第3話 逆順の歌
「KASHIMA_REVERSE_SEQUENCE.docx」をダブルクリックする。
Wordが起動し文書が表示される。予想していたような、古めかしい手記ではなかった。むしろ現代的な、技術文書のような体裁をしている。
冒頭には、プログラミングのコメントを思わせる記述があった。
「Sequence8:Inversion」
「パラメータ変更を禁ず」
続いて、関数定義のような記述。
FUNCTION invoke_vessel(target:editor_subject)
invoke——呼び出す。
vessel——器。
editor_subject——編集者という対象。
高林の背筋に、冷たいものが走った。これは一般的な技術文書ではない。高林のような、編集者に向けて書かれている。
読み進める。
INPUT:GEO_SURVEY_RAW.dat——先ほど確認した生データファイルを入力として使用。
CATALYST:Psuedo-neurotransmitter(Og-C9H13N)——触媒は疑似神経伝達物質。分子式にオガネソンが含まれている。理論上の化合物。
手順が三つ。
一、第七節より第一節へ、逆順に歌を詠唱せよ。
二、座標を北緯35度、東経139度に固定。
三、[最重要]生データよりLOG_731.datをレンダリングせよ。
レンダリング。データから情報を生成する処理。CGや動画編集でよく使われる用語だが、ここでは別の意味を持っているようだ。
座標をGoogleマップで確認する。奥多摩湖の中心部。かつて小河内村があった場所。
文書の続きには「歌」が記されていた。第七節から始まる、詩のような文章。
第七節
水底より響く声は
七つの門を開きたり
逆しまの塔は天を指し
時の螺旋は解かれん
第六節は文字化けしていて読めない。フォントが壊れているのか、エンコーディングの問題か。四角や三角の記号が並んでいるだけだ。
第五節
器は満ちて溢れ出でん
情報の海に沈みゆく
肉は回路となりて
意識は拡張せん
第四節
編集せし者は器となりて
情報の番人と化さん
読みて理解せし時より
変容は始まれり
高林は読むのを止めた。第四節の内容が、あまりにも直接的すぎる。編集する者は器となる。これは警告なのか、それとも——。
しかし、文書全体の体裁の乱れが気になった。フォントがバラバラで、行間も不揃い。インデントは統一されておらず、全角と半角が混在している。プロの編集者として、このような雑な文書を見ると、どうしても手を加えたくなる。
職業病だ。分かっている。しかし、せめて読みやすくしたい。
まず、フォント設定から始めた。全体を選択し、游明朝に変更。彼が好きなフォントだ。サイズは10.5ポイントで統一。
次に、段落の調整。詩の部分は中央揃えに。プログラムコードのような部分は、適切にインデントを設定。タブとスペースが混在していた部分を修正。
校正機能が、見慣れない単語に赤い波線を引く。
「Og-C9H13N」
「invoke_vessel」
「Psuedo-neurotransmitter」
一つずつ右クリックし「無視」を選択していく。
作業に没頭していく。改行位置の調整、句読点の統一、明らかな誤字の修正。内容の異常性など、もはや意識の外だ。ただ、文書として美しく整えることだけを考える。
「第参節」となっていた部分を「第三節」に修正。「詠唱」の「詠」の字が旧字体だったので、常用漢字に変更。細かい修正を重ねていく。
ふと、画面から目を離す。
オフィスは完全に無人になっていた。最後まで残っていた同僚も、いつの間にか帰ったらしい。フロア全体が消灯され、高林の席だけが、LEDスタンドの光に照らされていた。
時計を見る。午後十時を回っていた。三時間以上、文書の編集に没頭していたことになる。
画面に視線を戻す。
文書の最後、カーソルが点滅している場所に、見覚えのない一文があった。
――レンダリングを完了しました。
いつ追加されたのか。高林が入力した記憶はない。キーボードに触れた覚えもない。しかし、確かにそこに、その一文が存在していた。
保存履歴を確認する。最終更新は、たった今。更新者は、高林泰三だった。




