戸籍を欲する女 04
葵の毒気に当てられた時子は、千景の淹れてくれたカフェ・オレを一口飲んでぐったりと椅子に凭れていた。
目の前では孝明と千景が昨日の依頼の話を葵に聞かせている。
「庇ってる?志乃って人が犯人じゃなくて?」
葵の口にした言葉は、昨日時子が言った言葉と逆だった。
「その誰かの行動を止めるために、戸籍が欲しいんじゃないんですか?」
孝明の言葉を聴いて泣き崩れた志乃は、しばらく顔を上げることができなかった。
時子は眉を顰める千紘の視線を感じながらも、志乃の隣に座り何度も背中を撫でた。
「ありがとう、もう大丈夫です」
そう言いながら顔を上げた志乃を見て、時子は正直ドキドキした。
涙に濡れた少し視線の緩んだような瞳と、頼りなげな表情。
ぎゅっと抱きしめたくなった。
(こんな人が人を殺すなんて思えない)
全ての人間が性善説で語れないように、人外の生き物も全てが人間と同じ物差しで物を考えたり、行動しているわけではない。
その生き物の習性や生きるための糧、さまざまな要因が重なり、多くの選択をして生きている。
それは時子にも分かっている。
人生経験なんて呼べるものを持っていないに等しい時子だが、時子のその浅い人生経験に照らし合わせたとしても、志乃が人を殺したとは思えないし、思いたくなかった。
(これも 私の我侭なのかな?)
「私には同じころに生まれ、一緒に生きてきた妖がいます。その行方不明が起こっているというのが事実であれば、もしかしたら彼女が私のためにしていることかもしれません」
志乃は蒼い顔のまま視線を自分の膝に落とすようにしてゆっくりと唇を開いた。
「彼女が私の願いを叶えようとしてくれているのかもしれません」
「願いというと、戸籍のことですね」
「はい、戸籍があれば主人の願いが叶えられると話したことがあります」
「彼女は、あなたの願いはご主人の願いを叶えることだと理解した」
「はい、彼女に戸籍というのは人間みんなが持っているものかときかれて、そうだと答えました。私の責任です。それに彼女に木霊が戸籍を手に入れて幸せになったということも話した記憶があります」
志乃はそこで言葉を切り、唇を噛んで痛みを堪えるような表情をした。
「木霊はやっと幸せになったのに・・・。取り返しが付かないことを・・・」
志乃の嗚咽が聞こえる中、孝明は腕を組天井を見据えながら何かを考え。千紘は感情の伺えない瞳で志乃を見詰め続けている。
時子は窓に目を向けて千景のことを探した。
助けを求めるような心境だった。
目の合った千景は一瞬驚いたように目を見開いた後、口角を上げてニッコリ微笑んだ。
時子は救われたよな気がした。
千景さんは私の気持ちを分かってくれてる。
不安を取り除こうとしてくれてる。
「戸籍を作ることはできます」
孝明の言葉に、志乃はゆっくりと、千紘は弾かれたように顔を上げた。
孝明は腕を解き、両手を軽く握るようにして柔和な表情だった。
「ただ準備と条件があります」
† † † † † †
「多分彼女は嘘は言ってない、彼女から血の臭いはしなかった」
「それだけで信じろと?」
葵は下から睨みあげるように孝明の顔を見た。
「まさか、美人は嘘をつかないとか、言いませんよね?」
すると、孝明は思い切り破顔した。
「もちろん、目の前に美人は大嘘つきって見本が居るからね」
「美人ってトコだけしか聞こえませんでしたわ」
葵は人差し指を頬に当てて首を可愛く傾げ、孝明が苦笑を浮かべてやりすごす。
「ただ、あの森の周辺で起こってる行方不明ってのが、本当に関連してるのか調べるべきだと思う」
「分かりました。それはお任せします」
「志乃さんには戸籍が貰えるけれど、時間が掛かると伝えるように指示してる。これで収まるかどうか・・・」
葵は腕時計に目を落とすと千景を呼んだ。
「千景くん、千紘くんは?」
「さぁ、多分校内にいると思いますけど?」
「そ、彼にはここにいてもらうとして、千景くん、時子ちゃん。先生と現地に向かってくれるかしら?」
時子はクレープを片手に機嫌よく歩いていた。
電車に揺られること約30分。
程よく自然と民家が混在し駅からも志乃にすんでいる森は目視できた。
3人はその森に向かって、ぶらぶらと歩いている。
「はぁ、朝ごはん抜きだったからおいしいー」
孝明が本当に申し訳なく思っているのか、先ほどから気持ち悪いくらいに優しいのだ。
時子と千景が手にしているクレープも、孝明からの貢物だ。
「美味しいのは分かるけど、こんなカッコイイ男の子と歩いてる女の子は、チョコとか生クリーム一杯のクレープを食べるべきじゃない?」
「それは差別だ!偏見だ!!千景さんオジサンみたい」
「孝明さんを差し置いてオジサンって・・・」
時子がレタスとベーコンとマヨネーズたっぷりのクレープを持った手を挙げながら抗議する。
「もちろん、生クリームチョコバナナは帰りに食べますよ?」
「食べるんだ・・・。時子の胃袋って底なしってか、破れてんじゃない?」
「燃費が悪いんだよ・・・。まずそんだけ喰って未だに155cmも無いなんて、おかしいだろ」
孝明が珈琲の紙コップを唇に当てながら呟く。
孝明は183cmを越した時点で身長を測るのを止めてしまったが、今も伸びているようだ。
それに比べて時子は中学のころから殆ど伸びていない。
正直、千景と孝明に挟まれると、捕獲された宇宙人・・・に見えなくも無い。
時子は双璧の2人を見上げて今後の方針を確認しようと開きかけた唇を慌てて閉じた。
前方に見覚えのある人影を見つけたためだ。
「郁子ちゃーん、どうしたの?」
両手を広げながら駆け寄り、飛びつくように抱きつくと郁子と呼ばれた少女は時子の頭をコツンと叩いた。
「人前で抱きつかない」
「ごめんね。思わず。で、どうしたの?散歩?」
郁子はこれでもかと言うほど眉を盛大に顰めて、こめかみに長い人差し指を当てた。
「なんでこんな家から40分も電車に乗らないといけないとこに散歩に来るのよ・・・」
「だよね?どうしたの?」
郁子は志乃を思い出させるような漆黒のコートに、同じく黒のスキニーパンツと脹脛丈のカウボーイブーツを履き、天然の栗色の髪を肩のラインで切り揃え、大きく内巻きにしてある。
そしてよく見れば、切れ長の大きな目は光加減で金色に見える。
「副会長さんからのお呼び出し。あんたらだけじゃ心もとないんじゃない?」
フッと皮肉げな笑みを浮かべると、珈琲を飲む孝明と、クレープを咥える千景に揶揄うような視線を向けて髪を掻きあげた。
長身でスレンダーな彼女にはそんな姿がよく似合う。
麻生郁子も逢坂学園の生徒だ。
時子たちよりも1学年上で、千紘のクラスメイトでもある。
「攻撃力じゃ、郁子ちゃんと時子にゃ勝てないからね」
孝明が苦笑交じりに答えると、何かが癪に障ったらしい郁子の眉がピクッと動いた。
郁子は孝明に向けて人差し指をクイクイッと動かして珈琲を要求した。
「ん」
孝明が自分の紙コップを渡すと、何のためらいも無く一気に煽り空になった紙コップを孝明に渡した。
「だからって、休みの早朝に変態からの電話は勘弁だわ」
葵を変態と言い切ると、表情を改めて孝明と向かい合う位置に進んで組んでいた腕を腰に当てる。
「で、詳細」
「へいへい。歩きながら出いいだろ?」
孝明と郁子が並んで歩き出し、時子と千景がそれに続く。
千景はクレープを租借しながら何故か笑いを堪えるような表情をしている。
「何か楽しいことでも?」
「郁子さんって、可愛いよね」
時子は何を今更?といった顔で怪訝な表情になった。
猫のようにしなやかに歩くいくこの背中を見詰めた。