第1話 電子メールと郵送物
東京大学大学院人文社会系研究科、本郷キャンパス。午後11時を回った研究室で、蓮見壮介教授は薄暗いデスクライトの下、ノートパソコンの画面を見つめていた。
受信トレイに残る一通のメール。差出人は、3日前に湖畔で遺体となって発見された教え子、久坂部遼一。件名は「緊急:調査報告」。
何度読み返しても、その内容は信じがたいものだった。
『蓮見先生
お忙しい中、突然のメール失礼いたします。
現在、西部山間部で民俗調査を行っておりますが、予想を超える発見がありました。
先生、とんでもないものを見つけてしまいました。この湖はただのダムではありません。
あれは何かを封印するための巨大な蓋なのです。
添付した写真をご覧ください。本日、地元の漁師の協力で湖底から引き上げたものです』
添付ファイルを開く。高解像度の写真が数枚。黒い石版の表面に刻まれた文字――いや、文字と呼べるかどうか。蓮見教授は40年近い研究生活で、シュメール文字から線文字B、マヤ文字まで、ありとあらゆる古代文字を見てきた。しかし、この記号は既知のどの文字体系とも一致しない。
幾何学的でありながら有機的。規則性があるようで混沌としている。長く見つめていると、記号が蠢いているような錯覚すら覚える。
『石版の年代測定はまだですが、周囲の堆積物から推定すると、少なくとも300年は水底にあったと思われます。
明日、さらに深い場所を調査します。地元の伝承によれば、湖底には「大穴」と呼ばれる縦穴があるそうです。
先生、もし私の身に何かあったら、国に知らせてください。これは、個人で扱える案件ではありません。
民俗学の枠を超えています。いえ、もしかすると、現代科学の枠組みそのものを超えているかもしれません。
明朝、また報告いたします。
久坂部』
メールの送信時刻は5月7日午後10時47分。その約3時間後、久坂部は湖から50メートル離れた場所で、海水で溺死した状態で発見された。
机の上には、久坂部から郵送で届いたぶ厚い資料。すでに目を通したあとだ。
蓮見教授は眼鏡を外し、疲れた目を揉んだ。
教え子の死は悲しい。だが、それ以上に恐ろしいのは、彼が残した情報の意味だった。優秀で冷静な研究者だった久坂部が、これほど切迫した文面を送ってくるということは――。
研究室の窓から、夜の東京の街明かりが見える。平和で日常的な光景。しかし、西の山中で何かが起きている。久坂部が命と引き換えに伝えようとした何かが。
蓮見教授は、深いため息とともに決断した。




