第6話 最悪の報道
5月12日、午前8時15分。
蒼玄書房の編集部は、いつものように慌ただしい朝を迎えていた。コーヒーの香りと、プリンターの稼働音。そして、誰かがつけたテレビから流れるニュース番組の音声。
高林泰三は、自席で企画書の手直しをしていた。久坂部准教授の遺稿をどう出版するか、それが今の最大の懸案事項だった。
「おい、ちょっとボリューム上げてくれ!」
誰かが叫んだ。
高林が顔を上げると、同僚たちがテレビの前に集まっていた。画面には「臨時ニュース」のテロップ。
『臨時ニュースです。本日未明、奥多摩町の山中で、陸上自衛隊員53名と民間人1名が遺体となって発見されました』
アナウンサーの声が、静まり返った編集部に響く。
『警察の発表によりますと、死因は現在調査中ですが、全員が溺死の症状を示しているとのことです。しかし、現場は最も近い水場からも3キロ以上離れた山中で――』
高林の血の気が引いた。奥多摩町。それは、久坂部准教授が調査していた、あの湖がある場所だ。
『犠牲者の中には、災害派遣で現地入りしていた陸上自衛隊特殊作戦群の隊員のほか、民間人1名が含まれています』
画面に、犠牲者の氏名が表示され始めた。高林は息を詰めて見つめた。
そして――
『民間人の犠牲者は、東京大学大学院人文社会系研究科教授、蓮見壮介さん、65歳です』
手にしていたペンが、音を立てて床に落ちた。
蓮見教授。久坂部准教授が「この人なら」と最後に名前を挙げた、日本民俗学界の重鎮。その人までもが。
周囲の喧騒が遠のいていく。目の前が真っ暗になる。高林の意識は、机の引き出しにしまってある一通の封筒に向く。今朝届いたばかりの速達。差出人は蓮見壮介教授。
震える手で封筒を取り出し、開封する。
中には、便せんが一枚。
『高林泰三様
突然の連絡、失礼いたします。
久坂部君から、あなたのことは聞いています。
明日、自衛隊と共に現地調査に入ります。
おそらく、これが人生最後の調査になるでしょう。
国も、自衛隊も、学問も、あれには無力です。
もはや、残された手段は一つ。
記録し、後世に伝えること。
あなたがその適任者だと、久坂部君が言っていました。
同封のUSBメモリに、すべてを託します。
蓮見壮介』
封筒の底に、小さな黒いUSBメモリが入っていた。
高林は周囲を見回した。同僚たちはまだテレビに釘付けになっている。続報では、現場の異常な状況が報じられていた。真夏のような気温の中、遺体は全員、低体温症の症状を示していた。そして、肺に入っていたのは淡水ではなく、塩分濃度の高い水だった。
高林はゆっくり席を立ち、誰もいない会議室に入った。ノートパソコンを起動し、USBメモリを差し込む。
ウイルスチェックの後、フォルダが開いた。
久坂部准教授の完全な調査記録。蓮見教授の分析ノート。自衛隊の観測データ。そして――。
一つの動画ファイルがあった。タイムスタンプは昨日の日付。撮影者は蓮見教授らしい。
高林は再生ボタンを押そうとして、手を止めた。
今ここで見るべきか。と。
いや、まずは全体を把握すべきだ。他のファイルも確認してから、慎重に判断しよう。
高林は、震える手でUSBメモリを抜いた。
これは、久坂部准教授と蓮見教授が、命と引き換えに残した記録。国家機関の総力を挙げても止められなかった何かの証拠。
その記録が自分の手にある。
高林泰三は、深呼吸をした。恐怖で足が震えている。だが、やるべきことは明確だった。
記録し、後世に伝える。
それが、死んでいった人々から託された使命だった。




