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第3話 巫女の章

 神楽坂の路地裏、昭和三十年代に建てられた木造アパートの二階。水上(みなかみ)靜子(しずこ)は、純白の巫女装束に身を包んでいた。袴の紐を結ぶ指は震えていない。何代にもわたって受け継がれてきた所作は、身体が覚えていた。


 八畳一間の部屋は、生活の場ではなく祭壇と化していた。東側の壁には、天井まで届く古書の山。27巻分の国宝『延喜式』の写本から始まり、江戸期の呪術書、明治の神道系新宗教の教典、そして祖母が遺した手書きの記録まで。どれも水濡れや虫食いの跡があり、年月の重みを物語っていた。


 西側には、正体不明の木彫りの像が並ぶ。人とも獣ともつかない姿。彫られた年代は不明だが、小河内村が水没する以前から伝わるものだという。その前に置かれた黒曜石の鏡は、普通の反射ではなく、見る者の内面を映し出すと言われていた。


 部屋の中央には、獣の骨で作られた笛が置かれている。鹿のものか、猪のものか。あるいは人の骨。笛の表面には、見慣れない文字が刻まれている。その文字の一つ一つが、ゆっくり脈動しているように見えた。


 すべては、祖母から受け継いだものだ。


 旧小河内村に伝わる、もう一つの歴史。昭和三十二年のダム建設によって水没したのは、単なる山村ではなかった。そこには、古代から続く「封印」があった。巨大なダムは、その封印を強化するための、現代的な蓋に過ぎない。


 怪異は滅ぼせない。


 ただ、定期的に新しい「器」を用意し、溢れ出す情報を移し替えることで、活動を最小限に抑える。それが水上家の使命だった。七十年以上、その方法で押さえ込んできた。だが、完璧な封印など存在しない。怪異は少しずつ、確実に、現実世界へ影響を及ぼしていた。


 黒いディスプレイに、高林泰三の現在地が表示されている。飯田橋駅から乗車。中央線で西へ。青梅、奥多摩方面へ向かっている。GPSの座標は正確だが、表示される地図が時折歪む。現実の地理と、別の何かが重なり合っている。


 水上靜子がふと呟く。


「……何かが違う」


 画面に表示されるデータ転送速度は、通常の百倍を超えていた。これまでの「器」は、情報の流入に耐えきれず、数日から数週間で崩壊していた。精神が壊れ、肉体が変質し、最後には壊れる。そのつど彼女が処理(・・)してきた。そうすることで、怪異の活動も一時的に弱まる。


 だが高林泰三は違った。適合率は99.7%。理論上の限界値に迫っている。レンダリングは通常の千倍の速度で進行し、すでに第七段階を突破していた。このままでは――。


 祖母の手記を開く。変色した大礼紙(たいれいし)に、褐色のインクで記された警告。鉄錆と血液の匂いが仄かに漂う。


『七番までの歌は、器を作るためのもの。もし、八番目の歌が詠まれたる時、器は砕け、門そのものが開かれん』


 七つの封印。それぞれが、怪異の力を段階的に解放する鍵。水上家の女たちは、代々その管理者として、適切な時期に適切な器を用意してきた。しかし、七番目まで進んだことは過去に一度もない。通常は三番目か四番目で器が限界を迎え、プロセスは中断される。


 靜子は立ち上がり、部屋の北側の壁に向かった。そこには一見、何の変哲もない掛け軸がかかっている。しかし特定の角度から見ると、墨で描かれた山水画の中に、別の図形が浮かび上がる。ダム建設前の小河内村の地図。そして、湖底に沈んだ神社の位置。


 その神社の地下に、本当の封印があった。


 部屋の隅で、黒電話が鳴り始めた。


 ベルの音は、通常の電話とは明らかに異なっていた。金属的でありながら有機的。機械音でありながら獣の咆哮にも聞こえる。一族の間でのみ使われる、緊急連絡用の回線。この番号を知る者は、もはや数えるほどしかいない。


 受話器を取る。


 聞こえてきたのは、人の声ではなかった。


 低周波の唸り。地の底から響くような振動音。地鳴りのような、獣の呻きのような、機械の駆動音のような。それは高林が聞いた音声ファイルと同じノイズだった。


 あれは靜子が編集者を壊す(・・)ために渡したもの。それと同じ音が聞こえる。


「……やっぱりおかしい」


 靜子は耳を澄ました。雑音の中に、規則的なリズムがある。モールス信号のような、しかしもっと複雑なパターン。集中して聴き取ろうとした瞬間、それが「歌」だと気づいた。


 逆順で奏でられる、呪いの旋律。第七節から始まり、第六節、第五節と遡っていく。かつて小河内村で、年に一度だけ奏でられていた封印の歌。しかし今、その歌は順に進行している。封印を強化するのではなく、解除する方向へ。


 そして最後に、靜子が聞いたことのない旋律が流れ始めた。


 八番目の歌。


 それは、祖母も、その前の代も、誰も聞いたことのない禁忌の旋律。存在してはならないはずの、最後の鍵。


 受話器を置く。彼女の手が震えていた。


 水上家の女たちが恐れていたのは、怪異そのものではなかった。管理できない事態。制御を失った怪異が、自らの意思で行動を始めること。そして今、まさにそれが起きようとしている。


 窓外へ目をやる。


 東京の夜景は、表面上はいつもと変わらない。ネオンが輝き、車が行き交い、人々が歩いている。だが、西の空に目を向けると、微かに赤い光が滲んでいた。それは夕焼けでも、街の明かりの反射でもない。


 あれは湖底から立ち上る、何かの予兆。


 たった今、一から八まで、順番に歌が奏でられた。

 本来なら八から一へ、逆順で奏でなければならない。


 靜子は骨の笛を手に取った。

 歌はもう覚えた。

 最後の手段。八番目の歌に対抗できるのは、同じ八番目の歌だけ。それを奏でることは、封印の完全な解除を意味する。しかし、これまでの歴史が証明しているとおり、逆順で奏でることで鎮められる。


 靜子の額から汗が流れ、畳にポタリと落ちた。


「罠の可能性もある。八番目を歌うことで、封印が解除される最悪の結果……」


 かぶりを振る。


 七十年間保たれてきた均衡は保たねばならない。

 これまでたくさんの処理(・・)をしてきた。

 一か八かなんて今さらだろう。


 彼女は笛を唇に当てた。震える指で、八番目の歌、最初の音を紡ぎ出す。それは人の声とも、獣の叫びとも、風の音ともつかない、この世のものではない響きだった。





(了)


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