

 僕は驚愕のまま、目を見張って老人に尋ねる。


「これはまた…何か、あるのですか」


「何か、とは?」


「何か…何か…」


 僕はそれ以上何も言えずに、その絵を食い入るように見つめた。


「エヴァンズさま、参りましょう」


「でも…」


 この絵に何か母さまの手がかりがあるかも知れないのに…と。そう思っても「何が」という訳ではなかったけれど。


「この絵の女性は…?」


「申し訳ございません、エヴァンズさま。わたくしは必ずしも案内をするその方の視線と同じ位置にあるとは言えないのです。その方が何かを見ていても、わたくしには見えていないこともあります。お答えできないことをお許しください」


「……」


 老人は何かを畏れている。僕にはそう感じられた。きっと老人がこの館の案内人ではなく、自分の意思をもっとはっきり言えたのなら、今すぐここを出たいと主張しただろう。でも僕はそれがわからなかった。


「エヴァンズさま」


 僕を呼ぶ声にも気づかず、僕はしばらくその油絵を眺めて立ち尽くしていた。老人はそれ以上何も言わずに、僕の側にいる。

 どこか不思議な油絵だった。いや、自分の目が錯覚しているだけなのだろうか。笑顔を浮かべているのに、時折淋しそうな表情に見え、また無表情にも見えた。きっと錯覚だろうとは思ったけれど、なんだか妙な気がして、油絵から目を離した。


「ごめんなさい、行きましょう」


「よろしいのですか」


 あっさり油絵から離れるのを、逆に妙に思ったのか、扉へ歩きかける僕へ老人が追ってくる。


「えぇ、もう…」


「そうですか」


 わずかにほっとしたように、僕の邪魔にならないよう先回りし、扉を開けようとする。


「……」


 ノブは回らなかった。鍵を掛けられたように、左右どちらに回しても開く気配はなかった。


「鍵がかかっているのですか?」


「い、いいえ」


 焦るようにガチャガチャとノブを回す老人を、僕は不審に思った。


『開かないの?』


 不意に女性の声がした。


『そんなに手荒く扱わないでちょうだい』


 どこかから聞こえてくる声に、室内を見回す。


「誰?」


「エヴァンズさま!」


 不意に老人が僕の口を塞ぎ、声を潜めて言った。


「答えてはなりません。わたくしたちは何も聞こえないフリを」


「何故?」


「それは後ほど…」


『聞こえているわよ、小ネズミさん』


 女性の声は嬉しそうに笑っている。


『かわいい金色のネズミと…あなたはお気に入りのネズミね。今日は老いているのね、残念』


 もう少し若いネズミに化ければ良かったのに、と楽しそうな声が聞こえる。


『それじゃあ、かわいい金色のネズミさん。あなただけいらっしゃいな。お気に入りのネズミさんは、ご主人に叱られてしまうからねぇ』


 どこから声がするのか気になって部屋を見回すけれど、どこにも姿はない。あるとすれば、先ほど見ていた油絵だけ…。


「!」


 知らない間に女性が立っていた。金色の髪が波打って、瞳は優しく笑みかけている。その姿はまるで母を生き写したようにそっくりだった。


「綺麗な髪の色ね。好きだわ」


 細い指先が僕の髪に絡んでいく。何となく母が側にいるように思えて、僕は老人が隣でひどく震えていることのも気づかずに、身を任せていた。

 甘い香りがする。母と同じ、花の香り。そして温かい人の温み。

 撫でられる感覚に心地よさを覚えて、身体がふわふわしているように感じる。


「エヴァンズさまいけません!」


 何かに意識を持って行かれそうになっているのを、老人の一声に我に返った。


「!」


 しかしその瞬間に老人の身体が傾いで、床に崩れるように倒れる。僕はただ驚愕して、老人の側に膝をついた。


「何を…?」


 僕は彼女が何かしたのかと思い、彼女を見上げた。彼女は少し淋しそうに笑み、首を振る。


「何もしていないわ。大丈夫よ。ソファに横にさせてあげましょう?」


「……」


 僕はどうすればいのだろう?

 老人は僕に「彼女の声を聞くな」と言った。それは彼女に畏れる何かがあるからだろう。でも、今の所は何も感じないし、彼女は老人を介抱しようと言う。僕は彼女を信じても良いのだろうか?


「どうしたの? 私一人では抱えきれないのよ」


「…はい」


 僕はとりあえず老人をソファに横たわらせることにした。思ったよりも老人は軽く、とても頼りない感じだがした。それにしても大丈夫なのだろうか…。


「心配?」


「…あたりまえです」


「そう。優しいのね、エヴァンズ」


「なんで…」


 僕の名前を知っているのか、と言葉を飲み込めば、老人が倒れる直前に僕の名を叫んだからだ。

 また、彼女の細い指が髪を絡める。そのまま頬を撫でられる。


「エヴァンズ、いらっしゃい」


 優しい腕が背中に触れ、歩くことを誘う。僕は抵抗すべきだったかも知れない。でも、僕は彼女と歩く誘惑に負けてしまった。

 細い腕が僕に絡んでいく。それは全ての誘惑の腕。母の香りを漂わせ、笑顔が魅了する。


「エヴァンズ」


 まるで恋人を呼ぶような甘い響きに、わずかに身体が揺らぐ。それでも僕の中で、何かがそれを拒否しようとしていた。それを受け入れてはいけないのだと、叫ぶ誰かがいる。


「離してください」


  彼女の肩を押して身を引くと、何かざわついた気配を感じた気がした。


「どうしたの? 大丈夫よ。主人のお気に入りのネズミさんは、私の声を聞くなと言ったけれど、私は何もしないわ。それとも…信用できない?」


 聞かれれば、信用できないなんて言えないかも知れない。けれど、僕は信用できなかった。それこそ言葉にすることはできなかったけれども、老人が彼女の声を聞くなと言ったのも、倒れたのも、彼女に何かがあるからではないかと、疑惑ばかりが僕の中を占領していくのだ。


「そう、信用できないようね」


「………」


「その割には、案内人にべったりのようだったけれど、あれは信用しているのかしらね?」


「今は…信用しています」


「何故」


「そこまであなたに言う必要はないでしょう。僕には時間をつぶしている暇はないんです」


「目的があるから?」


「そうです」


「愛しい、母親の影を追って?」


「………」


 彼女の言葉の中に、僕の心を逆撫でるものがある。それでも、敢えて何も言わずに彼女に背を向けた瞬間…。

「信用できない相手に背を向けるのね」

突然鋭い痛みが背を襲った。

 思わぬ衝撃に倒れ込むが、慌てて振り返る僕の目に、長い爪をあかく染めた彼女が、それまでと変わりない表情で立っていた。


「この手に従うならば、楽にこの腕の中に抱いてあげたものを…おまえは苦を選ぶのだね」


「な…」


 一瞬恐怖に心臓を鷲掴みされたように思ったけれど、僕はこんな時になって、やけに冷静に思い出していたことがあった。この館に来て、案内人に「現実の世界で受け継いできた情報」と言われた言葉。ひいお祖父さまに「この感覚は形而下のものだ」と言われた言葉。

 僕は静かに立ち上がった。背の痛みは感じなかった。何もされてないと、そう思い込んだのだ。僕が感じたのはただの錯覚だと。


「おまえ…どうして…」


 彼女の驚愕の眼差しが、一寸怯えたように揺らぐ。


「誰だって、こんな知らない館の中で死にたいなんて思わない。普通にちゃんと生きて、ちゃんと生活して、最後に神に召されて死にたいと思っているに決まってる。でもここにいる人たちは違う。どうして良いのかわからずに、きっと訳のわからない理由で死んでいく人や、魂のまま浮かばれない人もいる」


「そう、ここは地獄の抜け道でもありますからね」


「!」


 思わず後方のソファを振り返ると、いつの間にか老人が立っていた。


「ですが、神に見捨てられたのは、人間ではありません。寧ろ…」


 その後の言葉を老人は飲み込んでしまった。言いたくても言えない事実があるのだろう。


「おまえ…いつのモノネズミじゃないね」


「同じですよ。ただ、それが本物か偽物かの違いだけです」


「じゃ…」


「やれやれ、何もしないと行っておきながら、結局気に入ったものには甘のですねぇ」


 老人は今までに見たことがない、陽気な笑みを浮かべて彼女に、


「行きなさい」


と言った。 

 彼女は一寸身体を震わせて、そのまま逃げるように、姿をくした。まるで何かに怯えるように。

「あの、大丈夫ですか?」


「えぇ、おかげさまで。あなた様こそ、大丈夫でしょうか?」


「はい…」


 なんだろう? 今までの老人と比べると、どこか飄々とした感じがある。それに、彼女が言っていた「いつものネズミじゃない」とは…?


「どうしました?」


「あなたは…」


「はい?」


 誰、と聞きたくて言葉にならなかった。


「エヴァンズ様?」


 そのまま沈黙してしまう僕に、老人が困惑した様子でのぞき込む。


「あ、ごめんなさい…」



「いいえ。何もなければ。先をご案内致しましょう。よろしいですか?」 


 はい、と返事できずに頷く。

 老人は少々訝しんでいた様子ではあるが、そのまま先ほど開かなかった扉のノブに手を掛けた。同じ扉と思えないほど、扉はすんなり開いた。

部屋から出ると、硝子戸と壁に挟まれた廊下がどこまでも変わらず薄暗く、果てしない様子でそこに存在している。


「少しだけ…」


 カンテラを下げ、先を歩きかけた老人が呟く。


「なんでしょう?」


「何故あなた様がここに来られたか、わかってきた気がします」


「え?」


 ふと僕を振り返り見、笑いかける。


「心が…お強いのですね」


「……?」


「そう、思われます。何かに立ち向かうことを畏れず、そして今までの経験を活かして実行できる。それをできる方は中々おりません」


「そう…でしょうか」


 再び歩き始めた老人の後を追っていく。

 とてもそうは思えないけど…と心底呟けば、それを感じたのか「ご謙遜を」と一笑された。


「少なくともこの館に来た方々は、畏れを抱き、大抵は闇に堕ちました。畏れは人を闇に閉じ込めます。そこから光を導き出すのは容易なことではございません。だからこそ、この館から帰れる魂は少ないのです」


「え?」


 初めて聞いた。.この館から帰れた人間が少ないだなんて…。


「先ほども申しあげました通り、ここは地獄の抜け道なのです。時折悪魔が、人の魂を求めてこの館へ訪れます」

「ご主人は助けないのですか」


「直接は…」


「そんな」


「しかし、誤解しないで頂きたいのは、主人は確かに助けることは致しませんが、悪魔に対しての防禦は行います。それから後のことは、その魂にお任せするのです。自分が本当に光を目指しているのか、否か。主人はそれを何より見極めようと致します。しかしその結果として…堕ちてしまう方が」


 人はそれほど弱い、とでも言いたいのか。

 誰だって怖いのは嫌だし、痛いのも嫌だろう。そんなのを望む人間なんて、多分いない。そんな恐怖のまっただ中で、光を目指すも何もないだろう。そう、わずかに僕の中で憤慨がおこる。


「それは尤もでございます。ですが、主人とて万能の神とは違います。その方を助けることで、主人が傷を負うこともございます…」


「………」


「もし瀕死の状態にでもなれば、この館はすぐに、この館を狙う者たちに壊されるでしょう」


「壊される?」


 思ってもみない言葉だった。


「えぇ。エヴァンズ様は『天国』と『地獄』という言葉をご存じでしょうか」


「天国には神がおられ、地獄には悪魔が…ということでしょうか」


「そうです。この館はあなた様が今まで暮らしてきた世界の下にあり、地獄の上にあります。即ち、地獄の入り口を蓋している状態と言えましょう」

「けれど、地獄の抜け穴だと…」


「完全に蓋をできるほど、地獄側も地下がないわけではございません。別に出入り口はありますから…」


「それって…」


 今まで、そういう事は考えたことがなかった。抜け道や出入り口があるというのなら、それは人の世界に繋がっているということになるのではないだろうか…。

 けれどそんな僕の思惑をよそに、老人はわずかに微笑みを浮かべた。


「エヴァンズ様。この世界は、何も悪魔だけの世界ではございません。天の神、そしてその御使いである天使も存在致します。必ずしも、悪魔だけの一方的な攻撃を受けることはないのですよ」


「でも、時にはそういうことも…あるのでしょう?」


「無論「ない」とは言えません。けれど、悪魔が魂に惹かれるのは、悪魔を惹きつけるほどの負の力を持っている人間が、存在するからなのです。そこは…わたくしにも何とも申せません」

 

 何となく、おとぎ話か作り話のように思われた

今まで自分が生きてきた世界の中で、天国と地獄の存在を「こういうものかと」曖昧に思っていても、実際に存在するとは考えない。もちろん、その存在を信じている人たちはいるだろう。けれど、そこまでリアルに想像したことは、僕にはなかった。


「そう、突拍子もない話ではございますが、そういうことも存在するのですよ…この地球は」


「………」


「もちろん、全てを信じて全てを受け入れることはないのです。あなた様が真に正しいとお考えになり、それをご自分の中に受け入れられると思われればそれでよろしいでしょうし、またそうでなくとも、わたくしは何にも申しません。それはわたくしのすることではございませんから」


 老人は「現象」を指し示すだけで、その「現象の真偽」については、相手が考察すべきだと思っている。


「でも、信じてもらえないのはとても…悲しいことではないでしょうか」


「そうですね。けれど、強制することはできません。わたくしはこの館の案内人に過ぎません。それ以上でも以下でもな

いのです」


 老人の考えは、僕は好きだった.教えてくれるけれど、それに対しての強制はしない。自分が正しいと思ったことだけ、正しいと信じれば良いのだ、と。無論、ある意味一方的な気はするかも知れないし、いい加減と思われるかも知れない。けれど、自分で考え。自分で決定づけるのは必要だと思う。誰かに強制して「そうしろ」と言われるのは…それは何か違う気がする…とは、僕の意見であるけれど。

 そうして長い話をしている間、ずいぶん歩いた気がした。館が一体どういう風に存在しているのかは知らないけれど、現実の世界の普通の屋敷だったら、きっと端から端まで歩き回れたのではないだろうか、というほど歩いた先だった。


「お選びください」


 僕の前を歩いていた老人が、どうぞ、と前の道を示す。

 暗い空間に扉は二つあった。木製の白い扉が暗がりの中で映えて、光っているようにも見えた。

 僕は迷った。右か左。二つに一つ。どちらを選べば良いのだろう…。

 僕は胸に手を当てて言った。


「左に行きます」


「左ですね。よろしいでしょうか」


「はい」


 僕は決心した。

 胸に手を当てたとき、心臓が左にあるのを思い出した。心臓は人の身体の中で重要な臓器だ。これがなければ生きてはいけない。心臓が動いてると言うことは、人が生きていることの証だ。

 老人は静かに、その扉を開いた。その隙間から光が漏れてくる。それは次第に光の強さを増し、僕は目を開けていられずに、手をかざして、光の中に…飲まれていった。

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