第3話 指名
「祖母は、これが何なのか、誰にも話してはいけない、と」
少女の声が、静まり返った応接室に落ちた。外の喧騒がひどく遠い。
「でも、『正しく読める人』にだけ渡しなさい、と言い遺しました」
少女の瞳が、高林を射抜いた。逃げ場のない、深い井戸のような瞳。
「あなたは、わたしの日記を読んで、ただ面白がるでもなく、むやみに騒ぐでもなく、警察に届けてくれた」
一語一語が、判決文のように響く。高林は金縛りにあったように動けない。
「だから、あなたなら、と……」
つまり彼女に選ばれた。
その事実が、鉛のように重くのしかかる。望んでもいない、求めてもいない役割。この異常な記録を読み解き、何かに仕立て上げる役目。
「もし……この手記の本当の意味が分かるなら、本にしてください。それが、祖母との約束なので」
少女は深く頭を下げた。完璧な角度で、完璧な時間だけ。顔を上げると、もう高林のことなど眼中にないかのように立ち上がった。スクールバッグを手に取り、規則正しい足取りでドアへと向かう。振り返ることもなく、廊下へと消えていった。
高林は金縛りが解けても、すぐには動けなかった。応接室のテーブルに残されたクリアファイルとUSBメモリ。それらを見つめながら、理解していた。
これは単なる持ち込み原稿ではない。久坂部准教授が命を賭けて追い求めたもの、蓮見教授が最期に託そうとしたもの、朝霧雫が犠牲になってまで書こうとしたもの。すべての断片を繋ぐ、最後のピース。
同時に、これは呪いだ。触れた者を、正常な世界から引き剥がす。編集者としての好奇心が、本能的な恐怖を一瞬だけ上回った。この混沌とした記録を整理し、読み解き、一つの物語として編纂する。それは高林の専門分野だった。
その瞬間こそが分水嶺。踏み出せば引き返せない。
手を伸ばし、USBメモリを掴んだ。
高林泰三の平凡な日常は、音もなく崩壊した。
窓の外では、いつもと変わらない神楽坂の午後が流れていた。だが、この応接室から出た時、高林が見る世界は、もう二度と同じものではないだろう。




