夢Ⅷ
身体が重い。そして身が床を通り越して埋まっていく感覚がある。まるで、土の中に埋められてしまうように、圧力のかかった重力に逆らえずに、僕は堕天していく。
「エヴァンズ!」
館の主人は翼の人とその十字架をはね除け、僕の側に跪く。僕はもう、既に意識を手放していた。夢の中での実体を抜け、更に堕天する。
僕は…死んだの?
先ほどまで見えていた世界がなくなっていく。只の暗闇の中を彷徨っていく。館の主人が伸ばしてくれた手ですら、握り返す力もなくて、ただ…もう堕ちていくしかなかった。
神ヨ…
誰かの嘆く声が聞こえる。
神ヨ…
ドウカ 彼ヲ…
堕天するこの重みとは違った空気の重圧が感じられる。胸を締め付けられるような、深い深い、息ができないほどの痛い想い…。
「!」
瞬時、暗い世界が一気に赤黒い世界に変化する。ぼこぼこと溶岩のような皮膚を焼くような熱い世界は、眼下にそびえてどこまでも広がっている。所々にゴツゴツとした岩が転がり、その上ですらどす黒い空気が充満していた。
落下した身体が、岩の上にゆっくり落ちれば、息をできないほどの熱い空気が肺に広がる。その熱は身体を覆い、身体中火傷を負ったような痛みが広がる。そして地獄の恐怖と苦しみ、悲しみに引きずられる。僕は一体何を体験している? もう一度目を覚ませば、現実に帰れるの?
帰サナイヨ…
誰かがそういった。悲しそうな、楽しそうな…不思議な声音が僕の脳裏に響いてくる。
誰、と問おうと口を開けようとしたけれど、叶うこともなく、痛みに自分の身体を抱きしめた。狂いそうな程の恐怖感がこみ上げる。
オ前ハ自ラ堕天シタノダ
モウ帰サナイヨ
目の前に、何か気配を感じる。いや、僕の周りにたくさんいる。黒っぽい塊に蝙蝠のような羽が生え、人のような顔がある。
「美味そうな魂」
「喰ってもいいかな」
「喰ってもいいかな」
「だって堕ちてきたんだもん」
「喰ってもいいかな」
「喰ってもイイかな」
岩の上で身動き一つできない僕の周りで血のにおいを嗅ぎ、ふんふんと鼻を鳴らしている。
「美味そう…」
それらは顔を見合わせて、不気味な笑みを浮かべた。
「頂きマス!」
6匹ほどいたそれらが一瞬にして飛びかかってくるのを、僕は恐怖に目をきつく閉ざした。
ドンッ!
不意に雷が落ちたような凄まじい音を聞く。身を裂かれたのではないかと言うほど間近の轟音。僕は為す術もなく、只恐怖に目を閉じていた。けれど、その後に聴こえてきたのは、多重に響き渡る歌声だった。
恐る恐る目を開ければ、地獄の業火の苦しみから、僕は守護られていた。僕は眩い何かに包まれていて、そこには憐れみの歌が僕の胸を貫く。
Miserere mei Deus, secundum magnam misericordiam tuam.
Et secundum multitudinem miserationum tuarum, dele iniquitatem meam.
Amplius lava me ab iniquitate mea, et a peccato meo munda.
Quoniam iniquitatem meam ego cognosco, et peccatum meum contra me est semper.
Tibi soli peccavi et malun coram te feci, ut justificeris in sermonibus tuis et cum indicaris…
参考URL「Miserere」
https://www.youtube.com/watch?v=pPdXtPP0iRM&list=PLEBA09F31177A5E75
オルガンを聴いているような重厚な響き。そして繊細で透明で、壊れてしまいそうな歌声によって、僕は救われているのだった。
この声はいったい…誰?
ぼんやりと響き渡る音に耳を澄ませれば、僕の身体にその言霊が染みこんでいくような感覚を覚える。それは決して優しい言霊ではなく、小さな棘を持って、僕の身体に入ってくるのだ。僕の身体に入り、誰かの罪を共に感じているような、憐れみの声。
「……」
気づかないうちに涙が伝う。その涙の意味が、悲しみなのか、苦しみなのか、痛みなのかわからない。けれど、何故か僕は安堵したように解放されていて、安らかな気持ちになっていた。
「?」
ふと、電気帯が膜の表面を撫でたようだ。チリチリと何度か表面を撫でていけば、それは次の瞬間に膨大な電気量と衝撃を与え、壊すための圧力となる!
「!」
一体何が起こっているのか、不安に身を凍えさせれば、不意に黒い剣の切っ先が膜を貫く!
「堕天してきたのはお前だろ。さっさとツラだしな」
バチバチと激しい電気帯がそこに起こり、堅く閉ざしているそれを無理矢理こじ開けようとする。
「自ら堕天を望んだ者を、何故庇う! それはお前の仕事じゃあないだろ、エルシェスタ!」
膜の外の声は叫ぶ。
庇う? 僕はあの館の主人によって守護られているの? 何故?
「神に力を奪われ、地獄の番人としているお前が、何故人間を助ける? ルシフェル様を裏切るのかよ!」
「ほざけ。私は一度たりともルシフェルの配下になった覚えはない」
「あぁ、そうかよ!」
膜の外で激しい剣幕で言い争っている。僕はその状況を見ることはできなかったけれど、膜に刺さっていた黒い剣がいつの間にか引き抜かれ、膜の外では激しい争いが起こっているようだった。剣の切っ先が開けた穴からわずかに向こうの光景が見られる。白い光と黒い光が交差し、爆発し、それは押しつぶされるほどにビリビリと振動を与えた。
「雑魚に構っている暇はない」
館の主人の声の後、今までにない激しい爆発が起きると、外の剣幕は止んだようだった。
静寂が訪れると、シャボン玉が弾けるように、膜がなくなる。
「手間を掛けさせる」
漆黒のマントがふわりと舞い、館の主人が宙に浮いて居た。近づいたかと思うと、身動きとれない僕の身体を抱き上げて浮上していく。
「損傷が激しいな」
僕の身体を見て、彼は言った。
着ている制服は、血に染まっていた。疲れたようにぐったりと身動きができない。自分の過去の経験に捕らわれた意識ですらないようで、ただ漠然とした痛みだけが残っている。
「このままお前が死ぬのならば、それも運命か…」
そう言葉では冷たく吐き付けるけど、僕の身体が痛みに震えれば、彼は僕の身体を労ろうとする。
『空間を押さえた。今のうちに出ることだ』
上方に、この世界には不似合いな輝きが舞っているかと思うと、それは翼の人で、やはり宙に浮いていた。
翼の人の更に上方には渦巻く空間がある。押さえた空間とはそのことなのだろう。
「元はといえばセラフ、お前のせいだろう。それくらい当然だ」
『否定はしない。だが間違ったとは思っていない』
「言っていろ」
『ルシフェルはこういういざこざには巻き込まれたくないだろうから、配下が出てこない内に、さっさと行くぞ』
「…あいつは巻き込まれたくないんじゃない。わかっていて敢えて手を出してこないだけだ…」
そう言い捨てた後、肩をきつく掴んでいた左手が緩む。怪訝に思って視線を移した館の主人の頬にあったのは、伝う血い滴りだった。一瞬苦痛の表情を浮かべるが、頭を振って上を向く。
「怪我…を…?」
「違う…」
「でも血が…」
差しのばした僕の手に滴りが伝い広がれば、それは荊のように僕の皮膚を突き刺した。
「!」
痛みに手を振り払おうとして、またきつく…きつく身体を抱かれる。
「今手を離せば、お前は本当に二度と帰れないが、それでもいいか?」
「……」
死んでもいいって思っていたはずなのに、今の僕には、ここに居続けることは、恐怖以外の何ものでもなかった。
なんて勝手なことだろうかと自嘲したくなる。
僕は彼が神への贖いを承知で母に祈りを捧げさせた行動を止めたかった。彼は神によって堕天させられたのだと、あの時わかってしまった。何故かはわからない。彼はきっと神への愛でいっぱいなのだろう。けれどそれ故に、彼は神の下へとは還ろうとしなかった。その想いを誰にも気づかせたくなかっただけなのに。
神に見離された存在、というのは、今となっては実際そうだったのかはわからない。
「っあっ…!」
彼の頬から滴る雫。それは痛みと共に、流れ広がっていく際に、じわじわと蝕まれる感覚があった。僕は主人の身体にしがみつき、この地獄からの開放を早くと強く望んだ。
「?」
ここは現実じゃないはずなのに、頭が痛い。ズキンズキンと、鼓動と共に、痛みを拡げる。
「エヴァンズ?」
なんだか息苦しい。周りの景色が見えなくなる。
僕は、現実の世界で倒れる直前のような恐怖感を急に思い出した。
『…早く脱出せねば…彼の現実の身体が朽ちようとしている』
「なんだと?」
『彼が堕天を望んだ瞬間、現実の身体がそれに呼応して死を呼び入れている。現実への道を閉ざされれば、彼は本当に死ぬぞ。いや…もう遅いかも知れない』
「馬鹿を言うな! 彼を殺せば、お前も神の怒りを買うぞ!」
『…その時は、その時だ』
「なにを悠長なことを!」
館の主人は、翼の人が開けたという空間に急ぐ。その空間は歪曲して、様々な痛みと共に、身体がバラバラになったような感覚をもたらした。僕は叫声をあげていたと思う。思う…というのは、自分でも理解・思考する環境でも状況でもなく、それすら幻のようで、そうだったのかもしれないという曖昧なものだった。
気づくと僕は神殿に戻っていた。身体はだるかったけれど、ダメージを受けたときとは比べものにならないくらい楽にはなっていた。いつ自分が意識を堕とすかわからない状況は変わらなかったけれど、頭痛がひどくて堕ちるどころではなかったかも知れない…。
「エヴァンズ…」
わずかに安堵して尚、僕の頬に手をかけて泣き崩れる母。その側で何とも言えない表情を浮かべているひいお祖父さま、悲しそうな瞳を向ける館の案内人。そして後方には館の主人と翼の人が立っている。なんとも言えない重い空気が辺りを覆って息苦しい。その空気が一度ピンと張り詰め、不思議な重圧感が支配する。
『願いは成就された』
そこに存在を感じ得ない何かが在った。身体が打ち震えるほどの崇高な存在。どこにも存在しないのに、声だけが重く頭に響いてくる。
『在るべき者は、在るべき存在へ。在るべからざる者は、在るべからざる存在へ、理の道を辿るが良い。ここは全て消え去る』
身体が潰されてしまうのではないかと言うほどの重圧な声は告げていく。
『真実の光は真実に消えんとす。エルシェスタ、お前の嘆きの歌を聴いた。全ての苦悩は解放され、そしてお前の罪を共に嘆き、贖うべく堕天したエヴァンズと共に、赦しの導きへと昇るが良い。アルシーナ、ローレンス、そなたらも理の道へと導かれよ。此は抗えぬ命と心せよ。そして、シャイディ…導きの扉よ。真実の姿となりて、導きの光を示せ』
言葉の後、館の案内人・シャイディは光に包まれ、今まで誰も見たことのない、白く長い髪の、男女ともつかぬ面立ちと容姿に変容していた。そしてその手には太陽を模したかのような形の鏡があった。そこには不思議と柔らかな光がたたえ、その前の空間に反射して光の扉を存在させた。
「アルシーナ様、ローレンス様。導きの扉へお進みください。こればかりは抗えませぬ」
館の案内人だった存在はそう言った。
「なるほど、お前が私の側に居たのは、そういうことだったか…」
館の主人が言葉を吐けば、案内人だったシャイディは、悲しそうに瞼を伏せた。
「…お赦しくださいとは申しませぬ。わたくしの主人は最初から唯一絶対の神。あなたの側にお仕えすることが、主の命とならば、わたくしはそれを全うするのみ」
「そうか…」
自嘲するように一笑して、館の主人は母に寄った。
「もう、行け。エヴァンズは現実の世界へ戻れるだろう。お前の心配事はもうないはずだ」
「どうして…」
「神には抗えん。それくらいわかるはずだ」
「でも…」
ひどく痛む胸を押さえて、目を伏せる。
『ならばアルシーナ』
不意に言葉が響く。
『一つ言葉をやろう。お前がたどり着くならば、お前の願いを聞き入れよう』
「それは…エルシェスタを貴神の下へ…?」
『そうだ。お前の息子・エヴァンズも、望み通りになろう』
「本当に…?」
『それはお前次第だ』
神との問答で、母は不安を抱えながらもそれ以上の抗いを赦されなかった。晴れない胸の内を抱えながらいる母は、ふと館の主人に目を移す。それでも返ってきたのは、期待している言葉ではなかった。
「アルシーナ…導きに従え」
「…冷たいのね…」
「………」
母は館の主人から目を逸らし、僕の髪を撫でる。その優しい手の温もりや感触が、懐かしい。
「エヴァンズ、ありがとう。もう一度、あなたに逢えて嬉しかったわ。本当よ」
「………」
「現実の世界で、もっとあなたと暮らせなくてとても残念だけど…でも一つだけ約束をして欲しいの。現実の世界に戻ったら、あなたの父親であるエドワードに逢って。逢えば、何故私が彼に惹かれたかわかると思うわ。あなたもきっとエドワードに惹かれると思う。エドワードは、あなたを愛してくれる」
母は「約束よ」と、頬にキスを落とした。
「アルシーナ…」
母の肩にひいお祖父さまの手が乗る。ひいお祖父さまが悲しそうに僕を見ている。
「私も行かねばならんようだ、エヴァンズ。お前と暮らせて、私は幸せだったよ。お前には辛い思いをさせたけれど、本当に、お前が私と暮らしてくれて良かった」
涙が零れる。言葉を口にできない唇が震える。
僕もあなたたちに愛されて幸せだったって、そう伝えたくて伝えられないのが、苦しい。
「エヴァンズ、わたしもお祖父さまも、あなたのことずっと愛しているわ。忘れないで。あなたは愛されるために生まれてきたのよ。あなたは愛されることに…とっても不器用だけれど…」
そうして僕の頬にキスをする。そして、肩に乗るひいお祖父さまの手に自分の手を重ね、母は立ち上がった。
「さようなら、エヴァンズ。永遠に…愛しているわ」
「さらばだ」
一歩、一歩…名残惜しむように後ずさり、やがて二人は白い扉に近づく。
母はひいお祖父さまの後ろを歩き掛け…我慢できないように館の主人を見上げて…その懐に飛び込む。
「アルシーナ…」
館の主人の背に手を回して、母はぎゅっと顔を埋め、やがて顔を上げた。
「神はあなたを愛しておられるわ、エルシェスタ。天上へ導かれたら、きっと…逢いに来て? 待っているから」
「………」
母の言葉に、館の主人は母の背に手を伸ばしかけて、躊躇い、髪に触れた。柔らかく光る白金髪に。
「エヴァンズを連れて帰ってくれてありがとう。…あなたにも…辛い思いをさせてしまったわ…」
頬の血に手を伸ばしかけた母の手を掴み、首を振る。
「触れるな。神の御許へ行く身を汚すことはできない」
「エルシェスタ…」
「アルシーナ…逝け…」
「………」
二人はそれ以上何も言わずに、ゆっくりと…離れていく。館の主人の指先に髪が絡み、解けていく。
白い扉は、母とひいお祖父さまを導くように開き、真っ白な空間へと誘っていった。
光の扉が消え、それと同時に太陽の形を模した鏡も溶けるように消え去る。
一瞬、無音の世界が広がった。何もかもが終わったような静寂を思わせるが、けれどまだこれから終わっていないことがあるのだ。
『我が翼、セラフィエム。命の為とは言え、生きる者を傷つけた代償は計り知れない』
『…罰は受けましょう』
『ならば、お前を試そう』
その後の言葉は翼の人にしか届けられなかった。驚愕した後、僅かに首を振る様子を、館の主人は訝しんだ。
『主よ…それは…』
『罰を受ける、とお前は言ったはずだ』
『ですが…それは…』
『ならば従うがよい』
一瞬の苦悶の表情の内に、翼の人は館の主人を向く。館の主人は動かない。もしかしたら、神に伝えられた言葉が…わかっていたのかも知れない。
翼の人の手の内に白い剣が現れる。それを見ても、館の主人は動かなかった。
『っ…』
躊躇いや戸惑いが溢れる。けれど、決心して彼はその剣を構え…。
「!」
自らの胸に切っ先を向け、その肉を貫いた。
「セラフ!」
驚愕したのは館の主人の方だ。裁かれるのは自分であり、その剣先は自分に向けられると思っていた。それなのに、向けられた先は自分ではなかった。
白い衣に血い模様が広がり、それは床に滴り落ちた。そのまま翼の人の身体が傾ぐと、館の主人は咄嗟にそれを支えた。
「セラフ…」
『いいのだ…これで…』
「………」
館の主人の手に、血が染まっていく。
館の主人は翼の人の握っていた剣の柄を掴むと、そのまま引き抜き、後ろに振り投げた。
「これで満足か…?」
それは誰への言葉だったかはわからない。翼の人へなのか、神へなのか…或いは自分への言葉だったかも知れない。
そのまま意識を失って、館の主人の腕に抱かれたまま、翼の人の存在は、さらさらと砂のように舞って散った。
『なるほど…。これで得心がいった』
呟くような響きが脳裏に巡る。
「これが貴神の導きか…?」
『エルシェスタ…第一の天使であり、空の理を導いていた者よ…。エヴァンズを連れて従うが良い』
「……私は背信の罪を負ったはずです」
『それを否定せず受け入れたのはお前だ。もう、その罪を負い続けることもあるまい。友のセラフィエムが、その生命をもって贖うべく自らに剣を向けたのが、その証拠。お前が本当に罪の子であるならが、セラフィエムはお前を赦しはしなかった。罪の根源がお前にないことを疾うに知っている』
館の主人の黒いマントが不意に光を帯びる。それは天上の天使の色なのか、それとも守護れていることの証なのか。今まで黒かった髪の色さえも銀に染まり、瞳の紅が、空を映したような碧に変化する。
『だが、一つやらねばならないことがある』
「それは…」
『エヴァンズの魂を入れ替えなければならない』
「…彼を…殺すのですか?」
『彼の魂は、堕天の際に大分痛んだ。このまま身体に戻せば、彼はすぐに現実の世界で死ぬことになる。いや、今現実の世界で死んでいるからこそ、魂を改めなければならない。彼を連れて導かれろ。それがこの「見離された世界」での最期だ、エルシェスタ…いや、エル・スィエル…』
神の言葉と同時に、館の案内人であったシャイディの手に、太陽の紋章がついた黄金の剣が手に現れる。シャイディはそれを館の主人であったエルシェスタに差し出した。
意識は朧気ながら、僕はその一部始終を聞いていたし、理解もしていたつもりだ。それをしなければ僕は現実で生きていけないのだと思えば、館の主人には神に従ってもらうしかないのだろう。躊躇いがちに掴んだ剣を鞘から抜き、その煌めきを僕に向けるエルシェスタに、僕はゆっくりと手を差し出した。それが導きだというのなら従おう。
「………」
まるで十字架に課せられたように四肢が重く、痛い。けれど、不安や恐怖はすでになかった。僕はこれを受け入れればいいのだ。そうすれば…。
「エヴァンズ、お前の存在によって、お前の言葉によって、私は存在を与えられたようだ…。それはお前に感謝をしなければなるまい」
「……」
僕は言葉を発せず、只胸の内で思った。
「(僕は何もしていないよ。あなたが起こした行動によって、あなたの存在が確立されたのだもの。僕の存在によってじゃない…)」
その言葉は館の主人に届いたようだ。
「いや…お前が私の心底を知って堕天を選んだ時、思い知らされたのだ。私という存在は、誰かによって「在る」とされるのを。それは決して「無」ではなかったのだとな。お前が私を想って、私の為に堕天するのを黙って見ているわけにはいかなかった…」
大きな手の平にさらりと髪を撫でられる。母とは違った温かみに、今までと違った白い存在に、僕の心が安らいでいく。まるで眠りにつくかのように、少しずつ意識が遠ざかるような感覚。
「お前が私の中にあったわだかまりを…知らぬ内になくしてくれた。それには礼を言わねばなるまい」
「(それはご自分で理解されたこと…)」
「お前は、どこまでも謙虚なのだな…」
ふ、と口元にほんのわずかに笑みを差した後、彼は言った。
「現実の世界に戻った時、お前は失った半身を思い出すだろう。けれど、お前の半身はいつでも側にいるし、お前を守っている。だから不安になるな。そして…お前のことを、彼は守ってくれるだろう」
彼? と聞きたい言葉も告げられず、彼は剣先を振り下ろした。
「!」
剣の切っ先が僕の胸に貫く。そこには壮絶な痛みと共に、熱いものが流れ込んでくる気がした。言葉にならない叫声を上げ、僕はその身体の…その魂を滅する。
そして…僕という存在は、そこに同じものが二度とは存在なしなくなる。
それこそが、僕に課せられた、僕の夢の中での『死』だったのだ…。




