第1話 内側からの侵食
精神医学的記録
資料11-1:産業医面談記録(音声書き起こし)
対象者:高林 泰三
実施日:2025年5月18日
産業医:お待たせしました。最近、集中力の低下や不眠を訴えていると同僚の方から伺いましたが。
対象者:いえ、少し疲れているだけです。締め切りが近いので。
産業医:なるほど。何か気になることや、変わったことは?
対象者:(10秒沈黙)……歌を、逆さに歌うんです。頭の中で。七番から、一番まで。そうすれば門が開く。
産業医:門、ですか。
対象者:はい。位相を固定して、器に満たすための……いえ、何でもありません。
産業医:高林さん、今のお話をもう少し詳しく聞かせていただけますか。
対象者:すみません、ちょっと疲れて変なことを。大丈夫です。
産業医:そうですか。では、睡眠の状況はいかがでしょう。
対象者:眠れています。ただ、夢が……いえ、夢じゃない。処理が終わらないんです。
産業医:処理、と言いますと?
対象者:データの解凍です。圧縮率が高すぎて、展開に時間が……すみません、仕事の話を。
産業医:いえいえ、お仕事のストレスも健康に影響しますから。その、データの解凍というのは?
対象者:(5秒沈黙)湖底からのデータです。945世帯分の記憶と、もう255世帯の……いえ、違います。編集の仕事です。原稿の、圧縮ファイルの話です。
産業医:湖底、とおっしゃいましたが。
対象者:言いましたか? 覚えていません。最近、自分が何を話しているのか、時々分からなくなって。
産業医:それは心配ですね。いつ頃からそのような症状が?
対象者:5月の……15日? 16日? 女の子が来てから。制服の。でも、その前から何かが始まっていた気がします。4月3日の日記から。
産業医:日記?
対象者:他人の日記です。拾った……いえ、預かった。警察に届けました。でも、読んでしまった。読んではいけないものを。
産業医:(筆記音)なるほど。その日記には何が書かれていたのですか?
対象者:水の音。西へ向かう人々。消える人。透ける女。そして……(20秒沈黙)
産業医:高林さん?
対象者:すみません。今、頭の中で第七節が始まって。止められないんです。逆から歌わないと、順番に歌ってしまうと、何かが完成してしまう。
産業医:歌、というのは具体的にどのような?
対象者:古い言葉です。日本語だけど、日本語じゃない。音と意味が層になって重なっている。理解できないはずなのに、理解してしまう。
所見:
会話内容に脈絡のない発言(「逆順の歌」「位相固定」等)が散見される。本人は無自覚の模様。解離性障害、統合失調症の初期症状の可能性を否定できず。専門医による精密検査を強く推奨する。
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資料11-2:高次脳機能検査レポート(抜粋)
被験者:高林 泰三(32歳)
検査機関:帝都大学医学部付属病院 精神神経科
検査項目:fMRI(機能的磁気共鳴画像法)による言語野マッピング
結果概要:
被験者に標準的な日本語の文章を黙読させた際、脳の言語野(ブローカ野、ウェルニッケ野)は正常範囲の活動を示した。
しかし、意味のないランダムな文字列(例:$55&G(HGRY)を提示した際、両領域は常人には見られない極めて複雑かつ広範囲な活動パターンを呈した。特に視覚野と記憶を司る海馬との間に、異常なレベルの機能的結合が確認された。
考察:被験者の脳は、一見無意味な情報を、既知のどの言語体系とも異なる、独自の構造を持つ「言語」として認識と処理をしている可能性が示唆される。これは高度な暗号解読、或いは未知の言語のネイティブスピーカーに見られる脳活動に類似する。
特記事項:検査中、被験者は無意識に指で複雑なパターンを描く動作を繰り返した。その動きを解析したところ、一定の規則性が認められたが、既知のどの記号体系とも一致しなかった。
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資料11-3:睡眠ポリグラフ検査記録(添付資料)
[画像:睡眠中の被験者の急速眼球運動(REM)の軌跡をプロットした図]
実施日:2025年5月19日~20日
検査施設:帝都大学医学部付属病院 睡眠医療センター
キャプション:一晩のレム睡眠中、被験者の眼球運動が描いた軌跡の累積データ。音声ファイル「AUDIO_NOISE_SAMPLE_04.flac」のスペクトログラムに現れた、幾何学的なパターンと完全に一致していることが確認された。
追記:被験者の睡眠中の脳波パターンにも異常が認められた。特にレム睡眠時の脳波は、通常の夢見状態とは異なり、覚醒時の高度な認知活動に近い波形を示した。被験者は睡眠中も何らかの「処理」を継続している可能性がある。




