夢描きと代行人
──彼女とは、夢の中で会いました。
──ええ、そうです。僕は夢の中でしがない絵描きでした。彼女とは一緒に暮らしていました。
──なぜ、ここに来たかって?
男は項垂れるように俯き、言葉を続ける。
「彼女に、謝りたいんです」
四畳くらいのドアも窓も無い真っ白な空間で目を覚まし、直感的にこれは夢の中だと悟る。僕はよく、おかしな夢を見ていたから。
床には絵の具や筆、鉛筆などの画材が散らばっていて、それ以外は何も無かった。
僕は何もする事が無かったので、壁に何となく扉の絵を描いた。完成すると、何故かその扉は本物になった。触れて、立体で、ちゃんと開く。
開いた先はまた四畳程の白い空間だった。
──1度目は、それで目が覚めました。ええ、僕はおかしな夢を見た時は内容を記録していましたから。その夢は日をまたいでも繋がって見ることが出来たんです。
──そうです。僕は夢の中で様々な物を書き足して、別荘のような、ログハウスのような内観にしました。庭の絵を描くと、庭になったんですよ?箱の縁まで行くとそれ以上は進めませんでしたが。
──話が逸れましたね。僕はそこで理想の城を作ったわけです。そして、この城はどこまで出来るのか、試したくなった。初めは兎、猫、その後に描いたのが、彼女でした。
サッサッ、ガリガリ、シャー
キャンバスに向かって僕の頭の中の空想を引き出していく。
ふう、と一息つくと近くのサイドテーブルに真っ白なコーヒーカップが置いてあった。
「入れてくれたのか」
彼女はソファーの上で微睡みながら絵の具を手の内でころころと転がしながら僕を鑑賞していた。
「触るな」
「いいじゃない減らないもの」
「減る」
「どうして? 使わないのに」
「君が絵の具に触れることによって僕の絵の具の価値が減る」
「なにそれえ……」
彼女は投げ捨てる様に絵の具をポイ、と床に放る。
「粗末にするな」
「知らない」
むくれたまま体育座りをして膝を抱え込んで俯いてしまったので、どう対処して良いのかわからず、はあ、と溜息をついて作業に戻った。
彼女をちらりと見やると、ソファーで猫のようにうずくまって眠ってしまっていた。
僕は毛布を描いて、手に持って彼女に近寄る。起こさないようにしたつもりだったが、彼女と目が合った。
「今日はお終いにする」
「ご飯用意するね。お腹ぺこぺこ」
彼女はガバッ、と起き上がるとキッチンに小走りで行ってしまったので、僕は毛布をソファーにかけて移動する。
キッチンは冷蔵庫、電子レンジ、ガスコンロなど最低限のものが揃っている。ガスや電気がどこから来ているかは知らない。所詮は夢だ。
キッチンカウンターの前にあるダイニングテーブルには彼女のオーダーでランチョンマットが2つ並んでいる。僕のは渋い紺色、彼女はベージュで猫の刺繍入り。
椅子に腰掛けると、庭の畑で収穫しただろうトマトとレタス、それからハンバーグだ。ミンチをリクエストされて、困惑しながら書いたのは記憶に新しい。
彼女も向かい側に座って、いただきます、と手を合わせる。
夢の中で味覚は何となくしかないので食事は要らないと言っても、彼女はことごとく無視をする。僕は早々に諦めた。
「おいしい?」
「美味しいも何も無い」
「もー可愛げ無いなあ」
彼女が僕の頭を撫でる。あからさまな子供扱いに僕は顔を顰める。反対に彼女は笑い出す。何が面白いのか全くもって理解できない。
「いただきまーす」
彼女は二口サイズ程のハンバーグにかぷりと噛み付き、頬を綻ばせる。
「君は美味しそうに食べるよな」
「そうかな?」
「ああ」
彼女が食事している様子を観察するのは好きだった。何だって心底美味しそうに食べるので、見ていて気分が良かったのだ。
──そうです、夢の中で食事をしていました。食材は僕が描いたり、彼女が収穫したり。腹は満たされないんですけどね。
──はい。夢の中では大体、絵を描くか食事をするかでした。僕は絵描きなので、作品を『描かなければいけない』んです。
──ああ、違いますよ。取り出すためのものではなく、僕が『画家』でいる為の『作品』です。
「またかあ」
「またとはなんだ」
「キャンバス真っ黒じゃないですか……また塗りつぶしたの?」
「気に入らなかったんだ」
僕は真っ黒になったキャンバスをイーゼルから外して背後に置く。そこには真っ黒になったキャンバスが何枚も重なって置かれていた。
「全部真っ黒だね」
「うるさい。僕の作品に文句を言うな」
この夢はきっと、僕が描きあげるまで終わらない。
描いては塗りつぶし、また描いては塗りつぶす。何を描けば良いのか分からない。画家としての僕は、何を求められているのだろうか。
僕が頭を抱えだしたので、彼女は傍にしゃがんでぐしゃぐしゃと頭を撫でてきた。
「何をする!?」
「柔らかさが足りないんだよ、きっと」
いー、と歯をむいて、彼女は僕の両頬を摘む。
「硬ったい頬っぺ」
「君はどうなんだよ」
「触っていいよ?」
恐る恐る触れた彼女の頬は、驚くほど柔らかくて暖かかった。
──ただの夢だと、思っていたんです。彼女も僕が理想を描いただけの、そんな存在だったのに。彼女は間違いなく生きていたんです。
──貴方は、受け入れてくれるんですね。僕も頭のおかしな話をしているとわかっているんです。それでも、彼女に会えなくてもいい、伝える事ができるならと藁にもすがる思いで……ああ、失礼しました。大丈夫です。
──話を続けましょうか。僕は夢の中で画家でした。指が勝手に動いて、作品が出来ていくんです。でも、下書きから一向に進まない。ああ、やっぱり違う。これじゃ無い、と。スランプになっているんです。筆が進まない。行き詰まってしまったんです。
「こんなんじゃダメだ!」
僕は怒鳴って壁にキャンバスを投げつける。コンコン、と扉をノックする音がした後、彼女が部屋に入ってくる。ふわり、ココアの香りがした。
「ココアいる?」
僕は素直に受け取って椅子に座り直す。
「君のタイミングはいつも最悪だな」
「褒めてると思っておくね」
彼女は苦笑して、直ぐに部屋から出ていった。温まったマグカップが冷えた手のひらに温もりを伝える。
あまりにも長く同じ夢を見続けているので、夢と現実の境界線が曖昧になって居るように感じていた。ホットココアの香りも、温かさも、甘さも感じる。
彼女が居る生活は信じられないくらいに居心地が良かった。このままで居たいと願ってしまってすらいた。だから、この絵も完成しない──否、完成出来ないのだ。
僕は彼女の居る部屋へと向かい、座っている彼女の背後に立ってきゅ、と後ろから抱きしめる。
「その……悪かった」
「わかってるから大丈夫よ」
「居なくならないでくれ」
彼女は何も言わなかった。
──僕は、彼女を好きになっていたんです。だから、夢を終わらせることが出来ませんでした。彼女はきっとそんな僕を見透かしていたんだと思います。
「おはよー」
「おはよう」
挨拶を返すと、彼女はいきなり抱きついてきた。僕が戸惑って慌てていると、彼女はふふふふ、と楽しそうに笑い出す。
「これから毎日ハグしようか」
「な、なんで」
「時間は有限だから、少しでも触れ合いたいの」
「君が、そう言うなら……」
僕は震えながらもぎこちなく彼女の背中に腕を回す。彼女は柔らかくて、温かくて、大事に触れないと壊れてしまいそうで恐ろしかった。
「なにもできなくても、笑えなくても。それでいいんだよ。私が代わりに笑ってあげる。美味しいご飯を作ってあげる。朝はおはようって抱きしめてあげる。夜はおやすみって抱きしめてあげる」
「それじゃ、ダメなんだよ! 」
「変わりたいなら、一緒に変わろう」
「僕には何も出来ない」
「まだ何もやってないのに?」
「これ以上なにをやれと言うんだ!」
勢いよく体を離すと彼女の眉間に皺が寄ったので僕は慌てて手を離してごめん、と謝る。どこか痛めたのだろうか、大丈夫だろうか。彼女は大丈夫、そんなにヤワじゃないから、と微笑む。
「ねえ、世界は深淵だけじゃないよ」
「……僕にはわからない。描けない。人の醜さしか僕は知らなかった」
「知らないのなら、知ればいい」
「僕は怖い」
「どうして?」
「知ったとしても、僕は独りだ。君は、だって君は……」
彼女は何かを言いかけて、口を噤んだ。僕は逃げるようにアトリエへ引きこもった。
彼女の態度は変わらなかった。僕に軽蔑することもなく、ただ微笑んで見守る様に傍に居てくれた。
一緒に食事をして、僕が絵を描いていると彼女は椅子を持ってきてどこからか持ってきた本を読んでいた。
僕は彼女が辛くないように柔らかい椅子用のクッションを描いて渡した。猫柄にしたので受け取った時の彼女の反応は驚くほど可愛らしかった。
「君のご飯が作りたいんだ」
何も返せない僕が、彼女に何かしてあげられないだろうかと提案すると、彼女は嬉しそうに微笑んでくれた。
彼女と一緒におにぎりを握った。
僕は不器用すぎてまん丸にしかならないので、彼女は苦笑しながら3角になるように手を重ねながら教えてくれた。
不格好なおにぎりを彼女は美味しそうに食べてくれた。
──相変わらず絵は描けないままでした。……いえ、意図的に描いていませんでした。僕は彼女に会いたくて、一日の大半を寝て過ごすようになりました。僕にとっては夢の中が現実になっていたのです。
──今は大丈夫ですよ、もうあの家に行くことは出来ないんです。何度試しても、駄目でした。
その日も、いつも通り僕はキャンバスに向かって完成しない何かを描いていた。彼女は猫のクッションに持たれながら隣でうとうととうたた寝をしていた。
ふ、と。何かに呼ばれたかのように彼女が立ち上がった。僕が驚いて彼女を見つめると、彼女は眉を下げて悲しそうに微笑む。
「ああ、ごめんね。タイムリミットみたい」
彼女の体が指先からみるみる透けていく。キャンバスが、アトリエが、彼女が、ふにゃふにゃと歪んで泡になって消えていく。
──私がゆめから覚めてしまうから。
彼女の声でそう聞こえた後、ぱっ、と何も無い空間に彼女が現れる。
「楽しかったよ、ありがとう」
僕は彼女の腕に縋り付く。ありがとうって。
なんだよ。なんだよ。なんだよ……!!
「……れ」
「なあに?」
「行かないでくれ! 君は、僕をこんな風にして置いていくのか!? 僕は、1人で生きて居られたのに、君が……君がいた事でこんなにも弱くなってしまったのに!!」
「だったら探して、見つけて」
「探す……?」
「待ってるから。忘れないから」
体中を光の粒が巡っていき、目を開けていられないくらい眩い光を放つ。
目を開けると、見慣れた白い天井が目に入った。
あのアトリエも、彼女も、居ない。
「あ、れ」
ポロポロと、涙が決壊したかのように溢れていく。色んな感情が綯い交ぜになって苦しいくらいだ。
ただ1つわかっていたのは、もう彼女には会えないということだけだった。
──それから、手掛かりもなく彼女を探しました。名前も、住んでいる所も、何もかも分からないばかりか、現実に存在しているかすら分からない。探偵には探しようがないと呆れられました。それで、ここを紹介してもらったんです。
──僕は、彼女に謝りたい。彼女を大切に出来なかった事を。限られた時間を、大切に出来なかった事を。それから伝えたいんです。君を、愛していると。
『御依頼、承りました』
男はお願いします、と深いお辞儀をする。
『ああ、そうだ。現実でも絵を描かれては? ベタに彼女の絵なんて丁度いいんじゃありませんか?』
「僕に描けますかね」
『描けますよ、貴方にならね』
港に近い美術館で大規模な個展があった。
パンフレットの表紙にもなったその作品は最近出てきた新人が描いたもので、賛否両論ではあるものの様々な賞を受賞したものだ。
作品に描かれているのは、猫のように丸くなって眠る少女だった。その頬は血色がよく、伏せられたまつ毛が震えて今にも動き出しそうなくらいにリアルだった。
初日の挨拶を終えて、他の作品を見ながらふらふらと自分の作品の前へと向かう。
作品の前に、スラリとした小柄な女性が立っているのが目に入った。
僕の心臓は痛いくらいにドクリ、ドクリと跳ね上がる。
「やっと見つけた」
「……うそ」
──どんなに探しただろう。どんなに恋焦がれただろう。
僕は震える足で女性の傍に近寄り、彼女の前に立つ。
「どれだけ年老いても、目移りすること無く君のもので居ると誓うから、だから、だから……」
視界がみるみる歪んでいく。感情が溢れていく。
──ああ、なんでこんな時に僕は。
ぎゅ、と彼女が背中に手を回して僕を抱きしめる。それから宥めるようによしよし、と撫でてくれた。
「落ち着いて、大丈夫よ。ふふっ、おにぎりは作れるようになった?」
僕が首を横に振ると、彼女はまた楽しそうに笑う。
「貴方はなにもできなくても、笑えなくても。それでいいんだよ。私が代わりに笑ってあげる。美味しいご飯を作ってあげる。朝はおはようって抱きしめてあげる。夜はおやすみって抱きしめてあげる」
僕は彼女の背中に手を回す。もう離したくなかった。
「会いたかった……」
「私もよ。手紙、くれたでしょう? 夢の中だったから、差出人とか分からなかったんだけど。でも確かに届いてたよ」
「手紙? って、もしかして」
「謝罪と、あの、こ、告白と」
「!?」
「でね、最近になってまた届いて。それがこの絵だったの」
彼女は体をもぞもぞと動かして、パンフレットの表紙を指差す。
「まさか表紙なんて思わなかったけど」
どうやらあの代行人はちゃんと仕事をしてくれただけでなく、最近になってオマケをつけてくれたらしい。
僕は彼女の首元に顔を埋める。彼女はくすぐったそうに身を捩って、頭を撫でてくれた。
『貴方が努力をした分、相応のご褒美を差し上げただけですよ』
代行人がそう言った様な気がした。