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東京の西に関する、いわゆる怪異の断章  作者: 藍沢 理
第8章 歴史の暗部

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第1話 東京都水道局広報資料

「小河内ダムのあゆみ」及び「奥多摩町史 歴史編」からの抜粋


東京都水道局 広報資料「小河内ダムのあゆみ」(平成27年改訂版)より抜粋


第3章 建設の経緯


小河内ダムは、昭和13年に着工し、戦争による中断を経て昭和32年に完成した、東京都の水源確保を目的とした多目的ダムである。総貯水容量1億8,910万立方メートルを誇り、完成当時は日本最大級の人造湖であった。


建設にあたっては、旧小河内村全域が水没することとなり、945世帯、約6,000人の住民が移転を余儀なくされた。昭和13年3月15日、時の小河内村長、石川源三郎氏は「子々孫々のため、東京都民のため、断腸の思いで調印する」と涙ながらに語り、移転同意書に署名した。


当時の東京日日新聞(昭和13年3月16日付)は次のように報じている:

「石川村長は調印後、『先祖代々の土地を離れることは身を切られる思いだが、これも時代の要請。ただ、村に伝わる古い約束事だけは、どうか忘れないでいただきたい』と謎めいた言葉を残した」


この「古い約束事」が何を指すのか、公式記録には残されていない。


建設工事は困難を極めた。急峻な地形、度重なる豪雨、そして戦時下の資材不足。これらの悪条件の中、延べ600万人の労働者が従事し、昭和32年11月26日の竣工までに87名の尊い命が失われた。


特異なことに、殉職者の多くは旧神社跡地付近での事故に集中しており、その死因も「転落」「圧死」といった通常の土木事故とは異なる「原因不明」が14件含まれていた。


奥多摩町史・歴史編(昭和58年刊行)より抜粋


第12章 小河内ダムと集落移転


移転対象となった集落は、小河内村の中心部をはじめ、川野、原、岫沢、川苔、熱海、鶴の湯の各集落であった。これらの集落には、縄文時代から続く遺跡も多く、特に川野地区の「七ツ釜遺跡」からは、他に類を見ない特異な土器片が発見されている。


移転に際し、最も困難を極めたのは墓地の移転であった。村内には大小合わせて73箇所の墓地があり、総数にして3,000基を超える墓石の移転が必要となった。しかし、古い記録を精査すると、実際に移転されたのは2,987基であり、13基が「所在不明」として処理されている。


特筆すべきは、旧神社跡地にあった「封じ塚」と呼ばれる場所である。村の有力者たちは、この場所について語ることを極度に忌避し、移転工事の際も「触れてはならない」と強く主張したという。


当時の聞き取り記録より:

「あそこには、村ができる前から何かがおる。代々の神主だけが知っとった。年に一度、七月七日の夜中に鹿島踊りをして、それを鎮めとった。ダムに沈めば、もう踊れん。どうなることか」(当時92歳 元神社総代)


しかし、工事の必要上、昭和25年11月7日に発掘調査が行われた。その後の記録は簡易化され「特記すべき遺物なし」とのみ記載されている。ただし、調査に参加した作業員の多くが、その後原因不明の病で倒れたという非公式な記録が残されている。


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