第6話 日記を読む
蒼玄書房、文芸第三編集部。
高林泰三は自分のデスクで、見覚えのない黒い手帳を見つめていた。鞄の中に入っていたもので、いつの間に紛れ込んだのか全く心当たりがない。表紙には何も書かれていない。革張りの、少し古めかしい手帳だ。
ページを開く。
几帳面な文字で、日記が綴られている。最初のページには「4月3日」とある。つい最近のことだ。
読み進めるうちに、背筋が冷たくなっていく。電車での異常な光景、噴水の前の人々、空室からの足音……どれも常識では説明のつかない出来事ばかりだ。
しかし、妙にリアリティがある。場所こそ特定されていないが、描写が具体的で、実際に体験したことを記録している印象を受ける。創作にしては細部が生々しすぎる。
「なんすかそれ?」
隣の席の後輩、川村が覗き込んできた。高林は苦笑を浮かべる。
「いや、これは……」
説明しようとして、言葉に詰まった。これは他人の日記だ。なぜ自分の鞄にこんなものが入っていたのか、うまく説明できない。説明をミスれば面倒なことになる。
ふと、今朝のことを思い出す。
飯田橋駅から会社へ向かう途中、若い女性とぶつかった。清楚な感じの、高校生くらいの女の子だった。その時、お互いの荷物が散らばってしまい、慌てて拾い集めた。もしかすると、あの時に紛れ込んだのかもしれない。
手帳を閉じた。
これは、警察に届けるべきだろう。他人の日記を勝手に読んでしまった罪悪感が胸を刺す。しかし同時に、妙な好奇心も湧いてくる。この日記の書き手は、今どうしているのだろうか。4月19日を最後に記述は途切れている。
昼休みになると、高林は近くの交番へ向かった。
神楽坂上交番。小さな交番で、警官が一人、書類仕事をしていた。
「すみません、落とし物を拾ったんですが」
警官は顔を上げ、手帳を受け取った。
「手帳ですね。中身は確認されましたか?」
「ええ、まあ……日記のようでした」
警官は手帳をめくり、少し眉をひそめた。
「変わった内容ですね。いつ、どこで拾われました?」
「今朝、鞄の中に入っていて……多分、駅で誰かとぶつかった時に」
高林は状況を説明した。警官は丁寧に聞き取り、書類を作成していく。
「分かりました。お預かりします。持ち主が現れるといいですね」
交番を出て、会社へ戻る道すがら、高林は奇妙な感覚に囚われていた。
日記の内容が、頭から離れない。特に最後の方の記述――窓の外に立つ濡れた女、西へ向かう、という記載。もしかすると日記の主はもう……。
フィクションだと思いたい。誰かの創作ノートか何かだと。しかし、やはりあの生々しい描写は、実際に体験した者でなければ書けないような気がした。