10-1
12月26日午前6時30分
久しぶりに夢を見ずに眠り、ふっと眼を醒ますと、鼻をぶつけそうな距離にリズの寝顔があった。
「!?っ……。」
思わず布団を飛ばし、跳ねるように後退り、頭をテーブルの縁にぶつけた。
結構高らかに鳴った打撃音に、リズもうっすらと眼を醒ましたようだ。
「いててっ……リズ、どうしてここで寝てんの?」
「……ΩA¶、∩℃§ΩA……Aユーキ。」
あ、れ?
「どしたの?リズ。寝惚けてる?おはよう?」
リズの顔の前で手をヒラヒラと振ってみる。
リズは小さくアクビをし、俺の右腕を引いて枕がわりにした後、寒い!とでも言いたげに、布団をかぶりなおした。
「……‰∋、÷※∀±~…。」
腕に鼻をこしこしと擦り付けながらリズがむにゃむにゃと言ったが、全く聞き取れない。
「え、え!?リズ、何言ってるの?」
「±′√※∀~∇!∋∬±∀±¶∩×∩℃ΩA!!」
俺がリズを揺すり起こすと、頭だけ布団から出したリズが怒ったように言った。
「ね、リズ、冗談、だよね??俺、リズの言葉が全く解らないんだけど……。」
「ユーキ?……A‡‰∋……℃∃∇……。」
俺には解らない言葉を呟き、布団を頭まで被ったまま、おおうみうしのようにずりずりと進むリズに漠然と不安になる。
おおうみうしは部屋の隅まで這い進み、そこにあったタブレットPCとペンと転陣紙をその体内へと引きずり込んだ。
その後、また俺の隣までずりずりずりずり、移動してきた。
……§→∈Ω‡……×※※‡∈Ω‡……√∠∈Ω‡、×―∑……
おおうみうしの中からボソボソと、詠唱のような声が聞こえる。
しばらく待つと詠唱は止み、突然おおうみうしは俺を頭から飲み込んだ。
急に視界が真っ暗になった。
リズの体温で心地好く暖められた布団の中、顔の前で、うすぼんやりと光る小さな魔法陣がゆっくり近づいてくるのが見えた。
のしかかるように倒されながら、予想通り、魔法陣は俺の口唇を割って挿入してきた。
舌と舌とが柔らかく触れ、脳がピリッと痺れる。
しかし、すぐ、リズの舌は俺の舌から逃れ、俺は布団から吐き出された。
「おはよ、ユーキ。」
布団から首をだして、リズが言う。
昨夜念入りに乾かした髪の毛には寝癖一つ無く、サラリと輪郭を覆っている。
「……おはよう?リズ。
さっき、俺に解らない言葉で喋ってたけど、あれ、魔法が解けちゃってたって事なの?」
「そだよ?私、まだ魔導師見習いみたいなものだし、常態変化系統の魔法は、相手が一晩寝ると解けちゃうの。」
「あれ?じゃ、昨日とかは?」
「朝、ユーキが起きる前に、ちゃーんと魔法かけてますよー。」
……俺、全然気がついてなかった……。それっぽい夢はみてたけど。
リズが頭を完全に布団の中に引っ込めて、パタリ、と床に伏した。
そうやって再びおおうみうしに化け、言った。
「なんかこの部屋、滅茶苦茶寒いんだけど!どうして?」
そっか。一昨日はエアコンつけっぱなしで寝たからな。確かに今朝は冷え込みも強い気がするし。
「部屋を暖かくして寝ると、俺、喉痛めやすくてさ。」
言いながらエアコンのスイッチを入れ、ついでにカーテンを開ける。
窓ガラスにはびっしりと水滴が付いていた。
リズ、寒すぎて俺の隣に寝てたな。
あまりにも子供らしい単純な理由だった事に、俺は少しだけ、がっかりした。
12月26日午前7時15分
クローゼットを掻き分け、グレーのボーダーニットを引き抜いた。
今日は寒そうだから暖かい服にしよう。
ひょいひょいっと合わせるパンツやシャツを取り出しながら、リズに話しかける。
服を引き抜く度にカタンカタンとDVDが降ってくるのが煩わしい。
「えっと、樹里さんのレコーディング見学、一緒に来るんだよね?」
「うん、そのつもり。迷惑じゃなければ。」
「多分。……もしダメだったらごめんね?その時は俺も帰るから。」
話ながら古びたパーカーと、中に着ていたシャツを脱ぐ。
下着がわりの黒の長袖Tシャツを広げていると、背中に強い視線を感じた。
うーん。着替え中に注目しないで欲しい。身体、鍛えても筋肉ほとんどつかなくて貧弱だし。
急いでTシャツを着込み、続きはユニットバスで着替える事にした。
目覚ましがわりのテレビ番組の中、お天気お姉さんは、夕方からの雪を予測し、交通情報の確認と、足元への注意を呼び掛けている。
すでに二人とも着替えは終わり、通勤に使っている鞄に、持ち運ぶ習慣になっている荷物を詰め込んである。
具体的には、携帯用ゲーム機と、クロッキー帳。ステッドラーの鉛筆20本、カッターナイフ、練り消しと消ゴム、ティッシュと、それらを詰め込んだ無印のプラスチックケース。それから、折り畳みの雨傘。
「ね、あっちに帰る前に、うちに戻るよね?」
「うん、あんまり遅くならなければね。」
リズはいつもの調子でそう答えた。
……リズが異世界に帰る前に、全てが無かった事になってしまう前までに、しなくてはいけない何かがあるような気がする。
何かが、もやもやしている。
「じゃあ、行こうか、そろそろ。」
靴を履き、お互いの指を絡め、無言のまま渋谷駅行きのバス停へと向かった。
12月26日午前8時30分
立体高架を潜り抜け、バスは、渋谷駅西口ロータリーに着いた。
年末とはいえ、平日朝の渋谷駅はスーツ姿の人々でごった返している。
「すごいね、この人数……。ここには、何があるの?」
「んー。渋谷でこの時間って、特に何もないかなー。ほとんどみんな仕事場に向かってる途中なんだと思うけど。」
リズは、ほへーっと感心したような声をあげた。
俺たちは次々と駅に吸い込まれる人々とは別方向、ハチ公口の方へと足を向ける。
家でのんびり、という空気に耐え切れなくなり、早めの時間に渋谷まで来てしまったが、当然、こんな時間では楽しめる場所は少ない。
だが、俺の大好きなスポットは、逆を言えばこの時間なら、まだ空いている可能性がある。
朝だというのにどこから現れたのかわからないほどの人数が横切る、ハチ公前スクランブル交差点をリズの手を引きながら渡り、ちょうど向かいにあるCDショップ内のコーヒーチェーンに入る。この店は朝早くに入ってもいつも店を開けている。さすがに24時間営業ではないようだが。
そして、この店の二階、窓側にあるスクランブル交差点を見下ろせる席が、俺の定位置だ。いつもは外国人観光客ですぐいっぱいになってしまうこの場所も、さすがにこの時間なら、座ることができる。
窓から見降ろすスクランブル交差点は、砂と石が混ざり合うアニメーションのように複雑に人の群れが流れ、しかし、お互いにぶつかることは決して無く、とても面白い。人がゴミのようだ!とか、つい言いたくなってしまう。
「フハハハハハ、人が、ゴミのようだ!」
「……そう?」
つい言ってしまった。そして、流された。
「ま、それはおいといて。ここで朝ごはん食べて、店とかが開くまで、のんびり話でもしてようかと、思って。」
「そーね。家にいるよりも、ちょっといいかも。」
リズも、この大量の人がぶつからずに交差する光景が、面白いと感じてくれたようだ。
「ね、お願いがあるんだけど。」
リズがサンドイッチを齧りながら言う。
「あのね、私の絵を、描いてくれないかな?なんていうか、記念に……あっちには持っては帰れないけど。」
「ん?いいよ?」
寧ろ、可愛い女の子にモデルになってもらえるのはラッキーだと思う。
俺は鞄からクロッキー道具を取り出した。
それからしばらくの間、たわいもない話をしながら、何枚もリズを描いた。
俺も、決して残るはずのない記憶に刻みつけようと、リズの小鼻も、まつ毛も、生え際も、指で覚えるように丁寧にデッサンしていった。
12月26日午前11時00分
そろそろ、渋谷の店が開く時間だ。
描いているデッサンも切りよく描きあがったので、リズに声をかける。
リズは椅子から降り、ダウンを着こみながら言った。
「ね、その絵、少しの間だけ、貰っててもいいかな?帰るときに返さなきゃいけないけど……。なんとなく、持っていたいの」
「この絵でいいなら、どうぞ?」
俺は、一番上手に描けたと思うリズのデッサン、頬杖を突きながら、窓から外を眺める可愛らしい少女の鉛筆画、を、渡した。
「じゃ、いこうか。」
俺がお手拭で汚れた手を拭うと、リズはしばらくの間眺めていたその絵を丁寧に折り畳んでポケットにしまい、当然のように手を繋いで来る。
昨日、今日ですでに馴染んだ手の感触に、少しくすぐったいような気分になった。
12月26日午前11時45分
一通り、極簡単な渋谷観光を終え、ハチ公前スクランブル交差点に向かう。
とはいうものの、案外広いこの場所のどこで待てばいいのか、全くわからない。が、交差点、という指定だったんだし、と青信号を待つ人たちから少し離れた個所に立ち止り、高橋さんと樹里さんを待つことにした。
「少し、緊張する……」
なんで、リズが緊張してるんだ。
寧ろ緊張して動悸が止まらないのは俺の方だ。10ヶ月ぶりに会う樹里さんは俺のことをちゃんと認識してくれるのだろうか?
このやたらと交通量の多い交差点、しかも派出所から結構近い、というのにいつの間にか黒いバンがすぐ近くで路駐していた。
勇気あるな、この車、と思いつつ、ハチ公の方へ視線を向ける。
「篠田君、なんでこんな微妙な場所で待ってんの?みんなハチ公の方にもう来てるよ?」
ほぼ、12時丁度、高橋さんがこちらに向かって歩いてきた。
高橋さんの後ろにはニッコリと柔らかな微笑を浮かべる樹里さん。背が高くお洒落な雰囲気のある高橋さんと、美人で大人っぽい樹里さんは、まるで恋人同士のようにお似合いで、俺は足元が突然無くなってしまったような衝撃を受けた。
「ユウキ、久しぶり。その女の子が、リズちゃんね?」
そう樹里さんがこちらに微笑んだその瞬間、それは起こった。
ツッーーーーーーーーーッッッ!!!!
世界が突然姿を変え、風景が消え去った。許容量を超えた爆音に、俺の耳はその働きを放棄した。
っ危ないっ!!!!
思わず、手近にいたリズの身体を強く引き寄せ、ほぼ反射的に身を伏せた。いや、身を伏せた、というより、爆風で前に倒れた、といった方がいいかもしれない。
背中に何かがグサグサッと刺さり、何か、鈍い塊が、頭をもぐように後ろから襲いかかってくる。背中がただただ、熱い。
溶けるような熱は俺の皮膚感覚を奪い、鼻につくガソリンの匂いと金属やゴムの溶ける異臭は俺の鼻の感覚を消し去る。だいぶ前に固く閉じた眼は、とっくに開かなくなっている。
次第に静かに暗く重く溶けていく意識の中で、ああ、これが、死ぬってやつか、と実感した。
聴こえないはずの耳、感じないはずの皮膚に、リズの叫び声と胸を叩く衝撃を感じ、ああ、あの子は生きているんだ、と幸せな気持ちになった。
ゆっくりと、静かに、俺は意識を手放した。
ーーBAD ENDーー
⇒つづきから
はじめから




