表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

ジェニファ

せめてふたつに分けようと試みましたが、上手い切り処が見つけられず……。

長くて申し訳ありません。よろしくお願いいたします。

 

 ジェニファ・アッシュベリーとウィンストン・カーバンクルの婚約は政略であり、そこには欠片ほどの愛も無い、というのは、当学院に於いては知らぬものとてない共通認識である。


 いや、正確に言うと、私、ジェニファにはあるがウィンストンに無いのだと広く認知されている。どういう事かと言うと、美しくもなく社交も不得手で陰気な侯爵令嬢が、たったひとつ縋れる家格を振りかざし、身分と金で頬を張るが如くに秀麗な伯爵子息をものにしたと囁かれているのだ。数年越し天候に恵まれず、領の主要産業である醸造業(ワイナリー)が芳しくなく、資金繰りに困っていたカーバンクル家が、泣く泣く見目麗しく優秀な嫡男を売ったのだと。


 ―――そんな非道な話があるだろうか。


 確かに私は凡庸かもしれない。美人ではないし、太ってもいる。この婚約が政略であることも事実であるし、我々の間に愛があるかと言われれば、無くは無いけど有るというほど有りもしない、そこも決して否定しない。


 だがしかし、ウィンの事をカネで買った、と言われるのだけは、誰が相手であろうと許すつもりは無い。金輪際、無い。そこだけは何があろうと譲らない。が、その腹立たしい戯言がいかに実しやかに学内に拡散していこうとも、所詮は出所も定かでない噂。下手な火消しを図って、社交に長けないどころか碌に友人も居ない私の手際では、更に面白可笑しく改変されて広められてしまう可能性を鑑みて、迂闊な事はすべきではないと判断した。それで私には夜な夜な悔し涙に暮れつつ何処へとも知れない呪詛を垂れ流すくらいしか出来ることが無かったのだが、ここへ来て流れが変わった。とうとう面と向かって言って来る、無礼かつ蛮勇の持ち主が現れたのである。


「もうウィンストン様を解放してください! お金で縛り付けるなんて空しい事は止めて!」


 私の前で、うるりと瞳を揺らしてぷるぷるしている、小動物じみた可愛らしさの小柄なご令嬢は、ハートリー子爵家のロッティ嬢だ。学年が違うので面識は無いが、全く知らない訳ではない。

 確か当代子爵は、元・道楽者。だが酒好き酒場好きが高じて自らバーの経営に乗り出し見事に成功、庶民向けの気軽な立呑屋や小洒落たカフェバーから、最近では富裕層のみ受け入れる会員制のオーセンティックバーまで手を広げ、その全ての店を軌道に乗せたという酒飲みの鑑みたいなお方である。

 三度の飯より酒が好きだが、その酒よりも愛娘にベロベロな子煩悩とも聞いている。確かにロッティ嬢の身を飾る装飾品の煌びやかさに、その片鱗は伺えた。どう見ても学び舎にも制服にも相応しいとは思われないデザインの派手さ加減に。

 恐らく、あのサファイアのペンダントひとつで、庶民なら一家四人が余裕で半年は食べて行けるだろう。そして、あの矢車菊色(コーンフラワーブルー)は、紛れもなくウィンの瞳の色である。


 そこまでを見て取って、私は小さく溜息を吐いた。


 いくら社交下手であろうと腐っても侯爵家の娘、貴族大鑑は熟読し、ひととおりの事は心得ている。普段の私にとっては使い処の乏しい知識であろうと、いざと言う時、無いよりはあった方が良いに決まっているからだ。


 例えば今。

 放課後、図書館棟に向かう途中でいきなり腕を掴まれ引き摺り倒される勢いで足止めを食らい、衆人環視の中で誹謗されている今、この嘘泣き混じりに叫んでいる人は誰だろうと首を傾げずに済んでいるのだから、勉強というのはしておくものである。


「聞いているんですか、ジェニファ様!」


「……貴女に名前で呼ばれる謂れはございません。そもそも、話しかける許可を与えていません」


「酷い! そんな意地悪、言わなくてもいいじゃないですか」


 ぽろぽろと涙を溢しているロッティ嬢の透き通った水色の瞳は、極限まで見開かれている。すごい大きさだ。私の目も決して小さくはないと自負しているが、あれには負ける。猫の目のような形の良さでも、瞳の色の美しさでも。


「意地悪ではありません。常識的に判断して下さらないでしょうか」


「私が非常識だって言うんですか!? 酷い、いくら身分が上だからって振りかざして!」


 判っているではないか。下位の者から上位の者へ、赦しも得ずに声を掛けるのは余程に親しい仲でもなければ無礼な事だと。それどころか、今回は面識も無いというのに、いきなりの名前呼びからのスタートだ。もしも相手が気位の高い上位令嬢なら、問答無用で扇子ビンタを張られてもお咎め無しの暴挙である。


 私はやらないが。何故って、お気に入りの扇子が傷むから。


「ハートリー嬢の非礼は、今回は不問にします。それで、ご用件はお済みですか」


「信じられない、何て高飛車なの。……そんな人がお金でウィンストン様を」


 またしても不愉快な事を口にしたロッティ嬢を、私は精一杯の目力で睨みつけた。寝ぼけたようなペールグレイの瞳では迫力不足は否めないが、これ以上は言わせる訳にいかない。


「口を慎んでは如何でしょう。ハートリー嬢こそ、その年齢までどのような教育を受けて来られたのか理解に苦しむ振る舞いですが、今、私が問題にしているのはそこではありませんので、重ねて不問に致します」


「何ですって……。何様のつもりなの……?」


 泣き真似も何処へやら、いまや憤怒の形相で私を睨みつけるロッティ嬢の迫力たるや、遠い異国の鬼人のようだが、私もここは絶対に引けない局面である。

 上位のプライド? そんなものはどうでも良い。それよりも、私には言わねばならない事がある。


 何様のつもりだと? 

 それこそこちらの台詞である。

 私は大きく息を吸った。


「ウィンストン様はモノではございません。金銭で贖えるだなど、ウィンストン様とカーバンクル家への誹謗中傷以外の何物でもございません。その悪質極まりない讒言を今すぐ撤回なさい」


 ロッティ嬢は虚を突かれたと言う顔をした。そのまま言葉に詰まったようだったので、私は機を逃すことなく追撃した。


「私たちの婚約には確かに金銭が絡んでいますが、当たり前でしょう、事業提携の一環なのですから。互いに利があってこそです。そして、決して間違えないで頂きたいのですが、我が家は今後を見込んで先行投資をしたのであって、貸金業を営んでいるのではありません。ウィンストン様を質草のように仰らないで」


「質……!?」


 ぽかんと聞いていたロッティ嬢は、最後の言葉に目を剥いた。

 それから、喰ってかかって来た。


「あ、貴女みたいなみっともない人との婚約が、ウィンストン様に何の利があるって言うんですか?! 私の方が貴女なんかよりよっぽどウィンストン様に相応しいのに……!」


 ロッティ嬢の声は、非常に悔しそうに震えている。

 そして、これが一番言いたかったのだろうなというのがとても良く判る声音だった。

 だがそんな事はロッティ嬢(外野)に言われるまでもない。自分の外見の宜しくなさなど、自身が誰より知っている。大きなお世話だ。


「私にはご返答致しかねる内容ですね。どうしても知りたいと仰るのなら、お父上を通じて、カーバンクルのご当主様にお訊きになったら如何ですか? ハートリー家とカーバンクル家も事業で繋がってお出ででしょう、教えて下さるのではないかしら。ああでもその時は、人身売買よろしく幾ら出せばウィンストン様が手に入るのかなどと訊くのはお控えなさいませ、悪趣味にも程がありますから」

 

 いつの間にか私たちの周囲に出来ていた人だかりから失笑が漏れた。いや、笑う処じゃないと思うのだが。


「そんな事を訊く訳ないでしょう?!」


「そうですか。それなら良かったです」


「馬鹿にして……! 貴女如きがどれほどのものよ。そんな偉そうにしていられるのも今のうちだけですからね……!」


 そんな捨て台詞を残して、艶々した淡い栗色の髪を翻してロッティ嬢は去って行った。行きがけの駄賃とばかりに私の肩を思い切り突き飛ばして、人だかりを突き破って。


 凄い。この衆目の中、礼儀も知らなきゃ暴力も辞さないと公言していくとか、この先の彼女の人生を他人事ながら心配したくなる。私にそんな事されたくも無かろうが、余りの挙動につい。


 さても面白い見世物が終わったと言わんばかりに人垣が散って行くのを背に、私はよっこいしょと腰を落とし、ロッティ嬢にぶつかられた弾みに取り落した鞄を拾った。溜息を吐きながら、中から零れ出した物も拾い集める。


「これを探してる?」


 こまごましたものを入れていたポーチが見当たらずにきょろきょろしていたら、優しい声が降って来た。それと同時に、しゃがみこんでいた私の前に探し物が差し出される。


「ありがとうございます、何処にございましたでしょう」


「誰かが引っ掛けたんじゃないかな、私は少し離れた処に居たんだけど、飛んで来たよ。ご令嬢の私物にあんまり触っちゃ悪いと思ったけど、埃は払っといた」


「恐れ入ります」


 押し頂いて受け取った処で、声の主はそのまま手を差し伸べて下さり、畏れ多くも私を引き起こして下さった。……重いでしょうに。


「重ね重ね、尊い御手を煩わせまして申し訳もございません」


「いえいえ。魅力的なご令嬢の助けになれるのは望外の喜び。それより、助けに入れなくてごめんね」


 小首を傾げ、心から申し訳なさそうにヘイゼルの瞳を揺らめかせながらそんな事を仰るのは、ひとつ上の最終学年に在籍なさっておられる我が国の第三王子、ドミニク殿下だった。


 雲上人のお言葉に、私は慌てた。


「滅相もございません。私こそ、とんだお見苦しい処をお目に掛けまして、お恥ずかしい限りでございます」


 そして、内心冷や汗だらだらで膝を折った。とんでもない方にとんでもない処を見られてしまった。私もだが、ロッティ嬢も。


  そんな羞恥と居た堪れなさと慄きで固まった私を余所に、殿下は不意にふはっと勢いよく息を吐き出した。―――笑ってる?


「いやしかし強烈だったねえ。最初、私にはあのキャンキャン煩いご令嬢の声しか聞こえなくてね、それでも内容からして絡まれてるのはアッシュベリー嬢だと判ったからさ、これを見過ごしたらウィンストンにぶん殴られると思って慌てて来たんだけれど、……ぐっ、ふはは、し、質草って」


 殿下は遠慮会釈なくげらげら笑った。


「や、ウィンストンはモノじゃない、まではさ、正に仰る通りなんだけれども、その後の質草じゃないだの幾ら出せば手に入るか訊くんじゃないだのって貴女のその台詞の破壊力の前にはもう私は出る幕も無いと言うか」


 ひーひー笑う殿下に、音もなく近寄ってきた護衛騎士が静かにタオルを差し出した。タオルって何。そこまで涙が出るほど可笑しい事を言ったりしたりしたつもりは無いのだが、気のせいでなければこの騎士もひっそり笑いを滲ませている。無表情を装っている癖に、口の端がひくひくしているのである。


「……はー笑った笑った。や、貴女を笑ってるわけじゃないのは判るでしょう、あの喧しい令嬢の百面相をさ……お、思い出すとさあ!」


 再び殿下は身を折り、タオルに(かんばせ)を埋めて悶え始めた。


 畏れながらも、私は憮然とせざるを得なかった。

 

「―――僭越ではございますが、殿下がそんなに笑い上戸とは存じませんでした」


 少々ばつが悪そうながらも、殿下は親しみを込めた視線を私に投げつつ、目元を拭った。笑い過ぎてお顔が上気しておられる。……そんなにか。


「笑いたくもなるでしょうよ、あんなモノ見せられて。ああ苦しい。貴女に斯くも男前に庇われたって教えてやったらウィンストンがどんな顔をするかと思うと、一刻も早く聞かせてやりたくてうずうずする」


 途方も無いお言葉にぎょっとして、私は殿下に詰め寄りかけて、危うく踏み留まった。


「えっ、ちょ、殿下、……何ですって?」


「しまった、ウィンストンから貴女の事を頼まれているのは内緒だった。聞かなかった事にしてくれない? って無理だな、気になるよね」


 なななな何の話をなさっておられるのか!? 

 声も出せずに間抜けに口を開けっぱなした私に、殿下はにこにこと更にとんでもない事を仰った。


「ほら、ウィンストンは先に卒業して領地に帰っちゃったでしょう。カーバンクルの領地はここから遠いしウィンストンは忙し過ぎてなかなか貴女とも逢えなくなるしで、貴女の事が心配だって、何かあれば自分の代わりに貴女を見守って欲しいって頼まれてたんだよ。……そりゃ貴女は孤高の一匹狼だし、大概の事は大丈夫だとウィンストンも判ってるけど、例えばさっきのご令嬢みたいに真っ向から体当たりしてくる悪意はともかく、物陰から足を引っ張ってくる陰険な策謀はさ、貴女あんまり得意じゃないでしょう?」

 

 開いた口がいつまで経っても塞がらない。何と言う事を、何というお方に頼んで行ったのですかウィンは! 選りに選って王子殿下に! そして孤高の一匹狼って何?! 恥ずかし過ぎるでしょうその形容、私は単にぼっちなだけだ。


「だっ、…そ、……何という大それたことを、殿下に」


 ようやくそれだけ絞り出した私に、殿下はとても気安い仕草でイヤイヤと手を振ってから、眉を下げた。


「立場上、表立って特定の女性を庇うとか出来ないからさ、ほんとに見守るくらいしか出来てなくてごめんね。余りにも酷い噂には対処したけど、今回みたいな時には出て行きづらくてさ。挙句に面白い事になっちゃって、愉快な報告が出来そうだとは言えこんな事じゃ報酬も貰い難くなっちゃうし、どうか貴女も身に回りには注意してね」


 いろいろ情報量が多すぎて頭が追い付いて行かないが、それでも聞き捨ててはならない言葉が耳に引っ掛かったのは判った。


「…………あの、報酬……と聞こえましたが……?」


 畏れ多くも王子殿下に報酬って何だ。

 恐る恐る訊ねた私に、殿下は悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「うん、今後、当たり年が来たら個人的に融通を利かせてくれることになっているんだ」


「……カーバンクルのワインは必ず一定数を王家に献上することになっている筈なのですが」


「それがね、献上品だけだと私の処まで回って来ないんだ。陛下と兄と叔父上で血みどろの取り合いになってしまって」


「……血みどろ」


「ここ数年は特に稀少だから、そりゃもう凄まじくて」


 怖いよねえ、酒飲みの執念って。


 ―――と、他人事のようにそう仰ったドミニク殿下の笑顔は、若干、黒かった。調達出来た暁には、ご自身で召し上がるだけとは思えない、一体どう使うつもりでおられるのかと慄かざるを得ないくらいには。

 それから一転して、ものすごく気さくな笑顔と口調で(まあ今までずっとそうだったのだが)呉々も気を付けるんだよ! と言い残してひらりと踵を返し、騎士を従えて去って行かれた。


 ――――――嵐のようであった。何もかもが。通りすがりの(いやあれは待ち伏せされていたような気もする)ご令嬢に絡まれ、醜い言い合いになった挙句に突き飛ばされ、ヤレヤレと思う間もなく、そう言えば言葉を交わした事こそ余り無いけれども何でか良くお見かけするなあと思っていたドミニク殿下との気易い談笑という驚愕体験に続いて、通り一遍の交際であり、さして親密でも無かった筈の婚約者が王子殿下にとんでもない取引を持ち掛けていた事を知らされたどころか、気のせいでなければ殿下は『ウィンストンにぶん殴られる』と仰っていたと思うのだけれども、いや、ウィン、貴方はそういう人でしたか。そもそも良く判っていない人とはいえ、いろいろ衝撃的で、独りになってみればどっと疲れが襲って来る。


 もはや図書館棟に向かう気力も無くした私は、帰宅するべく、とぼとぼと歩き出した。


 ウィンとはそろそろ六年近い付き合いであるが、実はあまり交流したことが無い。年齢が微妙に離れているのと、とにかく彼が忙しい所為だ。


 ウィンは伯爵家の嫡男であり、家業の重要な担い手でもある。


 机上の話では無い。物理的にと言うか、実地で担っている人なのだ。十歳にもならないうちから父君と領地に散らばる葡萄畑とワイナリーを巡回し、使用人たちに混じって働いていたと聞いた。それは即ち、葡萄を育て、収穫するのにどれほどの労力が掛かるのか、そして醸造にどれほどの神経を使うのかを躰で理解するため。領民の苦労を努力を自らのものとして捉え、共に領を発展させるためだ。


 それがカーバンクル家の倣いであり、誇りでもあって、だからウィンはまずは領地で三年近く働いてから、十二歳で家を離れて王都の学院に入った。そして今度は卒業まで、六年間に渡る勉強漬けの生活に突入したのだけれど、その辺りから果樹の病気や天候不良が相次ぎ、カーバンクルの主要産業であるワインの生産量が落ち始めたのだそうだ。


 勿論、ワイン以外にも産業はあるし蓄えもあるから、いきなり財政が傾いたりはしなかったけれども、苦しくはなった。


 如何に努力しようと、天の摂理は人にはどうにも出来ないのが辛かった、帰省の度に小作人たちとあれもこれもと処分するのがとても苦しかった、とウィンが苦笑していたのを覚えている。


 雨続きで葡萄の花が腐ってしまったり、なんとか残った花を受粉させても実が上手くつかなかったり、ついた実も落果してしまったり、果ては日照不足が祟って果樹に厄介な病気がついて畑まるごと駄目になってしまったりと、散々な年が続いてしまったのだそうだ。


 それでウィンは四年生になる時、進級を諦めて領地に帰る決心をしたそうなのだけれども、そこで私の家との提携が決まって、同時に私が成人したらカーバンクルに嫁ぐことも決まった。

 

 この時、ウィンが十五歳、私はもう少しで十一歳になる処だった。


 この年頃に於ける四歳差は大きい。実に大きかった。またカーバンクルの男は体格に優れた家系らしく、ウィンは十五の時点で既に立派な成人に見えた。むろん、今と比べれば線が細く、全体に薄べったいというか、大いに少年ぽさが残っていたのだけれど、まだまだ子供だった当時の私には十二分に大人の男性に見えた。それも、非常に魅力的な。


 それで、当時から独りで本ばかり読んで頭でっかちでチョロかった私は、一目で恋に落ちた。


 ……いや言い訳する訳では無いが、とにかくウィンは綺麗な顔だったのだ。この頃は頬もまだ削げてはおらず随分と柔らかい容貌で、(全然そうは見えなかったが)同じ年頃だった私の兄より背が高くて陽に灼けていて、今よりもっと、その特徴的な矢車菊の瞳が映えて、もんのすっごくかっこよかった。


 美少年と美青年の絶妙な狭間で、たまに笑うとちょっと子供っぽくて、本当に、ほんっとうにかっこよかった。照れを滲ませた少年ぽい笑顔で、婚約者になったのだからウィンと呼べ、と言ってくれた時の私の舞い上がりぶりたるや、今思い返すと穴を掘って叫びたくなるほどに恥ずかしい。紛う事無き黒歴史である。掘った穴にとっとと埋めて、未来永劫忘れ去りたい記憶である。


 ……しかし、ぷよぷよの子豚でしかなかった当時の私に、良くぞウィンもそんな殺し文句を放って来たものだと思う。彼にそんなつもりは無かったのかも知れないが、とにかく子豚は瞬殺だった。まあ今でも私は子豚だけれども。大豚ではないと思いたいけれども、同世代で私のような体型の令嬢は滅多と居な―――いやそんなことはどうでも良くて、つまり何が言いたいかと言うと、私はウィンに恋をしたけれども、ウィンはそんな筈が無いのだという事である。


 婚約は、した。政略だから、恙なく。だが顔を合わせての交流はほぼ無かった。出来なかったのだ、何しろウィンに暇が無くて。 


 ウィンはこちら(王都)にいる間はひたすら勉学に励み、少しでも長い休暇は全て領地に戻って厳しい家業の回復に邁進していた。年下どころか子供の私にわざわざ逢いに来る時間など、何処をひっくり返してもある訳が無かった。ましてや、そもそも実のある会話が成立する年齢差でも環境でもない私たちの交流は、ほぼほぼ文通に終始した。それもだいぶ間遠な。


 私も周囲も、いずれ同じ学院に入る予定だからと呑気に構えていた部分はあるが、それにしても私の入学まで一年以上あったと言うのに、その間、実際に顔を合わせたのは、婚約成立当日と、ウィンの作業量が比較的少ない時期の休暇に合わせてカーバンクル領を訪問した時の二回だけ。何を隠そう、先ほど私が滔々と述べた婚約までのカーバンクル領とウィンの経緯は、この訪問時に、それでも忙しく立ち働くウィンにヒヨコ宜しくついて回って手伝いという名の邪魔をしながらぽつりぽつりと聞いたことであり、そしてこれが大笑いな処なのだが、そのたった二日間で交わした言葉が、これまでの我々の全会話量中の最多である。入学前に限った話では無い。六年後の今に至るまでの全てで、である。


 ―――進学してみて愕然としたのだが、四学年差というのは、年齢差よりも大きかった。


 まず、学舎が違う。一年から三年までは同じ学舎で教室をあれこれ行き来するのだが、四年から最終学年の六年までは、何と敷地からして違ったのである。つまり、ピカピカの一年生の私と、五年生であるウィンとの接点は、ほぼ無いのだった。これを理解した時は、膝から砕けると思った。本当に。イヤ知ってたなら教えてよ! と絶叫したのも記憶に新しい。ウィンに直接など勿論のこと言えないから、自宅で、同じ学院生だった兄に向かってではあるが、入学直後、確かに喚いた。これもまた黒歴史である。


 幸いだったのは、大食堂とカフェテリア、予約制だが学生が自由に使える複数の茶話室が併設された食堂棟と、膨大な蔵書を誇る図書館棟、屋内運動場(これも大小あった)が、全学年で共有だったことだ。このおかげで、私は辛うじてウィンの姿を追う事が出来た。それで、ウィンと共に在学出来た二年間、ごく稀にとは言え昼食を同じ長卓で摂ったり(決して()()では無い処が切ない)図書館棟で書架や自習スペースで邂逅したり(学内に慣れてきてからは待ち伏せした)ごくごくごく稀にカフェテリアでお茶を飲んだりした(これはわざわざ手紙を交わして約束を取り付けた。大変だった)他は、毎日、共有スペースや学内通路の移動の際、目を皿のようにして探しまくった。一目でも、遠目だろうと彼の姿が見たかったから。


苦労ばかりが多く、実りの少ない二年間だった。こんなもの、うっかりしたら只の付き纏い(ストーカー)である。笑い事にもなりはしない。あははははは―――はあ。


 思い返すだに我ながら実に涙ぐましいが、もっと泣けてくるのは、これら全てが私からの働きかけだという事だろう。遂に最後まで、ウィンからカフェに誘われる事も無ければ、自習スペースで居合わせても何かを教えて貰えることも無かった。流石に出合(でくわ)せば目配せというか目礼というか黙礼というか、そういうコミュニケーションはあったけれども、日常的な会話が無い。見事に無かった。だから入学前のヒヨコデイズが最も多い会話になってしまったわけで、そのままウィンは卒業してとっとと領地に戻ってしまったのだが(流石に卒業記念パーティのパートナーは私が勤めた。この時ばかりは、ドレスもウィンと揃えて誂えたし、記念のジュエリーも交わした。と言えばお察しであろうが、婚約成立時の記念品交換を除くと、この時以外こういうプレゼントのやり取りだの衣服を揃えて云々だの、やったことがない)以降、一か月に一度、生存報告じみた便りが届けば御の字だみたいな付き合いの婚約者がだ、置いてきちゃって心配だからと一学年上の先輩に(どころか畏れ多くも第三王子殿下に!)『俺の代わりに見護ってやって』『何かあったら報告して』などと頼んで行ったと聞かされたとて、ハア? としか言いようが無い私の気持ちも判って頂けよう。


 いやあ本当に判らない。ウィンが何を思ってそんな事を言い置いていったのか、心底、さっぱり判らない。それは婚約は契約であるから、私に何かあったら(例えばうっかり死んじゃったとか)その後の資金提供が滞るやも知れぬと心配したのかも知れないが、それこそ本来は事業の契約である。投資分に見合う回収もならないうちに、金の亡者の呼び名を欲しいままにする我が家の父と兄が手を引く訳が無いのである。私が居ようが居まいが、婚姻が成ろうが成るまいが、好事家の間で高額取引されるばかりか、王家にも覚え目出度く献上を心待ちされるカーバンクルのワインがアッシュベリーに利益を齎すまでは、何の心配も要らないだろう。むしろ、ワイナリーが完全に復調した時こそ、我が家の守銭奴共を恐れるべきだと思う。


 うーん後は何だろう、何かウィンが気に掛けねばなければならないような事があるだろうか?

 

 本の虫、又の名を図書館棟の地縛霊とさえ言われる私の落第か。それとも更なる評判の下落か。確かにウィンが卒業してから例のおかしな噂は急激な加速傾向にあったけれども、それこそ今更だ。私は別に守銭奴の娘よ銭ゲバの子よ婚約すらカネで買った醜い豚よと囁かれようとも、それでウィンとカーバンクル家が道連れにされて貶められることさえ無ければ別に何とも思わないのだが。


 ―――ウィンの名誉を傷つける者は、絶対に許さない。


 あんなに苦労して、努力して、領の為、民の為にと、それこそ身を削るようにして働き続けているのだ。尊い人なのだ。それなのに、まるで資金提供に目が眩んで私のような子豚モドキに身を売ったかのように面白おかしく囃し立てる人間を、私は絶対に許さない。我が家とカーバンクル家は、飽くまでも対等に提携を結んだのだ。子豚モドキは、要らぬオマケに過ぎないのだ。そこをはき違える大バカ者は、この体重全てを使ってでも踏み潰してやる所存でいる。何なら、私に甘い兄の威も借り放題だ。


 などと顔も判らぬ敵対者への怒りにブーストされ、みるみる加速してしまった淑女らしからぬ早歩きで我が家に辿り着けば、出迎えてくれた家令のジェイムソンが珍しくニコニコしながら手紙が届いていると言う。


「ウィンストン卿からでございますよ。今回は果汁も送られて参りました。冷やしてございますので、後ほどお持ち致しましょう」


「果汁?」


「はい、新品種の実つきが順調だそうで、早めに収穫出来た分を搾汁した物だそうでございます。お嬢様に是非、とのことで」


 それは何よりの事だ。ウィンと領の皆の頑張りの賜物であるからには、有難く美味しく頂かねばならない。埃まみれの汗だくでは失礼である。

 侍女の手を借りつつ身を清め、何処も躰を締め付けず胸を圧し潰すことも無いワンピースに着替えてから、私は自室のベランダに準備された茶席に付いた。


 深い深い赤と紫、重なり合って現れる紫紺に墨黒。

 華奢な脚付きグラスを満たす果汁から透過した光が、ゆらりゆらりと美しい。


 これは、本来ならば赤ワインにする為の葡萄の果汁だ。糖分や水分などの混ぜ物は一切なし、ただ丁寧に絞って濾し、ある程度の保存と輸送に耐え得るよう殺菌処理を施したものだ。


 グラスを手に取り顔に近づけ、揺らしてみる。うん、香りはさほど損なわれていないのではなかろうか。それは勿論、搾りたての時とは別物だろうけれども、これはこれで良い。香しい。


 目を閉じて、ひとくち頂いてみる。……うんうん、すっきりした舌触りと芳醇な甘みのあとで、ぐっとタンニンの強い風味が追いかけて来るが、渋くはない。なかなかに後を引く美味だ。でも、うーん、これは良く冷やしてあるからこの程度だが、常温だとどうなのだろう。もっと重厚さが前に来るような気がするなあ。

 これは是非とも試さねば。あ、もしかして発泡水で割るのもアリかも知れない。あああっ、柑橘とスパイスを漬けても美味しいかも! よし、この後すぐにいろいろ試して、それからウィンに報告しよう。ふふふ、これはかなり楽しめそうである。


 わくわくしながら、もうひとくち含み、ウィンからの手紙の封を切る。

 ―――うん、いつも通り、葡萄の生育状況と領地の様子が簡潔に綴られている。本当に今年は順調そうで何よりだ。へえ、猫がまた増えたのか。それはさぞや害獣駆除に活躍するであろう。何より可愛いものねえ、猫は。ウィンはあれで小動物に弱い。さぞやデレている事だろう。今回の差し入れには、忘れずに猫の好物も入れてあげなくては。


 便箋二枚にも満たない、あっさりした定期通信だが、カーバンクルの皆さんも領民も元気である事は良く判った。先月こちらから送った物資も(主に食料だが)概ね好評だったらしくて、胸を撫でおろした。去年あたりから資金繰りはかなり楽になったそうだが、それでも嗜好品の類はどうしても後回しになるものだからと何やかや送ってしまって、ちょっとお節介だったなと気になっていたのだ。


 ほっとした心持で丁寧に手紙を封筒に戻して、私はグラスを干した。

 感想を(したた)めるのは実験してからだ。やってみたいあれこれを思い浮かべつつ、私は浮き浮きとその場を後にした。


 その夜、自室でペンを取りながら、まだ私はアレンジした果汁に舌鼓を打っていた。砂糖とほんの少しの柑橘を足して、凍らせてから崩したグラニテである。ああ美味しい。勿論、元の果汁がカーバンクルの物だからこその美味であるが、はー、本当に美味しい。スプーンが止まらない。判っているとも、こんな事ばかりしているから私はいつまで経っても子豚のままなのだ。せめてもと続けている、高位貴族の娘とも思えぬ徒歩通学で消費するエネルギーなど、文字通りの焼け石に水。


「―――父と兄は常温ストレートが、母は柑橘とアロマダイズドして冷やしたものが特に好みのようでした、と」


 甘酸っぱいシャリシャリを堪能しつつ、ウィンへ送るレポートを書く。温度差に因る味わいの差、料理との相性、試したアレンジ、次に試そうと思っている事など、報告したい事がどんどん湧いてきて、読まねばならないウィンが可哀想だと思いながらもペンが止まらない。


「―――それから、先日の焼き菓子が好評だったそうなので、調子に乗って新作を送ります。二年越し漬けておいたレーズンをたくさん入れたものが我ながら上出来ではないかと……待って待って私の手作りとか品位を疑われるでしょうが」


 我に返って、筆が滑った部分をこりこりと丁寧に削り消す。

 危なかった。侯爵令嬢自ら厨房に立って腕を揮うなど普通は有り得ない。食い意地が張るあまり子供の頃から厨房に入り浸りだとか、恥以外の何物でもないのだ。我が家では誰も何も言わないのを良い事に、どころか兄などいつの間にか私のレシピで菓子屋を立ち上げ、新作はまだかと嗾けてくるのだから大概である。それにちゃっかり乗っかって、開発費は勿論、自分しか使わないような特殊な機材や材料を巻き上げている私も私だが。

 ……カネの亡者の子豚娘の面目躍如というべきこんな有様、絶対にウィンには知られたくない。


「どうか頑張り過ぎず、お躰をお厭い下さいますよう……と」


 最後に署名して、随分と分厚くなってしまった便箋を封筒に押し込み、封をした。ジェイムソンに(ことづ)けておけば、準備済みの差し入れと同梱して発送してくれる手はずになっているのだ。文字の書き過ぎで凝った背中をほぐしつつ、私は呼び鈴を鳴らした。


 翌日、恙なく荷はカーバンクル領へと向かい、それから何日か経って、当代伯から無事に届いた旨の丁寧な礼状を頂戴した。それによるとウィンは現在、各地の畑の況確認行脚中だとの事で、相変わらず良く働く男である。散々疲れて帰ってきて、あの量の文章を読ませるのは申し訳ないなと改めて思ったが、出しちゃった物はもう取り返せないから、カーバンクル領に向けてゴメンの念を送っておいたのだけれども、その後、珍しくもウィンからイレギュラーな便りが届いた。


「―――あらまあ、果汁としても売り出すことにしたんだ?」


 何とあの食い意地の塊のような手紙を読んだウィンは、片っ端から自領でも試したのだそうだ。その結果、新品種の収穫を全て醸造するのではなく、一部は果汁の状態で限定販売する事を決めたのだと言う。勿論、大部分は従来通りに醸造するのだけれども、その出荷が叶うまでの隙間埋めの商いとして充分いけると判断したらしい。

 それで、近々に披露目の会を王都で開く予定なのだけれども、そこで私のレシピを使う許可が欲しいと言う。ご丁寧な事だ。そんなもの、幾らでもどうぞと言うに決まっているのに。何なら、新たなレシピを起こしたって良いくらいだ。


 という返事を出したら、凄いスピードで追加の果汁が赤白両方届いて笑った。これがまた試作に使う量ではない。勿体ないなあ、こんなに貰っても我が家で美味しく頂くだけなのだから、もっと商売に回して良かったのに。そう思ったから、せっせと試作し、家族や使用人に振舞っては感想を元に篩に掛け、改良を重ねて纏めた物を、様々な物資と共にカーバンクルに送った。

 幸いな事に例の菓子店の売り上げが上々で、私の個人資産(取り分)も順調に増えているから、差し入れくらいは何という事も無い。新しい商売を始めるからには、ウィンは更に自らを酷使しているだろう、せめて元気の足しにでもなればと思ったのだが、もしかしたら、これも子豚の大いなる余計なお節介だったかも知れない。


 そんな自省を促すような噂が私の耳に入って来たのは、件の果汁のお披露目会の招待状が世に回った頃だった。


 カーバンクル家のワイン品種の葡萄で作った特別な果汁を販売する会が、ごく僅かな招待客を相手に開かれる、というニュースは、素晴らしい速さで社交界を駆け巡った。

 先駆けて献上したものを王妃殿下が絶賛したと言うのもあって、招待状の争奪戦すら起きたらしい。正確には、限られた招待状を持つ方々の処に同伴希望者が殺到したのだが、いや、凄かったらしい。カーバンクルと事業提携している我が家には、何か誤解した人々からの問い合わせが続いて対応が面倒だったと兄が溢していたが、何とその余波が学内ぼっちの私にまで及んだのには驚いた。何やらもの言いたげに擦り寄って来る人々が湧いたのである。


 婚約者はオトモダチを呼び放題ですよね、ってどの口が言うか。その全員が、とまでは言わないが、相当数の人間がつい先日まで、私のみならずウィンの事まで面白おかしく囃していた筈ではないか。


 自慢じゃないが私は執念深いので、そのような俄か友人を名乗る者共は一律に黙殺し、いきなり増えた茶会への誘いも全てお断りした。今まで通り子豚の事は放っておいて頂きたいと、態度でも言葉でも露わにした。そのあからさま加減に笑い上戸のドミニク殿下は悶絶していらしたが、ともあれそんな風に底意地悪い事をやっていたら、ある時点から、とある令嬢ならばウィンに話を通して貰えるという噂が流れ始めたのである。


 かの令嬢は予てよりウィンと親しく交流しており、頻繁に便りを、贈り物を受け、また領地に招かれては逢瀬を繰り返す程に心を寄せられているのだと言う。


 何処かの冴えない子豚とは違って見目麗しく、かつ気取らない人柄で、身分こそ余り高くないけれどもカーバンクル家と親交が深い資産家の令嬢なのだそうだ。そして、雪白の肌と淡い栗色の髪に素晴らしく映える、ウィンの瞳を映したような、彼からの心づくしだと言うサファイアを常に身に付けているのだ、と。


 ―――つまるところ、それはハートリー家のロッティ嬢の事である。


 その噂が噂に終わらず、事実、彼女の一声でお披露目会への同伴が許されたという話が広まるに至って、私も少々考えざるを得なくなった。


 彼らが家絡みで親交があるのは間違いない。ハートリー子爵の店では当初からカーバンクルワインを提供しているし、領を訪ねる事もままあるだろう。家族を連れて行っても不思議は無いし、そうなれば当たり前に歓待されるだろう。婚約者持ちであろうと、その家の次代が取引先の令嬢を持て成すのは普通の事だ。そこまでは判る。だが、頻繁な便りだ贈り物だとなると話は別だ。


 ―――ウィンの卒業の時は、カーバンクル家はやっと苦境を抜け出せる兆しが見えるか見えないかという処だった。だから、本来ならウィンの方で手配する筈の揃いの衣装は、我が家の負担で賄った。それは今でも何とも思っていない。だって、カーバンクル家にはもっと重要なお金の使い道があった。そもそもウィンは何を着ていようが麗しいのだ。その彼に恥をかかせないように取り繕わねばならないのは子豚の私なのだから、自分で賄って当たり前である。

 それに、ウィンからは、ちゃんと彼の色のネックレスを貰った。小粒のサファイアとダイアモンドで(かたど)られた繊細な矢車菊は、私の宝物だ。普段使い出来るデザインなので、いつでも身に付けている。

 だが、これ以外に、形に残るものでウィンから貰ったものは無い。手紙だって月に一通、それもほとんど領地の現状報告であり、私的な想いが綴られていた事など皆無である。こっちからは散々ぱら書き散らかした時期もあるが、彼方からは実に簡潔というか時にぶっきらぼうと言っても差し支えないような、そういう手紙しか貰った事が無い。


 逢瀬に至っては、もう何をかいわんやである。ウィンの卒業以来、実際に顔を合わせた回数など、両手の指でも余るだろう。あれから三年近くが経つと言うのにだ。


 ウィンが王都に来るのは飽くまでも仕事絡みであって、子豚のご機嫌取りの為ではない。いや、来れば必ず我が家を訪れてくれるし、観劇だとかカフェに行くだとかデートのような事もしてくれるのだが、哀しいかなウィンがほぼほぼ無表情なので、ああ義務を果たしているんだなあと、可哀想に疲れてるのに付き合わせて悪いなあと、これは第三者に目撃されて愛が無いと噂されても致し方なしと思ってしまうような、そんな空気が漂うのである。


 ―――そうか、あれ以来、何かとロッティ嬢が突っかかって来るのも、故無い事では無かったか。

 という事は、ドミニク殿下が仰るところの『心配だから見守って』の真の意味は、『勘違いしてやらかさないよう見張ってて』だった訳か。成程、それなら納得だ。


「何言ってるの、そんな訳無いでしょうが」


 お披露目会まで、あと数日を残すばかりの日。

 図書館棟に行く途中でばったり邂逅したドミニク殿下に、今までお手を煩わせた事を詫び、きちんと己の立場とすべき事は理解したので今後は御心配には及ばず捨て置いて頂いて結構ですと申し出た処、得体の知れないモノを見る目で凝視された挙句にそう言われ、私はいやいや判っておりますと更に頭を下げた。


「何でそんな結論になっちゃったの、アッシュベリー嬢」


「殿下だってお聞き及びでしょう、ハートリー嬢とウィンストン様の事は」


 殿下は更に曰く言い難い目つきで私を見た。


「聞いているけど、バカバカしいの極みだね。何で真に受けちゃうかなあ貴女は。ウィンストンは何があっても心変わりしないよ。アレはそういう男じゃない」


「真面目な方なのは存じております。義理堅い方で、ご自分の事は二の次で領の事ばかりをお考えだという事も」


「なら余計でしょうよ。アッシュベリーとハートリーだよ。天秤に掛けるのも馬鹿げている」


「恋ほど理に適わぬものは無いと申しますでしょう。落ちてしまえばそれまでです」


 立場とか身分とか背景とか後先とか、そういうモノ全てを振り切って落ちてしまうのが恋だろう。理屈じゃないのだ。


「―――ウィンストンとハートリー嬢がそうだって?」


「という話です」


「それ、本人に確認した?」


 恐ろしい事を仰る。

 私の顔を見て、殿下は嘆息した。呆れられている気がするのは何故だろう。


「してない訳ね。そりゃそうだ、してたら我々がこんな話をしている筈が無いんだ」


「ハートリー嬢が招待状を持たない友人を何人も伴うのが許されているのは事実ですので、訊くまでもないかと」


「それもなあ、私は疑っているんだよね。本当に()()()()()()()良いと言ったのかって」


 この際、もう誰の許可だろうと大した変わりは無くなかろうか。


「……まあいいや。それで何、貴女は本気でウィンストンに婚約解消を申し出るつもりなの?」


「はい。厭らしい話ですが、家格上、ウィンストン様からは言い出せませんので、私の方から解放して差し上げねばならないかと」


「アッシュベリー侯爵は何て?」


「……笑ってました」


 それはそれはゲラゲラと。

 思い返して憮然とする私の顔がよほど面白かったか、悔しいかな殿下までもが大笑いした。


 いや、家と家との話であるから、私から婚約解消しても業務提携に支障が出ないか、念のために確認したのだ。まあ間違いなく大丈夫だろうと踏んではいたが、あんなに笑われるとは思わなかった。それも兄とふたりで腹を抱えての大爆笑である。失礼な。傍らで母はひとり苦笑し、控えていたジェイムソンまでもが珍妙な顔をしていたが、それでも誰も止めなかったので、解消しても差し支え無いのだと判断した。

 私の決意は固いのである。


「それで何、件の披露目の席でやらかす気?」


「その仰り方には語弊がございます」


 それでは万座で放言するかのようである。我が家主催でも憚られるようなことを、何で他家の重要な商談の場で出来ると言うのか。隠れてやるに決まっている。


「その日にやるのは間違いない、と。―――ひとつ提案があるのだが、私も招かれている事だし、是非ともその場に立ち会わせてはくれないだろうか」


「何ですって??」


「野次馬で言ってるんじゃないよ。事は重大だ、証人が居た方が後々の為だと思わない? だって貴女、家として申し出るより先に、ウィンストン本人と話し合う気でしょ?」


「それはそうですけれども、まさかに王子殿下にそんな事を」


「いやいや、飽くまでも貴女の先輩、ウィンストンの後輩として立ち会うだけだから。居た方が良いって、第三者」


 大真面目に殿下は言い募る。

 ……確かにそれはそうかも知れないが、でも、だったら兄でも良いと思う。家族全員、招かれているのだもの。


「貴女のご家族ではウィンストンが孤立無援じゃないか。それは流石に可哀想というものだ」


「ええー……」


 渋ったものの、それこそ殿下からのお申し出を一臣下の身で蹴れる道理が無いのである。

 斯くて殿下は強引に立ち合いの約束を取り付けて、浮き浮きと去って行かれたのだった。


 そして迎えたお披露目会当日は、素晴らしく盛況だった。


 カーバンクル家のタウンハウスに招かれたのは厳選された人数の筈だったのだが、ほぼ全員が誰かしら、どころか複数人を伴っている方も珍しくなかった為に、会場となった広間はごった返していると言っても過言でない程に賑わっていた。それで私はいつものようにとっとと片隅に引っ込んで、壁の花ならぬ物陰の子豚になるつもりだったのだが、何故かそう上手くはいかなかった。


 今回、我が家の侍女達が総力を尽くしてくれた甲斐あって、普段よりはだいぶ見られる様まで化けはしたが、元が元である。人目に愉しいような代物ではない。だから家族と共にさくっと挨拶周りを済ませて速やかに戦線を離脱、あとは極力目立たぬように薄暗がりに潜む気満々で居たのだが、何の恨みがあるのか早々にドミニク殿下に取っ掴まり、以降、パートナーよろしく延々と連れまわされる羽目となった。おかしいでしょう、この状況。何の辱めですかこれ。何が哀しくて、眩いばかりに麗しい王子殿下の隣で晒し者にならねばならないのでしょうこの子豚が。


 人々の、あからさまに奇異な物を見る目が突き刺さる。実に痛い。身が細る思いだ。痩せないけど。

 ウィンが時折、凄い目線を飛ばしてくるのも勘弁してほしい。こちらも好きで殿下にくっついてる訳じゃないのである。それは未だ話が出来ていないので私は紛うことなくウィンの婚約者のままだから、この状態は外聞が悪いのは判る。だがしかし、ウィンとてロッティ嬢をくっつけているのだからお互い様だと思うのだ。


 そう、半年ぶりに顔を見たウィンは、さぞ忙しかったのだろう、若干やつれて顔色が冴えなかったけれども相変わらず大変にかっこよく、滴るような美丈夫ぶりで―――煌びやかに着飾ったロッティ嬢を、その腕にしっかと絡ませていたのである。


 ―――ああ、これは私なんかよりも、よっぽどお似合いだ。


 見た瞬間、私は素直に感嘆した。すごい。文句なしの美男美女だ。眼福である。余りの似つかわしさに胸を打たれ、瞬きを忘れて目が潤んだほどだ。そして、何度見ても眩しい。目がしぱしぱする。

 

「―――アッシュベリー嬢、大丈夫?」


「何がでしょう?」


「いや、―――そうだな、ちょっと休憩しよう。ごめんね、疲れたよね」


 何やら気づかわし気に殿下が私の顔を覗き込むや、解放されたフレンチドアを抜けて、庭園へと誘って下さった。

 幾何学的に刈り込まれた生垣が美しい庭園にも瀟洒な席が用意され、使用人たちが飲み物や摘み物、美しく盛られたデザートプレートなどを提供している。


 その一隅に腰を据えて、私はグラスを傾けた。

 仄かに泡立つ白葡萄の果汁が、かさかさした喉を滑り落ちていく。遠くに感じる蜂蜜のようなコクを壊さない程度に加えられたハーブの香りが清々しい。

 

 ―――うん、爽やか。

 どんな状況でも、美味しいものは美味しい。丈夫な味覚と胃腸に感謝である。


 向かいに着座なさった殿下も優雅にひとくち含んで、目を細めた。


「旨い。これも貴女のレシピ?」


「どうしてそれを?」


「そりゃあねえ、」


 悪戯っぽく言いかけた殿下が、ふと私の背後に目をやるなり言葉を切って、きゅっと唇の端を釣り上げた。何ですか、その悪魔のような微笑みは。


 と思う間もなく、私の肩にずしりと重い手が置かれ。


「……っひ?!」

 

 背後から、こめかみに柔らかくしっとりしたナニカが触れて、……肌をなぞって、離れていった。

 ってまさか今のは。―――今のは。


「わあ、目の毒だなあ」


「ジェンのエスコートをありがとうございます、殿下。……聞いていませんでしたが」


「言ってないもの。別に構わないでしょ、ウィンストンも綺麗どころを連れているんだし」


「大いに構いますよ。こちらは止むを得ない接待ですから」


「私じゃなくてアッシュベリー嬢に言いなよ、そう言う事は。事前に、ちゃんと」


 殿下とウィンの会話が耳を滑って通り過ぎていく。心臓がものすごい勢いでばくばくと打っていて、口を開いたら何か出てきそうで、怖くて奥歯を食い縛る。


 ―――びっくりした。びっくりした。びっくりした。まさかこめかみにキスされるなんて、思ってもいなかった。だって今まで、一度だってされた事が無い。エスコートの時に指先だとか手の甲に軽く、というのは何度かあるが、頬にすらほとんどされた事が無いと言うのに、こ、こめかみは驚く。驚いた。そしてウィンと共に回り込んできて、当たり前のように隣り合って同じ卓に付いたロッティ嬢の目も怖いが、殿下が黙って椅子ごとずれて下さったのはもっと怖かった。……後で不敬罪の巻き添えとか無しでお願いしますよ殿下。


「ジェン、さっきは碌に挨拶も出来ずに済まなかった」


「いいえ、お忙しそうでしたもの。気にしていません」


 ウィンを前に、笑顔が引き攣るのが自分で判る。視界の隅に、明らかに面白がっている殿下と、異国の仮面の如き無表情のロッティ嬢が見えて気が散るが、それでも真正面から見据えて来るウィンの顔から目が逸らせない。口元は薄く笑っているのに、目が全く笑っていなくて怖すぎる。どう見ても怒っているのだけれども、理由が判らないから対処が出来ない。それでも何とか、私は当たり障りのない言葉を捻り出すことに成功した。


「盛況で何よりですこと」


「ジェンのお陰だ」


「別に私は何も。カーバンクルの皆様の努力の賜物でしょう」


「いや、ジェンの数々のアドバイス無くして今日は迎えられなかった。後で改めて感謝の席を設けるけれど、何はさておき君の発想と機転に深く感謝している事を伝えたい。本当に助かった」


「いえ、私など―――」


 ウィンの手が私の方に伸びて来るのに慄きつつ、そんな事は本当に無い、と続けようと思ったのだが、それよりもロッティ嬢が割り込んでくる方が早かった。


「そうですわ、ウィン様と伯爵様の頑張りが実っただけではありませんか。これからの販路拡大に、我が家も大いに尽力いたしますから、何でも仰って下さいな。私たち、ふたりで力を合わせて参りましょう?」


 きゅう、とウィンの腕に抱き着いて、下から掬いあげるように見上げるロッティ嬢は、同性の目から見ても健気で愛らしかった。胸元と耳たぶ、更には腕にも煌めく大粒のサファイアは、噂通りにウィンの瞳と同じ色だ。あの大きさと品質の石をここまで揃えるのは生半可では無かった筈だ。その手間も、値段も。


 あんなものが誂えられる程、カーバンクルの財政は持ち直したという事だ。

 めでたい事だ。だからもう、本当に大丈夫なのだ。


「ハートリー嬢、何度も言うが」


「いや! そんな他人行儀な。ロッティと、そう呼んで下さいと何度もお願いしていますのに」


 平坦な口調のウィンに被せるように、ロッティ嬢が唇を尖らせてしがみつく。その様子に目を見開いた殿下が、ひそっと唇を動かした。声にこそ出ていなかったが、どう見てもアレは『すっげえ』だ。確かにね、なかなかな媚態ですけれども、殿下、その物言いはちょっと雑駁に過ぎるのでは。


 居た堪れなくなって、席を立つ。間髪入れず、という勢いでウィンも立つから、引きずられてロッティ嬢も立ち上がる。しがみついた腕も押し付けた胸もそのままなのに、いっそ感心する。


 殿下は優雅に脚を組んで座したまま、もう完全に傍観者の構えだ。目が爛々としている。何処が野次馬じゃないのか。心の底から、パーフェクトに面白がっておられるのが丸わかりである。


 不意に笑いが込み上げてきて、私はぎゅっと自分の腕を抱え込んだ。


 ―――もう良い。

 もう充分だ。要らぬ子豚は潔く退場する場面だ。


 だから私は彼の精悍な顔を見上げ、これが最後と渾身の笑顔を練り上げて、張り付けて、静かに、だが断固として、宣言したのだ。


 ―――婚約解消を致しましょう、と。




お付き合い下さいましてありがとうございます。


この後、ウィンストンは壊れます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 子豚って……あ、そのまま大人になったのね 孤高の一匹狼とか言うからどれ程美人に成長したかと思ったら、子豚って…… 狼だか子豚だかはっきりしないなぁ [一言] うーん。 この2人が上手…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ