第1話 狩人たちの章
市ヶ谷駐屯地の地下三階。防音壁に囲まれたブリーフィング室に、冴島宗一郎三佐は立っていた。正面の大型モニターには幾つものウィンドウが開かれ、それぞれが不穏なデータを示している。
編集者、高林泰三の脳波パターン。通常の人間では考えられない周波数帯域での活動。θ波とδ波が同時に活性化し、さらに計測機器の上限を超える未知の波長が検出されている。別のウィンドウには、高林のPCから検出されたワームの拡散経路図。通常のインターネット回線を経由せず、電磁波として空間を伝播している可能性を示すデータ。
そして西部の湖に設置された観測ブイからの、エネルギー反応グラフ。水深百メートル地点で、地震計が捉えきれないほどの微細な振動が継続的に発生している。その周期は、高林の脳波パターンと完全に同期していた。
「上層部より達。フェーズ2へ移行」
通信士官の報告に、冴島は頷いた。任務内容は把握している。対象『エディタ』の確保。ただし、救助ではない。怪異の情報が完全に外部へ漏出する前に、器そのものを物理的に遮断する。
隊員たちが装備を点検し始めた。89式小銃には特殊弾薬が装填される。弾頭に練り込まれた黒曜石の粉末は、奈良県の特定の採石場から極秘に調達されたもの。銀の含有率も通常の弾薬の三倍。音響共鳴装置は、可聴域外の周波数を発生させ、空間の物理法則を一時的に歪ませる。幾何学パターン投光器は、非ユークリッド幾何学に基づく図形を高速で切り替えながら投影する。
どれも通常の装備ではない。過去七年間で発生した同種の「案件」から得られた知見を基に、防衛省の特殊研究部門が開発した対怪異用装備だった。
*
午前二時四十三分。冴島率いる六名の隊員が、新宿区内の高林が住んでいるマンションに到着した。築十五年の建物は、周囲の建築物と何ら変わりない外観を保っている。しかし、エントランスの自動ドアは半開きのまま停止し、ガラスの表面に細かい霜が張り付いていた。
隊員の一人が携帯型の温度計を取り出す。外気温十八度。建物に近づくにつれ、数値は急激に低下していく。エントランスを通過する際には、マイナス二度を示していた。
内部から漂う異臭に、隊員たちが顔をしかめる。湖底の泥とオゾンが混じったような、有機的でありながら無機的な匂い。天井の蛍光灯は不規則に点滅し、その度に微かな静電気音がパチッと音を立てる。
エレベーターは使わない。非常階段を音もなく上がる。各階の踊り場で、隊員たちは立ち止まり、異常の有無を確認する。三階を過ぎたあたりから、壁に奇妙な染みが現れ始めた。水が染み出したような跡だが、触れても濡れていない。染みの形は、階を上がるごとに複雑になり、六階では明確な幾何学模様を描いていた。
七階の防火扉を開けると、廊下全体が薄い霧に包まれていた。隊員の吐く息が白い。温度計はマイナス十二度。防寒装備を着用していても、寒さが骨身に染みる。
目標の部屋、704号室。ドアノブには霜が張り付き、鍵穴から微かに青白い光が漏れている。隊員の一人が電子聴音器をドアに当てる。内部からは、規則的な電子音と、何かをタイピングするような連続音が聞こえてきた。
冴島がハンドサインで配置を指示する。二名がドアの両脇に、二名が対面の壁際に、残る一名が音響装置の起動準備。全員が位置についたことを確認し、冴島は三本指を立てた。
三、二、一。
三名の隊員が、アセチレンバーナーに点火する。
三箇所あるドアの蝶つがいをあっという間に溶かした。
ドアを引き剥がし、隊員たちが室内に踏み込む。
リビングの光景は、想定を超えていた。
家具はすべて壁際に押しやられ、床には複雑な回路図のような模様が、青白い光で描かれている。天井からは、物理法則を無視して水滴が上に向かって落ちていた。そして部屋の中央、高林泰三がいた。
彼はPCの前に座っている。
が、機器は電源に接続されていない。
モニターもキーボードもマウスも、すべてケーブルが抜かれている。
それにも関わらず、画面には高速でスクロールする文字列が表示され、高林の両手は虚空をタイピングし続けていた。その速度は、人間の限界を遥かに超えている。一秒間に数百回という、機械的な精密さでの打鍵。
高林がゆっくりと振り返った。
瞳にノイズが走っている。テレビの砂嵐のような、無数の白と黒の点が眼球全体を覆い、その奥で何かが点滅していた。皮膚は青白く、血管が回路図のようなパターンで浮き上がっている。
口が開く。しかし発せられた声は、高林のものではなかった。複数の男女の声が重なり合い、機械的に処理されたような合成音。年齢も性別も判別できない、人工的でありながら有機的な響き。
「レンダリング完了。シーケンス移行」
その瞬間、室内のすべての電子機器が暴走を始めた。
同時に室温が急速に低下してゆく。
「撤退だ! 全隊員、速やかに――」
冴島宗一郎三佐の叫び声。彼は最後まで言えずに凍り付いた。