2001年のオデッセイア
初めから、飛行機の音ではなかったのだ。矮小でお粗末な虫けらの一匹の羽虫の音だったのだ。羽虫はやがて、耳の裏をまわって飛んで火に入ると予想されるだろう。
私は作家志望者だった。しかも強烈な。紆余曲折あって、今は精神病院の住人である。年齢は三十代前半、日々厳重で時代遅れな白亜の巨大な精神病院の入院患者として過ごしている。
念願である母校の高校の同窓会へは帰れない。若いうちに立派に芥川賞をとって、屈辱のイジメにあった同級生を見返し、故郷に錦を飾りたい、という悲願があって、大学入学失敗の二浪目の時、受験勉強から逃げだして、東京に単身上京したという経緯があった。
大阪でもそうだったが首都圏でも作家修行のために、私は働きまくった。二十歳までに経験したアルバイトは二十種類ほどあった。首都圏では小さなアパートを借り、夢を追うビンボーライフを送った。
この頃は、生活のすべてを自分の稼ぎのアルバイト代でシノでいたが、私は大学受験も希望していたのだが、二浪で失敗したときは、現実に耐えられずにさすがにそれまでの無理がたたって、はなばなしく発狂してしまった。
くわしくいえば十七歳で発狂し、十九歳で発症したのである。
それで故郷の大阪にかえって、精神科に通院しながらアルバイトを続けていた。それまでにも、良心的な主治医のほうから年金を受けるようにすすめがあったのだが、やはり自力で夢をかなえるという信念はいくら狂っていても捨てがたく「ロッキー」だ「フラッシュダンス」だと念じながら一度には書類を審査作成してもらっていて途中で気が変わって、自分で市役所に電話して直前で取り消してしまったことがあった。
それで相変わらず古本屋に雇われ店長として命じられてアルバイトなどをしながら、休日には市民図書館に通い、小説家をめざしていた。古本屋で働きながらながらその給料を別の古本屋で使い休日には図書館で大量の書物に就いた。
それである日ついに大学再受験の決心がついた。漫然と独学をいくらしても無意味に思えるようになったのだ。それでまた図書館で、中上健次さんの短編集を読んで、中上さんが自分と同じく高卒なのが、何たる不遜なことか、キワモノとして商品化されているのをみて自分の場合はできるならばそういうふうには扱われたくなかったということもあったし、ほかにもいろいろなことがそれまでにあってのことだった。
ついに時は満ちたのだ。大学受験勉強のはじまりだった。ねらいは関関同立、現実的なる目標であった。このうち関学は通学圏にないということで外した。同志社と関西大には入試に漢文がないということは確かめておいた。立命には漢文があるということで、絶望的に思った。だいたいこの年は十五倍くらいが関関同立の平均競争率だったのだ。だから、必然関西大と同志社の地滑りローラー作戦をとった。この二つの赤本はまるで双子のように思えた。
試しにその年の三か月後に控えていた関西大と同志社大の入試を受けるだけ受けてみて両方当然落第した。
齢二十五歳の時だった。まずはじめに駅前に突如できたツタヤ書店のメガ集客力によって潰れてしまっていた我が古本屋の次に、働く場所として、別のレンタルビデオ店で稼げるだけ稼いで、軍資金の足しにした。
受験勉強は四月から開始した。増進会と毎月の模試と教育社のトレーニングペーパー、それと一般の参考書類。シケ単、豆単、シケ熟、豆熟、英標、文標もあらためて一式買いそろえた。新釈現代文、古文研究法、基本英文700選等の駿台文庫の有名どころ。
この年の自分は、病気の状態もよく、勉強のほうに燃えあがることができた。うまく火のついた己れは、火が消えることのないように、スプーンの上の卵を運ぶようにそろそろと毎日毎日を宅浪していた。勉強の仕上げは、徹底した過去問の答案練習である。同志社も関西大も総合大学であるから、赤本だけでもものすごい量になる。己れはそこにもまた大金を使い、過去問の傾向と対策をした。狙いは答案処理の職人になることだ。巌の意思で自力でだけで無理やりに解かせる。それをだいたい十月ごろからはじめた。
十五倍の競争率で求められる、答案の完成度というと、97点で危うし、98点でぎりぎり、99点でOK、100点で普通、というところである。普通ならば絶望というところであるが、もはやこれだけのコストをかけてしまえば己れにとってみればやむを得ない。後へは引けないのだ。
そうこうしているうちに、あのころ、TVの中では突然に湾岸戦争が始まった。己れはキレた。