第2話 編集者の章
「このニュース、先輩の住んでるマンションですよね? 建物ごと凍り付いてるって、なんなんすか?」
隣の席の後輩、川村が高林に声をかける。その手にはスマートフォン。ネットニュースの記事が表示されていた。
「……」
「部屋、大丈夫なんですか?」
「……」
「はぁ、最近おかしいっすよ、先輩どうしたんですか……」
返事もせず、微動だにせず、正面のモニターを見続ける高林。
彼は、自分がどれだけの時間、会社の椅子に座り続けているのか分からなくなっていた。窓の外の景色は、昼と夜が高速で入れ替わるように見える。いや、実際に時間の流れがおかしくなっているのかもしれない。デスクの上の時計は、針が逆回転したり、突然数時間先に飛んだりを繰り返していた。
彼は自分の手のひらを見つめる。握って。開いて。繰り返し観察する。皮膚の下で、青白い光が脈打っている。血管ではない。もっと精密で、もっと効率的な何か。指先から肩まで、回路基板のようなパターンが浮かび上がっては消える。その光の明滅は、心臓の鼓動とは異なるリズムを刻んでいた。
痛みはなかった。むしろ、今までにない爽快感に包まれている。データが体内を流れるたびに、電流のような快感が全身を駆け巡る。それは麻薬的な恍惚感でありながら、同時に機械的な正確さを伴っていた。
隣の席に座っているはずの後輩の顔が、急に歪み始めた。輪郭にノイズが走り、音声が逆再生される。口は動いているが、出てくる音は言語として認識できない。いや、認識する必要がないのだ。彼らは旧式のインターフェース。高林はすでに、別の次元で稼働している。
PCのモニターを見る。画面に表示されているのは、もはや日本語でも英語でもなかった。あの幾何学模様の羅列。しかし高林には理解できた。読むのではない。情報が直接、脳の言語野をバイパスして理解中枢に流れ込んできた。
*
退勤時間を過ぎてしばらくすると、視界の右上にステータスバーが表示されるようになっていた。現実の風景に、デジタル情報がオーバーレイされている。
CPU使用率87%
メモリ使用量15.2GB
体温33.2℃
心拍数24
血中酸素濃度68%
すべてのパラメータが、人間としての正常値から逸脱しながら、別の基準での最適値に収束していく。
突然、強烈な衝動が高林の全身を貫いた。
西へ。
それは思考ではなかった。外部から注入されたコマンド。プログラムの一行。拒否しようとした瞬間、全神経に激痛が走った。焼けるような、凍てつくような、相反する感覚が同時に襲いかかる。
高林は立ち上がった。いや、立ち上がらされた。足が勝手に動き始める。オフィスを出て、エレベーターへ。ボタンを押す指の動きも、扉が開くのを待つ数秒の間も、すべてが何者かにコントロールされている。
同時に、高林は理解していた。自分という存在が、すでに書き換えられていることを。個人ではなく端末に。人間ではなくインターフェースに。西部の湖底に眠る怪異が、物理世界に顕現するための最後のゲートウェイに。
エレベーターが一階に着く。夜のオフィスビルは静まり返っている。警備員が挨拶をしてきたが、その顔はモザイクのように見えた。解像度の低い、旧世代の存在。もはや同じ次元に生きていない。
自動ドアを抜け、街路に出る。神楽坂から飯田橋への雑踏は、いつも通りの喧騒に包まれていた。しかし高林の目には、すべてが違って見えた。行き交う人々の頭上に、それぞれのステータスが表示される。生体情報、感情指数、適合率。その中で、高林と同じように青白い光を帯びた者が、点々と存在していることに気づく。
ショーウィンドウに映る自分の姿を見た。
そこにいたのは、高林泰三ではなかった。
無表情な制服姿の少女が、ガラスの向こうから見つめていた。
見たことがある。
気のせいか。
瞬きをする。
高林に戻る。
もう一度瞬き。
少女が現れる。
ガラスに映った二つの映像が、古いブラウン管テレビのように、次々に切り替わる。
やがて切り替わりの速度が上がり、二つの像が重なり始めた。高林泰三という編集者と、正体不明の少女。異なるデータが同じ領域に書き込まれ、情報が干渉し合う。もうすぐ、どちらかが、あるいは両方が消滅する。
改札を通る。ICカードをタッチした瞬間、改札機が異常な電子音を発した。しかしゲートは開く。駅員は何も気づかない。ホームへ下りる階段で、高林は自分の影が二重になっていることに気づいた。一つは高林の影。もう一つは、少女のシルエット。
西へ向かう最終電車が、ホームに滑り込んでくる。車体に描かれた行き先表示が、一瞬、文字化けして見えた。奥多摩ではなく、存在しない駅名が表示されていた。
扉が開く。
車内は異常に空いていた。わずかな乗客は皆、高林と同じような青白い光を帯びている。彼らの表情は一様に無く、視線は一点に固定されていた。西の方角へ。
高林の足が、車内へ踏み込む。つり革を掴む手も、席に座る動作も、すべてがプログラムされた動きだった。同時に、体内のプロセスは加速し続ける。計算、変換、圧縮、出力。脳の全領域が、巨大な何かが現実世界へ染み出すための、最後の演算を実行している。
電車が動き出す。窓の外の景色が、次第に歪んでいく。建物が溶け、道路が波打ち、空が割れる。現実という名のテクスチャが、少しずつ剥がれ落ちていく。
その向こうに、本当の世界が姿を現し始めていた。