第2章 Reality warped faster than his mind could follow.
警告:この作品を読むにあたって
本作には、激しい暴力的表現、死を伴う描写(一部の描写には、身体の損壊や流血を伴う強いゴア・グロテスク表現が含まれます。)、ならびに人間の価値観や存在意義を深く揺さぶる心理・哲学的描写が含まれています。
明確な答えや救済は提示されず、物語は読者の解釈に委ねられます。
読後に不安や違和感、強い思索を引き起こす可能性がありますので、精神的に不安定な状態の方や、重いテーマを避けたい方はブラウザバック(前ページに戻る)を推奨します。
この警告を読んだうえでの本編を読んだ結果はすべて自己責任となります。
古殻会本部――地下深くに広がる巨大施設の自動扉が重い機械音を立てて開くと、その向こうから血の匂いとともに転がり込むように飛び込んできた影があった。
真っ赤に染まった腕、防護甲殻も半ば砕け、呼吸が荒い。
オパビニアだった。
彼の触腕の中に抱えられているのは、翼竜――いや、翼竜であった若い女性。
右腕は肩から先ごと喪失し、腹部の裂けた傷口からは赤黒い血が滝のように溢れ続けている。
「医療班! 医療班ッ!!」廊下に響き渡る叫びは、恐怖と焦燥と自責が混ざり、若い個体に特有の震えが混じっていた。
その声に反応し、白衣の医療スタッフが数名飛び出してくる。
翼竜は瞬時に担架へ移され、器具の音と緊急指示の声に包まれながら手術室へと運ばれていった。
自動扉が閉じるわずかな隙間から、手術灯の白い光が走り、血の滴りが床に線を描いた。
扉が閉まると同時に、オパビニアの力は一気に抜け落ちた。膝が床につき、触腕が震え、目は虚ろさを帯びて揺れる。あの戦場の光景がまだ頭から離れないのだろう――仲間が食われる、というあの生々しい恐怖を。
「……おい、どうした。そんな血塗れで」静かな声が背後から落ちてくる。振り向くと、そこには暴君竜と刺竜が立っていた。暴君竜は大きい。
その威圧感は存在しているだけで戦場の空気すら変えられるが、その目は驚くほど柔らかかった。
刺竜は反対に小柄だが、鋭い目だけで空気を震わせるような怒りをまとっている。
オパビニアは唇を噛みながら震えた声を絞り出す。
「……翼竜が……負けました。いま……医療班が……」言葉にならない。形にならない。
暴君竜は一瞬だけ表情を固まらせ、それからゆっくりと膝をつき、オパビニアの肩を大きな手で支えた。
「よく運んだ。お前がいなければ、あいつはもう死んでいた。……翼竜は強い。必ず助かる」
その声音は深く、温かく、乱れたオパビニアの呼吸を少しずつ整えていった。刺竜は一言も発しない。
だがその拳は白くなるほど握りしめられ、目に宿った怒気は殺意と同じ温度で燃えていた。
「……誰にやられた?」暴君竜の問いに、オパビニアは喉の奥から掠れた声を出した。
「……蟷螂、です」その瞬間――刺竜の表情がわずかに歪んだ。怒りを隠そうともしないまなざしが、鋭い刃物のように光る。
「……あの時、殺しておけばよかった」冷たく低い声。
その奥には憎悪よりも、後悔の方が大きく漂っていた。
暴君竜は刺竜を横目で見たが、反論しなかった。
オパビニアは立ち上がろうとしたが、うまく力が入らず、心の奥に溜まった恐怖が呼吸を奪い続けていた。
まだ年若い彼は、人が食われるという現実にも、仲間が死にかける現実にも耐性がない。
それは古殻会の中でも、まだ幼い存在の証でもあった。
暴君竜はそんな彼の肩を再び優しく支えた。
「もういい、今日は休め。……本当によく頑張った」父親のような声だった。
オパビニアは涙をこらえるように唇を噛み、何度も頷き、その小さな背を暴君竜に預けるように歩き出した。
暴君竜は彼を自室に運び、ベッドに入るまで見届けてから「何かあればすぐ呼べ」と静かに扉を閉じた。
廊下に戻ると、刺竜が無言で壁にもたれていた。
二人の間に重い沈黙が落ちる。
暴君竜はゆっくり息を吸い、そして拳を握りしめ――ドッッ!!と廊下のコンクリート壁を叩きつけた。
硬い壁が歪み、粉塵が弾ける。
「……あいつは、仲間を……俺たちの“家族”を……」太い声は震えていた。
悲しみの震えか、怒りの震えか、それは本人にも分からないのかもしれない。
刺竜は静かに歩み寄り、暴君竜の拳にそっと触れた。
慰めというより、共に怒りを共有するような、不器用な仕草。
しかしその手には確かな温度があった。
「……今度は逃がさない。二度と……後悔はしない」刺竜の声は鋭く、しかし静かだった。
暴君竜もゆっくりとうつむき、深く頷く。
二人とも“暴君”や“刺”と呼ばれるほど凶暴な異名を持つが、誰よりも仲間を大切にする男だ。
蟷螂が奪った翼竜の叫びも、オパビニアの恐怖も、仲間たちの痛みも――その全てが胸の奥で燃え続けている。
廊下の奥では、手術室のランプが赤く点滅し続けていた。
仲間の命がいままさに争われていることを知らせる、冷たい赤色だった。
多摩川での激しい戦闘から時間が経ち、 古殻会 では事態が静かに、しかし確実に動き始めていた。
翼竜 は医療班の手厚い手当を受けながら命に別状はないものの、その傷の重さと恐怖の日々は、会の仲間たちの心に深く刻まれていた。
彼女は長く傷ついた者たちを支え、叱咤しながらも優しく導く──まるで母親のような存在だった。
その包容力と信頼に、多くの融合者たちが拠り所を感じ、彼女への尊敬は会の中で確かな絆となっていた。
しかし、翼竜の負傷が示したのは「蟷螂という存在が、いかに危険か」という現実でもあった。
恐怖と憤怒の感情は、順当に“排除”を求める声へと変化し、多くの融合者たちがその動きに同調し始めた。
古殻会における勢力の中でも、中堅から下層の者たちの間に「迅牙を許すな」「あいつを討つべきだ」という声がしだいに広がっていったのだ。
その流れを統括するため、暴君竜 が“討伐指揮官”に任命された。
呼び名に反して彼は、誰よりも仲間を思う優しい男だった。
だが今回ばかりは、自分たちの仲間を守るため――そして、未知の危険に備えるために。
“迅牙を止める”決意を背負う。
また、刺竜 もその決定に応じ、冷たく見える外見の裏で深い忠誠と仲間への責任感を抱き、計画への協力を表明した。
彼ら二人の覚悟は重く、組織内部のムードを“排除”へと傾かせていた。
しかし──そんな中で唯一、会長である三葉虫 だけは異なる態度をとった。彼は静かに口を開いた。
敬語混じりの丁寧な声で、淡々と、だが重みを持って話した。
「……皆さま、どうか落ち着いてください。戦うことだけが唯一の道ではございません。迅牙は、我々の敵である前に、ひとりの人間でございます。」
その言葉は、荒ぶる感情で満たされた会議室の空気を一瞬で凍らせた。憤怒と復讐心に燃える融合者たちが拳を握りしめ、牙を剥きそうになっていた中で、三葉虫の静かな声だけが冷静な理性の灯火のように揺らめいた。
彼は続けた。
表情を崩さず、しかし真剣なまなざしで仲間たちを見回しながら。
「……ですが、戦いを望まぬ者にまで無理やり戦いを強いることは、決して正しいことではございません。迅牙殿の行動を見極め、我々が取るべき道を慎重に考えましょう。」
この言葉は、ただの演説や理想論ではなかった。
戦火や憎悪に染まりかけた者たちの胸に、“問い”を投げ込む刹那の矛となった。
真実も、正義も、悪も――だれにも完全には定められない混沌の中で、唯一確かなのは“選択”と“決断”の重みだった。
翼竜の優しさ、暴君竜の決意、刺竜の忠誠――そして、戦いを望まぬ三葉虫の理性。
それぞれの思惑がねじれ、交錯する古殻会という“箱庭”。
そこでは、誰もが正しいとは限らず、ただ己が信じる道を選ぶしかないのだ。
そして、その揺れ動く決断のひとつひとつが、この物語の核心――停滞ではなく、変化への序曲――なのかもしれない。
古殻会内部で新たな波紋が広がる。
それは、暴力と報復の連鎖か。もしくは、理解と和解への模索か。
だが確かなのは――どちらの道も、簡単ではないということだった。
古殻会本部・医療区画。
無機質な白い蛍光灯が天井から落ち、冷たさを帯びた光の粒が床に反射して歪む。
手術室前のベンチの横には、暴君竜と刺竜、そして息が荒く肺の奥で血の味を感じているオパビニアが立っていた。
言葉を放つのが罪のように思えるほどの緊張が、廊下全体をきしませていた。
耳に届くのは、分厚い扉の奥で交錯する金属器具の澄んだ音、医療スタッフの短い指示、そして時おり聞こえる痛みに耐える人間の低い声。
それが翼竜のものだと考えるだけで、オパビニアの肺は縮み、胃の奥が冷たく捻れた。
暴君竜は腕を組んだまま、微動だにしない。
太い腕の筋肉が硬直し、拳には血が滲むほど力が入っている。
刺竜は壁にもたれ、まるで岩のように動かないが、眉間には深い皺が刻まれ、瞳は暗闇の奥に炎を宿していた。
時間は残酷なほどゆっくり進み、分が時間になり、時間が永遠に変わりかねないほどの重圧となって胸を押し潰す。
数時間後。
「……終わりました。」
その声は、誰もが渇望し、同時に恐れた瞬間の訪れだった。
手術室の扉が静かに開き、白衣を着た医療班長が姿を見せる。
彼の額には汗が滲んでいた。
普段は冷静な医療班でも、今回ばかりはそうはいかなかったのだと、一目で理解できる表情だった。
暴君竜とオパビニアは同時に顔を向け、刺竜の目がほんのわずかに揺らいだ。
班長は深く息を吐き、ヘッドライトを外すと静かに言った。
「まず、腕について……切断面は綺麗ではありませんが、処置は完了しています。ただし、問題は腹部の傷です。」その言葉は、廊下全体をきしませるような緊張を再び呼び戻す。
「腹部は……かなり深く抉られていました。もしオパビニア君が助け出すのが数秒でも遅ければ、裂傷が腸に達していた可能性が高かった。そうなっていれば……助かりませんでした。」
胸を鷲掴みにされたような痛みに、オパビニアは息を呑んだ。喉の奥が熱くなり、視界が揺れる。
「…………よかった……間に合って……」
消え入りそうな声は、廊下の白い空気に溶けていくようだった。医療班長はその姿に優しい眼差しを向けた。「君の判断は正しかったよ。あれで最善だ。」
暴君竜が拳を固くしたまま問う。「……翼竜は、助かったんだな?」
「ええ、命は取り留めました。ただし――しばらくは動けません。腹部を縫合した箇所は非常に脆い。目を覚ましても、起き上がることすら危険でしょう。」
刺竜が低く、鋭く問う。「……目は覚ますのか?」
「ええ。麻酔が切れれば。ただ、痛みは強いはずです。」
その瞬間、オパビニアの肩が震えた。暴君竜は彼の背中にそっと大きな手を置く。「……おまえがいなかったら、翼竜は死んでた。胸を張れ。」
だがオパビニアは唇を噛んだまま俯いた。「……でも……僕がもっと……」
「違う。」刺竜の声が落ちる。刃のように鋭いが、不思議な温度を帯びていた。「悪いのは蟷螂だ。おまえじゃない。」
責められた言葉ではない。責任を背負い込ませないための言葉だった。
医療班長は深く頷いた。
暴君竜と刺竜は静かに頷き、オパビニアは何度も頭を下げた。
扉は再び閉まり、廊下に静寂が戻る。
だがその静寂は、さっきまでの冷たいものではなかった。そこには確かな安堵があった。
しかし――同時に、底の方で煮えたぎる怒りがゆっくりと形を成し始めていた。
翼竜を傷つけた者への怒り。
仲間を奪われかけた恐怖。
それらが静かに、しかし確実に、誰の心にも燃え上がっていた。
その炎は、まだ言葉にならない。
だが、いずれ形を持つだろう。
憎しみにせよ、復讐にせよ、守るための決断にせよ――その火種は、もう消えない。
意識の底から、じわじわと熱の波のような痛みが沸き上がっていた。
暗闇の中を漂っているのか、それとも深い水底に沈んでいくのか、自分がどこにいるのかすら曖昧なまま、翼竜は長い夢から浮かび上がるようにまぶたを震わせた。
やがて、光が薄く差し込み、瞳の奥に白い世界が広がり始める。
「……ん……」掠れた呼気とともに、視界が静かに焦点を結ぶ。天井。均一に並ぶ白い蛍光灯。
木目の梁。聞き慣れた空調の低い唸り。
古殻会本部の医務室――その事実を認識した瞬間、翼竜の心から力が抜けるような安堵が溢れた。
帰ってきた。それだけで胸が温かく満たされる。
しかしその直後、腹部から凄まじい痛みが突き上げる。「っ……!」まるで鋭利な鉤爪が、生身の内臓を無造作に抉るような痛み。
息が喉に引っかかり、反射的に身体を起こそうとした瞬間――「ダメです!!」鋭い声とともに、横から伸びた手が翼竜の肩を押し止めた。
その力は細い腕からは想像もつかないほど強く、必死だった。
「っ、オパビニア……?」椅子を倒しそうな勢いで立ち上がったオパビニアが、真っ赤になった目で翼竜を支えていた。
「今起き上がったら……縫合が破けます……っ。お願いです、横になって……!」その声は、泣き出しそうに震えていた。
翼竜は痛みに呼吸を乱しつつも、ゆっくりとベッドに背中を預け直す。
「……ごめんね、驚かせちゃった……」オパビニアは首を振る。
震える手で掛け布団を直し、深く深く息を吸い込んだ。
「驚いたなんて……そんなものじゃ、ないです……」涙が滲み、目尻が赤い。
その必死さに、翼竜はそっと目を細める。
「……ありがとう。助けてくれたんでしょう?」
オパビニアの指がぴくりと震えた。
「……間に合ったのは、ただの偶然です……もし僕がもっと遅れていたら……あなたは……」
かすれた声が途中で途切れる。
翼竜は弱々しく微笑んだ。
「でも……間に合ったんだよ。」
短い言葉が、オパビニアの胸の奥の罪悪感を静かに撫でた。
しばらく重い沈黙が続いたあと、オパビニアは唇を噛みしめたまま口を開く。
「……翼竜さん。古殻会が……今、動いています。」翼竜の瞳がわずかに揺れる。
「動いている……?」
オパビニアの表情が険しくなる。
「蟷螂討伐の計画が本格的に始まりました。暴君竜さんが……中心になっています。」
翼竜の胸が痛みとは別の理由で締めつけられた。「……そう。あの子たち……怒っているのね。」
オパビニアは拳を握る。「怒っています。あなたのことを……皆、とても大切に思っているから……」
翼竜は天井を見つめ、息をゆっくりと吐いた。どこか甘く、どこか苦い微笑。
「……困ったわね。心配かけたくなんて……思ってないのに。」
オパビニアは俯いたまま、震える声を絞り出す。
「僕は……戦いたくありません。会長も……同じです。でも、あなたが傷ついたことで……皆が暴走し始めてしまった……」翼竜はわずかに眉を寄せる。
「……会長と話したい。まだ……間に合うなら……」オパビニアはまるで反射のように首を振った。
「ダメです。動いちゃダメです。ベッドから出るなんて絶対に――」翼竜は苦笑した。
「……はいはい。まるでお医者さんみたいなこと言うのね。」翼竜は静かな天井を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「……あの子たちが傷つかない道を……ちゃんと探さないとね。」その声には、深い痛みの中にあってなお揺るがない、母のような暖かな強さがあった。
「……翼竜さんの意識が、戻りました!」
医務室から駆け戻ったオパビニアの声が、会議室の空気を鋭く震わせた。
その瞬間、そこにいた全員の表情が一変した。
まるで濃い霧が一瞬で晴れ、張り詰めた緊張が爆発するように。オパビニアの言葉が終わるよりも早く、暴君竜が椅子を大きく鳴らして立ち上がった。
「本当か!? 翼竜は無事なのか!」血走った目。噛み締め過ぎて白くなった拳。
続いて刺竜が無表情のまま立ち上がり、低く呟く。
「意識が戻っただけだ。様子を見に行くぞ。」その声は静かなのに、奥底で燃える激しい怒りは隠しようがなかった。
他のメンバーたちも次々に立ち上がる。
「失礼します会長!すぐ翼竜さんの様子を確認してきます!」「会長、俺らも行く!」「翼竜さん……!」メガネウラ、ヘリコプリオン、アンモナイト――古殻会の生物融合者たちは、皆一斉に席を飛び出し、嵐のような足音とともに廊下へと消えていった。
その気配が遠ざかり、広い会議室には急速に静寂が戻った。
残っているのは、ただ二人――三葉虫会長とオパビニア。
重い扉が閉まる音がやけに響き、その余韻が室内の静けさをさらに強めた。
三葉虫会長はゆっくりと立ち上がり、机の上に置いていた眼鏡型端末を外しながら静かに言う。
「……皆、相当に動揺しておられますね。」その目には、深い落ち着きと、どうしようもない寂しさが同居していた。
オパビニアは俯き、小さく呟いた。
「当たり前です……翼竜さんは、皆の……大事な人ですから。」その声には、胸の奥に積もった痛みが滲んでいる。三葉虫はかすかに微笑む。
しかしその表情の奥には、長い歴史の重さと、深い陰りが刻まれていた。
「あなたの救出がなければ、あの方はもう目を覚まさなかったかもしれません。本当に……よくやってくださいました。」オパビニアの指先が震えた。
顔を上げることができない。
「……守れませんでした。僕は……あんなに近くにいたのに……」
三葉虫はその言葉を静かに遮る。「守れたではありませんか。あなたは翼竜さんを取り戻した。そして……我々の希望も。」
けれどオパビニアは首を振る。
肩が細かく震え、声が堪えきれない想いに揺れていた。「でも……皆、怒っています。蟷螂を殺す計画まで立てて……こんなの、翼竜さんはきっと望んでいません……」
三葉虫は深く深く息を吐いた。その一息には、途方もない苦悩と葛藤が滲む。
「……私は、戦いを避けたいのです。ですが、暴君竜殿をはじめ、多くの者が動こうとしております。あの方を傷つけた存在を……許せぬのでしょう。」
オパビニアは一歩近づき、弱い声で問う。「会長も……蟷螂が、怖いですか……?」その問いに、三葉虫の視線がわずかに揺れた。
ほんの一瞬。
しかしその一瞬が、答えの重さを示していた。「……ええ。怖いですよ。蟷螂――あれは最強で最凶の生物融合者です。私はそれを……誰よりも理解しているつもりです。」
その告白は、恐怖をそのまま吐き出すのではなく、重い現実を示す冷静な言葉だった。
オパビニアの喉がひくりと鳴る。
三葉虫は窓の外、曇った空を見上げた。
灰色の雲が低く垂れ込め、空気には雨の気配が漂っている。「ですが……私は同時に、あの蟷螂の内側にいる“迅牙という人間”も……信じたいのです。」
その言葉に、オパビニアは息を呑んだ。
「信じ……たい?」三葉虫は静かに頷く。
「ええ。彼は……まだ完全に『原始』に呑まれてはいません。あれほど深く融合していても、完全に消えていない心がある。」
三葉虫は椅子に腰を下ろし、机の上に重ねた両手をゆっくりと組んだ。
その姿は、これまで様々な危機を乗り越えてきた長の姿でありながら、一人の老人のような疲れも滲ませていた。
「――オパビニア。この戦いを、どのような形であれ終わらせる方法を……探さねばなりません。」オパビニアは迷いなく頷いた。
「……はい。」その返事は小さかったが、決意の色が強く響いていた。
二人の影が会議室の薄明かりの中でゆらりと伸び、重なり合う。
静寂は深く、重く、張り詰めていて――まるで、これから訪れる嵐を告げているかのようだった。
医務室の静寂は、メガネウラの震える声によって破られた。
目から涙をぽろぽろとこぼしながら、細い腕で翼竜にしがみつく。
「よかった……ほんとに……!」その声は泣き笑いのように震え、胸の奥に溜め込んでいた恐怖と安心が一度に溢れ出していた。
翼竜は最初こそ驚きに目を瞬かせたが、すぐに柔らかな表情になり、メガネウラの背を撫でた。
その手つきはまるで親鳥が弱った雛を慰めるように優しく、メガネウラの呼吸は次第に少しずつ落ち着きを取り戻していく。
そんな二人の様子を、暴君竜は部屋の隅で黙って見つめていた。逞しい体つきに似合わぬほど表情は緊張に固まり、その眼差しには安堵の光と、いま自分が抱えている葛藤が重く滲んでいた。
翼竜が生きていた。
それだけで胸の奥が焼けるように熱くなる。
それでも――伝えなければならないことがある。
しかしどう切り出すべきか、暴君竜は言葉を選びあぐねていた。
やがてメガネウラが翼竜の腕からそっと離れ、すすり泣きを拭うと、翼竜はゆっくりと顔を上げ、ベッド脇に立つ暴君竜へ視線を向けた。
「……聞いたよ。私のために計画を立ててくれたんだってね。ありがとう。気持ちは、嬉しいよ。」
その穏やかな声に暴君竜は肩を震わせ、そして大きな身体に似合わないほど小さく頷いた。
「お前が……やられたと聞いた時、俺は……」そこまで言ったところで声が詰まり、拳を握りしめる。
その拳には、怒りも悲しみも無力感もすべて詰め込まれていた。だが翼竜は、そんな暴君竜へ静かに首を振った。
その瞳はまるで霧が晴れた湖のように澄んでいて、しかし底には固い決意が宿っていた。
「でも、こんな計画は……もうやめて。誰かが私のために復讐なんて考える必要はないの。」その言葉は優しいが、強かった。暴君竜は歯を食いしばる。
「だが……あいつを放っておけば――」
翼竜は暴君竜の言葉を遮るように、凛とした声で言い放った。
「もう一度、私の仲間が誰か傷つくようなことがあったら――その時は私が容赦しない。」
その声音は、優しさとは別の力を帯びていた。
生物融合者としての誇り、仲間を守るための覚悟、そして自分自身が再び立ち上がるという意志。
それらすべてが、弱った体から信じられないほど濃密に溢れ出ていた。
「だからみんなも……これ以上、無駄に争おうとしないで。」その言葉に、暴君竜もメガネウラも息を呑む。
翼竜の言葉は命令ではなく、願いでもなく――大切な仲間への“訴え”だった。
医務室に満ちる沈黙は重く、その場にいた古殻会メンバーたちは誰一人として反論の言葉を持たなかった。
長い長い沈黙の末、暴君竜はゆっくりと息を吐き、頷き、深く頭を垂れた。
「……わかった。お前がそう言うなら。今回は引く。」その声にはまだ悔しさが残っていたが、翼竜の想いを最優先にするという不器用な優しさが滲んでいた。
室内の空気がようやく柔らかくなり、メガネウラは安堵のあまり涙をまたひとつこぼす。
翼竜は微かに微笑んだ。
だが――医務室の外。古殻会本部の外。さらにその外側。
翼竜が知らない場所で、蟷螂を狩るための噂と憎悪、そして密かな計画は、すでに静かに、しかし確実に広がり始めていた。
嵐はまだ、止まっていない。むしろ、この瞬間から本当の暴風が動き出そうとしていた。
会議室には、翼竜のいる医療室の賑やかな気配とはまるで別世界のような静寂が満ちていた。
まるで音が吸い込まれていくかのような深い静けさ。
壁に埋め込まれた照明は白く淡く光り、会議机の上に長い影を落としている。
三葉虫は椅子に背筋を伸ばし、硬いが丁寧な動作で眼鏡型端末を手に取ると、斜め向かいに立つオパビニアへ優しいが揺るぎないまなざしを向けた。
「オパビニア、先ほどの報告、よく理解しました。翼竜様の容体が安定したこと、そして暴君竜や刺竜の動向も、すべて把握しています」
その声は澄んでいて静謐、しかし言葉一つで場の空気に重みを加えるような、熟練した指揮官の響きを持っていた。オパビニアは肩を落とし、机に両手をついて深く息を吐く。
細かな呼吸の震えが、本人の焦りと責任の重さを物語っていた。
「はい。翼竜さんの容体は安定しています。ただ……まだ動ける状態ではありません。医療班が必死に支えてくれています。ですが……蟷螂――神倉迅牙のことが気になるんです。今回の件で、彼の戦闘力の全貌が……想像以上だと痛感しました」三葉虫は頷き、まるで長年思索していた答えを噛みしめるかのようにゆっくり口を開く。
「我々が望まない限り、蟷螂と戦う必要はありません。しかし……迅牙という存在が、古殻会そのものの均衡を揺るがす可能性は否定できない。それほど彼は、人知の外側にいる」鋭い分析でありながら、どこか哀しみを含む声音だった。
オパビニアは眉を寄せ、複雑な表情で問いかける。
「ですが、戦いを避けることが……逆に翼竜様を危険に晒す可能性もありませんか?総力戦で一気に……という選択も、必要なのでは……?」その言葉には恐れも、迷いも、仲間を守りたいという切実な願いも混じっていた。
三葉虫は静かに首を横に振る。
だがその仕草には揺るぎない信念が宿っていた。
「いいえ。それは避けるべきです。翼竜様のような仲間を失う代償は、我々が思う以上に大きい。戦力を集めれば勝てるというものではない。迅牙は……ただの脅威ではなく、迷いを抱えた“個”です。彼を追い詰めてしまえば、後戻りの効かない事態になる」その言葉は優しいが、深い警告の響きを含んでいた。
オパビニアは端末を見つめながら沈黙する。
画面には、迅牙の過去の行動ログが淡々と表示されている。
それはまるで、救いを求める者の足跡のようでもあった。
「……もし迅牙が暴走すれば……止める術はあるのでしょうか」震える問い。
三葉虫はゆっくり立ち上がり、オパビニアの肩にそっと手を置く。
その手は温かく、しかし確固たる意志を帯びていた。
「その時は、私が責任を持ちます。君は指示に従い、冷静さを保ち、決して感情に流されてはならない。迅牙を救えるのは、憎しみではなく理性だ」
オパビニアは深く頷き、胸の奥で何かが固く形を成していくのを感じた。
会議室の外から、微かに賑やかな声が聞こえる。
それは翼竜の声であり、古殻会の仲間たちの笑いであり、生きている者たちの小さな希望の音だった。
しかしこの静かな空間では、三葉虫とオパビニアの間にただ一つの決意だけが静かに息づいていた。
「我々は、迅牙を敵としてではなく、答えを求める者として迎える」
三葉虫はそう言い、窓の外の曇り空を見上げる。
薄く差し込む光が机の上で揺れ、その揺らぎが、これから訪れる運命の波を静かに告げているようだった。
会議室の扉がゆっくりと開き、古殻会のメンバーたちが一人、また一人と戻ってきた。
彼らの表情には会議の重さが残っているものの、どこか安堵や疲労の色が混じっている。
だがその中で、暴君竜は違和感に気づいた。
いつもなら最初に走り込んできて、翼竜の容体について矢継ぎ早に質問を浴びせるはずのメガネウラが、その場にいなかったのだ。
「……メガネウラ、どこ行った?」低く唸るような声で呟くと、後ろから入ってきた刺竜が、眉をひそめて肩をすくめた。
「まだ翼竜のところに張り付いてるんじゃないのか。あいつ、心配性だしな」
その声音には呆れ半分、心配半分で混ざっていた。
暴君竜は一度唇を引き結んで頷くと、刺竜とともに重い足取りで医療室へ向かった。
廊下は静かで、いつもより照明が暗く感じられる。
二人の靴音だけが乾いた音を立て、やけに大きく響いた。
扉の前に立ち、暴君竜がノックも忘れて勢いよくドアを開ける。
そこには、ベッドに腰掛け、穏やかな表情で窓の外を眺める翼竜の姿があった。
外の光が逆光となり、翼竜の淡い羽毛が柔らかく縁取られている。
「メガネウラは……どこに行った?」刺竜の問いに、翼竜は振り返り、首を傾げてにこりと微笑んだ。
「会議室に戻ったんじゃないの?」その余裕ある表情とは裏腹に、刺竜の眉は一気に険しくなる。
「いや……アイツがこの状況でそんな素直に戻るか……?」その声は、嫌な予感の形をしていた。
暴君竜は翼竜を見ると、すぐに刺竜へ視線を戻し、低く呟く。
「……まさか、本当に迅牙のところに行ったんじゃないだろうな」その名を口にした瞬間、部屋の空気がわずかに揺らぐ。
迅牙――蟷螂の本能を宿す危険な存在。
翼竜が追撃され、重傷を負ったばかりの原因でもある。
今のメガネウラがその迅牙の元へ向かったとしたら……。暴君竜は拳を握りしめ、鋭い目を刺竜とぶつける。
「すぐに止めないと。蟷螂のところに行ったら、あいつ……正気でいられないかもしれない」焦りと警戒がその声に重く乗る。
翼竜は二人の緊張を静かに受け止め、優しいが深い眼差しで諭すように言葉を紡いだ。
「大丈夫よ。メガネウラは自分の考えで動いてる。でも……もし本当に迅牙のところに行ったなら、油断しないで。二人とも、気をつけて」その言葉には、ただの心配だけでなく、迅牙を理解しようとする者だけが持つ複雑な想いが宿っていた。
刺竜は苦しげにため息をつき、暴君竜は強く頷く。
部屋の空気には、静かだが確かな緊張が満ちていた。
誰もが胸の奥で同じ可能性を思い描いている――メガネウラは、迅牙の元へ向かったのかもしれない。
彼の無謀な優しさが、またひとつ新しい波紋を呼び起こそうとしていた。
渋谷駅東口歩道橋の昼間の喧騒が残るビル街には、まだ余熱のように人々の声や車のエンジン音が反響していた。
夕暮れの光がガラス張りのビル群に乱反射し、街路は赤金色に染まっている。
その中を、暴君竜と刺竜は急ぎ足で駆け抜けていた。
胸の奥を支配するのは焦り。
メガネウラの行方、そして迅牙の存在が、二人に休むことを許さなかった。
「くそ……早く見つけねぇと……」暴君竜は荒い息を吐き、刺竜は無言のまま前方を鋭く睨む。
そこに、メガネウラが立っていた。夕焼けに照らされたその姿は、普段の能天気さとはかけ離れ、張り詰めた獣のように研ぎ澄まされていた。
鋭い眼差しが、街の一点を捉えたまま微動だにしない。「……まさか、あれは……」刺竜が小さく息を飲む。
暴君竜が慎重に歩み寄ろうとするが、その瞬間――メガネウラの全身が震え、眩い光が爆発した。
光が弾ける。風が巻き起こり、周囲のビルの窓ガラスがわずかに軋む。
一拍遅れて、巨大な影が街中にそびえ立った。
メガネウラが変身したのだ。
背丈はビルの二階をも超え、眼が複眼へと変わり、赤く発光し、巨大な翅が広がる。
その姿は、ただそこにいるだけで街の空気を震わせた。「蟷螂――ッ! どこだァァァ!!」絶叫が一帯に響き渡る。
ビルが共鳴し、ガラスがビリビリと震え、渋谷駅東口歩道橋を歩いていた人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。悲鳴が上がり、下では車が急ブレーキをかけ、サイレンが遠くで鳴り始める。街は一瞬で混乱に包まれた。
広場に残ったのは、メガネウラ、そして暴君竜と刺竜の二人だけだった。
「メガネウラ! 止まれ!」暴君竜の怒号が響く。
「静まれ! 暴走するな!」刺竜も全力で叫ぶ。しかしメガネウラは振り返りもしない。
翅が振動するたび、突風が吹き千切り、路上のごみが空へと舞い上がる。
巨大な体躯がビル街を駆け抜け、谷間を縫うように飛び回り、迅牙の姿を探している。
怒りが理性を上回っていた。
刺竜は拳を握り締め、小さく唸る。
「……止まらないな。完全にキれてる」暴君竜も重々しく息を吐き、メガネウラの背中を見つめながら呟いた。
「迅牙を探してる、復讐する気か……」メガネウラの怒号が街全体に響き渡る。
夕空を切り裂き、風を吠えさせ、ビルの影を揺らす。
誰も近づけない。その背後で、暴君竜と刺竜だけが立ち尽くす。
探すべき相手――迅牙の居場所はまだわからない。
それでも二人は走り出さなければならない。
メガネウラを止めるために。
迅牙と無用な衝突を避けるために。
そして何より――翼竜が望んだ「これ以上誰も傷つけない」という願いを守るために。
夕暮れの街で、メガネウラの暴走は止まらず、事態は静かに、しかし確実に最悪の方向へと動き始めていた。
迅牙は国の本部に戻り、重く鈍い足取りで報告室の扉を押し開けた。
室内には、冷え切った空気が充満しており、上層部の面々が無言で座席から視線を向けていた。
その視線は鋭く、重く、まるで一瞬の失態も許さぬように彼を貫く。
迅牙は一度深呼吸をした。胸の奥で震える何かを押さえ込み、握りしめた手の震えを必死に抑えながら、ゆっくりと口を開く。
「……オパビニアと翼竜を、取り逃しました」言葉が静寂に吸い込まれる。空気が張り詰め、沈黙が部屋を支配する。
その静けさの中で、迅牙の声は途切れずに続く。
「二人を逃した……。しかし……翼竜は右腕を失いました。おそらく、もう戦闘に復帰することはないでしょう」一言ごとに、胸の奥が鋭く抉られる。
報告室の上層部の表情は一層固くなり、誰かが小さく舌打ちをした。その音が、かえって空気を重く沈ませる。
「そして──」喉がひきつり、言葉が喉元で止まる。報告をやめたい衝動が押し寄せる。しかし、それを許す余地はない。
「……蟷螂状態で、制御が効きませんでした」言い切ると、室内の空気が一気にざわめき立った。上層部の一人が鋭い声をあげる。
「勝手に変身したということか?」迅牙はうなずき、低い声で答えた。「はい。自身の中の蟷螂が暴走しました。そして、自分の意思で止めることは……できませんでした」脳裏に、あの瞬間の光景が鮮明に蘇る。
翼竜の血が滴り、絶望に染まった自分の口元。
噛みちぎった肉片を吐き出した時の、冷たい恐怖と無力感が、喉元を締めつける。
「……自分は、制御を失った蟷螂に……人としての判断ができなかった」その言葉に、室内は再び静まり返った。しばらく沈黙が続いた後、上層部の一人が重く息を吐き、低い声で告げる。
「……迅牙。今回の失態は重い。古殻会との衝突は避けられないだろう。しかし──お前の状態も看過できない」別の上層部が書類に目を落としながら続ける。
「変身の制御不能……これは国家の危機だ。一度、特別監査を受けてもらう。そしてそれまでは……お前は前線から外れる」迅牙は言い訳をしようとしなかった。
拒む資格など、自分には存在しなかった。
ただ静かに、深く頭を下げる。背筋を伸ばしたまま、重い沈黙の中で自らの非力さと過ちを受け止めるしかなかった。胸の奥で渦巻く罪悪感と絶望を押さえ込みながら、迅牙はこれからの責任を噛み締めるように、硬く唇を結んだ。
その瞳の奥には、失ったものの大きさと、取り戻せなかった希望への痛みが、深く刻まれていた。
静まり返った報告室に、わずかな呼吸音だけが残り、迅牙の決意と苦悩が、言葉なきまま室内に漂っている。
迅牙は重い足取りで石造りの廊下を進んでいた。足音がひびき、冷たい壁面に反響するたびに、胸の奥に沈んだ緊張が波紋のように広がった。
国の監査が始まる前に、どうしても知りたいことがあった。
三葉虫が、なぜ自分を「必要」と言い続けるのか――その答えだけを、どうしても確かめたかった。
廊下を進むうちに、古びた木製の扉が目に入る。
周囲の現代的な施設と対照的に、その扉だけが時間に耐え、異様に重厚な存在感を放っていた。静かな声が扉の向こうから聞こえた。
「お入りください、迅牙様。」震える手で扉を押し開けると、机の前に三葉虫が座っていた。
背筋は伸び、いつも通りの穏やかな微笑を浮かべている。しかし、目だけはどこか底知れぬ光を宿しており、静かながらも圧倒的な存在感を放っていた。
迅牙は椅子に腰を下ろす。視線は机に落としつつ、低く、しかし声に決意を乗せて問う。
「ひとつ聞かせてくれ……なぜ、俺を欲しがる?」三葉虫は一拍置き、落ち着いた口調で答えた。「迅牙様は我々の“鍵”だからです。」「鍵……?」言葉の意味が咄嗟に飲み込めず、胸の奥に不安と好奇が入り交じる。
三葉虫は静かにうなずき、丁寧に語り始めた。「はい。あなたの中には、バスティオンの体細胞が眠っています。」迅牙の鼓動が早まり、血の巡りが耳元で響くかのようだ。三葉虫は続ける。
「7年前……カイとリナによる黄金事件。その裏で、一つのバスティオン細胞の組織が、戦闘の余波によって石化しました」――あの事件の時、バスティオンが? 迅牙の胸に問いが浮かぶ。三葉虫は小さく頷く。「石化した体は砕け散り、無数の“かけら”となり、地中に埋もれました。それらは長い間、外界から隔絶されていたのです」静かな声に、言葉の重みが宿る。そして、声を潜め、ゆっくりと告げた。
「しかし──ある“生物融合者”が偶然、そのかけらを掘り起こしてしまったのです。それが……**最初の蟷螂**です」迅牙の胸が激しく跳ね、手のひらに汗がにじむ。
「そいつが……俺に……?」三葉虫の視線が、じっと彼の目を貫く。
「ええ。蟷螂はバスティオンの細胞に蝕まれ、暴走しました。人を襲いながら、最終的に日本へと上陸したのです」その言葉に、幼少期の断片的な記憶がざわりと胸を揺らす。
三葉虫はさらに静かに続ける。「そして……まだ幼かったあなたの前に現れた」記憶のない“幼少期”。胸の奥で何かが凍るように震え、迅牙は背筋を伸ばしたまま、言葉を失った。
世界の奥底で眠っていた記憶と、いま目の前で語られる現実が、鋭い針のように胸を刺す。自分は知らず知らずのうちに、世界の鍵となる存在だったのか。
否応なく過去と向き合わされる重圧が、迅牙の心を締めつける。
三葉虫の瞳は静かに彼を見つめ続け、言葉は途切れたまま、室内には重い沈黙だけが漂った。
しかしその沈黙は、単なる静寂ではない。
秘密の重さと、運命の鎖が、二人の間にしっかりと張り巡らされていることを、否応なく伝えていた。迅牙は椅子の背もたれに深く腰を預け、手を握りしめたまま、自らの過去と、これから向かうべき未来を思案せずにはいられなかった。
三葉虫の説明が終わると、部屋には深い沈黙が落ちた。外の風の音すら遠く、壁の影に溶け込むかのように、ただ心臓の鼓動だけが耳の奥で響き、時間の流れさえも重く、鈍く感じられた。
迅牙は椅子に深く腰を下ろし、ゆっくりと息を吐きながら、三葉虫の目をまっすぐに見つめる。
「古殻会の目的は第一に、パンブデルリオンの完全なる復活でございます。あれは兵器でも神話でもなく、循環を成立させるために必要不可欠な機構です。破壊され、分断され、名を失ってなお、世界はあれを必要としております。第二に、全人類の生物融合者への進化でございます。選別は行いません。拒否の権利も、賛同の義務も与えません。差異こそが争いを生み、争いこそが穢れを増幅させる以上、差異そのものを消去する以外に存在しないと、私は結論づけました。」
額には冷や汗がにじみ、両手の指先が微かに震えていた。「……パンブデルリオンが何を意味するのか、俺にはまだ理解しきれない。だけど──全人類を生物融合者にするって計画だけは……絶対に賛成できない。」声は低く、しかし静かに胸の奥から力強く響いた。
三葉虫は微笑を崩さず、ただ静かに、まるで空気の一部であるかのようにその言葉を受け止めている。
「生物融合者になれば、差別や迫害は無くなるかもしれない。だが……同時に、“本能”に飲み込まれる可能性もある」迅牙はその言葉を胸に刻みながら、自分の右手に視線を落とす。
あの日、暴走し、翼竜を傷つけた感触が、冷たく、重く、指先に蘇る。血の匂いと、抉るような痛みが、記憶とともに脳裏をよぎった。
「俺は……あの時、止められなかった。殺したくなかったのに、体が勝手に動いた」喉が震え、言葉は吐息に混ざる。
迅牙は拳を軽く握りしめ、声をさらに強める。「そんな存在を……人類全員に……押しつけていいわけがない」三葉虫はゆっくりと目を伏せ、机の上で指先を組み直す。
静かな声が部屋の奥に落ち、重く、しかし冷静な響きを伴った。「迅牙様。それは“欠陥”ではありません。“本来の進化の形”なのです」しかし迅牙は首を横に振り、低く、揺るぎない声で返した。
「進化だろうがなんだろうが……あれは地獄だ。俺の中にあるという細胞……それを使うために俺を利用する気なら、断る。古殻会の計画には、絶対に協力しない」その瞬間、三葉虫の微笑はわずかに、ほんのわずかにだけ角度を変えた。
諦めにも、哀しみにも見える、穏やかだが深い意味を帯びた微笑。その目は依然として静かだが、内側に秘めた計画の重みを否応なく伝えてくる。
「……そうおっしゃると思っておりました」三葉虫は丁寧に手を組み直し、穏やかに語り続ける。
「ですが迅牙様。あなたが協力されずとも──計画は進みます。パンブデルリオン復活も、世界の“新生”も」その穏やかな声の奥に、逆に底知れぬ恐ろしさが潜む。迅牙は拳を固く握り、歯を食いしばる。
「俺は……それを止める」その声に、部屋の空気が一瞬震えるような緊張を帯びる。三葉虫は微笑を穏やかに戻し、しかし落ち着きと威厳を失わず、静かに言った。
「……迅牙様がお望みならば、それもまた一つの道です」迅牙は深く息をつき、背筋を伸ばして三葉虫の部屋を出た。
扉が閉まると同時に、胸の奥で何かが軋むように軋り、空気が一瞬止まったかのように感じられた。
古殻会の計画を止める――そのためには、自分の暴走すら制御できないこの“蟷螂”をどうにかしなければならない。しかし、同時に迅牙の胸には新たな自覚が芽生え始めていた。三葉虫は、決して敵ではない。
しかし正しくもない。そして──自分もまた、正しくはない。足取りを進めるたび、目の前に広がる未来の闇と可能性を意識せずにはいられなかった。
古殻会と自分、迅牙の中に潜む蟷螂、そして世界そのものが、まるで歯車のように噛み合うその瞬間を、彼はこれから止めなければならない。
迅牙が三葉虫から恐るべき計画を聞かされた直後、洞窟の出口へ向かって歩みを進める。
胸の奥に重苦しい痛みが残り、心臓の鼓動が耳の奥でざわめく。暗い記憶が蘇る——あの日、自分が制御できず暴走し、翼竜を傷つけた瞬間の感触、血の匂い、仲間の悲鳴、それらが胸を締め付ける。
「……全人類、生物融合者化……? 俺みたいな存在を、世界中に……?」思わず自分の右腕を見下ろす。今でこそ理性で制御できているが、幼少期の“あの時”——自分では止められない獣性に支配され、破壊と殺戮の本能に飲まれた恐怖と絶望が、冷たい汗とともに脳裏をよぎる。
「違う……。あんな世界、あっちゃいけない……」自分の意思で立ち止まることもできず、ただ、行動しなければならないという確かな衝動が胸を突き上げる。
外へ出た瞬間、腹に響くほどの巨大な衝撃音が鳴り、身体が反応する前に本能が跳ね上がった。「……渋谷の中心だ」音の方向を確認するまでもなく、肉体が勝手に舗装路を蹴り、瓦礫を踏み越え、風を裂きながら前へと進む。
遠くの空に黒煙が立ち昇り、建物の影で逃げ惑う人々の叫びが混ざり、焦げた臭いが風に流れ込む。
さらに一際大きな爆発音が響き、その中心には、建物を押し潰すようにうごめく異様な存在——巨大なメガネウラの姿があった。
羽根を大きく広げ、複眼を赤く光らせ、身体をうねらせながら街のビル群を突き破る。怒りに満ちたその声が響き渡り、「蟷螂! どこだ!」街中の瓦礫を震わせ、下を逃げる群衆の悲鳴と衝撃が空気を揺らす。
迅牙は角を曲がった瞬間、その目と目が合った。蟷螂状態になった自分の過去を思い出す。
制御できず、本能に支配された自分。胸の奥でため息が漏れる。「……もう、戦いたくない……」
心の奥底で懇願するように思うも、脚は自然に前へと進む。暴君竜が後方から叫ぶ。
「迅牙、攻撃するな! 落ち着け、メガネウラは感情を制御できてない!」だが、メガネウラは怒りに燃え、止まる気配はない。
ビルを叩き割り、瓦礫を跳ね飛ばし、突進してくる。暴君竜は翼を広げ、必死に遮ろうとするが、衝撃の前に踏みとどまるのが精一杯だった。迅牙は立ち止まり、目を細める。
「あいつ……俺を……殺すつもりだ」蟷螂としての本能が呼び覚まされる。しかし頭の中には理性があり、戦いを避けるべきだという判断が重くのしかかる。
「……戦いたくない……でも、逃げるわけにも……」胸の奥で葛藤が渦巻き、汗が額を伝い、呼吸は荒くなる。メガネウラの衝撃波が近づき、瓦礫が飛び散り、服に破片が当たり、膝が震え、心臓が喉まで跳ね上がる。
その瞬間、迅牙は深く息を吸い込み、胸にかすかな決意を秘める。「……理性を失わない……絶対に……」次の瞬間、蟷螂の脚が地面を蹴り、迅牙は横へと飛び退く。衝撃波があたり、背後の建物の壁が粉々に崩れ落ちる。
町の中心で、制御と本能の間で揺れる蟷螂──迅牙と、激昂したメガネウラの視線が、火花のように交わり、互いの存在が爆発寸前の緊張を空気に刻み付ける。
破壊の嵐の中、二つの蟷螂はまるで互いの心を探るかのように動き、都市の瓦礫と怒号がその戦いの舞台を彩っていた。
渋谷駅東口歩道橋周辺は、まだ轟音と崩壊の残響に満ちていた。
折れた街路樹や倒壊した標識、瓦礫の山が散乱し、焦げた匂いと埃が混じる空気の中、迅牙は立ち止まる。
胸の奥で蟷螂としての本能がざわめき、攻撃衝動、捕食衝動、制御不能の力が頭の奥で渦巻く。理性は必死にそれに抗い、精神安定剤の効果でかろうじて制御されていたはずの自分の感覚を保とうとする。しかし、目の前に立ちはだかる巨大なメガネウラの赤く光る複眼、怒りの形をしたその姿が、理性の均衡を揺るがす。「……戦うべきか……逃げるべきか……」心の中で自問する迅牙。胸に手を当て、理性を押し込めながらも、全身が震え、手足が勝手に動こうとする。「……いや、俺は……やらない……」心の奥で必死に叫び、暴走する蟷螂の衝動を抑え込もうとする。しかし、メガネウラの怒号は容赦なく響き渡る。「蟷螂! どこだ!」その声が本能を刺激し、背筋に寒気が走る。迅牙は一歩、踏み出しながらも頭の中で必死に叫ぶ。「……抑えろ……抑えるんだ……!」だが、次の瞬間、巨大なメガネウラの前肢が空気を裂き、迅牙に向かって振り下ろされる。衝撃は容赦なく、蟷螂の脚で受け止める間もなく、身体は宙に飛ばされた。「……!」瓦礫に叩きつけられ、全身に激痛が走る。頭がぐらつき、意識がふっと遠のく。蟷螂としての精神が暴れようとする前に、理性も、身体も捕まってしまったかのように沈黙する。目の前は暗転し、瓦礫の埃と爆風の残滓だけが視界に残る。全身の力が抜け、冷たく沈む感覚だけが残る。迅牙はその場で気絶した。町の中心で、制御不能のメガネウラはなおも怒り狂い、瓦礫を蹴散らし、建物を押し倒し、破壊の手を止めない。その暴威を前に、遠くで見守る暴君竜と刺竜は、深く息を飲み込み、ただ状況を見守ることしかできなかった。空気は緊張と恐怖に満ち、瓦礫の山と倒壊したビルの残骸が、怒れる怪物と制御不能の蟷螂の衝突の痕跡として町の中心に刻まれていた。
目を開けた瞬間、迅牙の視界に飛び込んできたのは、赤黒く染まった惨状だった。瓦礫と埃が混じる荒廃の中、横たわる翼竜の姿は、もはやかつての面影を留めていなかった。脇腹は深く抉れ、腹は無惨に斬り裂かれ、頭の一部は欠損し、左足が無くなり、左胸には大きな穴が開いていた。周囲には滴り落ちる血が地面を赤く染め、硬直した体からは、かすかな苦痛の痕跡が漂っていた。その傍らに立つのは、全身を血で染め、もはや元の緑色の面影すら失った蟷螂の姿であった。迅牙はその光景を目の当たりにした瞬間、心臓が凍りつくような感覚に襲われ、強烈な吐き気が胃から喉へと押し寄せた。「……っ……うっ……」声にならない呻きが漏れる。あの時の感覚。自分が蟷螂として完全に制御を失い、理性を超えて翼竜に襲いかかった瞬間が、鮮明に脳裏をよぎる。恐怖と残虐、そして無力感が一気に全身を包む。自分の手で、目の前の命を無惨に奪った記憶が、皮膚を通して全身に突き刺さる。「……俺は……何を……」膝が震え、力なく崩れ落ちる。吐き気が全身を痙攣させ、地面に伏しながら、視界の端で揺らぐ蟷螂の姿が、過去の暴走を今この瞬間に呼び覚ますかのようだった。理性と本能の境界はわずかに溶け、暴力の感覚が現実と悪夢の狭間で再現される。迅牙は目を閉じ、背筋を凍らせた。その意識の奥底で、蟷螂が無情にも自らの首を切り落とす感覚が刹那的に走り抜ける。「……は、ぁ……っ……」全身から力が抜け、現実と悪夢の境界は曖昧になり、口からは血の感触とあの時の肉片の記憶が甦る。胸の奥では、蟷螂としての自分、翼竜との関係、理性を超えた暴力の感覚——全てが重く、痛く、絶え間なく繰り返し蘇り、精神を深く傷つけた。地面に伏したまま、迅牙はただ嗚咽に近い息を漏らし、恐怖と吐き気に身を委ねるしかなく、世界は赤黒い残響の中で静止しているかのように感じられた。
意識が闇の底からゆっくりと浮かび上がるように、迅牙は目を開けた。だが、次の瞬間、轟音とともに影が迫り、全身の筋肉が反射的に震えた。「ッ――!」巨大な質量が、羽音と怒号を巻き散らしながら一直線に突っ込んでくる。メガネウラだ。避ける間もなく、迅牙の身体は本能的に転がり、瓦礫や砂煙を巻き上げるその突撃をかろうじてかわす。しかし止まらない。轟く怒声。「迅牙ァァァァアア!!」二撃目、避けきれない。身体が硬直し、視界が白く弾けた。ドンッ――衝撃が全身を打ち、内側で何かが暴れだす感覚。骨が軋み、皮膚が裂け、全身を貫く痛みとともに、蟷螂の姿が現れた。巨大な翅が広がり、鎌が空気を切り裂く。迫り来るメガネウラの突撃を、蟷螂は片方の鎌一本で受け止める。「な……ッ!?」その一瞬、メガネウラの複眼に恐怖が走る。しかし力任せに押し込もうとした瞬間、もう片方の鎌が一直線にメガネウラの右目へ突き刺さった。「ぎゃああああああああッッ!!」赤い血が噴き出し、血飛沫が蟷螂の顔を染める。悲鳴を上げ、よろめき、逃げようと背を向けたメガネウラ。しかし蟷螂は逃さない。鎌を滑らせるように変形させ、細く、人間の腕の形に組み替えたその手で、暴れるメガネウラの首を鷲掴みにする。「や、やめ……っ、離せ……!!」泣き叫び、必死にもがくメガネウラ。だが蟷螂の握力は鉄のように固く、微動だにせず、その頭部へと顎をゆっくりと降ろす。噛み砕くために迫るその瞬間、ドゴォッ!!!!横から飛来した巨大な拳が蟷螂を叩き、身体は弾き飛ばされる。渋谷駅東口歩道橋を20メートル以上滑り、地面を削りながら転がる。「……暴君、竜……」震える声だけが残る。暴君竜は息を荒げ、血に染まった拳を握り直した。「蟷螂!! これ以上は俺が許さん!!」倒れ伏した蟷螂は一瞬静止するが、次の瞬間、四肢が地面を掴み、獣のようにゆっくりと起き上がった。構え、空気が一瞬で冷たく張り詰める。そして――蟷螂の姿が消えた。「……ッどこだ!?」暴君竜が周囲を見回したその瞬間、目の前に出現した蟷螂。鎌が一直線に振るわれ、暴君竜の顎を斬り裂こうと迫る。「くっ――!」辛うじて避けたものの、刃は頬を浅く割き、血を弾く。蟷螂は止まらない。次の攻撃に移ろうとしたその瞬間、暴君竜の拳が唸りを上げ、強烈なアッパーカットが炸裂する。蟷螂の身体は高く舞い上がり、渋谷ヒカリエを突き破り、ガラス片が雨のように降りしきる中、一瞬だけ動きを止めるが、すぐに渋谷ヒカリエの奥へと姿を消す。血の流れる顎を押さえ、暴君竜は低く唸った。「……迅牙。もう……お前を放っておくわけにはいかない」
破壊された渋谷駅東口歩道橋には、まだ砂埃がゆっくりと舞い、空気は重く濁っていた。メガネウラの悲鳴混じりの羽音が遠ざかると、暴君竜はその巨大な身体をわずかに揺らし、荒い息を吐く。鎌で裂かれた頬からは細い赤い線が流れ、顎の鱗が微かに軋むが、その黄色い瞳に宿るのは怒りではなく焦燥だった。「……先に帰れ、メガネウラ」低く震える声が瓦礫の壁に反響する。刺された右目を押さえながら、メガネウラはしばらく怯えたように暴君竜を見上げる。しかし、暴君竜の表情が命令そのものだと悟ると、口元を噛みしめ、涙を零しながら羽を震わせる。「……でも、暴君竜……ひとりに、なっちゃう……」「いいから行け。今のお前じゃ、戦場に立てない」冷たく聞こえたかもしれない言葉の端々には、実際にはメガネウラをこれ以上危険に晒したくない気持ちが滲んでいた。メガネウラは躊躇いながらも、傷ついた羽を広げ、最後に刺竜を振り返って小さく「気をつけて」と震える声で告げ、弱々しい羽音を残して夜空へと飛び去った。その背中が見えなくなるまで目を細めて追った暴君竜は、ゆっくりと振り返る。瓦礫の向こう、暗く口を開けたビルの奥――蟷螂が逃げ込んだ穴倉のような闇を、鋭く睨みつける。その視線を感じ取った刺竜が鼻を鳴らす。「おい、暴君竜。お前の方がやばいだろ。あいつ、今の状態なら迷わず首を刎ねにくるぞ?」暴君竜は短く息を吸い、刺竜の肩を力強く叩いた。「わかってる。だから――――ここはお前に任せる」刺竜の瞳孔がかすかに揺れる。「は? お前ひとりで帰る気か? 蟷螂の相手は二人でやるべきだろ!」「いや、俺が残ればメガネウラは戻ってくる。あいつは俺を置いて離れられない。そうなれば、今度はあいつが本当に殺される」暴君竜は深い傷の走る顎を押さえ、吐き捨てるように言った。「……俺よりも、お前のほうが冷静だ。今の蟷螂を追えるのは、お前しかいない」刺竜はしばらく言葉を失った。暴君竜ほどの巨躯に真っ向から戦いを挑んでも負ける気はしない。しかし、今の蟷螂の異常な速度や攻撃性は、彼ですら背筋に冷たいものを走らせるほどだった。それでも刺竜は前に出る。「……了解。だが死ぬなよ、暴君竜。お前が死んだら、メガネウラはもっと壊れる」暴君竜は背を向けたまま、片手を軽く上げて応えた。刺竜は小さく笑い、鋭い爪を伸ばしてビルの入口に向き直る。ヒカリエの中は暗く、割れたガラスの匂いと血の生臭い気配が漂い、遠くから風が呻くように吹き抜ける。その奥の闇の底に、獲物を待つ蟷螂が潜んでいた。刺竜は肩を回し、背中の鱗を逆立てるようにして身構える。「……よし、やるか。逃げた獲物を追うなんて性に合わねぇが――」口元に、戦いを楽しむ獣のような笑みを浮かべ、「――あいつを止められるのは、俺ぐらいだろ」と低く呟く。そして刺竜は、足音を一切立てずに闇へと踏み入れていった。ビルの奥で、金属が擦れるような“シャキン”というかすかな音が響く。それが蟷螂の鎌が闇の中で振動した音だと気づいた瞬間、刺竜の瞳孔は鋭く細まり、闇が静かに街を包み込む中、獲物と狩人の対峙が緊張感と共に幕を開けていた。
薄暗いビルの内部、割れた窓から差し込む夕陽が長い廊下を赤く染め、床には血の帯のような光を落としていた。その静寂を破るように、刺竜は爪を床に軽く打ち付けながら歩を進める。乾いた金属音が廊下に響き、空気の奥に潜む緊張を震わせる。――その瞬間だった。奥の闇がひとつの形に収束し、気配を察知した刺竜がわずかに視線を向けたと同時に、蟷螂が影の中から一直線に飛び出してきた。音が遅れて届くほどの速度。まっすぐに、迷いなく、獲物を貫くためだけに研ぎ澄まされた純粋な殺意の突進。刺竜は微動だにせず、わずかに口元を引き締める。「来いよ、迅牙」影は巨大化し、距離はみるみる詰まる。10メートル、5メートル、1メートル――そして残りわずか0.2メートル。その瞬間、“速い”の意味が逆転する。蟷螂が距離を詰めきるよりも早く、刺竜の右拳が閃いた。鋭いフックが側頭部を正確に捉え、甲殻が鈍く軋む音を立てる。蟷螂の身体が一瞬だけ硬直したその“わずかな停止”を、刺竜は逃さない。
拳と脚が、連続して閃光のように叩き込まれる。蟷螂はガードも反撃も追いつかず、衝撃が体をねじり、足は床を滑り、背は壁に叩きつけられる。刺竜の動きは精密機械のようで、一定のリズムで確実に急所ばかりを撃ち抜いていく。
「お前、これで終わりかよ!」拳が大きく引かれ、膨れ上がる筋肉が廊下の空気を震わせ、トドメのストレートが雷鳴のような轟音を伴って前方へ走る。しかし刹那、蟷螂の姿が霞む。拳の軌道に入ったはずの身体が紙のようにしなり、刃のように細い腕――鎌――が拳を外側へ軽く弾いた。受け流された。刺竜の瞳孔がわずかに細まり、蟷螂は無言のまま顔を上げる。その複眼に宿るのは自我でも獣でもなく、ただ戦いを続けるためだけの空虚な殺意。床に落ちていた破片が蟷螂の動きで巻き上がり、光を反射してキラキラと宙を舞う。その中心で、蟷螂の鎌がゆっくりと開かれ、まるで静かに次の殺意の準備を整えているかのようだった。
薄闇に沈む廊下で、刺竜の拳が空気を割った瞬間、蟷螂は反射でその一撃を受け流した。しかし──その直後、鋭い金属光が蛇のように走る。「チッ……!」と蟷螂の喉奥から掠れる声が漏れ、鎌が刺竜の腹へと一直線に伸びた。内臓を一撃で抉り取る、殺意の角度。しかし刺竜は微動だにせず、その刃を片手で掴み止める。ギチ……ギギギギッ……金属の折れかけた刃が悲鳴を上げるようなきしみが響き、蟷螂の複眼がわずかに見開かれた瞬間、刺竜の指先に力が入る。――バキンッッ!!「ギャアアアアア!!」鋭い悲鳴。蟷螂の刀のように鋭利で強固な鎌が、あっさりとへし折られた。痛みに狂ったように後ずさる蟷螂。しかし──刺竜はもう目の前にいた。「……遅えよ」感情を押し殺したような低い声とともに、爆音を伴った回し蹴りが蟷螂の顔面を叩き砕く。重い衝撃に蟷螂の体は地面を滑り、廊下の瓦礫を巻き上げながら約5メートルほど転がって止まった。しかし即座に身を起こすと、異様に低い、野獣の四足のような姿勢で構えを取り直す。次の瞬間──蟷螂の姿が、煙のように掻き消えた。だが刺竜は眉ひとつ動かさない。「そこだ」空気がヒュッと裂けた直後、蟷螂が刺竜の背後に再出現し、首を刎ねるため鎌を振り下ろす。しかし刺竜は軽く首を傾けるだけでそれを避け、その勢いを逆に利用し、みぞおちへ正確無比な蹴りを突き刺す。「ッ……!」砕けるような息の音。蟷螂の身体が“へし折れた”かのようにくの字に曲がり、後方へ弾き飛ばされる。苦痛に歪んだ呼気とともに、蟷螂の口から、迅牙とはまるで別人のような低い声が漏れた。「……強化変身、《開》──」その一言が空気を切り裂き、直後、深緑の閃光が廊下一面を覆い尽くす。光は金と白の紋様を帯び、まるで蛹が羽化する瞬間のように有機的な変形を始める。肩の装甲が花弁のように広がり、背中の翅は二倍以上に膨張し、吹き荒れる風圧だけで周囲の瓦礫を宙へと跳ね上げた。そこに立ち現れた存在は──大蟷螂の凶暴さと花蟷螂の妖艶な美しさ、その両極を併せ持つ“進化体”。その姿は、もう“迅牙”でも“蟷螂”でもない。獣と兵器が咲いた、完全なる怪物だった。刺竜は静かに息を吐く。「……来いよ。本気見せてみろ」廊下の空気が震え、瓦礫が跳ね、熱が立ち昇る。
進化した蟷螂の翅が低く唸りを上げた。その音は生物のものではなく、無数の金属片が震え合って生まれる振動のようで、廊下全体を共鳴させる。刺竜はそのわずかなたわみを見逃さず、一歩踏み込み、腹部めがけて蹴りを叩き込もうとした。だが──その瞬間、蟷螂の姿がふっと“消えた”。空気の流れが一瞬だけ逆流したかのように感じられ、刺竜の背筋が逆立つ。「……っ!」反射だけで横へ身を振った刹那、耳を切り裂く音が廊下を貫いた。追いついた視界の端に映ったのは、さきほど刺竜が粉砕したはずの“鎌”。――完全に再生している。「再生速度……さっきより速えな」呟く暇もなく、その鎌が殺到した。光を弾き返すほど研ぎ澄まされた刃が、迷いも淀みもなく刺竜の首元を一直線に狙う。ギィン──!刺竜は紙一重で頭を引き、床を転がるように回避した。しかし避けきれなかった刃が首筋を浅くかすめ、赤い線を刻んだ。「ちっ……!」冷たい汗が背中を伝う。あの一撃、ほんの少しでも鈍れば首は落ちていた。蟷螂は複眼を震わせ、標的を“屠る距離”で射抜いている。再生した鎌がわずかに震動し、まるで獲物が最期に見せる苦悶を待ち望んでいるようだった。それでも刺竜は退かない。「やれるもんなら……来いよ」首元の血を拭いながら、静かに拳を構える。その構えは古殻会でも最上位の者しか辿り着けない、隙という概念を完全に捨て去った“殺意の拳”。廊下の空気が沈み、次の瞬間には誰かの命が落ちる──この場の全員が直感的に理解できるほど張りつめていた。蟷螂が一歩、沈む。刺竜が一歩、踏み込む。その動作が重なった瞬間、時間がわずかに歪んだように感じられた。蟷螂の鎌が刺竜の頭をかすめる。そのわずかな隙を見逃さず、刺竜は迷いなくフックを打ち込んだ。鈍い衝撃音。蟷螂の鎌がピタリと止まる。だが蟷螂は止まらない。フックに体を預けるようにして刺竜との距離を詰め、残った片方の鎌で刺竜の拳を押さえ込み、もう片方の鎌をぐっと突き出す。狙いは刺竜の心臓。迷いも感情もない、ただの“殺すための動き”。「……ッ!」刺竜は素早く腕を掴み、鎌の軌道を強引に逸らす。しかし蟷螂の力は凄まじく、刃はゆっくりと、だが確実に胸へ迫っていく。きしむ筋力。めり込む刃先。刺竜の胸元に浅く突き刺さった瞬間、蟷螂の全身が横へ跳ねた。目で追うのが難しいほどの速さで真横に飛び、風切り音が廃墟の街に響き渡る。ビルの壁を突き破り、コンクリート片を撒き散らしながら建物の奥へ落下していった。「……くっ!」刺竜は一歩後ずさり、荒い呼吸を必死に整える。視界が揺れ、胸の痛みが鼓動に合わせて鋭く刺す。その横で、荒い息を吐きながら暴君竜が立っていた。伸ばされたその手を刺竜は迷わず握り返す。二人の視線がそろい、ビルの下──瓦礫の上に倒れ込んだ“迅牙”を捉える。しかし次の瞬間、迅牙は身をよじり、苦悶の声を漏らしながら再び蟷螂の形へと変貌した。骨の軋み、筋繊維のねじれ、装甲の再生成。威圧的に振るう鎌、鋭く光る複眼、背後の翅が放つ殺気。そこにはもう“迅牙”の姿は微塵もなかった。暴君竜は即座に拳を構え直す。「……くそ、これじゃ戦うしかねぇ」その低く押し殺した声には、迅牙を傷つけることへの恐怖と苦悩が滲んでいた。刺竜も同じ思いを抱えていたが、目の前の怪物がためらいを許さないことも理解していた。廃墟と化した街の中心部に、静寂が再び落ちる。瓦礫が転がり、風が吹き抜け、月光が粉塵の中に白い筋を描く。四つの存在が向かい合う。殺す者。守りたい者。戦わねばならない者。戻ってきてほしい者。すべての感情が、ただの一遍の静寂に押しつぶされ、溶け込んでいく。
蟷螂と化した迅牙は、もはや人間という枠の外側で呼吸していた。瞳孔の奥で蠢く獣の輝き、全身を走る微細な振動、体中の筋繊維が擦れ合う音さえ聞こえそうなほど極限まで研ぎ澄まされた血の気配──それらすべてが、目の前の二人を“敵”として認識している証だった。刺竜はその獣性の濃度を正面から見据え、ゆっくりとした足取りで前に出た。挑発ではない。覚悟の歩みだった。「来い……」低く呟く声は、周囲の破壊された街とは不釣り合いなほど静かだった。瞬間、蟷螂の全身が痙攣し、弾丸のように前へと跳んだ。左右の鎌が残像を引く。ただ速いだけではない。空気が反応する前に、身体が攻撃を終えているという“異常さ”。刺竜はその刃の軌道を読むと、拳と脚を使って完璧なタイミングで受け流す。しかしそれでも、蟷螂の動きは刺竜の反応をわずかに上回った。「……まだだ、焦るんじゃねぇ!」暴君竜が鋭く声を放つ。二人は互いに間合いを合わせながら同時に構える。蟷螂の輪郭が揺れ──次の瞬間には消えていた。「ッ……!」「消えた!?」刺竜の背筋が逆立った瞬間、死角から風が裂ける。刺竜は本能だけで身をずらし、蟷螂の殺意の一撃を紙一重で躱す。しかし攻撃は止まらない。蟷螂はそのままビルの屋上へ跳躍し、落下する勢いで暴君竜へ突進した。硬質な刃が顎をかすめ、鮮血が軌跡を描く。だが暴君竜は痛みに反応すらせず、踏み込みの力をそのまま拳に乗せて振り抜いた。爆音。殴られた蟷螂の身体は空中で一瞬ねじれ、ビルの壁に叩きつけられて弾け飛ぶ。それでも蟷螂は、肉体の損傷を気にしない。いや、損傷があるという概念すら持っていないかのように、瓦礫の奥から再び姿を現す。そして次の瞬間には刺竜の背後にいた。刃が閃く。刺竜が身を傾けると鎌は首をかすめた。だが刺竜はその勢いを逆に利用し、膝蹴りを蟷螂の胸へ叩き込む。重低音が空気を震わせた。しかし、その衝撃すら“進化”の刺激となった──蟷螂の身体が深緑の光柱に包まれた。外殻が展開する。花弁のように装甲が開き、白金の紋様が走り、背中の翅は倍以上の大きさまで膨張していく。瓦礫が吹き飛び、風圧だけで街路の砂埃が巻き上がる。そこに立つのは、もはや“迅牙”でも“蟷螂”でもない。捕食者としての美と獰猛さが同居した、異形の進化体──大蟷螂・花蟷螂。刺竜は深く呼吸をし、震える空気の中で静かに構え直す。「……来い。こっから本番だ」進化した蟷螂が一気に跳ぶ。地面が爆ぜ、コンクリート片が雨のように飛び散る。鎌の一撃は刺竜が反応するよりも速く、暴君竜が瞬時に割り込んで拳で逸らす。衝撃波が走り、二人の身体が数メートル吹き飛ぶ。蟷螂の動きは完全に“殺すための速度”になっていた。刺竜は拳を握りしめ、低く呟く。「……暴君竜、やるしかねぇな」暴君竜は静かに頷き、その皮膚の下から光が滲む。次の瞬間、暴君竜の両拳がオレンジと白金に輝き、殴るたびに空気が砕けるほどの圧が渦巻く。刺竜もまた、足元に集めた蒼い光を脚へ流し込み、脚部が青い宝石のように輝き始める。進化した蟷螂の咆哮が街を震わせ、三者の殺気がヒカリエ全体に満ちていく。この一戦はもう、誰かを救う戦いではない。生物融合者という“異形”の頂上同士がぶつかり合う、純粋な戦場だった。風が止まり、音が消え、張りつめた空気の中──最初に動いた者が、生死の均衡を崩す。
蟷螂が一歩踏み出した……そう“見えた”瞬間には、もう目の前にいた。重力も摩擦も存在しないかのように、空間を滑るような速度で二人へ迫る。暴君竜は迎撃の姿勢を崩さない。拳がオレンジと白金の光をまとい、軌道に沿って空間が震え、風が裂ける。光と光がぶつかり合った瞬間、世界の骨がきしむような衝撃音が大地を揺るがし、周囲の瓦礫が跳ね上がる。霞む視界の中で暴君竜の顔面すれすれを、蟷螂の鎌が高速で通過する。火花が散り、金属同士が削れ合う絶望的な響きが空へ吸い込まれる。しかし暴君竜は怯まない。むしろその痛みすら、攻撃のリズムに変換していた。拳をねじ込む。重い音が響き、蟷螂の胸の外殻に亀裂が走る。ひび割れの隙間から白金の光が漏れ、蟷螂は苦悶とも歓喜ともつかない奇妙な唸り声をあげた。吹き飛ばされる勢いを利用して、蟷螂はそのまま空中へ跳躍した。しかし──「逃がすかッ!」蒼い閃光が宙を切り裂く。刺竜だ。脚部から生まれた蒼光が軌跡となり、空そのものを蹴り上げるような速度で跳び上がる。一瞬で蟷螂の背後を奪い、ブルーダイヤの光をまとった飛び膝蹴りを叩き込んだ。衝撃波が円形に広がり、周囲の窓ガラスが一斉に砕け散る。蟷螂の身体が大きく揺らぎ、外殻が一部砕けて飛び散った。しかし──倒れない。いや、倒れる気配すらない。むしろ倒れる代わりに、砕けた外殻がその場で脈打つように再生を開始する。白金の装甲がパキパキと音を立てながら再構築され、鎌は先端が分裂してさらに鋭く、さらに重く伸びていく。まるで“戦闘そのものを栄養に成長している”かのようだった。「……まだ強くなるのかよ……!」暴君竜の声には焦りよりも、戦士としての興奮が滲んでいた。彼の拳にはさらに光が集中し始める。空気が悲鳴を上げ、拳の周囲の温度が上昇し、地面の砂が電気を帯びて跳ねる。刺竜も呼吸を整えながら、片足を大きく引いて構えを深める。脚の蒼光が濃度を増し、まるで脚そのものが宝石の塊のように輝いた。蟷螂は二人を睨みつける。瞳孔が線のように細くなり、背中の羽が花びらのように大きく広がる。羽から舞う白金の粒子が風に流れ、夜の空気に散りながら螺旋状に舞い上がる。次の瞬間──三者は同時に地面を蹴った。全員が先に決着をつける気だった。速度が常軌を逸している。光の三本線が交差し、衝突の中心で空間がひび割れるような音が響く。遅れて大気が爆発し、ビルの破片が竜巻のように舞い上がる。世界が一瞬、白く塗りつぶされた。そこにあるのはただ、生物融合者たちの頂上同士がぶつかり合う、神話の戦場のような光景だった。
蟷螂は二人の追撃を浴び続け、反応速度は見る見る落ちていった。暴君竜の拳が叩き込まれるたび、刺竜の蹴りが交差するたび、金属の軋みと火花が周囲に散る。最初はすべてを受け流していた蟷螂の鎌も、今は赤熱した鉄板のように震え、剛撃の余波を殺し切れず体勢が後ろへと流れていく。「──っ……!」胸部の外殻が大きく砕け、蟷螂は後退。バランスを立て直すよりも早く、地面を蹴って空へ逃れようと飛び上がった。しかし──。「逃げ道なんかあると思ったかよ!」刺竜の身体が、雷鳴が裂けたような蒼光の尾を引いて跳ね上がる。空中で暴君竜の襟首を掴み、全身を軸にして蹴り上げた。「行けッ!!」暴君竜が閃光の弾丸と化し、蟷螂の腹部へ拳を突き立てる。硬質な殻を貫通するような衝撃で蟷螂の体がくの字に折れ、次の瞬間には重力へと引き落とされる塊となって地上へ急落した。轟音。落着点を中心にコンクリートが波紋のように粉砕され、大量の粉塵と破片が噴き上がる。その白い煙の中心へ、刺竜が無音のまま降り立った。舞い上がる灰を押し分けるように踏み出し、倒れた蟷螂の胸へ無慈悲に片足を乗せる。「ッ……ガ……!」蟷螂が身をくねらせても、今の刺竜の脚はもはや“装甲”と言ってよい硬度を纏っており、何度鎌を叩きつけても金属音すら響かない。刺竜はゆっくりと力を込める。足裏から伝わる抵抗が、徐々に軋みへと変わる。「……終わりだ、迅牙。ここで止める。」顔を近づけ、頭を踏み潰すべく体勢を低くした刹那──。蟷螂の腕が変形した。鎌だった両腕が、人間の腕へと一瞬で収束し、そのまま刺竜の頭部を鷲掴みにした。鋼線のような指が刺竜の頭蓋を締め上げる。「ぐ……っ……ああ……ッ!」こめかみが悲鳴を上げ、血が額を赤く染めて滴り落ちる。暴君竜が叫んだ。「刺竜ッ、離れろ!!」叫びと同時に、暴君竜は全身に光をまとって蟷螂の背へ飛びついた。首元を掴み、連続で拳を放つ。拳が沈むたびに骨が割れ、外殻が崩れ、蟷螂の意識が揺れる。焦点が合わず、視界がぶれる。「……ぅ……あ……」意識が落ちていく。深い闇へ、沈み込むように──。だが次の瞬間。暴君竜の横腹に、爆風のような衝撃が叩きつけられた。身体が横へ吹き飛ぶ。「なにッ!?」暴君竜は地面を滑りながら顔を上げる。瓦礫の向こう、粉塵の薄膜が晴れるその奥に、整然と整列する部隊がいた。自衛隊の迷彩服。しかし全員が、同じ“真っ黒な金属製の仮面”を被っている。無地で、冷たい均質さだけを持つ仮面。目も口も覆われ、表情も声も消え失せた兵士たち。だがその頬の部分には──蟷螂の紋様を守護するように、複数の銃口を組み合わせた不可解な意匠が刻まれていた。公的機関の装備にはない、異様な紋章。まるで『蟷螂の守護者』と名乗るかのように。次の瞬間、集団の同時射撃が降り注いだ。地面が抉れ、ビルの壁が削れ飛び、破片が嵐のように二人へ降り注ぐ。強化外殻を持つ暴君竜と刺竜でさえ、至近の衝撃で腕が一瞬痺れた。「この威力……ッ!? 普通の弾じゃねぇ……!」刺竜が舌打ちしながら後退し、暴君竜も一歩踏み出すたび地面が爆ぜるほどの圧で弾幕に押し返される。「クソッ……! 一時撤退するぞ、刺竜!」「チッ……分かった!」二人は瓦礫へ飛び込み、交差する銃火の中をすり抜けてその場を離脱した。不可解なことに──銃撃は二人を追うだけで、追撃の姿勢は見せなかった。あくまで彼らの目的は“暴君竜と刺竜の排除”ではない。その中心に倒れた蟷螂──迅牙の確保。それだけだった。粉塵の中で蟷螂は動かない。無音の仮面の隊員が足音ひとつ立てずに近づく。そして、倒れ伏した蟷螂を前に膝をつき──敵を排除するのではなく、まるで“救助対象”であるかのように、両腕で丁寧に抱え上げた。瓦礫の街を、静寂が覆った。
治療室の淡い光は、夜明け前の街灯のように静かで冷たかった。その中を、迅牙は包帯の巻かれた腕を押さえながら歩いていた。包帯はまだ湿り、微かな血のにおいを放っている。廊下の白い壁が妙に遠く感じる。昨日の戦闘の残滓──黒い仮面の部隊が放った銃火の閃光、耳を焼く衝撃音、そして彼らに抱え上げられる蟷螂の姿──それらが残像のように視界の端へよぎり続けていた。階段を上がり、重々しい扉の前で一度立ち止まる。息を整え、しかし胸のざわつきは収まりきらない。ノブを握り、押し開くと、古殻会の幹部たちが既に揃っていた。長机の向こうに並ぶ彼らは、誰一人として言葉を発せず、ただ迅牙の入室を待つように視線を向ける。灯りに照らされた顔は、どれも深く刻まれた皺と疲労と計算が入り混じり、人間の顔というより、組織の意志そのもののように無機質だった。迅牙は深く息を吸い、抑えきれない震えが声に混じった。「……聞きたいことがある」幹部の表情は動かない。しかし空気がぴくりと緊張し、室内の温度がわずかに下がったように感じられた。「昨日の……あの戦闘に割って入った、あの部隊……。あれは何なんですか」言った瞬間、部屋はひどく重たい沈黙に沈む。数秒が永遠のように伸び、まるで誰かが最適な答えを探すために空気を凍らせているかのようだ。その沈黙を破ったのは、最も階級の高い幹部だった。彼は深く、肺の底から息を吐いた。「隠す理由もなくなった。説明しよう」そう言い、机の上に資料を数枚置いた。白黒の紙面に印刷された写真が光の反射でわずかに揺らめく。写っていたのは黒い仮面の部隊──鋼鉄の仮面に刻まれた蟷螂の紋章、異様な銃器、そして蟷螂の細胞構造図。迅牙の胸がざくりと痛む。「彼らは《対生物融合者特化部隊》だ」その言葉が落ちると同時に、部屋の空気がさらに重く沈んだ。「……対、生物融合者……?」迅牙の声は乾き、わずかな怒りと困惑が混ざっていた。「そうだ。お前たち“生物融合者”を排除するためだけに結成された部隊だ」幹部は平坦な声で続ける。「彼らは蟷螂状態の細胞を移植している。その力によって、生身の人間でありながら、生物融合者に近い身体能力を手に入れた」迅牙は息を呑んだ。背筋が冷たく凍るような感覚を覚える。蟷螂の細胞を移植──つまり、彼らは“壊された人間”だ。幹部は資料のページをめくる。そこに並んでいるのは、異様な名称の兵器群だった。「対生物融合者ライフル」「対生物融合者ショットガン」「対生物融合者グレネード」無機質な文字列だが、どれも明確な殺意を帯びていた。その兵器の解説は、生物融合者の外殻、筋繊維、再生能力を破壊するために設計された“処刑装置”であることを示していた。「銃弾は生物融合者の細胞活動を崩壊させる“特殊弾頭”だ。普通の人間相手とは比べ物にならん威力だろう?」昨日の戦闘が脳裏に蘇る。暴君竜の強化外殻ですら弾き飛ばすほどの力。刺竜の脚を痺れさせた衝撃。迅牙は拳を握りしめ、爪が掌の肉に食い込んだ。「……じゃあ……なぜ。なぜ俺を……蟷螂を連れていったんですか」その問いに、幹部たちは視線を交わした。わずかな沈黙は、言葉を選ぶための間──そして、組織の腹の内をどこまで見せるかの天秤でもあった。「迅牙。彼らの目的は“殲滅”ではない。“回収”だ」迅牙は眉を寄せる。「回収……?」幹部はゆっくりと頷いた。「お前の蟷螂細胞は異常だ。通常の生物融合者の範囲を逸脱している。彼らはそれを“兵器として欲している”のだ」心臓が冷たい手で握られたように固まる。視界が狭まり、耳鳴りが微かに鳴る。迅牙は椅子の肘掛けを握りしめ、木材が軋んだ。「俺を……兵器に……?」幹部の表情は変わらない。ただ、その目だけが恐ろしく現実的だった。「生物融合者は国にとって脅威であり、同時に最高の軍事資源だ。あの部隊は、お前という“試作品”を回収し、“量産型”を作るつもりなのだろう」言葉の一つ一つが刃となって胸を刺す。迅牙は視線を落とした。胸の奥で、蟷螂の本能のようなざわつきが、不気味なうねりを伴って静かに目を覚ましつつあった。
帰路についた街は、夕暮れの光が消えかけ、ビルとビルの隙間に滲む残光が路上を薄暗く染めていた。行き交う人々の顔は影に溶け、車のライトだけが現実を無理やり照らし出している。そんな中を、迅牙はゆっくりと歩いた。胸の奥で渦巻く考えの数々を、歩きながら必死に整理しようとしていた。――メガネウラの右目を潰した。あの瞬間の指の感触、砕ける音、メガネウラの表情。胃が焼けつくような後悔と、どこかで同時に湧いた妙な高揚感。そのギャップが心の深部を不気味に揺らす。――蟷螂になったとき、自分だけの力では戻れなかった。あの恐怖。自分が自分でなくなり、意識が溶けるように遠のく瞬間。戻れなかったのは、ただの偶然なのか、それとも蟷螂が“主導権”を奪い始めた証拠なのか。――対生物融合者特化部隊。黒い仮面、異様な銃声、細胞を破壊する特殊弾頭。思い出すだけで手のひらが汗ばんだ。――あれは“兵器としての俺”を回収するための部隊だ。針のような言葉が喉に刺さり続ける。考えるほど胸が締め付けられ、呼吸が浅くなる。それでも歩みは止まらない。意識の多くが思考に奪われていたせいで、目の前の男と肩が軽くぶつかったとき、反射が一瞬遅れた。「……あっ」ただの接触。そう思った次の瞬間――右腕を中心に、焼け付くような激痛が走った。「っ……!? な、なんだ……!」まるで腕の内側に熱した針金を押し込まれたかのような、鋭く暴力的な痛み。思わず息を呑み、右腕を押さえる。呼吸が震え、背中に冷たい汗がつっと流れ落ちていく。ゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、先ほど肩をぶつけた“ただの男”――ではなかった。ビルの影から浮かび上がるように、その姿はすでに変異を完了していた。ヘリコプリオン。“渦巻く歯を持つ古代の異形”。首の周囲には湿ったエラが呼吸に合わせてふくらみ、収縮し、頭部全体はサメに酷似した形状へと変質している。だがもっと異様なのは口の中だった。螺旋状の歯列が渦のように敷き詰められ、暗闇の奥でぎらりと光る。腕にも同じ螺旋の刃が沿うように形成され、街灯の光を青白く反射していた。「……うぇぇ、気づくの遅っそ〜」声は甲高く鼻にかかった調子で、どこか幼さと意地悪さを混ぜ込んだような響きがあった。軽く笑いながら、ヘリコプリオンはサメの口とは思えない“人間の嘲笑”を浮かべた。「ねぇねぇ迅牙くん? あんた、最近いろいろと“やらかしてる”らしいじゃん」その言い草が耳障りで、迅牙は眉をひそめる。するとヘリコプリオンは肩を揺らしてますます楽しそうに笑った。「メガネウラの目ぇ潰したんだって? いや〜、ひっどいよねぇ。味方でしょぉ? 一応さぁ?」その言葉が胸に刺さり、迅牙の表情がほんのわずか沈む。それを見た途端、ヘリコプリオンの瞳が愉悦に濡れた。「それにさぁ──今のアンタ、もう自分じゃ戻れないんでしょ? 蟷螂に“食われた”んだってぇ?」呼吸が一瞬止まった。図星だったからではない。自分の“弱さ”と“恐怖”を、人前で指摘された悔しさが、心の奥で熱を帯びたからだ。そしてヘリコプリオンは一歩近づき、右腕の螺旋歯をわざと誇示するように掲げた。刃に沿った微細な血の残滓が、街灯に照らされ暗赤色に光る。「……それ、痛いっしょ?」その言葉にぞっとした。――さっきの激痛。――肩がぶつかっただけなのに、刺すような痛みが走った謎。迅牙はまるで自分の体が他人のもののようにぎこちない動きで、右腕の袖をめくった。皮膚には螺旋状の浅い切り傷が走り、その縁から黒い変色がじわりと広がっていた。血とは違う、細胞そのものが汚染されるような黒。ヘリコプリオン特有の“細胞侵食”。「お前……最初から狙って……!」怒気が混じった声。するとヘリコプリオンは楽しげに手を広げた。「うん、そだよ?」軽い口調なのに、目は完全に“獲物を見る捕食者”のそれだった。「アンタの細胞、ちょー欲しいんだよね。なんかさ、“上からのご指名”ってやつ?」上──古殻会か、それとも対生物融合者特化部隊か。もしくは別の第三勢力か。迅牙の思考がその不穏な選択肢を並べた瞬間、ヘリコプリオンは口元を歪め、刃を掲げ直した。その動きには遊び心すら感じられるのに、刃先には確実な殺意が宿っている。「だから、さ。今からちょっと“試し切り”しよっか、迅牙くん?」螺旋歯が光を受け、鈍く血を思わせる反射を返した瞬間、迅牙の背中を冷たい悪寒が走った。必殺の気配。ヘリコプリオンが“本気で殺しに来る”と、直感が警鐘を叩いた。
ヘリコプリオンが再び突っ込んでくる。先ほどとは比べ物にならない速度。完全に殺意に振り切った動き。夜風が裂け、ビルの間の細い路地がその巨躯の突進で震えるほどだった。迅牙は左腕から溢れ続ける血のせいで視界の端がじわりと赤く染まり、呼吸が浅くなっていく。右手に残っているのは折れた鉈の“柄”。武器とは呼べない木片。それでも手放すことだけはできなかった。反撃の手段がほぼゼロだからこそ、指先が縋るようにそれにしがみつく。避ける動作がほんの一瞬遅れた――その刹那。
ギィンッ!!
火花が爆ぜた。
ヘリコプリオンの螺旋歯が空気を切り裂き、迅牙の胴体を真っ二つにするはずだった斬撃が、紙一重で軌道を外れる。だが、それは迅牙が回避したからではなかった。
「……避けたと思った? 違うよ。」
ヘリコプリオンは肩をすくめ、悪趣味な笑みを浮かべる。
「君の動きに合わせて“軌道を調整してあげた”だけ。」
人間の話し方で、けれどその口内では螺旋状に並んだサメの歯がウイーンと湿った回転音を立てていた。嘲笑と捕食欲が混じる声色。片腕の丸鋸を止めたかと思えば、もう片方の腕が再び高速回転し始める。その速度はさっきよりもさらに速く、空気の密度を変えていくような唸りをあげ、夜の路地に鋭い振動を走らせた。
“次は本気で斬り落とす。”
その意思が伝わるだけで、背筋の奥が凍るようだった。
迅牙は後退しようとした。だが、貧血による足のもつれが致命的な隙を生む。その一瞬の揺らぎを、ヘリコプリオンが逃すはずもなかった。
「動きが鈍いね。血、出しすぎなんじゃない?」
軽く言い放ちながら、螺旋歯のついた腕を横薙ぎに振る。
その瞬間――風を切る鋭い音。
次いで、皮膚が巻き上がるように裂かれる感触。
「――ッ!!」
迅牙の右脇腹が浅く斬れただけで、筋肉と皮膚が削り取られ、血飛沫が細い路地に赤い弧を描いた。痛みよりも、身体の奥に広がる“崩れ落ちる感覚”のほうが怖かった。体温が急速に下がっていく。
「いいねぇ、その顔。」
ヘリコプリオンは楽しげに追い詰める。
歩幅は大きくない。わざと遅い。
迅牙が逃げるスペースを奪いながら、徹底的に追い込んでいく。
「君の細胞、ほんと欲しいんだよね。蟷螂の君……あれ、最高だったよ。」
目が細まり、口内の螺旋歯がゆっくり回る。
「取り込めば、僕はもっと強くなれる。今の段階でも十分だけど――完璧ってやっぱ欲しいじゃん?」
ジワリと距離を詰められるたび、迅牙の心臓は早鐘を打つ。左腕はほぼ感覚がない。右手は震え、握る柄が汗で滑りそうになる。呼吸が乱れ、視界の左右が暗く落ちていく。
そんな中、ヘリコプリオンは心底楽しそうに囁いた。
「でもさ。君が“蟷螂に変身したくない”の、知ってるんだよ。」
声が湿り、舐めるような悪意が混じる。
「だけど今の君じゃ、僕に勝てない。だから――」
螺旋歯が、嬉しそうにキュルルと加速した。
「取り込んだあと、ゆっくり進化させてもらうよ? 僕のなかで。」
その言葉は、寒気では済まない“死の宣告”だった。
ヘリコプリオンが両腕を大きく広げる。
両腕の螺旋歯が全力で回転し、夜に二本の銀色の渦となって爆ぜる。
そのまま――真正面から迅牙へ突き立てられた。
風圧が肌を切り裂き、地面の砂埃が吹き飛ぶ。
逃げ場などない。
ほんの一秒後、胴体ごと削り取られる未来しか見えなかった。
そして、その瞬間。
迅牙の背筋に、蟷螂の“本能の熱”が、ギリ、と静かに目を覚ますように走った。
ヘリコプリオンが地を抉る勢いで突っ込んでくる。さっきの牽制とは違う。殺意に濁った空気が、夜の路地に金属の冷たさを混ぜて震わせる。風圧だけで頬が切れそうなほどのスピードだった。迅牙は左腕から流れ続ける血で視界の端が赤く霞み、右手にあるのは折れた鉈の“柄”だけ。武器とは呼べない、ただの棒。しかしそれでも握り続けていないと、立っている実感すら失われそうだった。足がふらついた一瞬の後、全身が危険を叫ぶ。だが――ほんのわずか、体の反応が間に合わなかった。螺旋が迫る。死が迫る。ギィンッ!!火花が目の前で弾け、鉄を擦ったような奇妙な反響音が路地に響く。ヘリコプリオンの斬撃が寸前で逸れ、迅牙の腹を貫くはずだった軌道が斜めに流れた。だがそれは迅牙の回避ではない。ヘリコプリオンは回転する刃をピタリと止め、舌打ちを混ぜたような声で笑った。「……避けたと思った?違うよ。君の動きに合わせて“斬りやすい角度”にしてあげただけ。」そしてその目は、まるで壊れた玩具で遊ぶ子供のように輝いていた。次の瞬間、螺旋歯が再び高速で回り始める。回転数は先ほどより明らかに高い。空気そのものが削られ、耳鳴りのような悲鳴を上げて震えていた。迅牙は直感した。――次は、本当に腕か首を持っていかれる。後退しようとした瞬間、足がわずかにもつれる。疲労による反応の遅れ。ヘリコプリオンが最も嗤うポイントだった。「動きが鈍いね。血、出しすぎなんじゃない?」横薙ぎに振られた螺旋歯が、右脇腹を“かすめただけ”なのに、皮膚が巻き取られるように裂けた。赤い線が宙に弧を描き、遅れて焼けるような激痛が腹から全身へ駆け上がる。「ッ……くそ……!!」後退――そのわずか一歩を、ヘリコプリオンは当然のように食い下がる。逃げる間すら与えるつもりがない。完全に“獲物を追い詰めて楽しむ戦い方”だ。「君の細胞、欲しいんだよねぇ。特に――あの蟷螂。あれ、最高だったよ。あれを取り込めば、僕はもっと強くなれる。」ヘリコプリオンは舌なめずりをするように螺旋歯を回し、近づくごとに金属音が震える。迅牙は呼吸を整えようとするが、肺が痛い。左腕の感覚はほとんどなく、右腕も握力が抜けかけている。それでも倒れないのは、ただの本能だった。そんな迅牙の心の奥を覗き込むように、ヘリコプリオンは言った。「でもさ、君が“蟷螂に変身したくない”って知ってるんだよ。怖いんでしょ?自分が戻れなくなるの。」その言葉は、肉体の傷よりも深く刺さった。あの夜――意識が途切れ、気づいたら蟷螂の“本能”に呑まれていた恐怖。自分という存在が薄れ、どこまでが自分なのか分からなくなった感覚。ヘリコプリオンはそれを知っている。だからこそ、わざと抉る。残酷な笑みを浮かべ、手のひらを広げ――「だからさ。君はもう、僕に勝てないんだよ。人間のままじゃ。ゆっくり、じっくり“取り込んで”あげるからさぁ。」そして――両腕を大きく広げた。両方の螺旋歯が最大回転に入り、空気が震え、コンクリートが削られるほどの風圧が吹き荒れる。突き立てる構え。逃げ場のない角度。完全に“殺し切る”ための姿勢。迅牙の背筋を稲妻のような悪寒が走った。死に直結した一瞬――ヘリコプリオンが跳んだ。
ヘリコプリオンの螺旋丸鋸が視界を埋め尽くした瞬間、迅牙の体が勝手に跳ね上がった。逃げようとしたわけではない。守ろうとしたわけでもない。ただ、肉体そのものが“別の意思”に乗っ取られたように暴れ出した。骨が悲鳴をあげ、筋繊維が一気に膨張し、皮膚の色が緑色へと変わっていく。指先から始まった変化は一瞬で腕、胸、脚へ広がり、最後に顔の骨格を強引に捻じ曲げる。呼吸が荒れ、脳内に何かが流れ込んでくるような感覚――理性を押し流し、本能だけを残す冷たく濁った衝動。「……ッ!? ま、また――!」迅牙は叫んでいたが、もうその声も自分のものに聞こえなかった。意志とは関係なく“蟷螂化”が発動していた。視界が二重に揺れた後、世界は驚くほど鮮明に、色の粒子が一つひとつ浮き出るようにはっきりと輪郭を持つ。空気の密度、風の方向、相手の筋肉の収縮――すべてが見える。ヘリコプリオンが突き立てた螺旋刃の回転軌道すら、ゆっくりと流れる映像のようだった。蟷螂の姿となった迅牙は、本能に従って鎌を振り上げる。狙いはヘリコプリオンの右腕。一本そのまま叩き落とし、動きを封じるつもりだった。しかし――ガギィンッ!!金属と骨が噛み合うような衝撃音が響き、ヘリコプリオンは丸鋸の角度を変え、鎌をぴたりと受け止めた。さらにそのまま刃の回転速度を上げ、鎌の表面をガリガリと削り始める。「ははっ……!蟷螂だって切れるんだよ……!」嘲りの声。螺旋煌く刃が蟷螂の鎌を食い込むように削り、金属のような硬質の皮膚が削がれ、深い溝が刻まれていく。火花と緑の破片が散った。しかし――次の瞬間、蟷螂の動きが豹変した。削られていた鎌が、ぐにゃりと“柔らかく”変形し始めた。刃だった部分が融けるように伸び、形を崩し、人間の腕に近い形状へと再構築されていく。まるで鎌そのものが意志を持ち、状況に合わせて形を変えているかのようだった。その腕が横から鋭く滑り込み――ヘリコプリオンの右腕を掴んだ。掴んだ“瞬間”、骨の軋む音すら許さない速度で――バキィッ!!!!骨が砕け、肉が裂け、関節という関節が逆方向に折れ曲がる残酷な音が狭い路地に響き渡った。「ぎゃああああああーーっ!!!」ヘリコプリオンは甲高い悲鳴を上げ、体をよじらせて後退する。しかし蟷螂はまるで影のようにその後ろへ回り込み、逃げ場を奪うように背中へ張り付いた。ヘリコプリオンが振り向くより早く――ドンッ!!拳が背中を突き破った。胸元から赤黒い血が噴き出し、地面に散らばる。「っ……あ……が……!」声にならない声。喉から漏れるのは空気と血の混じった泡の音だけがなっていた。それでも蟷螂は動きを止めない。背中へ突き立てた腕をゆっくりと引き抜くと、返り血が弧を描いて宙を舞った。濡れた赤が複眼へこびりつき、光を乱反射させる。ヘリコプリオンはよろめきながら逃げようとするが、その瞬間、蟷螂の手が首を鷲掴みにした。掴まれた瞬間、ヘリコプリオンの全身が震える。逃げようと腕を動かすが、折れた腕はぶら下がるだけで役に立たない。そして――ガブッ!!!!蟷螂の鋭い顎がヘリコプリオンの首へ深く噛み付いた。皮膚が裂け、筋肉が噛み潰される感覚が伝わる。顎の力はさらに強まり首が引き千切られた。血飛沫が雨のように空中へ散り、蟷螂の全身を真紅に染めた。ヘリコプリオンの首のない胴体が膝から崩れ落ち、地面に重い音を立てて倒れる。首は蟷螂の手の中にある。蟷螂はその首を握り締めたまま、荒い呼吸を繰り返す。複眼がギラギラと赤く光り、理性の欠片もない“捕食者”の光を宿していた。
ヘリコプリオンの首が地面へ転がり落ちたその直後、蟷螂の姿がゆっくりと崩れ、人間の形へ戻っていく。骨が収まり、筋肉が縮み、皮膚が正常な色へと戻っていくのと同時に――迅牙の目から完全に光が消えた。視線は一点を彷徨うだけで、焦点がどこにも合っていない。まるで魂だけが抜け落ちた“空の器”。生物特有の“生きている”気配は、その眼には一切なかった。
迅牙はふらりと体を揺らしながら歩き出した。倒れたヘリコプリオンを見ようともしない。血の海を踏みしめても、靴裏に生臭い感触が残っても、何ひとつ反応を示さない。ただ、どこかに組み込まれた命令に従うように、家へ帰るという動作だけが体を動かしていた。まるで人間が持つ意志ではなく、昆虫が巣へ戻る“帰巣本能”のようだった。
玄関の扉を開ける音も、靴を脱ぐ音も、すべてが遠い世界の出来事のように聞こえた。水の中から地上の音を聴いているみたいにぼんやりしていて、現実感が溶けていく。意識が自分の体にしっかり入っていない。心がどこかへ置き去りになっている感覚。
リビングへ進んだ迅牙は、息を一つ吐き、ゆっくりと右腕を持ち上げた。腕は震え、皮膚が盛り上がり、血管が蛇のように浮き出る。肉が膨張し、骨が伸びる。皮膚が裂けることもなく強引に形を変え、右腕は鋭利で大きな“蟷螂の鎌”へと変質した。その表面にはまだ、ヘリコプリオンの返り血が乾ききらずに黒く点々とついている。
迅牙は震える手で、その鎌の刃を自分の首へ当てた。ひんやりした金属に似た冷たさが喉元に触れ、肌が粟立つ。ほんの少し力を込めるだけで切れる。命を断つ行為としてはあまりにも簡単に思えた。
そのまま、ゆっくりと刃を押し込む。
しかし、“刺さらなかった”。
刃が皮膚のすぐ上で停止し、そこから一切前に進まない。肌に触れているはずなのに、まるで透明な壁があるかのように動かない。
「……動けよ……刺さってくれよ……ッ!」
歯を食いしばり、腕にさらに力を込める。筋肉が盛り上がって震え、胸の奥で心臓が破裂しそうなほど鼓動し、喉から絞り出すようなうめき声が漏れる。それでも刃はただの一ミリも進まなかった。
必死に力を込めれば込めるほど、刃の動きはむしろ後退していく。
その瞬間、迅牙の中で“何か”が閃いた。
(……止めてる……俺じゃない……中の蟷螂が……俺を殺させないようにしてる……)
理解してしまった。背筋が凍るような恐怖が湧き上がる。自分の腕でありながら、自分の意思で動かせていない。異形の何かが、自分の中に根を張り、勝手に生き残りを優先している。
鎌となった右腕がぶるぶると震え始め、次の瞬間――
右腕はバチンッと音を立てるようにして強制的に人間の形へと戻された。皮膚が戻り、肉が収まり、骨の形が元に戻る。ゆっくり戻るのではない。まるで“跳ね返った”ように、強引に戻された。
迅牙は呆然と右手を見つめた。
恐怖と絶望が胸の奥からせり上がり、喉が詰まって何も飲み込めない。
そして――
内側で押し殺していた何かが、ついに決壊した。
「うあああああああああああああああっ!!!!!!」
絶叫がリビングに響き渡る。
怒りでも悲しみでもない。どこへぶつければいいのか分からない狂気の叫びだった。
迅牙は机へ両手を叩きつけ、机の上にあった書類、コップ、食器、雑誌、ボールペン――すべてが宙を舞って床へ散乱した。紙は空中で舞い、コップが割れ、破片が床に散らばる。
「はぁっ……はぁっ……クソッ……!」
ソファを蹴り飛ばすと、ソファは横に弾き飛び、壁にめり込みながら崩れ落ちた。その拍子に隣のハンガーラックも倒れ、衣類が一気に雪崩のように落ちてきて散らばる。服の海の上を踏みつけながら後退した迅牙は、滑って尻もちをつく。
ドサッ。
背中へ走る鈍い痛みで、ほんのわずかだけ理性が戻る。
天井を見上げたまま、肩で息をしながら空気を吸う。肺が焼けるほど苦しく、それでも必死に呼吸を繰り返す。震える手が胸の上で勝手に痙攣し、呼吸と涙が混じった荒い音が漏れ続けた。
「……はぁ……っ……はぁ……ちくしょう……」
呟きながらゆっくりと体を起こし、壁にもたれかかりながら座り込む。両膝を抱え、額を押しつけるようにして小さく丸まり、震えが止まらなかった。
しばらくの沈黙のあと――
かすれた声が、喉の奥から絞り出される。
「……俺……どうしたら……いいんだよ……」
その言葉は誰に向けたものでもなく、ただ暗い部屋の空気へ溶けていった。
泣き崩れた迅牙の視界は涙で滲んでいた。床に落ちる滴の音さえ、まるで世界中の雑音がすべて止まり、その一点だけが拡大されたようにやけに大きく響く。「……もう……嫌だ……」声に力はなく、壊れた機械のように弱々しく空気へ溶けた。その時――足音がした。家の中で聞くはずのない、生き物の確かな気配。迅牙の肩が跳ね、涙で濡れた顔をゆっくりと上げる。リビングの中央に“見知らない男”が立っていた。長身で細身。人間のはずなのに、人間であると認識しづらい無機質な存在感。光のない部屋の中でも彼の目だけは妙に澄み、透明で、底が見えない。「……誰だ、お前……」震えた声が唇から漏れた。男は淡く笑う。怒っているのか喜んでいるのか判別できない、形だけの表情。「俺だよ。“蟷螂”だ。」息が止まる。血が逆流するような冷たい衝撃が背骨を走る。頭の奥に巣食い続けていた“それ”が、形を持って目の前に立っている。迅牙は崩れ落ちそうになりながらも、必死に立ち上がった。「ふざけんな……!」テーブルに散らばった破片を踏みしめ、男の胸倉を掴んで壁に叩きつける。「なんでだ……!なんで俺に……あんな殺させ方をさせるんだよ……!答えろよ……!」声は怒鳴り声なのに震え続け、涙の名残と呼吸の乱れが混じりあい、うまく息が吸えない。だが男は怯えない。むしろ、楽しんでいるように見えた。「は?人間だった頃から同じ仲間を殺してたやつに言われたくねぇな」軽く、乾いた笑い声。まるで事実をただ並べているだけの、罪悪感の欠片もない声。迅牙の手から力が抜け、胸倉を掴んだまま顔を伏せる。「……やめろ……そういうこと言うの……やめろ……」懇願に近い声だった。しかし男は追撃の手を止めない。「事実だろ?あのガキの頃から狩りみたいに――」その瞬間、迅牙の理性が切れた。首へと伸びた手は迷いも警戒もなく、純粋な拒絶と恐怖と怒りだけを原動力に動いていた。「黙れって言ってんだよ!!!」指が喉を掴み、骨の軋む音が響いた。迅牙の腕は震えながらも強く締め続け、蟷螂の男の足が床から浮く。しかし――男は苦しんでいなかった。むしろ、喉を締められながら嬉しそうに笑った。「ほらな。結局、お前は“俺”と同じだよ。暴れるのが本能で……壊すのが正義で……殺すのが生き方なんだよ」胸の奥を鋭い杭で貫かれたような痛みが走る。呼吸が乱れ、視界が揺れ、指先がさらに力を込める。蟷螂の男の顔が赤から紫へと変色していく。それでも笑みはまったく消えない。むしろ深く、楽しげになった。死ぬことすら望んでいるような、異質な表情。やがて、男は息の抜けるような声で囁いた。「もっと……締めろよ。殺してみろよ。どうせ――お前は“そういう人間”だろ?」その一言で、迅牙の表情が崩れた。痛みと怒りと恐怖と否定が全部混ざり、押し潰されるように歯を食いしばる。胸が苦しく、頭が割れそうだった。掴んだ首が震え、手の中の男の笑みだけが濁った空気の中で異様に鮮明だった。
部屋の空気は凍りついていた。時間すら止まってしまったかのように、音が何も存在しない。迅牙の指先は、まだ誰かの首を締め上げた“形”のまま硬直していた。爪の間に残る微かな感触だけが、つい数秒前の現実を否応なく思い出させる。蟷螂の男の身体は力を失い、壁に背を預けるようにゆっくりと滑り落ち、ずるずると床へ沈んでいった。その動きは死の重さを反映しているはずなのに、どこか軽く、現実味が欠けていた。そして崩れ落ちた顔には――最後の最後まで、薄い笑みが残っていた。その笑みが刺青のように視界へ焼きつき、迅牙の呼吸を奪う。彼は息を呑み、後ずさりし、壁にぶつかった。背中に冷たい衝撃が走っても震えは止まらなかった。心臓は乱暴な獣のように暴れ、胸腔を破って外へ逃げ出そうとしている。「――殺した。本当に、俺が……」呟いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられ、視界の端がぐにゃりと歪んだ。床が波打って見え、空気がまとわりつき、世界が明確に形を保てなくなっていく。「……なんなんだ……俺……」その言葉は自分に向けた問いであるはずなのに、返事を求める相手がどこにもいなかった。次の瞬間、混乱と恐怖と過呼吸が一斉に押し寄せ、堤防のように保っていた意識が一気に破られた。視界が暗闇に沈む。音が消える。世界が消える。――そして、迅牙は深い闇の中でそのまま眠りへ落ちた。
朝の光が、カーテンの隙間から淡く差し込んでいた。まぶたの裏に白い光が滲み、重たい頭痛と共に迅牙はゆっくりと目を開けた。しばらくは何も考えられなかった。体のどこにも現実感がなく、手足の重さだけが妙に生々しい。やがて、ゆっくりと身を起こし、前を見る。蟷螂の男の死体は――どこにもなかった。瞬間、胸の鼓動が跳ね上がる。寝起きの朦朧とした視界が一気に覚醒する。「……嘘だろ……」昨日確かに見た。確かに感触があった。確かに殺した。だが、床には死体の影も残されていない。ただ――昨日の暴走が残した痕跡だけが残っていた。踏み潰された家具。壁にめり込んだソファ。壊れた器や書類の散乱。そして、床に泥のように乱雑についた“迅牙自身の足跡”。それらすべてが、昨夜の惨状が現実だったと突きつけてくる。震える声が喉の奥からこぼれた。「……俺が……やった……のか……」否定しようとしても、証拠は部屋中に散らばっていた。夢と言い張る余地はどこにもない。指先が痙攣する。喉が乾いてひりつく。胃がぐるりとねじれるように痛む。現実だ。全部、現実だ。昨日、自分の中の蟷螂は人間の姿で現れ、言葉を発し、自分を挑発した。そして――自分はそれを殺した。しかもその事実を裏付ける物証はどこにも残っていない。残っているのは破壊の跡と、自分自身の記憶だけ。だが、それ以上に確かな証拠が一つあった。迅牙の手が震えている。その震えは、自分がしたことの重さを正確に語っていた。「……やめてくれ……」呟きは誰にも届くことなく、空気へ吸い込まれていった。部屋の荒れようは、そのまま迅牙の心の荒れようを映し出していた。逃げることも、忘れることも、否定することも許されない。昨夜、自分の中の“蟷螂”は確かに存在した。そして――その存在を殺したのも、間違いなく自分だった。
夜明け前の庁舎は、不自然なほど静かだった。広いロビーに漂う冷たい空気は、人の生気を拒むように澱んでおり、照明の白い光だけが淡々と壁と床を照らし、迅牙の影を濃く落としていた。街がまだ眠っているその時間、ここにいるのは本来なら勤務時間外の者たちだけだ。だが、受付も通さず、誰にも呼び止められることなく奥へ進む迅牙の姿に、警備員は目を逸らした。――この男にはもう、そういう扱いしかできないのだと理解しているかのように。迅牙自身も分かっていた。自分がここへ来る資格は、本来もうない。軍属としても、人としても。けれど、それでも足は止まらなかった。ここで終わらせるしか道がなかった。逃げても無意味だ。生きても地獄が延びるだけだ。終わらせる方法は――国家に処分される以外にない。上層部の執務室の前に立つと、指先がわずかに震えた。緊張ではない。恐怖でもない。ただ、自分という存在がまだ崩れずに形を保っていることへの驚きに近かった。ノックした音が異様なほど大きく響き、すぐに「入れ」という無機質な声が返ってきた。扉を開けると、スーツ姿の男たちが数名、資料を広げて議論していた。視線が迅牙に集まった瞬間、部屋の空気が張り詰める。敵を前にした時よりも冷たく、透明で、計算され尽くした緊張感。彼らは迅牙を“味方”とも“部下”とも見ていない。制御不能になりつつある危険物を見る目だ。最も年配の男――部隊指揮監が、静かに言った。「……来るとは思わなかったが、状況は把握している」迅牙は答えなかった。代わりに、ゆっくりと左胸の上へ手を置いた。そこには今も、“もう一つの自分”が蠢いている。押し殺しても、押し殺しても湧き上がってくる、獣よりも、化け物よりも醜い何か。「俺は……人間じゃなくなりつつあります」その告白は、あまりにも淡々としていた。過去形でも未来形でもなく、現在進行形の断言。「……知っている」指揮監の声もまた、変化がなかった。「制御も、もうできません。昨日……また一人、殺しました」その一言で、部屋のどこかで誰かが微かに息を呑んだ。だが迅牙はその反応を見ることすらしない。ただ、まるで窓の外の遠くを眺めているような、焦点の合わない目で続けた。「お願いします。俺の細胞を――古殻会討伐の資源に使えばいい。その代わり……殺してください」あまりにも静かで、澄んだ声だった。懇願ではない。命乞いではない。自分の死を“業務連絡”の一つとして提出するような、感情のぬけ落ちた響き。書類を閉じる音だけが、乾いたように部屋へ響く。沈黙の後、指揮監が低く問うた。「……自殺ではなく、処分を望む理由は?」迅牙は、短く呼吸を吐いた。「自分では死ねません。蟷螂が、中から止めるんです。昨日も……首に刃を当てても、最後の一押しができなかった」上層部の男たちは、表情一つ変えず迅牙を見つめていた。その目には情など一切なかった。ただ“兵器としての価値”だけを測る眼差し。それでも迅牙にとっては、それで十分だった。人として扱われる資格など、とうに捨てた。指揮監は椅子を押しのけ、まっすぐ迅牙の前へ歩み寄った。「……お前の細胞は、国の戦力を五年は底上げできる。その価値を捨てる判断は、軽くはできん」迅牙は即答した。「利用してください。それでいい」指揮監の目が細くなる。「……だが、お前自身は後悔しないか? 死ぬという選択を」そこで初めて、迅牙の頬がわずかに緩んだ。笑った。だが目はどこまでも虚ろで、光は一片もなかった。“笑い方を忘れた人間”が、無理に口の形だけを作ったような笑みだった。「とっくに後悔できる段階は過ぎました」その静けさは、逆に恐ろしいほどだった。上層部の一人が、慎重に言葉を選ぶような声で告げた。「……承諾する。細胞の回収方法と、その後の処置については後日通達する」迅牙は深く頭を下げた。まるで救われたかのように。「ありがとうございます。これで……誰も、殺さなくて済む」呟いた瞬間、肩から力が抜けた。長い間背負っていた重石が、ようやく地面へ落ちたようだった。彼は背を向け、静かに扉へ向かった。廊下に出ると、薄い灰色の朝日が庁舎の窓から差し込んでいた。けれどその光でさえ、迅牙の心を揺らすことはなかった。もう迷いも、恐れも、期待もない。あったのは――“死ねる”という安堵だけだった。ただその静かな結末だけが、彼の胸を満たしていた。
庁舎を出ると、朝の冷たい風が頬を撫でた。その感覚すら、どこか他人事のように遠く、肌に触れているのに自分の身体ではないもののようだった。帰り道の街は、いつも通りの生活音に満ちていた。パン屋のシャッターが上がる金属音、遠くを走るバスのエンジン、通勤前の誰かが交わす短い挨拶。誰も、自分の胸の奥で何が起きているのかなど知らない。知らなくていい。そう思うと、かすかに肩が軽くなった気がした。
マンションの扉を開けると、昨日荒れたままの部屋が迎えた。倒れたハンガーラック、ひっくり返ったテーブル、散らばるガラスの破片、壁に残った何かの痕跡。そこには昨夜の錯乱の爪痕が、まるで災害現場のような生々しさで残っていた。だがそのどれを見ても、心は微動だにしなかった。
「……片付ける必要、もうないよな」
言葉にしてみても、空気が返事をするわけではない。ただ乾いた反響が喉の奥に沈むだけだった。靴を脱ぐ気にもならず、そのまま部屋に入り、床に積もった服の山に腰を落とす。柔らかさはなく、ただ崩れかけた布の塊に身体の重さを預ける。
――細胞の提供と、その後の処分。
上層部の声が、冷たい金属のように頭の奥で蘇る。
「終わるんだ……ようやく」
そう呟いた瞬間、胸に張り付いていた何かが一気にほどけ、押し潰されるような熱が込み上げた。視界がぼやけ、気づけば頬を伝って涙が落ちていた。安堵だった。救いでも解放でもない。ただ、“終わる”という一点だけが、重荷そのものとなって涙を引き出していた。
顔を覆った腕が震え、洟をすする音が静まり返った部屋にやけに大きく響いた。みっともないと分かっているのに止められない。ただ音と震えだけが自分がまだ生きている証のようで、同時にその事実がひどく嫌悪感を伴って胸に残った。
「……なんだよ、これ……」
嗚咽ではない。ただ震えた呼吸だけが洩れ出ていた。やがて涙の勢いが弱まり、呼吸がゆっくりと整うと、その代わりに――底の見えない冷たい虚無だけが残った。
視界の端で“誰か”が立っているような気配がした。ほんの一瞬、気のせいと言い聞かせようとする前に、背筋が強張った。だが振り向いても誰もいない。ただ散乱した部屋が広がっているだけだった。
蟷螂の男の姿が脳裏を掠めた。首を絞めたときの手応えが、まるで昨日からそのまま染み付いているような感触で蘇る。
「お前……昨日、何で笑ってたんだよ」
囁くような声で問いかけても、返るのは沈黙だけ。その沈黙すら何かの意思を持っているように重たく感じる。
――あれは本当に“幻覚”だったのか。
(いや……違う。あいつは確かに俺の中にいた)
その確信だけが、心のどこか深い場所に爪を立てていた。上層部があのまま気づかず時間を引き延ばしていたら、蟷螂はまた勝手に姿を現し、何もかも壊していたかもしれない。その未来を想像すると、首筋に薄く冷たいものが走った。
ゆっくりと立ち上がり、割れた窓の外を見る。街の音は相変わらずで、世界は今日も、昨日と変わらぬ顔をして動き続けていた。
「……いいな。お前らは」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。ただ外の世界が自分から切り離された場所のように見えて、羨望とも憎しみともつかない感情が胸の底でゆっくりと渦を巻いた。
ベッドの端に腰を下ろした瞬間、強化変身の反動と夜の精神摩耗がじわりと一気に押し寄せた。身体が重く、意識の端がじんじんと痺れる。目を閉じると、闇の中で蟷螂の薄笑いが浮かび、その声が耳の奥で囁いた。
――人間だったころから同じ仲間を殺してたやつには言いたくないな。
「……黙れよ」
かすれた声で返すと、闇はただ深く沈んでいった。処分の日程は後日通知される。今日でも、明日でもない。その“猶予”という名の空白は、迅牙にとって救いとは程遠かった。ただ終わりを先延ばしにされた拷問のように思えた。
(せめて……あと一度でいい。普通の朝を迎えられたら)
そんな願いが浮かんだ瞬間、自分の口元が歪んだ。皮肉でも苦笑でもない、言いようのない笑み。
「無理だよな……俺に“普通”なんて、もう」
部屋の空気は冷たく、どこまでも静かで、何も答えなかった。迅牙はそのままゆっくりと身体を倒し、目を閉じた。深い眠りではなく、ただ意識が落ちるだけの、暗闇に沈むような眠りへ。
死までの時計が、静かに動き始めていた。
数日後。迅牙は、上層部から通知された無機質な建物へと向かっていた。金属と消毒液の匂いが入り混じったような空気が、最初の一歩を踏み入れた瞬間に鼻を刺した。胸の奥に残っていた涙の痕は、とうに乾いている。ただ、そこにあったはずの重さの代わりに、空洞だけがぽっかりと開いていた。受付らしき人物に名前を告げると、案内人は表情ひとつ変えず無言で奥の部屋へ誘導した。その歩調はまるで棺を運ぶ葬列のように規則的で、迅牙はその後ろ姿をただ追った。
案内された部屋は、手術室のように白く、整然としていた。蛍光灯の光が壁に反射し、どこか現実味のない平坦な空間を作り出している。そこで淡々と告げられた言葉は、まるで法律文書を読み上げるかのような無機質さを帯びていた。
「細胞は死後、遺体から回収する。痛みは伴わない。約束しよう」
迅牙は返事をしなかった。頷いたように見せかけただけで、実際には頷くほどの意志すら残っていなかった。感情の器に入っていたものはすべてこぼれ落ち、今はただ空っぽの殻だけが動いている。
そのまま、暗い部屋へと押し込まれた。扉が閉じる音は、牢獄という言葉を真っ先に連想させた。手錠がはめられ、両腕ごと壁に固定される。金属が肌を噛むような冷たさを伝えてくるが、それすらも身体の表面を滑るだけだった。感情は何も反応しない。氷のように固まったままだ。
カチリ。
扉の向こうで何かが噛み合うような音が響き、同時に天井の照明が一斉に点灯した。白い無影灯の光が影を許さず、部屋全体を均一に照らしつける。その光の中に浮かび上がったのは10人を優に超える、対生物融合者特化部隊。全員が完全武装で、整然と並び、無言で銃口を迅牙へ向けていた。彼らの姿は“処置”でも“任務”でもなかった。間違いなく、それは処刑。
しかし迅牙の顔は静止画のように動かない。心臓が動いていると実感できる唯一のものは、胸の奥のかすかな脈打ちだけだった。
(ああ……やっと、終わる)
その想いすら涙にはならない。泣き尽くして、涙が出る器官自体が干からびてしまったかのようだった。
「対象、固定済み。射撃準備」
隊員たちの指が引き金へとかかる。まるで時間が伸びきったように、カチリという微細な音が空気を震わせる。その瞬間――
迅牙の喉から、押し殺したような苦悶の声が漏れた。
「っ……あ……!」
身体が勝手に震え、胸の奥から焼けつくような熱が噴き上がる。体温が急激に上昇するような、内臓が煮え立つような、理性の表面を何かが押し破ってくるような感覚。
(……来るな。やめろ……!)
心の叫びは虚しく空気に消えた。脳内の奥底から“何か”がせり上がり、視界が白く跳ねた瞬間。迅牙の姿が、壁ごと消えた。
「――っ!? 消えた!?」「右だ!!」
怒号が走り、隊列が一斉に右へと銃口を向けた。金属が擦れる音、ブーツが床を踏みしめる音が一瞬にして混ざり合う。
そこに立っていたのは蟷螂だった。
あの薄笑いを浮かべた化物が、まるで迅牙の影を踏み潰すように視界に現れていた。背筋が反るような異形の姿。肉体の輪郭は細いのに、存在そのものが空間を侵食するような圧迫感を持っていた。
「目標確認、射撃!!」
怒号とともに銃が火を噴き、弾丸の雨が蟷螂へと向かう。弾丸が肩を吹き飛ばすように抉った。普通なら悲鳴を上げるだろう。しかし蟷螂は笑った。
その笑みは、“理解している者の笑み”。
自分たちが今まさに“勝てない相手”へ銃口を向けているという事実を、最初から分かっていた者の表情だった。
そして。
黒い甲殻が全身を疾走するように走り、四肢は伸び、骨が軋みを上げながら形を変える。蟷螂は強化変身し、その瞬間。部屋の空気が変わった。
頭頂からかかとの前方へと重心線が一直線に結ばれる。膝は一寸だけ沈み、骨盤は前傾し、肩の力が抜ける。
それは、呼吸すら殺すために作られた完璧な“殺しの型”。
部隊員の誰もが息を呑んだ。
(……見えた。来る――)
そう思った一瞬後。蟷螂の姿が、視界から消えた。
「っ……後ろだ!!」
扉の方から、金属を蹴り飛ばすような音が響いた。隊員が振り返ろうとした瞬間――
空気が裂けた。
次の瞬間。
ほんのひと息の間に。
部屋の中の全隊員が、全方向に散る肉片へと変わった。
骨が砕ける乾いた音。臓器が床へ落ちる湿った音。血液が壁に叩きつけられる音。
白く無機質だった部屋は、一瞬にして真っ赤な地獄へと変貌した。
その中心に、蟷螂は静かに立っていた。血に濡れた甲殻の上に照明が反射し、獣とも人ともつかない瞳が淡々と瞬いた。
まるで――
「ここが本来の色だ」とでも言わんばかりに。
血潮が床を満たし、臓腑の匂いがまだ湿った空気に漂う処刑室を後にし、蟷螂は静かに歩き出した。甲殻に付いた返り血が滴り、規則正しく床へ赤い点を落とす。歩いているだけなのに、その姿には逃れられない死の気配がまとわりついていた。足音はほとんどない。影が勝手に移動しているかのような、存在の薄さだった。廊下の蛍光灯がカツ、カツとわずかに揺れ、そのたびに蟷螂の黒い輪郭が細かく震えた光の粒のように輪郭をぼかして見せた。角を曲がる瞬間、焦りに満ちた靴音が近づき、若い警備員が飛び出してきた。「た、対融合者が――っ!」声が裏返り、動揺した手が腰の通信機へと急いで伸びる。しかし指先が機器に触れるよりも早く、廊下の空気がビキリと裂ける音を立てた。蟷螂の腕が最小限の動きで揺れただけで、警備員の喉元が紙を裂かれるようにぱっくりと開く。何が起きたのか理解が追いつく前に、赤黒い血が勢いよく噴き出し、一直線に白い壁を染め上げた。壁に叩きつけられた血は滑り落ち、筋となりながらゆっくりと床へ垂れ落ちていく。「あ、あ……あ……っ」警備員は落ちていく膝を支えられず、崩れ落ちた。喉を押さえる手の中で、どくどくと命が指の隙間から流れ出していく。呼吸しようとして喉から漏れる音は、水中でもがきながら肺を求めるような不規則な濁音だった。口がぱくぱくと開閉し、眼球は恐怖と混乱で震え、光がどんどん弱まっていく。背中を痙攣が駆け上がり、脚が跳ねるように床を叩くたび、血が飛沫となって散った。だが蟷螂は振り返りもしない。興味そのものが存在しないように、何もなかったかのような足取りで出口へ向かった。自動ドアがスッと開き、夜風が室内の鉄臭い空気をわずかに揺らす。街の喧騒の遠いざわめきが聞こえる中、蟷螂はそのまま影へ溶けるように走り出した。直線に伸びる道路を、重さのない亡霊のように。やがて迅牙のマンションに到着すると、全身を覆っていた黒い甲殻が波打つように形を崩し、肉と骨の形がゆっくりと再構築されていく。皮膚が戻り、血の匂いが薄れ、最後に呼吸の音だけが残り――迅牙の姿がそこに立っていた。玄関のドアを開けると、室内は真っ暗だった。唯一の光源は、テレビの画面から漏れる、青白く不安定な光だけ。部屋を照らすその光は、まるで冷気そのもののように、迅牙の表情からすべての温度を奪い去っていた。テレビはつけっぱなしになっており、偶然流れていたのはベートーヴェン《交響曲第9番》第四楽章――歓喜の歌。だが「歓喜」という言葉とは裏腹に、今の部屋に響くそれは異様なほど皮肉めいていた。合唱の荘厳さが、むしろ静かな絶望を際立たせるように低く重く響き渡る。スピーカーから流れるコントラバスの振動が床を伝い、迅牙の胸にじわりと沈殿する。音楽が最高潮に向かうと、逆に迅牙の呼吸は浅く、乱れた。胸が締め付けられ、皮膚の下で何かがうごめく感覚が走る。「っ……う……」声にならない呻きが漏れる。額に汗が滲み、視界の端がわずかに揺れ始める。皮膚が波打つように収縮し、腕の中の筋肉が勝手に跳ねる。まるで体の奥から無理矢理引き裂かれようとしているような痛み。胸の奥が焦げつくように熱く、息を吐くたび喉の奥が焼ける。音楽が盛り上がれば盛り上がるほど、痛みは比例して増した。歓喜を叫ぶ合唱の大波が、迅牙にとっては拷問のように押し寄せてくる。「やめろ……頼む……」声は震え、言葉として崩れ落ちる。呼吸はひゅう、と空気が漏れるだけになり、胃の奥がねじれるように痛む。楽曲の華やかさと部屋の静けさ、そして迅牙の内側に渦巻く地獄が、同時に同じ空間に存在している。その落差が、さらに彼の苦しみを増幅させていた。
あとがき
第2章をここまで読んでくださり、ありがとうございます。
前章のあとがきでも触れましたが、本作は、文章の整理や表現の補助としてAIを一部利用しながら制作しています。ただし、物語の根幹となる設定や展開、感情の流れについては、あくまで私の手で考え、選び取ってきました。この章もまた、その試行錯誤の積み重ねの上に成り立っています。
第2章では、神倉迅牙の精神的な崩壊と、その奥底に潜む「蟷螂」という別の存在、そして古殻会という組織を中心に描きました。外的な暴力や異能の描写以上に、内側で静かに、しかし確実に壊れていく心の過程をどう表現するかが、この章の大きなテーマでした。迅牙が自分自身を見失っていく感覚、現実と異物が溶け合っていく不安定さは、意図的に読みづらさや違和感を残す形で構成しています。
本作の中でも、この第2章は特に感情表現に苦労した章です。怒りや恐怖、嫌悪といった強い感情だけでなく、それらが言葉になる前の曖昧で輪郭のない感覚をどう文章に落とし込むか。その過程では何度も書き直し、削り、あえて説明しない選択も重ねました。
改めて、ここまで読んでくださったことに感謝します。
第3章も、どうか最後まで見届けてください。




