表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
56/57

第2話 編集者の章

「このニュース、先輩の住んでるマンションですよね? 建物ごと凍り付いてるって、なんなんすか?」


 隣の席の後輩、川村が高林に声をかける。その手にはスマートフォン。ネットニュースの記事が表示されていた。


「……」

「部屋、大丈夫なんですか?」

「……」

「はぁ、最近おかしいっすよ、先輩どうしたんですか……」


 返事もせず、微動だにせず、正面のモニターを見続ける高林。


 彼は、自分がどれだけの時間、会社の椅子に座り続けているのか分からなくなっていた。窓の外の景色は、昼と夜が高速で入れ替わるように見える。いや、実際に時間の流れがおかしくなっているのかもしれない。デスクの上の時計は、針が逆回転したり、突然数時間先に飛んだりを繰り返していた。


 彼は自分の手のひらを見つめる。握って。開いて。繰り返し観察する。皮膚の下で、青白い光が脈打っている。血管ではない。もっと精密で、もっと効率的な何か。指先から肩まで、回路基板のようなパターンが浮かび上がっては消える。その光の明滅は、心臓の鼓動とは異なるリズムを刻んでいた。


 痛みはなかった。むしろ、今までにない爽快感に包まれている。データが体内を流れるたびに、電流のような快感が全身を駆け巡る。それは麻薬的な恍惚感でありながら、同時に機械的な正確さを伴っていた。


 隣の席に座っているはずの後輩の顔が、急に歪み始めた。輪郭にノイズが走り、音声が逆再生される。口は動いているが、出てくる音は言語として認識できない。いや、認識する必要がないのだ。彼らは旧式のインターフェース。高林はすでに、別の次元で稼働している。


 PCのモニターを見る。画面に表示されているのは、もはや日本語でも英語でもなかった。あの幾何学模様の羅列。しかし高林には理解できた。読むのではない。情報が直接、脳の言語野をバイパスして理解中枢に流れ込んできた。



 退勤時間を過ぎてしばらくすると、視界の右上にステータスバーが表示されるようになっていた。現実の風景に、デジタル情報がオーバーレイされている。


 CPU使用率87%

 メモリ使用量15.2GB

 体温33.2℃

 心拍数24

 血中酸素濃度68%


 すべてのパラメータが、人間としての正常値から逸脱しながら、別の基準での最適値に収束していく。


 突然、強烈な衝動が高林の全身を貫いた。


 西へ。


 それは思考ではなかった。外部から注入されたコマンド。プログラムの一行。拒否しようとした瞬間、全神経に激痛が走った。焼けるような、凍てつくような、相反する感覚が同時に襲いかかる。


 高林は立ち上がった。いや、立ち上がらされた。足が勝手に動き始める。オフィスを出て、エレベーターへ。ボタンを押す指の動きも、扉が開くのを待つ数秒の間も、すべてが何者かにコントロールされている。


 同時に、高林は理解していた。自分という存在が、すでに書き換えられていることを。個人ではなく端末に。人間ではなくインターフェースに。西部の湖底に眠る怪異が、物理世界に顕現するための最後のゲートウェイに。


 エレベーターが一階に着く。夜のオフィスビルは静まり返っている。警備員が挨拶をしてきたが、その顔はモザイクのように見えた。解像度の低い、旧世代の存在。もはや同じ次元に生きていない。


 自動ドアを抜け、街路に出る。神楽坂から飯田橋への雑踏は、いつも通りの喧騒に包まれていた。しかし高林の目には、すべてが違って見えた。行き交う人々の頭上に、それぞれのステータスが表示される。生体情報、感情指数、適合率。その中で、高林と同じように青白い光を帯びた者が、点々と存在していることに気づく。


 ショーウィンドウに映る自分の姿を見た。


 そこにいたのは、高林泰三ではなかった。


 無表情な制服姿の少女が、ガラスの向こうから見つめていた。


 見たことがある。

 気のせいか。

 瞬きをする。

 高林に戻る。

 もう一度瞬き。

 少女が現れる。

 ガラスに映った二つの映像が、古いブラウン管テレビのように、次々に切り替わる。


 やがて切り替わりの速度が上がり、二つの像が重なり始めた。高林泰三という編集者と、正体不明の少女。異なるデータが同じ領域に書き込まれ、情報が干渉し合う。もうすぐ、どちらかが、あるいは両方が消滅する。


 改札を通る。ICカードをタッチした瞬間、改札機が異常な電子音を発した。しかしゲートは開く。駅員は何も気づかない。ホームへ下りる階段で、高林は自分の影が二重になっていることに気づいた。一つは高林の影。もう一つは、少女のシルエット。


 西へ向かう最終電車が、ホームに滑り込んでくる。車体に描かれた行き先表示が、一瞬、文字化けして見えた。奥多摩ではなく、存在しない駅名が表示されていた。


 扉が開く。


 車内は異常に空いていた。わずかな乗客は皆、高林と同じような青白い光を帯びている。彼らの表情は一様に無く、視線は一点に固定されていた。西の方角へ。


 高林の足が、車内へ踏み込む。つり革を掴む手も、席に座る動作も、すべてがプログラムされた動きだった。同時に、体内のプロセスは加速し続ける。計算、変換、圧縮、出力。脳の全領域が、巨大な何かが現実世界へ染み出すための、最後の演算を実行している。


 電車が動き出す。窓の外の景色が、次第に歪んでいく。建物が溶け、道路が波打ち、空が割れる。現実という名のテクスチャが、少しずつ剥がれ落ちていく。


 その向こうに、本当の世界が姿を現し始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ