戸籍を欲する女 02
ソファに座り、温かい珈琲が入ったカップに口をつけた依頼人は、やっと落ち着いたようだった。
華奢な身体を真っ黒なワンピースと、同じく踝まで届きそうな真っ黒なコートに包み、3人掛けのソファーにもかかわらず、時子たちから一番はなれたソファーの端に小さくなって座っていた。
目を離すと消えてしまうのではないかと思わせるような儚い美貌。
透き通った青い瞳に長い睫、そして血色の悪い唇。
(人形みたい・・・)
改めて女性を見てみると目を引くのは背中まで伸ばされた銀色の髪だ。
まだ20代半ばと思われる容姿にその髪の色は正直異様だった。
(人間じゃないんだろうな・・・)
「すみませんいきなり跳んだらびっくりしますよね」
孝明が後頭部の髪を握りながら頭を下げる。
「いえ、あなたのせいでこうなったんではないんです。私は人ごみが苦手で・・・」
耳を澄まさないと聞こえないほどの小声でしゃべる様子は、何かを怖がって警戒しているように見える。
「お名前は宮塚志乃さん。住所は・・・・・・」
千紘がバインダーを開き書類に目を通しながら確認していく。
「以上で間違いはありませんか?」
「はい」
珈琲から顔を上げた志乃は興味深そうな視線を感じたのか、時子の顔を真っ直ぐに見た。
時子が驚いて目を見開くと、後頭部を千景に軽く殴られた。
「見すぎ」
「あ、すみません」
頭を下げると志乃は軽く手を振り、自分の髪を撫でた。
「この髪、おかしいでしょ?私も染めた方がいいと思うんですけど、主人がこのままが好きだっていってくれるので・・・」
とはにかむ。
時子は素直に可愛いヒトだな、と思う。
微笑を向けられて照れてしまった。
「失礼な質問になるかもしれませんが・・・、名前も住むところもあって、ご主人もいらっしゃるのに戸籍が欲しいとはどういった理由ですか?」
千紘が愛想の無い声と表情で淡々と質問を重ねる。
志乃が珈琲カップを持った手に視線を落とす。
どう伝えようか悩んでいるのか、右手の人差し指の爪でカップをカチカチと鳴らしている。
「・・・私は・・・、自分が人間ではないことしか知りません。いつ生まれたのかも分かりません。妖怪なのか化け物なのか・・ただ50年前に出会った主人は歳をとっていくのに、私の姿は変わらないんです。それは人間ではないからだと思います。名前は主人がつけてくれたものですし、住所も主人の住んでいる家に一緒に住んでいるだけです。私の存在を証明してくれるのは主人の記憶だけなんです」
彼女は自分の話が場の雰囲気を重くしているのを感じたのだろう、笑顔を作って顔を上げたが、またすぐに俯いてしまった。
「あの、ゆっくりで大丈夫ですよ」
出来るだけ優しい声が出ているように願いながら声を掛けると、志乃の頭が小さく動いた。
「主人は恐れもせず、逃げもしないで私の近くに居てくれました。私にはそれだけで十分なんです」
志乃は何か優しい思い出を思い出したのか、ふっと頬を緩めてカップの中を覗きこむ視線を和らげた。
「でも彼には土地という財産があります。今私たちが住んでいる森なのですが・・・、主人はもう長くは生きられません。そうすると相続という問題が出てきます。
主人は私に相続して欲しいといいますが、戸籍も無い私には相続どころか、主人の縁者に会うことすらかないません・・・」
「だから戸籍が欲しいと」
孝明がゆっくりと椅子の背にもたれる。
その孝明の言い方に引っ掛かりを感じた。
「はい、森には私のように人間でも動物でもない生き物が他にも居ます。私がこれから生きていくためにも、彼らが生きていくためにも森は必要だと主人は考えてくれています」
そこで言葉を切り、孝明の方に視線をめぐらせた。
「信じていただけないかもしれませんね・・・」
吐息を吐くように、自分自身に向けた苦笑を浮かべる。
時子が感じた孝明の声に滲んでいた微かな、表現するとしたら疑念という感情を感じ取ったのだろう。
「そういう訳ではありませんが・・・。ところでここのことはどうやってお知りになりました?」
雰囲気を和らげるためか、孝明は珈琲を一口飲んで、人当たりのいい笑顔を浮かべた。
特に整った顔というわけではないが、温厚そうな顔立ちと笑顔を絶やさない表情のために、孝明は昔から男女問わず好感を持たれる事が多かった。
好青年というよりは、人誑しだと時子は思っているが・・・。
しかし、今回に限ってはそう上手くはいかず、志乃は硬い表情のまま唇を開いた。
「先ほど申し上げた通り、森には私以外にも人ではない生き物が居ます。彼らの中にこちらで助けてもらって、人間と婚姻関係を結んだというモノがいたのです。それを思い出しまして・・・」
千紘が音も無く本棚まで動き、バインダーの中の資料に目を落とながらし2冊のファイルを出してきた。
「住所から推察するとこのどちらかでしょう」
「おう」
背後に手だけを出して千尋から資料を受け取り、パラパラと捲りながらも視線は彼女を視線の中に捕らえているようだった。
「多分5年ほど前の話だと思います」
志乃はそう付けたして口を噤んでしまった。
「だすると、こっちかな」
5年前の話なら、私は知らないな・・・。
時子は孝明が開いたファイルに目をやりながら、彼らの態度に苛々するものを感じていた。
逢坂学園にはさまざまな才能を持った生徒が在籍している。
勉学やスポーツはもちろんの事、美術や日舞や演劇の才能に秀でた者。
そういった『表』に表現できる才能のほかにも、世間一般から認識されていない才能を持った「特殊能力者」「超能力者」といわれる者、「妖怪」と呼ばれる者たちが生徒として日々生活している。
そして彼らは一様に自分たちの『才能』をひた隠しにして生きてきた。これからもそれは変わらないだろう。
逢坂学園はそういった者たちを指導し、導き、生きるためのあらゆる方法を指南しており、この場所で初めて同じ能力を持った仲間に出会い、強い孤独から救われた者も多い。
ここにいる経緯はそれぞれに違う。
請われて来たもの、助けを求めてきたもの、自分の能力の存在を認めて欲しいと強く願い門を叩いたもの・・・、そういいった色々な理由でここに入り、あるものは仲間を見つけ、あるものは目的を見つけ、あるものは姿を消し、あるものは居場所を見出し、あるものは見送られた。
そしてそういった「特殊な才能」を持ったが故に予想外の障害や問題が起きることも少なくない。
その際に問題を秘密裏に解決するために発足されたのが『裏生徒会』だ。
現在の構成メンバーは生徒会長 如月依子、副会長 井沢葵、書記 国枝千紘、会計 篠田千景、雑用(?) 八幡時子。
そしてその問題に応じて助っ人として様々な生徒が力を貸す。
時子の兄、桜田孝明は保健医として高等部に在籍しており、裏生徒会には顧問というよりも参謀的な立場で関わっている。
裏生徒会の活動は学園内に留まらず、今回のように外部から依頼が入ることも珍しくは無い。
基本的に依頼を断ることは無いが、その判断は生徒会長が下す。
今回も生徒会長に話が通っているなら断ることは無いはずだが、孝明と千紘の態度にはすっきりしないものを感じる。
「ああ、・・・覚えています。木霊の女性でしたね」
ファイルを脇にどけながらそう言うと、真っ直ぐに志乃に視線を向けた。
「彼女は元気ですか?」
時子は孝明の目に、ふと寒気を感じた。
気が付くと千景が入り口の扉の前に、千紘は彼女に一番近い窓の前に立っていた。
まるで出口を塞ぐように。
「いえ…、森を出てからのことは知りません」
「そうですか?彼女は消されました」
持っていたカップをテーブルに、指を組んで肘を膝の上に置き、前のめりになって彼女の顔を見上げるような姿勢で一言一言丁寧に話をする。
何かを確認するように。
「・・・意味が分かりません」
次第に彼女の額に汗が滲んできていた。
膝の上に置いた手を強く握り、小刻みに震えている。
「そうですか。彼女は殺されたんですよ」
「え?!」
志乃は両手で唇を隠した。
まるで悲鳴を留めるように。
まるで零れ出る言葉を塞き止めるように。
「最近、あなたの住んでいる森の周辺で行方不明者が出ていますね。家出人、浮浪者のように消えても跡が残らない人たちばかり。
そちらでは話題になっていませんか?」
志乃は両手で唇を隠したまま、大きく眼を見開きガタガタと震えているばかりで、喉の奥から空気の抜けるような音しか聞こえない。
(この人が人殺し?)
思わず首をひねって千景の顔を見ると、彼は視線を志乃に向けたままゆっくりと顎を引いた。
「閉じこもってばかりでは外の情報は入ってこないものですからね」
「そんな・・・彼女が・・・」
志乃の大きな瞳から大きな涙があふれ出た。
「やっと幸せになれたのに・・・、やっと幸せになれたのに・・・やっと・・・」
自分が言葉を呟いていることも分からないのか、ワナワナと指を震わせ大きく呼吸を繰り返し同じ言葉を何度も何度も繰り返す。
その言葉が自分に対するものなのか、殺されたという木霊に対する言葉なのか、時子には分からなかったが志乃の心が大きく揺さぶられ破れそうに見えた。
(この人壊れちゃう・・・)
思わず孝明に助けを求めるような視線を送ると、孝明も時子を見返してきた。
そして小さく頷く。
大丈夫・・・と。
「誰を庇っているんですか?」
志乃が繰り返す言葉だけが響く部屋の中に、凛とした別の声が響いた。
千紘だ。
「かばってる・・・?」
言葉の意味が分からず、時子が尋ねるように繰り返すと千紘は眼鏡の奥から視線だけを時子に向け、小さく溜め息をついた。
(なんかむかつく)
詳しくは分からないが、馬鹿にされたことだけは分かった。
「あなたは誰のために戸籍がほしいんですか?」
孝明が言葉を継いだ。
先ほどよりも優しい声音だ。
「その誰かの行動を止めるために、戸籍が欲しいんじゃないんですか?」
志乃は掌で顔を覆って泣き崩れた。