その少女のささやかな堕天
雲をも遥かに超えたここセリオン女学園の中庭から眺める雲一つない満天の青空も、今のメルの心を慰めはしなかった。昼下がり、ある一定の周期で色を変えるサラエルという鳥が今日は緑色であったことを思い出すと、間違いなく今日は飛行訓練の試験の日であることに違いないということは、メルの頭を痛ませた。
「はぁ…先週も酷い目にあったのに、なんでもうまたあの授業がやってくるのよ…」
メルはため息をこぼしながら、手入れの良く行き届いた背中に生えた羽の先を不機嫌そうにいじりながら、自分だけしか聞こえな呟いた。「天の一族」に生まれたものにとってその背中に生えそろった羽で大空を自由に飛び回ることは誇りでもあり、天空に生きる彼らにとって生きていくことに欠かすことのできない技術でもあった。困ったことにメルの通うセリオン女学園ではことさらに優雅に飛行することがメルのような年頃の女子の嗜みとされた。ことさらに少しばかり羽が上手く動かせず飛べないからってあれ程晒し者にされなきゃいけないのかしらとメルは思った。しかし、他の生徒が悠々と空を飛び回り、談笑する中、ただ一人小さくジャンプをしては少しばかり空中に留まり、また地面に落ちるというのを繰り返し、遂には背中から地面に着地した惨劇ともいえる先週の授業内容を思い出すと、メルは益々憂鬱な思いがした。空の青さも、頭上に果てしなく広がる空間も、今はメルをよってたかって虐め、押さえつけるようなものにしか感じられなかった。
いっそのこともう退屈な授業なんて抜け出してしまおうかとふとメルの脳裏にはよぎった。しかしメルは学園でも指折りの優等生であった。勉強もクラスの子よりも出来、また勉強に限らず、例えば雲の成分を固めて造りあげられた肌触りの良い雲石を削って行う雲彫刻の時間でも、美術の講師から最高評価を与えられたほどであり、自分が優秀、それもとびっきりの優秀であることはクラスメートの誰からも認められており、またそのことを他の誰でもない自分自身が認めていた。授業態度も真面目で、周りからの信頼も厚い。そのような立ち振る舞いを求められてきたし、また行ってもきたメルにとって何ら正当な理由もなく授業を抜け出すということは本来言語道断とも言える振る舞いに違いなかった。
しかし、たとえお父様や先生にお叱りを受けるとしてもメルは飛行訓練の授業を抜け出す、有体に言えばさぼってしまいたくてたまらなくなった。お父様に常々できる子として褒められてきたし、メル自身優秀だったので、クラスの嘲笑とも言える笑いの的となるほどに出来ないことに対しての免疫がなかったのである。
今どき、自らの羽で、その翼で飛べることが何の役に立つかしらと自分に出来ないことに対して、言い訳がましいこともメルの心の中でふつふつと湧き上がってきた。このまだ数えでも十に満たない年頃の子供らしい言い訳であった。クラスの子が、算術の授業の時間に先生にこんなめんどくさいことが何の役に立つんですかと言い放って、先生を困らせていた子をメルは心の中では嫌っていたはずなのに、優等生として振舞っていても、いまその子と同じような理屈を展開しているメルはやはり子供らしい幼さがあった。
よし、もう学園を出て、一度そっと屋敷のほうに帰ってみようかしらとメルは心に決めた。中庭のベンチに座っていたところを立ち上がり、先ほどまで抱いていた憂鬱な思いに別れを告げ、飛行訓練の行っている広場に向かうクラスメート達と出くわさないように、そそくさと廊下を駆け抜けた。なんだかいけないことをしている気分にメルは心の高鳴りを抑えられなかった。実際にいけないことを、バレたらお父様からのお叱りは免れないようなことをしているのだが。
学園の校門までたどり着いた時、高らかに授業の始まりを告げる鐘の音がした。いつもの慣れ親しんだ校舎の屋上の鐘の音でさえも授業を抜け出そうとして校門にいる今聴いているとなんだかいつもとは違うような音が鳴っていつような気さえした。目に映る全てが新鮮だった。中庭で授業の愚痴を誰が聞くわけでもなくこぼしていた時に抱えていた憂鬱な感情とは打って変わって、雲一つない照り輝いている太陽、青そのものとも言えるほどの空の青さはメルを祝福してくれているように今は感じられた。メルの気分は晴れやかで、校門から一歩踏み出すその瞬間は門出のようでもあった。
「今日はあんな退屈な授業をやらなくていいんだわ!」
と、周りに人がいないことを確認したとはいえ、メルは大きな声で叫んだ。もはや、中庭で抱えていた優等生の葛藤など、遠い昔の話のようでもあった。授業の始まりを告げる鐘の音でもう戻ってもしょうがないかという思いで吹っ切れてしまったメルは、意気揚々と朝来た道を今度は逆に家へと向かって一歩一歩踏みしめた。
年頃の少女の、このささやかなサボタージュ。可愛らしさすらにじませるその極めて小規模な堕天が、これからこの少女の運命を一変させることになろうとは!今はまだそのことを知る由もないメルは能天気に家に帰ったらメイド焼いてもらおうと思うお菓子のことについて思いを馳せていたのであった。




