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第1章 He couldn’t return to the life before

警告:この作品を読むにあたって

本作には、暴力的表現、死を伴う描写(一部の描写には、身体の損壊や流血を伴う強いゴア表現が含まれます。)、ならびに人間の価値観や存在意義を深く揺さぶる心理・哲学的描写が含まれています。

明確な答えや救済は提示されず、物語は読者の解釈に委ねられます。

読後に不安や違和感、強い思索を引き起こす可能性がありますので、精神的に不安定な状態の方や、重いテーマを避けたい方は閲覧をお控えください。

 朝の東京。

まだ街が完全に目を覚ます前の時間帯、薄曇りの空からこぼれる柔らかな光が、曇りガラス越しに小さなアパートのキッチンをほのかに照らしていた。

冷えた空気の中で、暖房も付けていない室内にはわずかな静けさが漂っている。外を走る始発電車の微かな振動だけが、この空間が現実の世界とつながっていることを示していた。

神倉迅牙は、トースターの前に立ち、ゆっくりとパンが焼けるのを待ちながら、コンロの上で温めていた鍋へと視線を落とした。

鍋のふたを開けると、玉ねぎ・にんじん・じゃがいも・ベーコンがやわらかく煮込まれており、立ちのぼる湯気とともにコンソメの香りが小さなキッチンに満ちていく。

焼きあがったパンを取り出し、バターを塗る。熱で溶けたバターがパンへと染み込み、ゆっくりと表面に黄金色の薄い幕が広がっていく。

滑らかに広がるその光沢を、迅牙はぼんやりと眺めていた。その視線には、料理を楽しむというより、日常という儚い幻を確かめるような静けさがあった。隣では、チーズをバーナーで軽く炙りながら、表面がふつふつと膨らみ、内側がとろりと溶け出す瞬間を待つ。

フライパンでは、ジュッという軽い音を立てて目玉焼きが仕上がりつつあった。白身の端は薄く焦げてカリカリとした食感を予感させ、黄身はまだ柔らかく、ナイフを入れればとろりと溢れるであろう半熟の色を保っている。こういった“何でもない調理の時間”に、迅牙は妙な落ち着きを覚えていた。戦場とは無縁の、普通の人間が送る普通の生活、その欠片のようなものに。

小皿にグレープフルーツを二つに切って盛りつけ、その酸味が朝の冷えた空気に細く混じっていく。切り口から漂う鋭い柑橘の香りは、わずかに眠気を刺激し、同時に胸の奥のどこかに沁み込むようでもあった。最後にコーヒーメーカーへ視線を向けると、黒い液体が一滴ずつ落ちていく。その滴が底に触れるたび、静かな部屋にカチリと微かな音が響き、時間の経過をゆっくりと刻んでいく。

食卓に料理を並べ、迅牙は深呼吸をひとつして椅子に座った。パンを一口かじる。サクッとした音がして、香ばしさが口いっぱいに広がる。しかしその味わいを堪能するような表情は見せなかった。「……今日も、普通の朝だな。」呟いた声はどこか乾いており、その“普通”が長く続かないことを、彼自身が誰よりも知っているようだった。

 食事を終え、迅牙は淡々と食卓を片付ける。食器が重なり合う小さな音が、外の街の目覚めに少しずつ同調していく。皿を拭き終えると、彼は壁際の棚を開けた。

中には銃器の整備道具、替えの弾薬、そして整然と並べられた複数の仮面——無機質で冷たく、どれも人間らしさを拒むかのような造形が並んでいる。その中からひとつ、白地に深紅の模様が走る般若面をゆっくりと取り出した。怒りと悲哀が入り混じったような歪んだ表情は、見る者に強烈な印象を与え、同時に心を遠ざける力も持っていた。

迅牙は指先で仮面の曲面をなぞる。冷たい感触が指先に伝わり、それが妙に心地よくさえ感じられた。「……こいつを被ると、誰も“俺”を見ようとしない。」その声には皮肉が滲むと同時に、わずかな安堵の影もあった。その仮面は迅牙という人間を覆い隠し、“任務”だけを見せる道具だった。

仮面をかぶると、視界の端がわずかに狭まり、息遣いが自分の内側へ籠もる。わずかな圧迫感が、迅牙の意識を戦闘へと切り替えるスイッチでもあった。

次の瞬間、神倉迅牙(かみくら じんが)は“人間”ではなく、“任務のための存在”へと変わる。

彼は国直属の特殊機関に属する、生物融合者狩り——通称バイオ・ハンター。政府による厳重な管理下で活動し、人智を超えた存在を「処理」するためだけに存在する者たち。

その中でも迅牙は突出した実績を持ち、生物融合者たちからは恐怖と憎悪を込めて「般若」と呼ばれていた。

玄関を静かに開け、迅牙は外へと出る。曇り空の下、まだ醒めきらない東京の空気が冷たく肌に触れる。

背後の部屋には、朝の光に照らされながら、温もりの消えかけたコーヒーの香りだけが微かに残っていた。迅牙の日常を示す唯一の痕跡として、ひっそりと空気に溶けていく残り香だった。

 午前十一時。

東京の下町は、雨上がりの匂いを濃く残していた。

狭い道路にはまだ小さな水たまりが点在し、弱い陽光が反射して鈍く光っている。通勤ラッシュもとっくに過ぎ、観光客もまだ歩かない、中途半端に静かな時間帯。だが、その静けさはどこか張りつめており、湿気を含んだ空気が肌にぴたりとまとわりつくようだった。

迅牙は水滴を避けることもなく、仮面の下の目で周囲を鋭く観察しながら細い路地を進む。般若の面越しに排除された表情は、もはや“感情”と呼べるものを持っていなかった。

視界が少し暗く狭まるほどに、自分の人間性が薄れていくのを、彼は逆に安堵のような感覚で受け入れていた。人間であることは、任務の中では重荷でしかないからだ。

通信機から、ノイズ混じりの低い声が響く。

「ターゲット確認。アンモナイト、生体反応は路地裏の廃工場付近。排除を優先。」

「了解。」

短い返事。

だがその一言にはためらいや迷いは一切なかった。

迅牙は廃工場へ続く路地へ入り込み、影の切れ目に身を潜める。何十回、何百回と繰り返した動き。

呼吸を浅く抑え、心拍すら聞こえないほど静かに落とす。

雨音の名残がまだ天井から滴り落ちる廃工場。

そのわずかな水音に交じり、異質でぬるりとした音が聞こえた。

迅牙は目だけを動かし、暗がりを凝視する。

そこに揺らめく影は、人の姿を残していなかった。

半透明の外殻が淡く光を弾き、背にはアンモナイトの殻のような螺旋が重くのしかかっている。

腕はすでに腕としての形を捨て、触手のようにしなやかに、しかし不気味にうねっていた。

呼吸なのか脈動なのか判別できない動きが体表を走り、全体が生命と異物の境界を揺らしている。

生物融合者——アンモナイト。

迅牙は一歩、まったく音を立てずに踏み込む。

そして次の瞬間、地面を蹴って一気に距離を詰めた。

仮面の奥の目が鋭い光を宿し、ターゲットの背後を取る。

「逃げるな。」

その声は、冷たく、無慈悲で、同時に慣れすぎていた。生物融合者の触手が反応するより早く、迅牙は蹴りを繰り出し、アンモナイトを壁に叩きつける。コンクリートが軋み、ひびが走る。獲物が震え、かすれた声で呻く。

「……終わりだ。」

淡々とした声で”処理”を告げたその瞬間

轟音。

空気を裂く爆風が、背後から迅牙を襲った。気配を察知する暇すらなく、全身が強烈な衝撃に持ち上げられる。

「――ッ!!」

視界が一瞬白く弾け、次の瞬間にはコンクリートの壁に叩きつけられていた。肺から空気が強制的に押し出され、身体中に痛みが走る。しかし、その痛みに反応するように、迅牙の皮膚が淡く光り始めた。

翡翠のような光が全身を駆け巡り、次第に硬質な外殻へと変わる。筋繊維が強化され、骨格がきしみながらも異形へと変化していく。

仮面が外れ、乾いた音を立てて地面に転がった。

彼の体を覆うのは——蟷螂の外骨格。

迅牙は息を荒げながらも低く身を沈め、刃のように鋭い鎌状の腕を構える。その動きは人間のそれを超え、空間を切り裂くような気配すらまとっていた。しかし、彼の視線の先に立っていたのは、さらに異形へと変貌した存在だった。

膜翼を大きく広げ、雨上がりの湿った風を巻き起こす翼竜型の生物融合者。皮膜が風に揺れ、そのたびに鋭利な骨格が浮かび上がる。

だが、その翼竜は一瞬だけ人間の姿へと戻った。

若い女性——瞳には恐怖と焦りが混じり、息は荒く乱れていた。

その視線は迅牙には向けられていない。

翼竜は倒れたアンモナイトへと手を伸ばす。

彼女はアンモナイトを抱え上げ、再び翼竜へと変化すると、強烈な突風を巻き起こしながら空へ舞い上がった。

濡れた地面の水たまりがその風圧で波紋を広げ、周囲のゴミ袋が吹き飛ばされる。

迅牙は追おうと一歩踏み出す。しかし、足はすぐに止まった。

彼の全身を覆う翡翠色の外殻——蟷螂の異形。それを誰かに見られれば、全てが終わる。特殊機関の立場も、迅牙という存在そのものも。世間はバイオ・ハンターを求める。しかし、生物融合者の力を持つ“バイオ・ハンター”を許容はしない。

飛び去る翼竜の影はあっという間に雲の隙間へ消えていった。残ったのは、湿った路地裏に漂う翅の破片と、鉄のような血の匂いだけだった。

迅牙は深く息を吐き、地面に落ちていた“般若の仮面”へ視線を落とす。冷たい土と雨にまみれたその面を拾い上げ、しばらくその歪んだ表情を見つめていた。

「……蟷螂の存在、世間に知られたら終わりだ。」

自分に言い聞かせるように呟く。

それからゆっくりと仮面を握りしめ、雨上がりの薄暗い路地裏を静かに去った。

 夜。東京の空は薄く雲が流れ、街の光を受けて鈍く輝いていた。

風が吹けば、足元のフェンスがかすかに震え、冷たい金属音が夜気に紛れて消えた。

迅牙は目前に広がるネオンの海を一瞥すると、ゆっくりとイヤーデバイスを耳に当てた。ノイズ混じりの電子音が脳を震わせ、やがて聞き慣れた男の声が接続を告げた。

「任務完了報告を。」

簡潔で無駄のない、組織の人間らしい冷静な声。それを聞くだけで、迅牙の背筋は自然と緊張し、思考が“報告する男”へと切り替わる。

一拍置き、彼は低く呟くように答えた。「……アンモナイトの排除、失敗です。」

「……失敗?」

普段一定のトーンを保つ声が、わずかに上ずった。その些細な変化を迅牙は敏感に察したが、解釈は挟まない。ただ淡々と事実を述べる。

「標的を追い詰めたが、もう翼竜の生物融合者が介入。人間状態では若い女性。アンモナイトを抱えて空へ逃走。」

無線の向こうで紙を繰る音がした。誰かが状況を整理し、同時に迅牙の言葉の真偽を測っている。

「翼竜か。」

短い沈黙。男の思考が回転しているのが声色のわずかな揺れから伝わってくる。

「目撃情報は?」

「なし。市街地での戦闘だったが、監視カメラは全てノイズで潰されていた。恐らく、相手にも経験がある。」

迅牙は自分の推測を最低限だけ述べる。余計な感情を挟む必要はない。

再び沈黙。それから、先ほどより柔らかく、しかし慎重な声音で男が告げた。

「神倉迅牙。君の報告に虚偽はないと判断する。以前から言っているが、我々は君を信頼している。」

迅牙は小さく息を吐いた。夜風が般若の仮面をなで、街の光がその表面に柔らかく反射する。

信頼——

その言葉が、自分のどこに触れたのか分からない。ただ胸の奥に針のような痛みが浮かぶ。

それが罪悪感なのか、安堵なのか、あるいは別の何かなのか、迅牙自身にも判断できなかった。

「……罰は?」

問いというより確認だ。

失敗には当然代償がある。組織の“常識”がそう告げている。

「ない。損失は想定内だ。」

あまりに即答だったため、迅牙は目を細めた。しかし男は続ける。

「ただし——」

声が低く沈み、先ほどまでの柔らかさは影も形も消えた。

「次に接触したら、必ず仕留めろ。翼竜の背後に群れが存在する可能性がある。その情報が確定した時点で、再び君を現場へ向かわせる。」

命令というより、重い“判断”の音だった。

迅牙は短く頷く。「了解。」

「それと……」

通信の向こうで、男はわずかに言葉を選ぶように沈黙した。そのためらいが逆に不吉な予兆に聞こえる。

「最近、現場で“仮面を外した状態”の報告が上がっている。確認だが……何か異常はないか?」

迅牙はそっと視線を夜空へ向けた。東京の明かりに押され、星はほとんど見えない。それでも黒い雲の隙間に、ぽつりと一つだけ小さな光が浮かんでいた。

異常——

自分の身体が異形へ傾いている感覚。あの日、意図せず“蟷螂”を解き放った瞬間の恐怖。

それでも、迅牙は迷いを押し殺すように答えた。

「異常は……ありません。」

「そうか。ならいい。お前が仮面を外すのは、よほどのことがあった時だけだからな。」

皮肉にも聞こえるが、そこに責める色はなかった。

そして通信が切れる直前、男は静かに、しかし確信めいた声で言った。

「君という存在そのものが、我々の抑止力だ。頼むぞ、迅牙。」

ノイズが途切れ、静寂が再び屋上を満たした。

迅牙はイヤーデバイスを外し、ポケットにしまいこむ。

「……抑止力、ね。」

それが褒め言葉なのか。称号なのか。あるいはただの“兵器としての価値”なのか。考える気もない。

彼はゆっくりと般若の仮面を顔へかぶせた。その中の瞳が闇に溶ける瞬間、微かな光が揺らぎ、まるで人と異形の境界が曖昧になっていくかのようだった。

 夜の静寂が降りた東京の外れ、廃ビル群の一角。

吹き抜ける風がひび割れた窓ガラスを鳴らし、わずかな月光が薄暗い廊下に細い影を落としていた。

翼竜はぼろぼろの外套を脱ぎ捨てるように肩から滑らせ、血のにじむ額に触れながら荒く息を整えた。

無理に保ってきた警戒心がふっと緩むと、背中が自重で壁へ沈み込む。

冷たいコンクリートの感触が、逆に生きていることを確かめるかのように伝わってきた。「……助かった、のかしらね。」その声は震えというより、安堵と後悔の間にある複雑な色を帯びていた。

隣で小柄な少年――アンモナイトが腕を抱え込み、不安げに頷く。「うん……でも、あの人、目が――おかしかった。」翼竜は一瞬だけ表情を固める。あの仮面の奥。

次の瞬間に露わになった、鋭い触肢のように動く前肢。異様な光の反射。脳裏に焼き付いた“蟷螂の怪物”。

あれは正しく、生物融合者の動きそのものだった。「……人間じゃなかった。少なくとも、完全には。」答える声はかすかに掠れている。

ビルの外では風が看板を軋ませ、遠くを走る電車の低い音が夜に溶ける。生き物の気配はなく、それだけが彼女たちの孤独を際立たせていた。

「アンモナイト、休みなさい。少しでも体力を戻して。」少年はこくりと頷き、壊れた事務机のそばにしゃがみ込む。

翼竜は周囲を確認してから、外套の内側に隠していた古い通信装置を取り出した。スイッチを入れると雑音が走り、そのノイズの向こうからかすれた声が届く。『……こちら、集合地点は変更だ。例の蟷螂が動いた。』その言葉に翼竜の瞳がかすかに細くなる。「……了解。すぐに向かう。」短い返答と共に通信を切ると、彼女は疲労を押し殺して立ち上がった。

夜明け前。まだ青にも黒にも染まりきらない曖昧な時間帯。

多摩川沿いに続く古い地下水路へ降りると、濁った水音が絶え間なく壁に反響し、生温い湿気が肌を撫でた。

翼竜が歩みを進めると、既に数名の“影”が集まっていた。

そのなかで最も静かに立つ一人の青年。

整ったスーツを身にまとい、姿勢は無駄なく研ぎ澄まされ、瞳だけが湖底のように深く冷たい。

翼竜は膝をつき、深く頭を垂れた。「三葉虫様……蟷螂と遭遇しました。」その一言で場の空気がわずかに動いた。

暴君竜が眉をひそめ、低い唸りを喉に溜める。「“蟷螂”? まさか……まだ生きていたのか。」三葉虫は反応を示さず、翼竜だけを静かに見つめた。「詳細を。」促され、翼竜は淡々と報告を続けた。

迅牙という人間の姿をしていたこと。

仮面を外した一瞬で変貌し、あれほどの反応速度を見せたこと。生物融合者としての動きが完全だったこと。

そのすべてを聞き終えた三葉虫は一度だけ目を閉じ、静かに息を吐いた。「……やはり、あの個体は健在でしたか。」

暴君竜が苛立ったように足で床を踏み鳴らす。「何なんだよ、そいつ。人間なのか融合者なのか、どっちなんだ!」三葉虫はわずかに視線を上げた。「“どちらでもある”のです。」落ち着いた声だが、その奥に揺るぎない確信があった。刺竜も暴君竜も言葉を失う。翼竜は息を飲み、呆然と呟いた。「そんな……それじゃ蟷螂は……」三葉虫は一歩前へ出る。その足音は水路の壁に反射し、どこか儀式めいて響いた。「蟷螂は“最凶”にして“最強”の融合体。すべての系統の頂点に立つ存在です。」

沈黙。

重い水音だけが、まるでその重圧を代弁するかのように響いた。「ですが――」三葉虫はゆっくりと視線を仲間たちへ向ける。

「彼もまた、“進化”の途中。完全体ではありません。我々が次に進む道を選び取れば、蟷螂を超えることも可能です。」

刺竜が鼻で笑う。「超える? あんな化け物をか…」だが三葉虫は揺らがない。

「進化とは恐怖を超える意志のことです。」そのまま端末を起動し、薄暗い空間に淡い光を投影した。東京の地図。

そこに八つの赤い点が浮かび上がる。八系統。それぞれの始祖の位置。三葉虫は静かに宣言した。

「これが、我々八系統の座標。進化計画を再開します。」その名を聞いた瞬間、翼竜は血の気を失う。「まさか……封印されていた“計画”を……?」三葉虫は頷いた。「ええ。蟷螂が再び目覚めた今、時は来ました。」その言葉は恐ろしく静かで、しかし抗いようのない力を帯びていた。

「蟷螂を倒すためではありません。“我々の原種を取り戻す”ために――。」しばらくの沈黙のあと、暴君竜がゆっくりと頷き、他の者たちもそれに倣った。

湿った風が水路を横切り、どこからともなく滴り落ちる水が時を刻むように響く。

八つの影が、一つの目的を共有した瞬間だった。そして三葉虫の背後にあるモニターに、仮面をつけた迅牙の姿が映し出された。

夜の街を静かに歩くその影を見つめながら、三葉虫は誰に聞かせるでもなく呟く。

「次に会う時は……敵としてではなく、答えを求める者として。」暗い水路に、その言葉だけが静かに落ちた。

 夜の東京。

湿った風が吹き抜け、細い路地には街灯の光が届かず、深い影がゆらりと揺れていた。迅牙は仮面越しにその闇の奥を見据えながら、迷いなく走り抜けていた。今回の任務は“蠅”――市街地で人間を襲った生物融合者の捕捉と排除。

足音が硬いアスファルトに無機質に響き、湿った空気が肺に貼りつく。角を素早く曲がったその刹那、胸に鋭い衝撃が走り、迅牙の体がわずかに揺れた。「……ッ」反射的に姿勢を整えながら、ぶつかった相手へ視線を落とす。そこに立っていたのは、小柄な少年――怯えで肩を震わせ、必死に呼吸を整えようとする姿に既視感があった。

アンモナイト。つい数日前に相対した個体だ。

少年は迅牙の目を見た瞬間、その奥で何かを理解したように顔色を失い、唇を震わせた。「……今回は、見逃してくれ……」その声は命の重さをそのまま零したような、乾いた必死さを帯びていた。

迅牙は数秒、無言で少年を見つめた。仮面の下、視線が細く揺れる。「……行け。」短い一言に、少年は驚いたように目を見開き、すぐにその場を離れた。

迅牙は再び、蠅の飛び去った方向へ身体を向け、一気にその闇へ飛び込む。

周囲に残る羽音の痕跡、空気の揺らぎ、かすかに残る血の跡。

それらを追うように迅牙は疾走し、やがて路地の奥で蠅の影を捉えた。

薄い翅が光を反射しながら、腐臭をまき散らし、壁に張りついている。迅牙は鉈を握り直し、足元を滑らせないよう慎重に間合いを詰める。風が止み、世界が一瞬だけ静止したような感覚。

次の瞬間、迅牙は跳ぶ。鉈が月光を受けて銀に光り、蠅へ振り下ろされ――そこで、背後の気配が鋭く膨らんだ。

「……ん?」振り返った視界に映り込んだのは、急激に膨張する影。

刺竜だった。

粗い息を吐きながら、筋肉が盛り上がり、皮膚の下で骨格が音を立てて組み変わっていく。背中から生え出した鋭い棘が光を受け、路地に怪異な影を落とした。

「――来るぞ!」警告にも似た咆哮を上げ、刺竜は地面を抉る勢いで突進してきた。

迅牙は反射的に横へ飛び退き、壁を蹴って後方へ着地する。

空気が揺れ、路地全体が振動するような衝撃が走った。

蠅は壁を這いながら離れ、刺竜はその顎を鳴らして迅牙を睨みつける。「……どういうつもりだ。」迅牙は低く問いながら、鉈を構え直した。

蠅、刺竜――二つの脅威が同時に動いている理由が分からない。

不自然すぎる。

それはまるで、誰かに“集められている”ようでもあった。

冷たい風が路地を撫で、遠くの車の走行音がわずかに届く。

だが、この閉ざされた空間では、生物融合者たちの呼吸音だけが世界を支配していた。刺竜の咆哮が空気を裂く。

蠅の翅音が狂ったように響く。

迅牙は心の奥で冷静に分析しながらも、自分の中に潜む“蟷螂”がわずかに疼くのを感じていた。(……この場、戦うしかない。)鉈に力を込め、姿勢を低くし、次の瞬間には走り出す。

蠅が天井へ逃げ、刺竜が踏み込み、迅牙が影へと消える。

狭い路地が、一瞬にして戦場へと変貌した。

 路地裏に激しい衝撃音が轟いた。

変身を終えた刺竜が咆哮し、地面を砕く勢いで突進する。

受け止めた迅牙――蟷螂の腕を通じて、凶暴な力が骨の奥まで伝わり、足元のコンクリートが蜘蛛の巣状に割れた。

迅牙は後ろへ跳ねるように退き、わずかな距離を取ったが、刺竜の勢いは砂利ひとつ分も削がれない。

肩の棘が壁を抉り、金属音と火花が散った。

迅牙は眉間に皺を寄せ、低く吐き捨てる。

「……また新手か」

「お前が“蟷螂”だな。アンモナイトと翼竜を狙っていた」

迅牙は無機質な口調で返す。

「……それがどうした」

次の瞬間、蟷螂の鎌が光を引くように走り、刺竜の胴を浅く切り裂く。

金属質の皮膚が切断される甲高い音。

だが刺竜は痛みを意にも介さず唸り声を上げ、蹴りを振りぬいて迅牙の横腹を薙ぐ。

迅牙はとっさに腕で防ぎ、壁を蹴って空中で姿勢を変えながら距離を取った。

その瞬間、上空を黒い影が横切る。蠅の生物融合者だ。羽音を撒き散らしながらビルの壁を利用して屋上の方向へ逃げ上がる。

迅牙がそちらに視線を向けるが、追う余裕はない。

目の前の刺竜が再び突進の姿勢を取っていた。

「……邪魔だ。貴様もあいつらと同類か」

「仲間を傷つける奴を、放っておけるか」

言葉と同時に、二体の間で再び衝撃が弾けた。

蹴りと鎌、金属と石が激突し、夜気を震わせる。

コンクリート片が雨のように降り注ぎ、その奥で蠅の影は闇に溶けていった。

刺竜の尾が地面を深く裂き、蟷螂の鎌は電光のように弧を描いた。

互いの攻撃が限界の間合いで交差するたび、金属を叩きつけたような反響が路地裏にこだまする。どちらも一撃を許さない。

迅牙は呼吸すら乱さず呟く。

「……速いな」刺竜の喉がわずかに鳴った。

次の突進。

地面を蹴った刺竜の影が矢のように伸びる。

迅牙は壁を蹴って真上に逃れ、そのまま背後へ落ちるように回り込む。

しかし刺竜の背中の棘が爆ぜるように広がり、槍の群れのように四方へ飛び散る。

蟷螂の鎌が弾かれ、火花が二人の間で舞った。刺竜は荒い呼吸で睨みつける。

迅牙は無言で構えをわずかに崩し、素顔を晒したまま静かに視線を返す。「……なぜ狩る。お前も“融合者”のくせに」刺竜の問いは怒りというより、理解不能なものへの苛立ちに近かった。迅牙は淡々と告げる。

「関係ない。俺は任務を遂行するだけだ」踏み込もうとしたその瞬間、ビル上階からガラスが砕け落ちる乾いた音がした。

ふたりが同時に見上げると、蠅の融合者が羽音を撒き散らしながら夜明け前の薄明に向かって逃げていく。

迅牙は舌打ちし、刺竜へ視線を戻すが、その眼にはすでに別の焦燥が宿っていた。

彼は地を蹴り、蠅の逃げた方角へ跳び上がった。

「逃げるのか」

迅牙は振り返りもせず、「今は邪魔するな」とだけ言い捨て、闇の屋上へ消えた。路地裏に残された刺竜は低く唸り、拳を壁へ叩きつけた。

「……蟷螂、か。聞いてたよりずっと、危険な奴だな」夜風が戦闘の残滓を吹き散らす中、そこには破壊の跡だけが残った。

夜明け前の風が冷たく吹き抜けるビル屋上。

 人間状態の蠅は濡れた髪を掻き上げながら欠伸をし、小さなテントの前で空き缶を蹴った。

夜を越すために独りで張ったそれは、都市の上での彼の唯一の“巣”だった。「……あの蟷螂の野郎、しつこいったらねぇ。今頃、別の獲物でも追ってるさ」ぼそりと呟き、テントを畳み始めた。

朝の光がビルの稜線を金色に染め、街全体がゆっくりと目を覚ましていく。テントを背に括りつけ、ふと足元の通りを覗いた瞬間、蠅は息を呑んだ。

真下に、黒いコートの男が立っていた。

仮面をつけ、わずかな風も身じろぎひとつ許さぬほど静止している。

まるで蠅が見下ろすのを待っていたかのように。「……マジかよ。追ってきやがった……」蠅は後ずさるが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。

「なら、こっちから行ってやるよ……!」蠅が変身し背中の羽が展開し、カチリと外骨格が全身を覆う音が響く。

蠅は羽音と共に屋上から急降下した。

両手で握られている巨大な斧が太陽を反射し、落下の勢いを乗せて一直線に迅牙へと打ち下ろされる。

しかし――そこにいたはずの迅牙の姿が煙のように掻き消えた。「――ッ!?」斧が地面を叩く直前、鈍い金属音が響いた。

斧の刃が真っ二つに裂け、破片が地面を転げる。

蠅が驚愕の声を上げる暇もなく、背後で空気がざらりと震えた。

振り向くより早く、蟷螂の鎌が水平に走る。

視界が二つに割れ、世界がゆっくりと傾いた。

斧の破片とともに、蠅の身体が崩れ落ちていく。

朝日を背に立つのは、生物融合者・神倉迅牙。仮面の奥に宿った視線は、氷のように冷たいまま微動だにしなかった。

 薄暗い部屋に、古びた蛍光灯が低く唸るような音を立てていた。

時折、光が脈打つように瞬き、そのたびに壁に張り付いた配線と鉄骨の影が伸び縮みする。

迅牙は背筋を伸ばして椅子に座り、無言のまま前方のPCモニターを見つめていた。彼の顔は半分影に沈み、仮面を付けていない目だけが冷たく光っている。PCモニターの向こうには三人の上層部の影が映し出されているが、その姿はあえて鮮明に映さない仕様らしく、輪郭が霞んでいた。

声だけがはっきりと響き、空気を震わせる。

机の上には、血に染まった報告書。

乾ききっていない茶色い痕跡が、戦闘の激しさを物語っていた。

隣には金属ケース。

その中には蠅の融合体から回収した破損した外骨格の断片が封入されている。

淡く灰緑に光るその破片は、まだ微弱な振動を帯び、生体反応の残滓が感じられた。

重い沈黙の後、PCモニターの左端に映る影が口を開いた。

「……また“古代系”の可能性か?」

迅牙はまばたき一つせず、静かにうなずいた。

「はい。確認できた個体は三体──アンモナイト、翼竜、そして刺竜。いずれも通常の融合者より高い認知能力を持ち、互いに明確な連携を見せていました」

PCモニターが光を帯び、三人の写真が展開される。人間形態の彼らは年齢も性別も異なるが、全員の服の襟元には黒い円に八本の線が交差する奇妙な紋章が輝いていた。

まるで古代文明の意匠のようで、現代のどの組織とも一致しない。

迅牙はデバイスを操作し、紋章部分を拡大した。

「このバッジ。三体ともが同一のものを所持していました。行動範囲は都心近郊に限定されており、偶然とは考えにくい」

中央の影が低い声で唸った。

「……思想組織か、あるいは“群れ”ということだな」

迅牙は表情を変えず続ける。

「はい。少なくとも彼らは“仲間”の概念を共有しているようでした。それに……戦いの最中でも互いの位置を把握しているような動きがありました。視覚ではなく、別の情報伝達手段を持っている可能性があります」

右端の影が端末を操作し、別データを呼び出す。

「……生体電流かフェロモンか、それとも神経リンクか。何にせよ、我々の実験では成功したことがない種類だな」

迅牙はわずかに視線を落とし、低く言葉を続けた。

「さらに彼らの生体データを照合しましたが……既存の研究記録には存在しない融合反応が複数検出されました。外部で自然発生した個体と考えるのが妥当です」

空気が凍りつくような静寂が部屋を包んだ。

中央の初老の男が、腕を組み、声を潜らせた。

「自然発生……。つまり、我々が関与していない融合体が独自に生まれ始めていると?」

迅牙はわずかに息を吸う。

「はい。環境要因なのか、遺伝的突然変異なのか……もしくは別の要因か、不明です。ただ一つ確かなのは──“人間の意思とは無関係な進化”が進行しているということです」

初老の男の目が鋭く光った。

「……興味深い。管理下にある技術ではなく、外部で独自行動する進化系統か。もしそれが事実であれば……国家レベルの脅威にもなり得る」

迅牙の眼差しがわずかに揺らぐ。

彼自身、融合者でありながら、人間側に立つことを選んだ存在。

だがいま目の前の報告は、彼と同じ系譜の者たちが、別の道を歩き始めた可能性を示していた。

「報告は以上です」

上層部の一人が端末を閉じる音が響く。

「迅牙。よくやった。監視を継続しろ。ただし……深入りはするな。“蟷螂”が公になれば、こちらの立場が危うい」

その言葉には暗い含みがあった。

迅牙自身の存在もまた、国家の“影の道具”でしかないという事実を突きつける。

迅牙は短く答えた。

「了解」

彼が席を立つと、蛍光灯がまた一度だけ激しく明滅した。

扉を開けて外に出る瞬間、背後の光が彼の横顔を照らし、わずかに露出した仮面の輪郭を浮かび上がらせる。

外の廊下には誰もいない。

だが、その静けさの奥で──

確かに“何か”が、じわりと動き始めている気配があった。

迅牙は歩き出す。

無言で、影の中へと溶けていった。

 夜の東京。

ビルの谷間を吹き抜ける風が、わずかに湿った匂いを運んでいた。

夕立の名残でアスファルトはまだ水を含み、街灯の光を細い線のように反射している。その光が歩道を流れ、まるで無数の神経が都市を走っているようにも見えた。迅牙はその中をゆっくりと歩いていた。

足音はほとんど響かない。

だが彼の胸の内では、心臓とは別の“何か”が脈打っていた。

いつもの帰り道。だが今夜は違った。

背後に誰かがついてきているような気配。

街全体が呼吸をひそめているような静けさ。

そして胸の奥でざわつく、血の中で蠢くもの。

抑え込んでも抑え込んでも、骨の裏側を這い回るように刺激が走る。

それは戦闘後には必ず訪れたが、最近はその間隔が短くなっていた。

電柱の影が揺れただけで、心臓が刺されたように跳ねる。(……まただ)迅牙は無意識に右手を握りしめた。

皮膚の下で硬質化しようとする反応が一瞬走り、指の節がわずかに鳴る。自分が自分でなくなる予兆。

あの戦闘以来、ごく小さな刺激だけで変身の衝動が走るようになっていた。怒り、焦り、恐怖──いや、ただの風の音すら引き金になる。

いまや制御は、以前より確実に難しくなっている。「……まだ大丈夫、だ」小さく呟き、自分に言い聞かせるように呼吸を整えながらマンションのエントランスに入った。自動ドアの開閉の音がやけに大きく聞こえる。

エレベーターの中、無機質な鏡に映った自分の顔が、一瞬だけ他人のように感じられた。

 部屋に入った瞬間、外の冷たい空気とは違う静けさが体にまとわりつき、一気に力が抜けた。

上着を投げ捨て、靴を乱雑に脱ぎ、ベッドへうつ伏せに倒れ込む。

その途端、一週間分の疲労がまとめて襲いかかるように身体中を重く押しつけてきた。

筋肉が軋み、骨がきしむ。

指先は微かに震え、血流の動きさえうるさく感じる。

自分の体なのに、どこか“別の生き物”が内側から動かしているような感覚があった。「……くそ……」唇から漏れた声はかすれ、小さく震えていた。それでも意識は抵抗することなく深い闇へと沈んでいった。

 夢の中。

光のない空間に、ぼんやりと白い地面だけが存在していた。その中心に“何か”が立っている。輪郭は人間の形に近い。しかし両腕は鋭い曲刀のように湾曲し、背中は軋むように脈動している。まるで生まれたての獣が呼吸しているように。

――蟷螂。

それは迅牙の前に立ち、顔のない仮面のような頭部で、ただ静かに彼を見つめていた。

視線が交錯した瞬間、迅牙は自分の身体が固まっていることに気づく。

足が動かない。

声も出ない。「……やめろ……来るな……」声にならない叫びが喉で溺れる。

次の瞬間、蟷螂の影が揺れ、視界が一瞬で塗りつぶされた。

距離が消えた。

冷たく硬い鎌が迅牙の腕を掴む。

血管が潰れるような圧力。

蟷螂の顎が開く。

咀嚼音のような、乾いた軋みが響く。

自分自身の姿が、自分そのものを喰らおうとしている。

喉の奥から悲鳴が漏れた瞬間、視界が白く爆ぜた。

「――っ!」迅牙は跳ね起きた。

呼吸が荒く、胸が波打つ。

心臓が暴れるように動き、血の音が耳の奥まで響く。

額から汗が滴り、首筋を伝い、枕を濡らしていた。

まるで溺れた直後のような息苦しさ。

視界はぼやけ、天井の模様が揺れて見えた。

時計を見ると午前6時。外はまだ青白い夜明け前。

夢の中の“自分”の声が頭にこびりついたまま離れない。(……また、喰われた)迅牙は目を閉じ、小さく息を吐く。

体の奥でざらつくような疼きが消えない。

 洗面所に行き、蛇口をひねり、冷水を顔に浴びせる。

鏡の前に立った瞬間、短い瞬きの間に──自分の瞳が“複眼”に見えた。緑の光が多数に分かれて覗いたように見えた。

迅牙は反射的に目をそらし、息を呑む。

「……朝飯、か」無理やり日常の動作を呼び戻す。

冷蔵庫を開け、バター、チーズ、卵、コンソメを取り出す。

冷たい食材が掌に触れると、震えていた指が少しずつ落ち着いていく。

パンを焼き、チーズをのせ、スープを煮立て、グレープフルーツを半分に切り分ける。

最後にコーヒーを淹れる。

その間、迅牙の動作は驚くほど滑らかだった。

まるで体の震えを“作業”で押し込めているかのように。

マグカップから立ちのぼる湯気が、薄い朝の光に溶けていく。

迅牙はその湯気を見つめながら、小さく呟いた。

「……夢に、支配されるわけにはいかない」

窓の外には、まだ眠りの中にある東京が広がっていた。灰色の空、静まり返った街、遠くで走る電車の音。

だが彼の瞳の奥では、微かに緑の光が脈打つように瞬き続けていた。

“蟷螂”は、眠っていなかった。

 翌朝。迅牙は制服に袖を通しながら、暗い室内にひとり立っていた。

夜が完全に明け切る前の淡い青がカーテン越しに滲む中、深く息を吐く。

胸の奥にまとわりつくのは、昨夜の夢の残滓だ。

皮膚の裏を小さな虫が這い回るような、じっとりとした不快な感覚。

それは“恐怖”とは違う。

もっと何か、根源的で、体の内部に取り込まれてしまった異物が動き回っているような感触だった。(……落ち着け。まだ、自分だ)そう言い聞かせても、胸のざわつきは収まらない。

身体の機能が自動で動いているような瞬間。

意識より早く筋肉が動く感覚。あの戦闘で反射的に変身してしまったときの、あの“自分より速い自分”。

そして血の匂いを嗅いだ時に、ほんの僅かに心が浮き立った感触――。

あれは、間違いなく人間の反応ではなかった。

国の庁舎。

監査部応接室。

無機質な蛍光灯の白光が、机の上の報告書とモニターを薄く照らしている。迅牙は上層部の二人と向かい合い、静かに背筋を伸ばした。

机上には彼の任務報告書、そして生物融合者の新たな出現データが並んでいる。課長が書類から顔を上げ、真っ直ぐな視線を向けた。

「……迅牙。報告書にある『精神状態の不調』とは、どういう意味だ?」迅牙は一瞬、言葉を探すように目を伏せる。

しかし誤魔化すことはできない。

“嘘”は被害を広げる。

だから彼はわずかに息を吸い、正直に語った。

「……最近、反射的に変身することが増えています。自分の意思とは関係なく、身体が勝手に……“先に動く”。そんな感覚があるんです」室内の空気がわずかに緊張を帯びる。

もう一人の上官が眉を寄せ、低い声で問う。

「頻度は?」迅牙は目を閉じて記憶を探る。「直近一週間で三回……いえ、おそらく四回。夢と現実の境界が曖昧になるような感覚もあります」「夢?」その言葉が返ってきた瞬間、あの光景が脳裏に蘇る。自分自身――“蟷螂”の姿の自分に喰われる夢。

迅牙は喉の奥に詰まるものを押し下げ、続けた。「……夢の中で、自分の“蟷螂形態”と対峙するんです。毎回……喰われて終わる」言葉を飲み込んだ上官たちは、驚きではなく“警戒”の色を浮かべていた。

課長は静かに手を組み、核心に触れる。「迅牙、率直に聞く。……いま、お前は自分を制御できているか?」その問いは、胸の真ん中を鋭利な刃物で突かれたような痛みを伴った。

迅牙は呼吸を整え、ゆっくりと答えた。「……はい。まだ大丈夫です。ただ、このままでは――」そこで言葉が喉の奥で止まった。

“危険”と言ってしまえば、全てが終わってしまう気がした。

しかし、逃げることはできない。彼は視線を上げ、決意を宿した声で続けた。「……一週間、休暇をいただきたい。精神を立て直す時間が必要です」上官たちは短く視線を交わし、頷く。

「……分かった。お前は特例だ。健康状態を最優先にする」

「任務は別の者に回す。迅牙、必ず戻れ。国が必要としているのは、“蟷螂”ではなく――お前だ」迅牙は深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

庁舎を出ると同時に、冷たい風が頬を撫でた。

だがその風が妙に“温かい”ように感じられた。

まるで皮膚を撫でる何か生き物の息づかいのように。(……俺は今、変わってきている)

疲れ。

ストレス。

そんなレベルでは説明できない。内側で何かが芽生え、膨らみ、こちら側に滲み出ようとしている。

ビルの屋上に止まる鳩を見たとき、一瞬 “捕食対象だ” と判断してしまった。通り過ぎた男性の鼓動が、異常に鮮明に聞こえた。

そして――昨日、蠅を反射的に両断した瞬間。

ほんの一拍、脳が震えた。“快感だ”と。

迅牙は奥歯を噛みしめた。

街を歩く人々の匂いがやたらと濃く、温度を持って鼻腔に流れ込む。

血の気配がざわりと耳の奥で揺れる。(やめろ……落ち着け俺は……俺は人間だ)そう呟いても、胸の奥で何かがくぐもった笑い声を上げる気がした。

自宅に帰り、ドアを閉めた瞬間、迅牙は糸が切れたようにソファへ崩れ落ちた。手が震えている。

だがそれは恐怖や疲労の震えではなかった。

もっと、生々しい――原始的な欲求。

「……捕食……したい……」その言葉が頭に浮かんだ瞬間、心臓が跳ねた。自分の中に生まれた“欲望”の輪郭があまりにも鮮明すぎて、思わず頭を抱える。「……ちくしょう……!」人間としての理性と、身体に宿る異形の本能が激しくぶつかり合い、火花を散らしている。

どちらが勝つか分からない。いまはまだ理性が僅かに優勢だ。

しかしこのままでは――いずれ“自分”は消える。

迅牙は深く息を吸い、目を閉じた。

「……一週間で取り戻す。俺の身体も、心も、全部……戻す」だが、背筋にひやりとした悪寒は消えなかった。

本当に戻れるのか――その問いだけが、静かに彼の心臓の裏で脈を打ち続けていた。

 休暇に入った迅牙は、昼下がりの薄曇りの東京を歩いていた。

人通りの少ない路地──表通りからわずかに外れただけで空気の温度が変わるような、古いビルの影が濃く落ちる場所。

風が吹くたび、ゴミ袋が揺れて乾いた音を立てる。

そんな寂れた匂いの中で、迅牙はふと前方に“異質な気配”を感じ、足を止めた。

路地の奥に、小柄な男が立っていた。

背は低く、華奢で、年齢は30代にも見えるし20代にも見える曖昧な顔立ち。だがその身体の奥に、常人ではありえない重心の置き方──「戦闘種」の匂いを感じる。男はゆっくりと歩み寄り、胸元が光を受けてきらりと反射した。その反射に迅牙は僅かに目を細める。

胸元に付いていたのは、あの紋様バッジ──アンモナイトも、翼竜も、棘竜もつけていた“あの”印。

そして、さらにその上に小さな金属製のバッジが複数並んでいた。

丸い形状、節のような模様──団子虫に似たシルエット。

ただの装飾ではない。

組織内序列か、所属区分か、生物種識別か──迅牙の脳が瞬時に分析する。

男が足を止めた瞬間、迅牙は無意識に構えていた。

わずかな殺気や物音で“変身”がにじむほど精神が不安定な今、距離を取るのは本能に近い。

右目の奥が微かに疼く。

胸の奥で、蟷螂の武器が伸びたような錯覚。

男は両手をゆっくりと上げ、穏やかな声で言った。

「敵意はありません。まずは──棘竜の件は誠に申し訳ありませんでした」その礼儀正しく落ち着いた口調は、不気味なほど丁寧だった。

あれほど凶暴な個体を従え、なお礼儀正しい“人間の声”を出せるというギャップに迅牙の警戒はさらに強まる。

男は丁寧に頭を下げたまま続けた。「あなたが国に属する“生物融合者対処班”の一員であることは承知しております。ですが、我々はあなたの任務を妨害する意図はありません。むしろ……協力していただきたいのです」迅牙は目を細めた。

油断はしない。

男はポケットから小瓶を取り出す。

透明な液体が入った、医療機関の規格とは明らかに違う独自製造の瓶だった。「あなたが最近、不安定になっている理由の一端は理解しています。これは“融合衝動”を抑えるための補助液。副作用はありません」

なぜ、それを知っている──?

迅牙の眉間に深い皺が刻まれる。男は近づかず、小瓶を地面にそっと置いた。あくまで距離を保ったまま。

「返答は急ぎません。休暇が終わる頃、また伺います。我々の“真の敵”は……あなたの国でも、我々自身でもありませんから」そう言って踵を返し、影のほうへ歩き出した。

そのとき、迅牙の口が動いた。「その……団子虫みたいなバッチ。あれ、階級か?」男は立ち止まり、ゆっくり振り返ると、穏やかに微笑んだ。

人間の姿では礼儀正しい、柔らかな微笑。

「誤解させてしまったようですね。これは階級ではありません。私たちが“人間の姿を取っている時”、互いを識別するための印……いわば名札のようなものです」名札?迅牙の眉がさらに寄る。男は続けた。

「あとこれは団子虫ではありません。三葉虫──古代の海を生きた生物の融合者です。それぞれが自分の本来の生物を象ったバッジを付けています」三葉虫──確かに、よく見ればそのデザインは丸まり方ではなく、節の入り方が三葉虫だ。

「そしてあなたには、この“三葉虫のバッジ”が、自分を示す印として適切だと思えたのです」その言葉が妙に胸に引っかかった。

なにが“適切”なのか。迅牙は重く口を開く。

「お前達の組織の名前は?」

男──いや“三葉虫”はわずかに沈黙し、言うべきかどうか迷うように視線を落とした。そして、観念したように答えた。

「……“古殻会こかくかい”。古代系生物の融合者が中心となり、人間社会の中で身を守るために結成した共同体です」古殻会──迅牙はその語感を心の中で転がす。

「じゃあ……アンモナイト、翼竜、刺竜。あいつらもそこに属してるってわけか…」

三葉虫は最後に小瓶を指し示し、静かに言った。

「あなたの答えは、休暇が終わる頃に。また来ます」次の瞬間、路地裏の影が風に揺れるように揺らぎ、その中へ三葉虫はすっと溶けるように姿を消した。まるで最初から存在しなかったかのように。

残されたのは、アスファルトに置かれた小瓶と、迅牙の皮膚の下で蠢く“蟷螂の衝動”。

その両方が、静かに彼の心を揺らし続けていた。

 休暇に入ってからの数日間、迅牙の脳裏には“古殻会”という言葉がまとわりついて離れなかった。

静かにしているつもりでも、意識の裏側で常にざわつくものがある。

まるで三葉虫――あの男が残した影が、思考のどこかに張りついているようだった。

変身衝動は抑え込んでいるはずなのに、胸の奥の体温だけがじわじわと上がっていく。

何かが、内側で目を覚まそうとしている。

気づけば彼は椅子に腰かけ、真夜中の暗がりの中でPCの電源を入れていた。

部屋は灯りを落としてあり、モニターの白い光だけが壁に淡く反射し、人工的な明かりのざらついた陰影が迅牙の頬を撫でている。

キーボードの上に指を置き、呼吸を整えるようにしてから――「古殻会」――と入力した。

ENTERを押した瞬間、心臓が一拍重く跳ねる。

まるで見てはいけないものを覗き込む感覚だった。表示された検索結果のトップに、妙に整ったデザインのホームページがあった。迅牙は眉をひそめつつも、ページを開く。背景は黒を基調にした重厚なデザインで、上部に「古殻会公式」と金色の文字が静かに浮かび上がっていた。さらに目を凝らすと、「幹部紹介」というリンクがある。クリックすると、三つの写真が正面から現れた。どれも人間の姿――だが、その眼光の奥に、かつて大気や海原を支配した化石種の記憶が微かに光っているように見えた。

高坂 風花。切れ長の目、軽やかな気配を纏った女性。

翼竜だった。

軽薄にも見えるが、どこか空を掴むような鋭さがある。

吉田 晴人。

波打つ髪の青年。笑っているのに冷たさが残り、口元の奥に“渦巻く顎”の幻影が潜んでいるように思えた。

須藤 一真。

大柄で無口そうな男。人間の肉体では収まりきらない獣の影が、背後に立っているかのような圧があった。

迅牙は画面に顔を近づけ、一人ひとりの顔と名前を読み取る。

三者三様の静かな威圧感が、写真越しでも伝わってくる。だが、ページをゆっくりスクロールしたその瞬間――迅牙の呼吸が、ふっと止まった。

そこに載っていたのは、見覚えのある青年の写真。

落ち着いた目元、癖のない黒髪、端整でありながらどこか中性的な雰囲気を持つ顔立ち。

あの日、対峙した“三葉虫”そのものだった。会長:水城 蓮司。文字が視界に焼きつく。

迅牙の指先がマウスの上で硬直し、身体の芯が冷たく痺れたように感じた。あの男が――会長。

かつては敵対関係にあり、今は“共存”を持ちかけてきたあの三葉虫が、組織の頂点に立つ存在だったという事実。

画面に映った彼の表情は、中立的で穏やかだが、その裏に潜む異形の影――鋭利で堅牢な外殻、何度斬り伏せても蘇ってきそうな“古代の強靭さ”を迅牙は知っている。

『あなたの不安定の理由は理解している』と、三葉虫が言った声が脳裏で蘇る。まるで迅牙の中に眠る“蟷螂”すら、彼の手の平の上にあるかのような口ぶりだった。胸の奥で、微かな疼きが蠢く。

変身衝動とは違う、もっと冷たい種類のざわめきだった。

迅牙はモニターをじっと見つめる。

ページには他にも理念らしき項目が並んでいたが、目に入らない。

脳が、その一文――「会長:水城 蓮司」――だけを固く握りしめて離さなかった。

「……本当に、あいつが……会長……」

呟きはかすれ、部屋の中で静かに揺らいだ。

モニターの光が、迅牙の顔に不安の影を刻む。

古殻会。

三葉虫。

自分の中の蟷螂。

そして、彼らが言った“真の敵”。

全てが霧の中に漂い、形を見せないまま、しかし確実に近づいてきている。迅牙は目を閉じ、深く息を吸った。休暇の終わりが近いことが、ひどく冷たく感じられた。

 休暇が終わり、迅牙は重い足取りのまま国の施設へ戻ってきた。

機械的な蛍光灯が真上で白く瞬き、無機質な光が彼の影を床へ細く伸ばす。

しばらく離れていたというのに、施設全体はまるで彼の存在など最初から意に介していなかったと言わんばかりの冷たさを保ったままだった。

エレベーターを上層部のフロアで降りた瞬間、館内放送が無感情に彼の名を呼ぶ。

「神倉迅牙、至急、会議室へ。」

わずかな息が漏れた。

休暇明けの歓迎ではない。

これは“任務の匂い”だ。

嫌な予感が背骨を這い上がる。

会議室の扉を押すと、複数の上層部の人間がすでに待っていた。壁の大型モニターには暗い水面の静止画が映され、その前で彼らは硬い表情のまま迅牙を見た。

「迅牙、よく戻ったな」「体調は?」形式的な挨拶。

だが返事すら形骸化していることを彼らも理解していた。

だからこそ、すぐに本題へ入る。

長官が厚手の資料ファイルを開き、一枚の写真を投げるようにテーブルへ置いた。ぺたりと貼りつくような音を立て、写真の中身が露わになる。

それは、人間の目には“生物”というより“異物”と呼ぶほうが適切な影だった。奇妙にねじれた触手のような前肢。

その中心には、額から伸びる五本の眼茎――五つの眼が、カメラへ向けて冷たく開いている。

「……オパビニア、でしょうか」迅牙は知らず声を低くしていた。

古代カンブリア紀の捕食者。

その名を口にした途端、室内の空気がほんの少し重く変わる。

「そうだ。」長官が組んだ腕のまま答える。

「最近、都心周辺の水路で失踪事件が相次いでいる。目撃情報こそ散発的だが、痕跡から判断する限り、犯人は“オパビニアの生物融合者”で間違いない。」別の上官が資料を指でなぞりながら言葉を継ぐ。

「そいつはきわめて高い索敵能力を持つ。嗅覚と眼茎を用いた全方位視界で獲物を追跡し、地上でも湿気と匂いを頼りに人間と同化する気配すらない。獲物を見つけたら逃さないタイプだ。」ページには、過去の襲撃現場の写真がいくつも残されていた。

水気を帯びたコンクリート、何かが引きずられた跡、途中で途切れる足跡。……そして、その先は必ず水路へ消えている。

一般市民が相次いで狙われている以上、放置はできない。

迅牙はそれを痛いほど理解していた。

長官は椅子から身を乗り出し、静かに告げる。

「迅牙。お前に任せる。」その言葉は本来、信頼の印だ。

しかし迅牙の胸の内には、別の波紋が広がっていた。

――また“あれ”が暴れるかもしれない。

蟷螂の気配が、呼吸の深いところでゆっくり目覚めようとしている。

休暇の間、三葉虫から渡された小瓶を思い出す。透明な液体。

融合衝動を抑える薬。

信じてもいいのか。

信じてはいけないのか。

判断できないまま、休暇は終わってしまった。「……了解しました。オパビニアを捜索し、排除します。」迅牙が答えると、上層部は満足げに頷いた。「頼むぞ、迅牙。お前しかいない。」その言葉が背中へ刺さるように重い。会議室を出た瞬間、冷気が彼の肌へまとわりつく。

使命の重さか。

それとも内側で蠢く、もう一人の自分の影なのか。

わからないまま歩き出し、薄暗い廊下の先に視線を向けながら小さく呟く。「オパビニア……古殻会の連中と関係してるのか?」答えはない。

しかし足元の影が、ひどく長く伸びたように見えた。

 昼下がりの多摩川。

日差しは柔らかく、川面を渡る風がざわざわと草を揺らしていた。

都会の中心から少し離れただけで、この静寂はまるで別世界のようだった。迅牙はベンチに腰を下ろし、コンビニ袋から取り出したサンドイッチをぽそりと齧る。

パンの柔らかい食感すら、まだ休暇明けの体には重い。

昨日見た悪夢――自分が“蟷螂の姿”になり、その自分に殺される光景――が脳裏に焼き付いたまま離れない。息をするたび、胸の奥がざらつく。

「……今日、ここで“出る”なよ。頼むから」独り言というより願い。

心の底に沈んでいる黒い波紋に向かって呟くような声だった。

ふいに視界の端を、ひょろりと背の高い細身の青年が横切った。

濡れたようにしっとりと張りついた髪。

眠たそうに半分開いた瞼。ふらり、とバランスの悪い足取り。

まるで意識の半分をどこかに置き忘れたような、だるさだけで歩いている人影。「……あれは」迅牙は直感のまま立ち上がった。

胸元。

バッチはない。

古殻会の印もない。

つまり――組織に属さない“野良の生物融合者”。

そしてその特徴は、まさに上層から渡された資料に記されていたものと一致している。青年はゆるく首を動かし、迅牙の視線に気づいたのか、重たい瞼を引き上げるようにゆっくりとこちらを振り向いた。

「あー……」眠気を引きずるような息とともに、気の抜けた声が漏れる。「……きみ……蟷螂……?」その一言が空気を変えた。

青年の顔が、ふっと“揺れる”。

瞳孔が二つから五つへと裂ける。

眼球が眼茎ごと隆起し、にゅるりと皮膚の奥から現れた。

鼻梁が解け、口の隙間が左右へ割れ、内部から水気を帯びた“口吻”がぬるりと押し出される。

皮膚が波打つたび、甲殻が覗き、体が濡れた粘膜を纏うように変形する。――オパビニア。迅牙が鉈へ手を伸ばすより早く、青年は完全に異形へと姿を変えていた。

「んー……昼に会うとは、ねえ……ちょっと……運が悪い、よ……?」五つの眼がゆるく笑うように揺れた瞬間、口吻が生き物のようにしなる。

風を裂く音。迅牙は反射的に後方へ跳び、地面を滑るように距離をとる。

しかしオパビニアの五つの眼が五方向から一斉に彼を追い、視線が重なった瞬間、オパビニアの足元が“跳ねた”。

ゆらりとした足取りが、一転して高速へ変貌する。

ふらついて見えた動きが嘘のように正確で、針の穴へ糸を通すような精密さすら感じさせた。

「んー……たべて、いい?」昼下がりの穏やかな風が、異様に冷たく感じられた。

「誰が食われるかよ!」迅牙が鉈を振るい、袈裟懸けに斬りかかる。

しかしオパビニアの口吻が鞭のようにしなり、金属のような硬さで刃を正確に弾き返した。乾いた衝撃音が響く。

「……はぁ?」自分の攻撃が、あっさりと。

迅牙は無意識に眉を寄せた。

オパビニアは気怠そうに首を傾ける。「うん……きみ、つよいねぇ……でも……ぼく……おなか、すいてて……」五つの眼が“ぴたり”と一点に収束し――次の瞬間、口吻が真っ直ぐ、迅牙の喉元に伸びた。

速い。

反射が追いつかない。

しかし迅牙の身体は、自分が考えるより早く動いた。背筋が弾け、足が地面を蹴り、筋肉が自動的に“跳んでいた”。

変身の兆候。

胸が熱い。視界の色調が変わる。

脳の奥で何かが目覚めようとしている。

「……くっ!」迅牙は奥歯を噛み、必死に押さえ込むように変身を拒絶しながら後方へ転がって距離をとった。

しかしオパビニアはその様子に気づき、五つの眼を細めて興味深そうに呟いた。

「いま……変わり、そうだった……へぇ……やっぱり……きみ……蟷螂なんだ……?」蟷螂――その名を外部の誰かに言われた瞬間、背中を氷で撫でられたような悪寒が走る。

迅牙は鉈を構え直すが、手がわずかに震えていた。

汗が背中を伝い、風が冷たさを増す。

ここで変身したら……制御できる保証はない。

だが、このままでは――殺される。

オパビニアはふらり、しかし確実な足取りで近づく。

「……じゃあ……つづき、しよっかぁ……?」逃げられない。

戦闘は不可避。

迅牙は息を呑み、地面を蹴った。昼の光が一瞬だけ眩しく反射し、その中で五つの眼が怪しく輝き、口吻が蛇のようにうねりながら迫ってきた。

オパビニアの五つの眼が、濁った水面の反射のようにぬらりと揺れ、しかしその奥では鋭い光がぎらついていた。

全身は昼の陽光を吸い込んだように湿り、触腕は風が吹いた程度で勝手に生き物のように震える。

「……じゃあ……つづき、しよっかぁ……?」

その声は気の抜けた眠たげなものだというのに、近づいてくるたび皮膚の裏がざわつく。昼の河川敷の静けさが逆に不気味さを強調し、蝉の鳴き声ですら遠ざかるほど空気が重たく沈んだ。

迅牙は息を整えた。

――このままじゃ、また“出る”。

胸の奥で蠢く蟷螂の気配。

熱、鼓動、皮膚の逆立つような疼き。

あれが本格的に目を覚ませば、俺はまた制御できなくなる。

理性が溶け、肉体が獣に乗っ取られる。

戦闘の最中にそれが起これば、市民どころか自分も巻き添えにしてしまう。

迅牙は迷いながらも、懐に手を伸ばした。

小瓶。水城蓮司――三葉虫の融合者だった男が、あの日、気だるげに渡してきた“精神安定剤”。

「これ、たぶん……役に立つよ」

あの時の蓮司の、どこか達観したような目が脳裏に蘇る。

信じるべきなのか。

この液体は本当に迅牙を助けるのか。それとも、古殻会の罠なのか。

飲んだ瞬間に意識が暗転し、その隙に蟷螂が肉体を掌握して暴れる――そんな最悪の展開もあり得る。

わずか一瞬の油断が、死を招く。

迅牙は歯を食いしばり、小瓶を握る手に力を込めた。

「……賭けるしかないか」

言葉が喉から漏れると同時に、小瓶の蓋を親指で弾き飛ばし、液体を一気に流し込む。

金属味のする冷たい液が舌を刺し、喉を通って胃に落ちた瞬間――胸の奥の熱が、ふっと、まるでロウソクの火が消えるように静まった。

「……あれ……?」

あまりに急激な変化に、迅牙は思わず胸元に手を当てる。

さっきまで暴れる獣のようにうるさかった心臓が、落ち着いた波のようにゆっくりと鼓動している。

頭にのぼっていた血が引き、視界から赤みが消え、世界が輪郭を取り戻す。

「へぇ……なに、それぇ……?」

オパビニアが気だるげに首を傾けた。

その五つの眼は、迅牙の変化を面白がるようにじっと観察している。

迅牙は両手を見つめた。

震えが無い。

筋肉の勝手な痙攣も無い。

蟷螂の“声”が、遠く遠く離れた場所へ閉じ込められたように静まり返っている。

――効いてる。本当に、効果がある……!

迅牙は胸の奥で短く息を吸い、鉈の柄を握り直した。

全身に走る感覚は明確だった。

余計な力が抜け、無駄な衝動もない。

身体の輪郭がはっきりし、呼吸のリズムが自分のものだとはっきりわかる。ようやく“人間としての戦闘”に戻ってこられたような気がした。

「――行ける」

迅牙が低く呟いた瞬間、オパビニアが足元の砂利を跳ね散らしながら飛び込んでくる。

「じゃ……いくよぉ……?」

気怠い声と裏腹に、その突進は鋭い。

口吻が槍のように一直線に伸び、五つの眼が瞬きもせず迅牙を追い詰める。

だが迅牙は――読めた。

暴走の兆候が消え、感覚が研ぎ澄まされている。

オパビニアの脚の重心移動、触腕の揺れ、口吻が空気を裂く角度。

それらすべてが一本の線になって迅牙の脳に流れ込み、次の瞬間には身体が自然に動いていた。

避けた。

ほんの半歩、肩をわずかに傾けただけで、槍のような口吻は紙一重で頬を掠める空を切った。

「……っ!」

オパビニアの五つの眼が、完全に驚愕に揺れた。

「お前の速度、もう読める」

迅牙は地面を蹴り、懐へ潜り込む。

鉈を横薙ぎに走らせると、重い手応えとともに硬い甲殻が裂け、オパビニアの触腕の一部が飛び散った。

水音のような湿った悲鳴。

「いた……い……なに……したの……きみ……?」

痛みに歪みながらも、声は相変わらず眠たげだ。

「薬だよ。お前らが望んだ“暴走する蟷螂”には、ならない」

迅牙の声は、奇妙な落ち着きを帯びていた。

息は整い、鼓動は一定。蟷螂の気配は沈黙したまま。

戦闘は完全に迅牙の“自我”の領域に戻っている。

オパビニアは触腕の根元から滴る体液を見下ろし、五つの眼をゆっくりと瞬かせた。

「ふぅん……いいねぇ……じゃあ……ひさしぶりに……“ちゃんとした勝負”が、できるねぇ……」

その言葉が終わるより先に、地面を削るような踏み込み。

オパビニアが再び飛びかかってくる。

迅牙は鉈を構え、そして――迎撃した。

精神安定剤は確かに効果を発揮していた。

迅牙はようやく、人として、自分の意志で戦う舞台へと戻ってきた。

 鉈の刃が、血で濡れたオパビニアの甲殻へと滑り込む寸前だった。

逃げ場のない距離、次の一撃で完全に仕留められる。

オパビニア自身もそれを理解していたのか、五つの眼が同時にすべてすがるように開かれ、触腕がかすかに震えている。

迅牙は呼吸を整え、刃先の軌道を微調整した。

暴走の衝動が消えた今、斬撃は迷いなく正確に落ちる。

だが――その瞬間だった。

空気が一気に潰れたような風圧。

鋭い突風が迅牙の足元の砂利を巻き上げ、舞い散る砂煙が現れるべき“何か”の影を大きく歪ませた。

次の瞬間、その影は形を取り、砂煙の中心から姿を現す。

翼竜――いや、変身解除した直後の若い女性だ。

濡れた黒髪が風に散らばり、白い肌には汗と血が筋のように流れている。

肩で息をしてはいるが、その佇まいにはどこか“本能の匂い”が残っていた。

迅牙が構えを緩めないまま警戒すると、翼竜の女はオパビニアのほうへ視線を向け、冷ややかな声を落とした。

「……バッチは?」その声は、仲間であるはずの相手に向けるものとは思えないほど乾いていた。

オパビニアは五つの眼を左右に泳がせ、触腕をしょんぼり垂らしながら小さな声で言う。

「……あ、忘れてた……」その一言に、翼竜の眉がぴくりと跳ねる。

「忘れてた、じゃないわよ。」声は低く、切り裂くような怒りが混ざっていた。

二人の間に流れる空気は“仲間”ではあるが、その関係は妙に不安定で、上下関係の濃さが滲み出ているようにも見える。

やがて翼竜はゆっくりと迅牙へ振り返った。

目は笑っていない。

むしろ、獲物を真正面から値踏みする捕食者の光が宿っていた。

「……仲間を殺そうとしたのね、神倉迅牙。」

淡々と落とされたその声は、怒号よりも刺さる。胸の奥が冷たくなるほど静かに、そして深く沈んだ響き。続けて囁くように言った。

「もし“仲間を殺そうとしなければ”――こっちだって、あなたを殺す理由なんてなかったのに。」

それは恫喝でも脅しでもなく、本当の本心のように聞こえた。

迅牙は無意識に一歩前へ出そうとした。

だがその動きは、翼竜の一つの仕草によって止まった。

彼女は長い髪を無造作に掴み、ひとまとめにしてゴムで後ろへ結んだ。

表情は静かだが、呼吸のリズムは獣のそれに近い。

次の瞬間、翼竜は小さく息を吸い込んだ瞬間。

肉体が跳ね上がった。

骨が鳴る。

筋肉が裂け、再構築される不快な音が河川敷の静寂に鋭く響く。

両腕は翼の骨格へ沿うように折れ曲がり、皮膜がぐんと伸びて広がる。

背中が盛り上がり、肩甲骨が外に押し出されるように変形していく。

顔は人間の形を半分残しながら、両目の周囲に三本の裂け目が走り、眼球がその奥に沈み込む。

口元は耳の近くまで裂け、牙のような構造が覗いた。

まるで人と獣と虫を同時に押し込んだような異形。

変身が完了したのはほんの数秒。

しかし迅牙の脳は、その瞬間を“永遠にも思えるほどの緊張”で捉えていた。

――動けないはずの一秒。

そのわずかな隙を逃すわけにはいかない。薬によって完全に保てている冷静さが、迅牙の判断を研ぎ澄ませる。

「今だ……!」迅牙は地面を強く蹴り、一瞬で間合いを詰めた。

風が裂ける。鉈を振り上げ、狙うは頸椎。

変身直後の無防備な一点。

刃が落ちる――その瞬間。

重く、鋭く、巨大な羽ばたき。

翼竜の羽根が、まるで鞭のように横から叩きつけられた。

「――なっ!」予想外だった。

変身直後の生物融合者は動けない――その“常識”が通用しない。

羽根の衝撃は空気を圧縮した塊のような威力で迅牙の腹を一瞬で潰し、爆発するような痛みが身体を貫いた。

迅牙は河川敷の地面を抉るようにして数メートル吹き飛ばされ、砂利の上を転がり、肺から空気が押し出されて視界が一瞬白く霞む。

咳き込むことすらできない。

ただ、身体が痛みに反応して震える。

そんな迅牙の前で、翼竜は変身したばかりの姿でゆっくりと歩み寄ってきた。

常識を無視した、その“一歩”。

変身直後であるはずの足が、迷いも硬直もなく砂利を踏みしめる。

その影は真昼の太陽の下で長く伸び、迅牙の倒れた身体へ覆いかぶさるようだった。そして翼竜は、抑えたような小さな声で言う。

「……“普通の生物融合者”なら、ね。」その声音には、自信でも誇りでもなく、“圧倒的な差”を認めさせるための静かな威圧が満ちていた。

オパビニアをかばって立つ翼竜。

その姿は――仲間を守るためなら牙を剥く、本能の捕食者そのものだった。

 河川敷に吹きつける風は、戦闘の衝撃で舞い上がった砂塵と混ざり合い、視界の端を曇らせていた。

薄曇りの空を背景に、迅牙は砂利を削るようにして後退し、鉈を構え直す。

胸の奥では薬で抑え込んでいるはずの精神がかすかに震え、均衡を保とうとしていた。

だが――その奥底で蠢く影が確かに息を吹き返している。

蟷螂が、目覚めている。

骨の内側で何かが軋み、皮膚の下で筋肉が昆虫のように収縮し、腕の感覚が自分のものではなくなっていく。

まるで透明な膜の腕が自分の腕に重なり、別の生き物がそこに宿ったようだった。

翼竜が砂煙の中で翼を広げ、獲物を確実に仕留めるための突進姿勢を取る。

その眼光は鋭く、喉奥から殺意を含んだ息が漏れる。

迅牙は強く奥歯を噛み、呼吸を整え、薬の効力に縋りついた。

理性を、思考を、今の自分に繋ぎ止めるために。

しかし蟷螂の本能は、あまりに強大だった。

理性という鎖を軽々と引きちぎるほどに。

翼竜が地面を蹴り、爆ぜるような勢いで突進してきた。

迅牙は鉈を振り上げ、その攻撃を受け止めようとする。

だが次の瞬間――腕が、勝手に動いた。

握っている手の力が変質し、筋肉が微細な震動を起こし、刃を扱う動きが「迅牙の戦い方」ではなくなる。

人間ではない、生きるためだけに研ぎ澄まされた、昆虫の殺戮動作。鎌が唸り、空気を切り裂いた。

意識が叫ぶ。

やめろ、止まれ、俺はまだ――。

だが声は自分自身にすら届かない。

蟷螂が前面に出てしまった今、理性の声は暗い井戸の底で響いているように遠い。

翼竜は咄嗟にその刃を避け、大きく跳躍して距離を取った。

だが、それすら蟷螂にとっては無意味だった。

無駄のない、研ぎ澄まされた動き。

風の抵抗すら足場にするような軽さで身体をひねり、鎌を弧を描くように振り抜く。迅牙の目が変わり始める。

黒目が収縮し、瞳孔が縦に裂け、光を捕らえる角度が昆虫のそれへと変貌していく。もう、戻れない。

河川敷の土が抉れ、翼竜の羽ばたきと蟷螂の鎌が生む衝撃で砂煙が跳ねる。

抽象的な思考は消え、残るのは本能と反射の奔流だけ。

薬は届いていない。

理性も届かない。

今の迅牙は――人間ではなく、純粋な蟷螂だった。翼竜が羽を振りかざし反撃の構えを取る。しかし蟷螂の体は――その一瞬の逡巡すら許さぬ速さで、獲物へと刃を伸ばしていた。

 河川敷に舞い残る砂塵は、さきほどまでの戦闘で荒れた空気をそのまま閉じ込めたように重く、湿った風を伝って地表を曇らせていた。

その中を切り裂くように蟷螂状態の迅牙の鎌が閃き、空気を裂く鋭い軌跡を残しながら翼竜の身体を追い詰めていく。

迅牙の動きはもはや人間の形を取っただけの別種の生物に等しく、関節が獣じみた柔軟さで折れ曲がり、羽のように変質した背中の伸縮が跳躍の勢いを何倍にも増幅していた。

翼竜は、ほんの刹那だけ大きく目を見開いた。

その瞳には混乱と、相手の動きが常識の外にあることへの本能的な恐怖が宿る。「……なに、この動き……!」その声には驚愕が混じるが、戦士としての直感が状況を即座に理解させていた。

蟷螂の身体能力は“未覚醒”であっても桁外れ――鋭利な鎌が繰り出す連撃、地面を軽々と蹴り上げ反射的に跳ぶ動作、背中の翼膜を広げて空気を切り裂く風圧。

それらが生む挙動は、人間の戦闘技術では到底再現できない“別の生命体の戦闘”だった。しかし翼竜――いや、翼竜と融合するその女性は、即座に順応した。

羽ばたきひとつで空中の軌道を変え、翼の角度を微細に調整して体を滑らせるように移動させ、蟷螂の異様な攻撃を紙一重で避けていく。

「なるほど……こう来るのか……!」彼女の声は震えていない。

状況の異常さを理解しつつ、その戦闘本能がさらなる戦いへの適応を促していた。

迅牙の鎌が地面すれすれをかすめ、砂を巻き上げながら振り下ろされた瞬間、翼竜は空中で反転し、風を切り裂きながら急旋回する。

気流が震え、渦が巻き、二人の戦いは次第に地を離れ、河川敷の上空へと持ち上げられていく。

空中で打ち合われる鎌と羽の衝突音が鋭く響き、砂塵が舞い、風の悲鳴が戦場を包む。

蟷螂化した迅牙は、理性を捨てたことで飛翔能力と攻撃性が跳ね上がっていた。

完全に感覚だけで飛ぶ彼の動きは、理屈では説明できない直感の塊のようで、獲物を捉えるために最短距離を本能が自動的に計算している。

一方、翼竜はあくまで人間の理性と戦闘技術を保ち、反射的な動きで蟷螂の攻撃をいなしていく。

二つの影が空中で交錯するたびに風が爆ぜ、河川敷全体が呼吸を忘れたように凍り付く。

まるで捕食者同士が互いの命を奪うためだけに踊る、野生の舞踏。翼竜は荒い息を漏らしながらも、眼だけは鋭く研ぎ澄まされていた。

「……ここまでか……」そう呟いたものの、その瞳にはまだ諦めがない。

むしろ、蟷螂の次の動きを読むための計算がその奥で静かに回転していた。

だが――戦況は、突如として傾く。

翼竜が大きく右羽根を広げ、刃物のように硬化した翼先端を振りかぶる。

空気が裂け、その勢いで突風が生まれる。

しかし蟷螂は、常識ではありえない動きを見せた。

空中で身体をねじり、虫特有の不自然な角度で急旋回し、軌道を完全に外したのだ。

次の瞬間。

ザシュッ。

翼竜の右羽根――そしてその女性の右腕に相当する部分が、宙を回転しながら飛んだ。

血が霧のように散り、太陽光を受けては鈍く光りながら地面へ落ちていく。翼竜の身体は衝撃に弾かれ、制御を失って急降下する。

河川敷に叩きつけられた瞬間、変身が解け、人間の若い女性の姿へ戻った。右腕は、肩の途中から存在しなかった。

血が河川敷に染みを作り、彼女は壊れた呼吸を繰り返しながら地に伏す。

その十数メートル先に、蟷螂が静かに降り立つ。

まるで勝利を確信した捕食者のように。

背は低く、関節は揺れ、脚は地面を滑るように動き、鎌は月光のように冷たく輝いている。その様子は――もはや迅牙ではない。

翼竜の女性は逃げようとした。

しかし、失血と恐怖で足が動かない。

視界の奥で蟷螂が両腕の鎌をゆっくりと振り上げる。

その動きは獲物を確実に仕留めるための儀式のようだった。

そして次の瞬間、捕まった。

爪が胴体を拘束し、逃げる隙間すら与えない。「……ぁ……あ……っ」彼女の震える声よりも早く、蟷螂の頭部が彼女の腹部へと無慈悲に食い込んだ。バリッ、バキッ――肉が引き裂かれ、骨が砕ける生々しい音が周囲に響き渡る。

翼竜の女性は声にならない悲鳴を上げ、喉を引きつらせ、血を吐き、震える指先で必死に地面を掴もうとした。

しかし、視界は黒く染まり、意識が遠のいていく。

――その瞬間。

オパビニアが突撃してきた。

弾丸のように一直線に飛び込み、甲殻の体で蟷螂を弾き飛ばす。

轟音とともに蟷螂は地面を転がり、砂塵が舞い上がる。

その隙にオパビニアは翼竜の女性を抱え、血の跡を引きずりながら全力でその場を離脱していった。

吹き飛ばされた蟷螂は地面に転がり、しばらく痙攣したあと、動きを止める。

静寂が訪れた瞬間、骨が軋む湿った音が響き、蟷螂の姿がゆっくりと形を変え始めた。

人間――

迅牙へと戻っていく。

「……は……ぁ……っ……」息が荒い。頭が割れるように痛い。

ふと、口元に残る感触に気づいた。

顎から黒く乾きかけた血が垂れている。

口の端から、小さな肉片が滑り落ちた。

それを見た瞬間。

迅牙の表情が、崩れた。

「…………っ」

理解した。

自分が――何をしたのか。

胃の奥底が反転するような吐き気が込み上げ、喉が焼けるように熱くなる。立っていることすら難しい。

胸の奥で何かが悲鳴を上げている。

「ダリウス……」震えた声が漏れる。

そこにいるはずもない相棒に、助けを求めるように。

「……俺……どうすればいい…… どこまで……堕ちていくんだ……俺は……」手が震える。

指先が自分の喉元に触れるたび、まだ温かい血が付着し、現実を突き付けてくる。

逃げられない。

敵からも――そして、自分自身からも。

風が吹き、血の匂いが河川敷に漂う。

迅牙は目を伏せ、血に染まった夜気の中で、ただ一人、呆然と立ち尽くしていた。


あとがき


この物語を書き始めたきっかけは、特別な動機があったわけではありません。

ただ、何かを書いてみたいと思った。それだけでした。

正直に言えば、作者自身は作文が得意なほうではありません。

頭の中にある考えやイメージを、そのまま文章に落とし込むことが難しく、途中で諦めてしまうことも多くありました。

そのため、本作では文章の整理や表現の補助としてAIを利用しています。

言葉を整え、形にするための手段として使いました。

ただし、何を書くか、どこへ向かうか、何を壊すかという判断は、すべて作者自身のものです。

AIは考えを代行した存在ではなく、書くことを継続するための道具でした。書いているうちに、物語は思っていた以上に広がっていきました。

世界も、人物も、設定も、後から勝手に増えていった感覚に近いです。

もしこの物語に何か引っかかるものがあったとしたら、

それは技術ではなく、書こうとした動機そのものが残った結果だと思っています。

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