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ウィンストン

お目に止めて頂き、ありがとうございます。

何かを垂れ流している大バカ者の一人称です。不愉快な表現があったら申し訳ありません。


宜しくお願い致します。



「ウィンストン・カーバンクル様。今この時を以て、私との婚約は無かったことに致しましょう」


 ふっくらとした唇から決然と放たれた言葉に凍りつく。


 逢うごとに、蕾が綻ぶように、蛹が蝶になるように、子供から少女へ、少女から(たお)やかな淑女へと変貌を遂げていく、誰よりも愛しい彼女の口から出る一連の言葉には、何があっても(うべな)えない。宜える訳が無い。六年もの間、成長するのを、追いついてくれるのを待っていたのだから。


 陽晒しの葡萄畑に、使用人の子と同じ格好までして手伝いに来てくれたことを忘れはしない。

 ふわふわのアッシュブロンドを押し込んだ麦藁帽子をあみだに傾げて、雛のように愚直に俺の後を付いて歩き、真っ白で滑らかな肌が泥にまみれ、傷がつくことすら厭わなかったジェン。その高貴な生まれでは想像すらしたこともないだろう重労働を忌避するどころか、興味津々質問攻めにし、驚嘆し、うっとりと微笑みかけてくれたあの頃からずっと、ずっと待っていたというのに。


 ジェンは、俺を真っ直ぐに見上げたまま、固く握りしめていた手を解いた。


 貴族令嬢としては、かなりしっかりした手だ。

 何も実のある事をしたことが無いだろう令嬢のそれとは、それこそ今、俺の腕に蛸のように絡みついた蓮っ葉な子爵令嬢の脆弱な手(その割に凄い力で剥がれないが)とは全く違う、労働の重みを知っている手だ。


 可愛い事にジェンは隠しきれている気でいるらしいが、彼女は菓子作りが非常に上手い。手慰みの域ではなく、彼女に甘い兄にどやされるのを承知で言えば、そこらのスティルルームメイドなんぞ足許にも及ばないような腕前である。莫大といって良い量をしょっちゅう送ってくれるから有難く賞味させて貰っているが、そのレベルたるや、うちの領の店では到底手に入らない程で、使用人やその家族が届くのを今か今かと待っているくらいだ。


 俺の同窓生でもある彼女の兄が、ちゃっかりレシピを巻き上げて菓子屋を立ち上げたと聞いて、その店から定期的に取り寄せてもいるのだが、同じように作られている筈なのに何かが違う。何処が、とはっきり言えないのだが、明らかに味わいが違うのだ。両親もそう言うのだから、決して俺だけの惚れた欲目ではない。

 

 そうか。

 この手が関わるか、そうでないかだ。


 彼女の手を見て、答えが心にすとんと落ちて来る。


 不特定多数の為に機械的に作業する作り手か、食べさせたい相手を想いながら心を尽くしてくれるジェンか、その差が齎す違いなのだと、俺はこの場でようやく思い至った。


 彼女のふっくらとまろやかな手指に残る小さな火傷の跡も、掌や指の関節の一部が薄っすらマメのような胼胝のような状態になってしまっている処も、結構な重労働である菓子作りの賜物で(しな)やかに筋肉がついた腕も、しっかり張った肩甲骨から腰へのラインも(疚しい想像を膨らませているわけではない。盛装姿を知っているので目に焼き付いているだけだ)何もかもが好ましくて愛おしい。触れて、口づけて、あの抱き締め甲斐のありそうな、何処までも滑らかで柔らかそうな躰を堪能したい。―――いや、だから、疚しい意味ではなくて。純粋に。触れ心地を。―――駄目だ、見たらそっちに思考が引っ張られる。今はそれどころではない。堪能するなど夢のまた夢、失うかどうかの瀬戸際である。


「これ、お返しします。もう私が身に付けていて良いものでは無いと思うので」


 いつの間にかジェンはネックレスを外して、掌に載せて差し出して来ていた。


 俺が卒業の時に送った、細い金鎖に小さな矢車菊が連なったものだ。当時の自分に贖えた、精一杯のジュエリー。石のひとつひとつは屑のように小さいけれども、色だけは己の瞳の色と同じようにと拘って誂えた品だ。

 敢えて指輪は選ばなかった。指輪ではジェンの趣味の邪魔になる。きっと箱の中に仕舞われてしまう。だがネックレスなら、彼女自身の目に触れることは少なくなるが、他者には確実にその存在を主張する。

 意味のある装飾品を送る者が居ると知らしめてくれる、そう思ったのだ。たとえジェン本人にその意識が薄くても。


 幸いジェンはこれを気に入って、ずっと身に着けていてくれた。


 情けなくも仕事に追われて、ごくたまにしか取れなかった逢瀬の時だけではない。

 制服の下にも、家に居る時も、それこそ湯浴みや寝る時くらいしか外さないでいてくれた事を知っている。何故って、彼女の兄だの侍女だの家令だの、果ては畏れ多くも後輩にあたるドミニク殿下にまで、事あるごとに付け届けをしては彼女の日常を訊いていたから。


 勿論のこと全員からドン引かれたが、そんなものは些細なことだ。ただ、これが結構な奇行である自覚はあり、万が一にもジェン本人に知れて引かれては元も子もないので、そこは強く秘密厳守を願った。強く。強くだ。

 見た目に反して案外と狡猾である殿下には別口で賄賂を要求されたが、それも家業の産物で済むなら安いものだ。当たり年が来るまで待つと言うのだから余計である。


 ジェンはそこまで俺が煮詰まっているなど知る由も無いが、そんな思い入れの象徴の如きネックレスである。

 どうにも受け取れずに固まっていたら、暫く前から異様に馴れ馴れしく図々しい子爵令嬢が横から手を伸ばそうとしやがったので、その手を叩き落としてから、そっとジェンの手ごと包み込んだ。


 日常的にきつい農作業もする俺の荒れた手指で強く触れたら怪我をさせそうな程ふわふわですべすべで、到底、力が入れられないが、いつまででも触れていたい。温かくてふくよかで滑らかで気持ちいい。つい、親指で彼女の手の甲を撫でたり、もちもちの肌に指先を潜り込ませたりしたくなる―――って、だから駄目だって、今はそれどころじゃないんだって。


 視界の隅で、ドミニク殿下が必死に真顔を保とうとし、失敗して小刻みに揺れているのが見える。くそ。笑いたければ笑うがいい、こっちは崖っぷちに指先でしがみついているような状態なのだ。


 ジェンが居心地悪げに身動ぎする。

 手が引き抜かれそうになり、歯を食い縛ってジェンの指からネックレスを抜き取り、握りしめた。


 ジェンはあからさまにほっとした顔をしたが、こっちの心臓は潰れそうである。しかしまかり間違って与り知らぬ処でこれを処分されていたら泣く自信があるので、手元に戻ってきたのは良しとする。

 

 絶対に諦めないと、今一度、自分に誓う。

 もう一度これを身に付けて貰えるまで、彼女にしぶとくしがみつく。


「―――ジェン。一旦、これは預かるけれども、俺は絶対に婚約解消など認めない」


 漸くまともに喋れるようになったことに、拒否を声に出せたことに腹の底から安堵する。


 情けないと言わば言え、今までまともに喋れる気がしなかった。ぶつ切りの単語を口にしていたのはその所為だ。さもなくば、みっともない呻き声か、下手すれば啜り泣きぐらい垂れ流しそうだったのだ。

 年長者の意地に掛けて醜態を曝せない、というわけではない。そうではなくて、それは最終手段なので初手から出す訳に行かないだけだ。ああそうとも、いざとなったら、見苦しく泣きながらでも縋り付いてやる。男のプライド? そんなものに拘泥していてジェンに逃げきられたら死んでも死にきれないだろうが。


「どうして……?」


 心底、不思議そうに尋ねられて、腰が砕けそうになる。


 何で? そっちこそ、何で俺が素直に婚約解消に応じると思った? 『どうして?』なんて訊かれる意味が判らない。こんなに想っているのに。今だって、揺さぶりながら掻き口説きたいのを必死に堪えている、それほどジェンの言葉ひとつに翻弄されるのに。


 何で判らないの、ジェン。ジェニファ。可愛いジェン、そんなに覚束なげにされると、問答無用で腕の中に閉じ込めたくなる。だというのに、ああ、この蛸が邪魔くさくて仕方ない。何だこいつ。何でいつまでも暑苦しい肉の塊を俺の腕に押し付ける。俺の全てはジェンの為に在るのであって、このような香水臭い頭足類の為ではない。くそ。本当に剥がれないなこいつ!


 ―――それなりの取引先の娘だと思えばこそ、意味不明の手紙を何度となく送り付けられても先触れも無しに父親と突撃してきても、ジェンへの(サファイア)を頼みに行った宝石店まで押しかけられて執拗に付き纏われても、これは札束と呪文を唱えてそこまで邪険にはしなかったが、もはや我慢も限界である。


 あんな顔を、事実無根の不実の噂を信じて、現場を目の当たりにしてしまったと思い込んで傷ついたのだと一目で判る表情をジェンにさせてまで、俺が堪える意味が何処にある?


 袖に食い込む、目に煩いピンク色に染められた爪を、大袈裟に痛がるのを無視して遠慮なしの力で排除する。くそ、生地が皺くちゃだ。どれだけの執念だ。だが、この頭足類の執着がどれだけ強かろうが、俺がジェンに向けるそれに敵うものではない。こちとら六年越しなのだ。舐めて貰っては困る。


「痛っ、酷いですウィン様」


「―――いつ俺がその呼び方を貴女に許可した?」


 媚びたような上目使いが苛立たしい。何でそこで傷ついたような顔が出来る。

 ジェンが愛らしくもぽかんと口を半開きにしているのに半分以上の気を取られつつも、俺は非常識な取引先の娘を睥睨した。

 

 わざとらしい涙と微かな苛立ちを滲ませた水色の瞳は、確かに美しい色だが、それだけだ。


 ジェンの淡いグレイの瞳の方がずっと良い。

 月長石を思わせる、艶めいたグレイ。好奇心旺盛で、半端ない本の虫で、何でそんな事まで? と思うような訳の判らない知識までも着々と蓄えては惜しみなく分け与えてくれる、俺の可愛い水先案内人。思いもよらないアイデアを何でもない事のように差し出して鷹揚に笑う、その瞳のほうが、ずっと。


「そんな、だって」


「だってもへったくれも無い。俺がその呼び方を許したのは、後にも先にも婚約者であるアッシュベリー嬢だけだ。勝手な振る舞いは不愉快だ」


「酷い。どうしてそんな冷たい事を仰るの? あんなに優しくお傍に置いてくれたのに」


「その無作法を俺がどれだけ窘めたか、まさか覚えていないとでも? そちらが聞く耳を持たず、しつこく付き纏うのを止めなかった所為で、俺がどれだけ迷惑を被ったか判っているのか?」


「っ酷い!」


 どっちがだ。


 衆人環視の中で泣けば勝てると言わんばかりにこれ見よがしに涙を流しているが、そんな姑息な真似に引っ掛けられるほど全ての観客が間抜けではない。こちらも打てる布石に抜かりはないし、そもそも見ている人は正しく見ているものなのだ。そして殿下、そこで拍手の真似事をされるといよいよ気が散るので止めて貰って良いですか。やれば出来るじゃないかじゃないんですよ。どさくさに紛れてジェンの手を取るのも止めて頂きたい。触って良いのは俺だけだ。


「どうしたんだロッティ! 何故泣いている?」


「お父様ぁ」


 新たなる役者の登場に、殿下が目を輝かせたのが判った。この人は案外、物見高い。完全に腰を据えて見物の構えだ。こっちはいい加減うんざりだと言うのに。


「ウィンストン卿、これはどういう事でしょう? 何故、娘はこんなに取り乱しているのです?」


 しおらしく嘘泣きをしている娘を抱き寄せながら、ハートリー子爵が俺の事をじろりと睨む。

 俺も負けじと睨み返した。若造と思って舐めて掛かってきているのだろうが、家格と歴史ではこちらが上位。


相手が客か、そうではないかを決めるのも我が家の側だ。


「さあ? 不躾を注意はしましたが」


「不躾とはまた手厳しい事を仰いますな、うら若い娘に」


「若いと言うなら尚の事では? だがまあ、再三の拒絶も無視して婚約者のいる異性にしつこく付き纏うのを親が許容すると言うなら、確かに不躾と言わないか。その場合、何と表せば宜しいか。破廉恥か?」


 淡々と言ってやったら、子爵が目を剥いた。


「他家の娘を破廉恥呼ばわりとは、随分ではありませんか!」


「では言い換えよう。厚顔無恥でどうだろう」


 殿下の居るあたりから蛙が潰れたような異音がしたが、見たら負けだ。あの人は結構な笑い上戸だ。下手に視線が合おうものなら大惨事になるのが目に見えている。


「何をどう言い変えようと、ハートリー嬢が無理矢理に我を通そうとして、私の大事な婚約者の気分を害したのは事実です。―――ジェン、こちらに来て」


 未だかつて見た事ないほど目を真ん丸にして立ち尽くしていたジェンの手を取り、ぐっと引き寄せる。その二の腕の、それから軽く抱いた腰の、ほわほわと心地いい柔らかさと漂う仄かな香りをうっかり目を閉じて堪能しそうになったが、抱き込んだ瞬間ジェンの全身に力が入って固まったので我に返って事なきを得た。

 危ない。今じゃない。


 父親に庇われながらも憎々し気にこちらを睨むハートリー嬢と、俺に護られたジェンの視線が絡みあったのが判った。ジェンが更に躰を固くしたからだ。だから腰に沿えた指で宥めようとしたら、ひょっと跳ねた。どうやら擽ったかったらしい。真っ赤になって恨みがましく睨み上げてきたが、それはあれか、挑発か。違うよな、判っている。判ってはいるが、面白くなってしまったので再びさりげなさを装って指をめり込ませた。ああ、布越しだというのにものすごく触り心地が良い。


 いよいよ茹で上がってきたジェンから、控えめだけれども甘い香りが立ちのぼって来た。

 ……そうだよな、香水ってのは本来はこのくらい軽く甘く刺激してくるものだ。対岸の頭足類など、それこそ頭から浴びてきたのかと疑うほど、こっちの鼻がバカになるくらい振りかけて来やがるのも珍しくなかったが、押しかけて来る口実にワイナリー見学と言い張るならば、少しは弁えて来いと心底思う。有体に言って、臭かった。


 そしてまた娘が娘なら親も親と言うべきか、酒には煩いんですよと主張する割には無頓着も良い処で、個人の趣味嗜好であるから煙草を吸うなとまでは言わないが、試飲に来る前くらいは控えるべきだろう。

 確かに酒場によっては酒と葉巻をペアリングさせて提供することもあるだろうが、それは蒸留酒の話であって、うちはワイナリーだ。蒸留酒も手掛けてはいるが、メインはワインだ。ヘヴィスモーカーの荒れた舌でテイスティングした処で、碌な判断が付く訳があるか。


 そんな状態で赤白散々呑み散らかした挙句にそこら中に強烈な煙草の臭いを振り撒いていくのも勘弁して欲しいし、そこは商売だから売りはするが、言ってしまえば何が何でも繋ぎ止めねばならない程の取引額でもない。図に乗って来るのを我慢するほどの上客ではないのだ。


 それだから、憤慨しつつも懲りずにジェンよりこの頭足類の方が上物だろうと言ってくる厚顔さには余計に腹が立つ。勝負になる訳がないだろう。そのぐらいの事が、何故判らない。


 俺は、ジェンが富裕で鳴るアッシュベリーの娘だから望む訳ではない。

 ジェンがジェンだからだ。

 特権階級に生まれた責務を忘れず、学びを、労働を尊び、自分の力で立とうとする彼女だから、希うのだ。

 

 何より、ジェンは可愛い。彼女自身がどんなに己を卑下しようと、絶対的に可愛いのだ。


 どういう訳だか本人は昔から自己評価が随分と低く、体型を(あげつら)っては太ってるだの子豚だの食い意地の権化だのとおかしな形容で自分を落とすのだが、それは違う。確かに彼女は食に対して貪欲ではあるが、言うほどの大食いでもない。あの程度、健康の証というものだ。

 俺に言わせれば、王都の貴族女性の食事量の方が異様である。小鳥か。美容の為だか何だか知らないが、そりゃあんな程度しか食わなければ細かろうし、些細な事で卒倒もする。学院には、早死にする気かと危惧したくなるような令嬢すらいたが、親は何とも思わないのか。心配じゃないのか。


 ジェンは見るからに旨そうに、嬉しそうに飲み食いするから、見ていて気持ちがいい。

 カフェに連れて行くのも非常に楽しい。うんうん悩みながらオーダーし、うっとり味わう姿が大変に愛らしいのだ。例え己がものすごくだらしない笑顔になりかねない危険と隣り合わせで、真顔を取り繕うのがもはや精神修練に近い有様であろうが、あの歓びの様が見られるのなら屁でもない。

 もっとあの笑顔が見たい。一生、見飽きない自信がある。


 …………あとこれは下世話な話なのだが俺は実の詰まった女性が好ましいと思っている。そう、正しくこの感じ、やわやわとしてむにむにとして吸い付くような……痛ってぇ。


 ―――どうも無意識のうちに欲望のまま、もちもちとジェンの肌を揉みしだいていたらしい。涙目のジェンに踵で脛を蹴られて正気に返り、改めて目の前の父娘に対峙した。


「重ねて申し上げるが、私はハートリー嬢に何の興味も無い。思わせ振りをしたことも無い。自分本位な思い込みでの付き纏いなど、迷惑行為以外の何物でもない。ましてや我が婚約者に執拗に絡み、嫌がらせを繰り返すなど言語道断。即刻、改めて頂きたい」


 腕の中のジェンがまたしてもひょっこり跳ねたのを、ぐっと抱き込む。何で? じゃないだろう。そこの腹黒王子から逐一報告を受けているのを知っている筈だ。殿下がしれっとバラしたのも聞いているからな。


「……さっき、ジェニファ様が婚約は解消すると言ったじゃない」


「私が認めないと言ったのは聞こえなかったか?」


 悔し気な、それでも未だに媚を含んだ視線を向けて来るとは見上げたものだが、都合の良い事しか聞こえない特殊な耳なのかも知れない。蛸だしな。


「―――あの、えーと」


 突然、ジェンがもごもごと何かを言い出しかけたので、慌ててもう一度、腰骨の上あたりをきゅっと揉んだ。何となくだが、ややこしくなることを言いそうな気配がするのだ。何か厭な事を。

 絶対に聞きたくなくて、つい指先に力が入れば、何回食らっても慣れずに跳ねるジェンが大変に面白可愛い。狙い通りに言葉を忘れ、顔を真っ赤にして睨み上げても、視線が合うなり顔を覆って伏せてしまう初々しさに口元が緩む。項まで赤くて眼福だが、目の毒でもあり、ああ、とっととこいつらを追っ払ってジェンとふたりで話がしたい。たっぷり時間を取り、彼女の思い違いを正したい。だがこの扇情的な姿。話、だけで済めば良いが―――


 ―――などと埒も無い事を考えて、うっかり脂下がったのが、殿下の前で隙を見せたのが、後から思えば痛恨のミスだった。


「……だけど!」 


「いやあこれもう勝負あったでしょう」


 頭足類の悪あがきと、ドミニク殿下の鷹揚な声が上がったのは同時だった。


 ゆったりと長い脚を組み、肘を付いて顎を乗せると言う相当に寛いだ姿のまま、殿下は冷ややかな笑顔を子爵父娘に向け、―――子爵が、ひくりと息を呑んだ。


「これ以上はねえ、笑い事では済まないと思うけれど、まだ頑張るかい? ここまでなら学生同士の恋の鞘当てで片付けられるが」


 普段は笑い上戸で惚けた振る舞いしかしない殿下だが、ひとたび機嫌を損ねると、笑顔のまま尋常でない冷気を醸し出す方だというのは知っていたが、……久々に目の当たりにするそれは、実に強烈だった。

 こちらに向けられている訳ではないというのに、それでも冷や汗が滲んでくる。


「親まで口を挟んで引っ掻き回すとなると、それはねえ―――」


 敢えて最後まで口にしない殿下の笑みを正面から見てしまったらしい頭足類が、声にならない悲鳴を上げて父親に縋り付いた。縋られた子爵も顔色を失くし、ふたりが抱き合ったまま後退って平伏するのを、ジェンとふたりで茫然と見守る。


 ややあって、下がれ、と素っ気ない声を受けた父娘は、よろよろと退場していった。


 これで殿下はまだ十七歳だ。

 末恐ろしいとは、こういう方の事だ、と思う間もなく。


「とは言えさ、貴女が本気で婚約を無かった事にしたいのなら私も一肌脱がない事も無いけどさあ、ねえ、どうする? アッシュベリー嬢」


 やおらくるりとこちらを向いた殿下は先ほどまでの冷笑は何処へやら、天使も斯くやという清らかな笑顔で悪魔のような事を宣ったから、俺は慌てた。


「ちょ、殿下、何を」


「ウィンストンには訊いてなーい。ねえ、アッシュベリー嬢、正直な気持ちを言ってみて? こんなさあ、大事な事を面と向かって言いもしない、んだか出来ないんだか知らないけど、そんな朴念仁とだよ、この先、長い一生を共に出来る?」


 痛烈な指摘を真正面から食らい、堪らず咽た隙に、ジェンはひらりと俺の手を逃れ、素早く距離を取られてしまった。

 そして、戸惑ったように目をぱちぱちさせながら、人の悪い笑顔を隠しもしない殿下と、置き去りにされて背中に厭な汗を掻き始めている俺を交互に見て、曖昧に微笑む。待て、ジェン、その不穏な笑顔は何だ。


「―――えーーーーーと」


 何を言い淀む!?

 本格的に冷や汗が出始めた。動悸が上がってきた気もする。そこに、悪魔が更に余計な事を言い出して。


「因みにねえ、知っての通り、私はまだ婚約者が居ないんだ。どう? アッシュベリー嬢、いやジェニファ嬢。私はそこのむっつり朴念仁とは違って、言葉も態度も惜しまないよ。お望みなだけ、際限無くだくだくと」


「趣味の宜しくないご冗談でしてよ」


「嫌だなあ、私は貴女の事は結構、いやかなり好きだけど」


「何を仰いますか、そんなに軽々しく」


「重けりゃいいってものでもないでしょ。ほらほらジェニファ嬢、ちゃんと考えてごらんよ。飽くまでも例え話ではあるけれど、しんねりむっつり胸の中で煮詰めてるだけで肝心な言葉のひとつも出さない朴念仁と、好意フルオープンで下にも置かずに大事にしてくれる軽薄男とだったら、どっちがマシか」


「嫌な二択ですねえ」


 ジェンはしかめっ面で腕を組んだ。


「失礼ながらどっちも御免かも―――って、ちょ、何、ウィン!?」


 もう我慢できない。

 俺はジェンの二の腕を掴み、殿下に雑な挨拶を残して足早に歩き出した。背後から追い打ちを掛けてくる馬鹿笑いが忌々しい。


「あの、ウィン、そんな不敬な」


「良いから来て。大丈夫、殿下はあんな事でお怒りにはならない。それどころか大喜びだ」


「確かに大爆笑してらっしゃるけれど」


 振り返ろうとするのを防ぎたくて、少しだけ強引に引き寄せる。


 ―――殿下のあれは、半ば以上本気だった。もしあそこでジェンが宜っていたらと思うとぞっとする。王族から望まれたら臣下には抗う術がない。どんなに俺がジェンを希っても、一瞬でこの婚約は無かった事になっただろう。


 本気で冷や汗が止まらない。

 庭からフレンチドアを抜け、賑やかな広間も突っ切って、そのまま階上へ、俺の私室へとジェンを引き摺り込む。途中で、怪訝そうな顔のアッシュベリー夫妻とも、半笑いのジェンの兄とも、引き攣り笑いを浮かべたうちの親ともすれ違ったけれども誰も引き止めなかったのを良い事に、一直線に部屋に連れて入って、扉を閉める。すかさず、鍵も。


「は?! 何で閉め」


「ジェン」


 振り返りざまに、抱き締める。

 

 腕の中にすっぽり収まる、ふわふわと温かい、今は驚愕で凍り付いてかちんこちんだけれども本当はもちもちと柔らかい筈の愛しいひとの甘い香りを、思うさま吸い込む。


「だっ、ちょっ……っぎゃーーーー」


 上がる悲鳴が整った令嬢姿に似合わず素っ頓狂で、発作的な笑いが込み上げて来る。狼狽してガンガン俺の背を腕を叩く彼女は、ああ、なんて可愛いんだろう。


「ジェン、ジェニファ、―――ごめん、俺ちょっと箍が外れてるかも」


「外れてますよね?! おかしいよね?!」


「でもごめん、離せない。絶対に婚約解消なんてしない、出来ない」


 こうやって俯いて抱いていると、ちょうどいい処にジェンの耳がある。堪らずにキスを落とせば、声にならない悲鳴が上がって、腕の中のカチコチが一気に溶けた。脱力して、ぺたりと寄り掛かってくる重みが愛おしい。


「……どうしよう、この人壊れたかも……」


「壊れてない。元からこうだ。ジェンが大人になるのを待って、我慢してただけだ」


「嘘おぉ……」


 空気が抜けた様な声が上がり、それから―――啜り上げるような音がして、俺は愕然とした。

 ちょ、待ってくれ、まさか泣いてる?


「ジェ、ジェン?」


 恐る恐る躰を離し、屈みこんで覗き込めば。

 真っ赤な顔で、唇を噛み締めて、目をきつく閉じて涙を堪えている破壊的にいじらしいジェンが居て、本当に心臓が止まりそうになった。


「―――泣くほど嫌だった……?」


 暴走した自覚があり過ぎる。―――怖がらせたに違いない。


 どうして俺はこうなのか。面と向かうと碌な言葉が出て来なくて、だらしなく脂下がりそうで、ずっと必死で取り繕っていた。殿下の仰る通りだ。俺はしんねりむっつりの朴念仁で、ジェンには何も伝わっていなかった。そのうえ無駄に躰がでかい。そんな男にいきなり捕まったら、抱き込まれたら、いくら婚約者でも怖いに決まっている。


「ご、ごめん。すまなかった。怖かっ…………痛ッてえ?!」


 謝罪の言葉が宙に浮く。ジェンは俺の耳を掴み、ギリギリと引っ張って離さない。痛い痛い痛い。伊達に菓子作りが上手くない、指の力が実に強い。いや、握力か。腕力か。とにかく痛い。痛いって!


 ……やっと離してくれた時には、こちらの目にも涙が滲んでいた。いや今の、もしかして人体の急所、本気の体術なのではなかろうか。ジェンの事だ、得体の知れない知識も持っていたりするから油断できない。


 俺の耳から痺れる痛みが抜ける頃にはジェンはすっかり落ち着きを取り戻しており、先ほどまでの動揺など見事に打ち捨て、椅子にしゃきりと背筋を伸ばして対峙してきたのだった。


「それで、婚約解消の件ですが」


 おもむろに切り出されて、俺は食い気味に反論した。


「しない。出来ない」


「出来ますよ。私との結婚が無くなっても、おかしな取りたては発生しませんからご安心なさって。アッシュベリーとカーバンクルの提携は安泰です」


「それをジェンが言うのか? 流石に傷つくぞ。俺は質草じゃないんだよな?」


 そう言ってやったら、ジェンはぴくっと肩を跳ねさせたが、素早く立ち直った。


「そうですけど、でもウィンには想い合う方がいるのだと専らの噂で」


「あの蛸の事だったらとんでもない誤解だから勘弁してくれ。蛸の自作自演でしかない」


「蛸って何……? あの、まさか、ハー」


 名前を出されるのも鬱陶しいので、手を伸ばしてジェンの唇を押さえ、直に止めた。……そんなに恐ろし気に目を剥かないで欲しい。


「蛸はさておき、惚れた女は居る。どうしても結婚したい相手が」


「……っじゃあ、どうぞその方と、末永くお幸せに」


「ありがとう。では婚約は継続、当初の予定通りに卒業したらすぐに結婚式という事で良い?」


「はあ?」


 まるで判ってない顔で、ジェンは目を瞬いた。


「え、好きな方と結婚なさるなら、婚約は解消しないと」


「何でだ。解消しても良いが、そうしたら即行で嫁いでくることになるぞ。まあ、俺は嫁入り仕度なんか無しで今すぐこのまま嫁に来てくれても大歓迎だが、ご家族がそれじゃ哀しまれないか?」


「―――誰の家族?」


「ジェンの」


「は?」


「ジェンのご家族だよ。アッシュベリー侯爵閣下が、そんな拉致じみた求婚に応じて愛娘を下さるとは思えないのだが」


「拉致は誰でも駄目でしょう。ウィン、さっきから何を言っているの?」


 余りにもきょとんとしていて、可愛すぎて、決壊した。

 せっかく礼儀正しく、未婚の男女に相応しい距離を保って相対していたのに。個室にふたりきりで、しかも鍵まで掛けてて手遅れ感が凄くても、既に若干やらかした後でも、それでも適切な距離というものはあったのに。


 素早く回り込み、抱き上げて向かい合わせに膝に乗せ、逃げられないように肩とウエストを掴んで抑え込んだ。そんなに暴れなくても良くないか。


「ジェニファ・アッシュベリー嬢。どうか結婚して下さい。俺には君しか居ない」


 泳ぎまくるグレイの瞳を真っ直ぐに見て、これ以上なく明瞭に言葉にする。

 俺が出来なかったのは、足りなかったのは、こういう事だ。ジェンの瞳に、態度に、こちらへの思慕が垣間見えるのが嬉しかった癖に、同じ歓びをジェンに与えていなかった。格好ばかりつけて、自らの想いをきちんと言葉で伝えて、乞う事をしなかった。


 どんなに昔から俺がジェンの事を可愛いと、愛しいと思い、今などいっそこのまま食ってしまえばもう帰さなくても良いんじゃなかろうかなどと腹の奥から沸き上がってくる不埒で凶暴な欲望を必死で抑えなくてはならないくらいに希っていても、腹の中で煮詰めているだけでは駄目なのだ。


 ジェンは激しく視線をさまよわせ、口を開けては閉め、かと思えばやおら両手を俺の肩に突っ張って逃げようとして失敗し(当たり前だ)やがて両手で顔を覆って俯くや深い深い溜息を吐き。


「―――子豚ですけど、私」


 言うに事欠いてそれか、ジェン。


「俺はそんな風に思ったことなど一度も無いが、そうだな、ジェンは本物の子豚を見たことあるか? ―――滅茶苦茶に、破壊的に可愛いんだぞ。目が大きくて円らでフワフワの産毛に覆われてて、白とピンクでもちもちでやわやわなのに意外と手足が細くて長くて」


「ももももう結構ですお願い止めて」


 緩やかに波打つ髪に口づけ、ウエストから肩甲骨あたりまでを撫でながら子豚の愛らしさを並べ立てていたら、湯気が出そうに上気したジェンが手で俺の口を塞ぎに来たから、そのまま捕まえて掌にも口づけた。狼狽の極みみたいなか細い悲鳴を上げて身を捩ったけれども、逃がすか。まだ返事を貰っていない。


「ジェン」


「ううううーうう」


 我ながら蕩けた声で急かせば、半泣きの抗議の唸りを上げてもがくものの、本当の本気で逃げようとはしていない。だというのに頑固者めが何で言葉を返してくれない。


「ジェン、頼むから―――愛している、結婚してくれ」


 ―――小さな小さな諾の応えに安堵と多幸感で急激に血圧が上がって耳鳴りがしたが、それでも『……誰これ……』というジェンの魂の抜けたような呟きは聞き取れ、胸が痛くなると同時に腹の底から可笑しくなって、俺は声を上げて笑った。それから、腕の中から抗議の絶叫が上がって来るまで、手当たり次第にキスを落としながらぎゅうぎゅうに抱き締めた。



ふたりとも良いだけぽんこつ。あとウィンストン、君は少しくらい遠慮しなさい。


このあと、エンディングがございます。

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