第5話 日記 4月19日
これが最後の記録になるかもしれない。
もう何が現実で、何が幻覚なのか分からない。
昨日の深夜二時頃だった。カーテンの向こうに人影を感じて目が覚めた。三階の部屋なのに、窓の外に人がいるはずがない。しかし、確かに誰かが立っている。
恐る恐るカーテンを開けた。
女がいた。
長い黒髪が顔を覆い、全身がびしょ濡れだった。水から上がってきたばかりの様子で、白い着物のようなものを着ているが、水を吸って体に張り付いている。
女は動かない。ただ、窓ガラス越しにこちらを見ている。いや、顔は髪で隠れているから、本当に見ているのかは分からない。でも、視線を感じる。
金縛りにあったように動けない。女もまた、微動だにしない。
どれくらい時間が経っただろうか。女の体が、少しずつ透けていく。最初は着物が透明になり、次に肌が、そして――
女の体の内側に、別の光景が見えた。
動いていた。大きな何かが動いていた。
女が口を開いた。
その瞬間、部屋中に水が溢れ出した。窓も、ドアも、壁も、天井も、すべてから水が噴き出す。冷たい水があっという間に膝まで達する。溺れる。息ができない。
必死にもがいた。水は喉に、肺に流れ込んでくる。苦しい。意識が遠のいていく。
最後に見たのは、女の顔だった。
髪がかき分けられ、顔が露わになった。
*
気がつくと朝だった。
床は乾いている。窓も割れていない。すべてが元通りだ。しかし、部屋中に泥と藻の匂いが充満している。布団は湿っている。そして、枕元に何かが落ちていた。
鱗。
もう限界だ。
頭の中で声が響いている。
「帰ってこい」
「お前の居場所はそこではない」
抗えない。
今から家を出る。西へ向かう。どこへ行くのかは分からない。いや、体は知っている。この体は、もう自分のものではないのかもしれない。
最後に一つだけ書いておく。
もしこの日記を読んだ人がいたら、忘れてほしい。関わらないでほしい。水の音が聞こえても、無視してほしい。
けれど、もう遅いかもしれない。
あなたはこれを読んでしまった。