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飛べない堕天使、宙を翔ける。  作者: 笹 加奈
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不可逆

 その崖は、普段は誰も近寄らない町はずれの薄気味悪い森を抜けた先にあった。森を抜ける途中、メルはぬかるみに足を取られ、派手に転んでしまい、着ていた白を基調とした制服が泥だらけになってしまった。しかし、すぐに起き上がって擦りむいた足を回転させる。少女は感傷に浸っている暇などないことは、その短い人生経験からもはっきりと感じるところだった。

 森を抜けると、件の崖が見えた。空に浮かぶ島であるため、島の際は崖であり、下に雲が見えるのだが、今日は島の高度が雲よりも低く、青い海と思われる(メルら、この島に生きる人々にとって島下の世界は本で知った知識にすぎない)光景が広がっていた。

 中でも『断罪の崖』は突き出したような、出っ張った突起のような形をしていて、その先端の岬までは幾分か距離があり、その岬に辿り着くまでの行程は、罪人に後戻りのできない、不可逆の刑罰の執行を告げるようであった。『地海冒険記』ではここからある冒険家が下界での冒険を求め、身を投げている。何が待ち受けているか、宙に浮かび、空に生きてきた人々には知る由など何もない、空白がそこにはあった。しかし、冒険の始まりの場所が、今では罪人の処刑場と成り果ててしまったのは何とも皮肉な話であろう。冒険家の後を追って、その未知に飛び込んでいく者が罪人だけであるとは。空しか知らないゆえに閉鎖的に営まれている島々の暮らしは、数多くの凝り固まった大人を生み出してしまった…

 

 崖先には数人がいることが、酷い視界を覆い尽くすような雨の中でもメルには分かった。最後の力を振り絞って、その人影へ走って近づいていった。その人影との距離が縮まっていくにつれ、かすかに聞こえていた声もどんどん大きくなっていく。その声は怒声であり、言い争っていた。父の隣には、年老いた男がいて、その足元には手足を縛られた体格のいい男がうずくまっていた。しかし、まだ誰もメルの存在には豪雨の中にあったためか気づかなかった。

 「全く、騙されて借金を背負いこむ羽目になってしまったお前を拾ってやったというのに!まさかお前が恩を仇で返すことが出来るような人間だとは。ある意味でワシはお前を見くびっていたのかもしれんな…」

 「ケルト爺…今回ばかりは貴方のその平生なら美徳であるはずの親切心が裏目に出ましたね。よりにもよって私に残された唯一の娘に手を出そうと目論むとは!!しかし、酷い雨です。これ以上の問答はよしましょう。善人のふりをした罪人はその咎故に、翼をもがれ、堕とされる…これからのことは手筈通りに処刑人の方にお願いしますよ」

 「ええ承知しております。」

 全身を黒で塗りつぶしたような、黒のマントを羽織った男がその皺の多い顔をさらに皺が多くなるほどに口元に笑みを浮かべた。しかし、最初にメルの到着に気が付いたのは、他の誰でもなく、この処刑という仕事をこなすという目的を達成するために動く機械のようなこの男であった。

 「旦那?もしかしてとは思いますがあそこにいるのがあなたに残された唯一の宝でしょうか?」

 「急に何を言い出したかと思えば…」

 父は自分の何物にも代えがたい娘の存在をそこにはっきりと認めた。

 「メルどうしてここに?ああもう泥だらけじゃないか。メル。ここは私に任せて、屋敷に戻っていなさい。分ったかい?」

 「どうしたもこうしたもないわ!そこに倒れているのがトレントでしょ。隣のケルトじいさん。そしてお父様。私の身近な人ばかりしかいないのに、私抜きで話を進めるなんて認めない。説明してお父様。」

 「お前が知る必要はないのだが、いずれ誰かしらの噂話で聞くことになるのなら私から話そう。このトレント、いや卑しい罪人とでもいった方がいいか。この男はお前のことを篭絡しようとあれこれ策を巡らしていたようでな。先日私の屋敷の柵を乗り越えようとしていたところを、見かけた人がいたんだ。そこからはあれよあれよという間に怪しい行動が出てくる出てくる。それで処刑人の力を借りて、問い詰めてみたらこの有様さ…」

 「トレントも私もそんなんじゃないわ!お父様も何か勘違いしてる。ちゃんとトレントの言うことを聞いたの?」

 「あんなやつの言うことなんて信用できるか!もういい。そこの処刑人。いいから早く済ませてくれ。娘とは屋敷で話そうと思う。こんな酷い気分で、酷い雨に降られながらときた。もううんざりだ。」

 処刑人と呼ばれた男は、その細身から繰り出される腕力とは思えないぐらい力強く、また乱暴にどうやら意識を失っているらしいトレントのその逞しい身体を掴むと、地面に引きずりながら崖際へと向かい始めた。トレントの体は今やその大きさに見合った力強さなどはどこにも見受けられなかった。全身から生気が抜け、身動き一つしない為、処刑人は人を引きずっているというより、ピラミッドの建設で石を運んでいるときのような光景が広がっていた。

 メルはその処刑人を止めようと走り出したところで、父とケルト爺さんに腕を掴まれ、羽交い絞めにされた。普段の弱弱しい歩き方からは想像もつかないほどにケルト爺さんの入れる力は強かった。

 「全て悪い夢なのです。お嬢様何も見てはなりません。ほら、屋敷の方へお父上とともに帰りましょう…」

 ケルト爺はその羽交い絞めにして身動きが取れないようにその腕に込めた力とは裏腹に、赤子を諭すかのごとく、最大限の優しさを込めた口調でメルに語り掛けた。しかしメルはなりふり構っていられなかった。

 私がトレントを助けなくては!今トレントを助けることが出来るのは私だけなのだからという思いが今再び胸に巻き起こってきた。唯一まだ自由な足を思いっきり振り上げ、踵をケルト爺さんの腹へと目掛けてメルは蹴り上げた。何の筋力もまだあるはずもない、か弱い少女の一撃ではあったが、少女の祈りが届いたのか、どうやらみぞおちの急所へと狙いすましたその一閃の一撃は炸裂したようであった。

 

 その一瞬の緩みをメルは見逃さなかった。羽交い絞めにしてきたそのケルト爺の老いながらもまだ力強さをにじませる腕を振り払うと、脱兎のごとく駆け出した。少女の頭の中に何の計画も、手段も存在しなかったが、それでも身体は自然と依然として無感情に引きずられるトレントの抜け殻のような身体がある方へと向かっていた。

 しかし、処刑人はこの緊急事態をいち早く察知したのだろう。それまではこの豪雨の中にあって、まるで午後の散歩でもしているかのような呑気な足取りで崖際に向かっていたのだが、メルが自身の方へ向かってくることを認識したとたんに、トレントを担ぎだし、小走りで急ぎだした。この処刑人の骨の髄まで染み込んだ卑しい役人精神には、自らのしている行為の是非など何一つ頭になく、ただ与えられた仕事を万事右から左へとこなし、それで世はこともなしということらしく、それゆえに仕事が無事に済まないということには人一倍敏感であった。

 この黒いローブを纏った皺の多い薄気味悪い男と、今やその白の服は汚れ、茶色に染まってしまった少女との奇妙な追いかけっこは、結局のところ男の勝ちに終わった。男は崖際に立つと、その担いでいたトレントの身体を砲丸投げでもするかのように投げ捨ててしまった。メルは走りながらその光景を見ていたが、メルの足が止まることはなかった。擦りむいた膝に雨の水滴が沁み、痛みを感じていたが、少女のその細い脚は今誰にも止めることが叶わないであろうほどの力強さを持って、崖際のぬかるみを蹴り上げた。処刑人はこの一瞬の出来事に唖然とするしかなかったのである。

 少女の肉体は地面を蹴り上げて、崖から飛び出し、そして落下した。処刑人は崖から恐る恐る身を乗り出し、下を見たがすぐに少女の姿は見えなくなった。ただ海と呼ばれる青々として光景が眼下に広がっているのみであった。

 

 恐れを知らない少女の、勇気と無謀の入り混じったその堕天。今、少女の身体は凄まじい勢いを持って落下し、地面へと向かっていく。奇しくもかの冒険家の旅の出発点となった地から、その彼の行いをなぞるが如く自らの意志で身を投げ、向かっていくことになろうとは。

 

 

 

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