<七>
♢♢♢
晴明様が嫦娥を送り届けて戻ってくるなり、俺達を呼びつけて来た。
そして、屋敷の方に出向くと、早速とばかりに好々爺然と手招きするので、俺は渋々嫌な予感がしながら。瑛矢は疑問符をたくさん頭に飾って近づいたーー途端、痛いくらいに抱きしめられた俺達は、悲鳴を殺した。
「ようやったようやたのう」
幼女にどれだけの怪力があろうかというくらいの怪力に、瑛矢なんかは想定外のことで目を白黒させて、畳に座り込んだ。
「昔は封印が関の山じゃった《窮奇》をよくぞ退治してくれた。礼を言う。雑魚とはいえ、奴の手下もよくぞ退治してくれた、詠二や」
晴明様は長年の不安を払拭されて、とてもご満悦だ。俺も棘が取れて、嬉しかったりした。
「じゃが。…多分、これが始まりに過ぎんじゃろうな。《嫦娥》様を助け、《窮奇》を倒したとなると、他にも動き出すやもしれん。気を抜いてはならんぞ?」
好々爺然としていた幼女姿の晴明様の表情に翳りが落ちた。
「…妖の行動周期が、活発になりつつあります」
そう言ったのは、舞織だ。彼女の表情も暗かった。
「周期とは言っても、ここ数十年は今までにないくらいに活発で活性化しておる。故に、妖ばかりに気を取られていてはいかんぞ?」
「鬼神等が暴れるとでも?」
「無くはないことじゃ。二人とも、気をつけるのじゃぞ?」
「「はい」」
二人同時に、晴明様に頭を下げた。
「気休めにしかならんが、持っておれ」
俺達三人に、晴明様の小さな手からはみ出すくらいの勾玉が、それぞれの掌に握り込ませた。
♢♢♢
暗闇ーー今夜は満月であるが、低く垂れた闇に似た黒い雲で明るさといえば、少し離れた街の街灯が届いている程度。
そんな中で、人影らしいものが一つ。声らしき声が聞こえてはいるが、かすかすと空気が抜けた音しか聞こえないから、多分何か独り言でも言っていても、内容が判然としなかった。ただ、その人が手に持つ白い長い紐のようなものが、地面スレスレの位置で、ゆらゆらと揺れて、黒い液体のようなものが滴り落ちていた。
「ーーーーっ!」
やはり言葉は判然とせずに、暗闇の夜に溶けてーーいきなり、地面が隆起して、<瘴気>と共に白い手が現れた。
S市N区のマンションが一夜にして全勝した事件が起きたのは、《窮奇》を倒して数日後のこと。マンション火災なのだから、自分達の管轄外だと思っていた。
「ただの火災ではないと判断されたから、こちらに回って来たのだよ」
最初は駐輪場と駐車場の一部を焼く不審火だったのが、翌日には最上階の無人の部屋から出火して、三部屋が全焼したという。専門家すら頭を捻る中、三日目には五階建て四十八戸が全焼に至った。その三件の内、二件は火元には火種になる火が一切なく、引火したのは燃え難い素材だった(ガソリンなどの類いも無し)。最後は全焼だった上に、二件の事件で離れていた住民を除く全員が焼死したらしい。三日間だけの事件ということを加味して、こちらにヘルプとなったようだ。
「何と、まあ…」
いくら何でも老朽化していたとはいえ、不審火が起きた日から、少しは警戒していただろうから、不審者が目撃されていても可笑しくはないか、そんな噂など一切なかったマンションを含む周辺事情や、たった三日で全焼に至るなんて、そうあることではないだろう。
「不審者ゼロで、不審火も人の目撃情報もゼロ、放火でもないとなると…自然発火か?」
自然発火なら、こちらが得意分野的案件かもしれないけれども。
「偶々、避難した住民達に聞き込んだ結果も、誰一人として不審な人物を一切見ていないし、新たに引っ越しして来た住民もいなかったと。不動産屋も、ここ数年は、新規入居者を斡旋していないと回答している」
「可能性があったのは、全焼したマンションにいた焼け死んだ住民だけってことか」
結局は何も分からなかったことになるよなと、平然と口にする瑛矢に課長が咳払いをして睨んだ。
「失礼」
「というわけだから、二人は全焼したマンションに行って調べてくれ。正攻法では、何も出んかったからな」
「分かりました」
「了解」
瑛矢は、何が不満げな息を吐いて、俺の背中を押しながら部屋を出た。
現場は瓦礫の山しかなくて、マンションだった面影すらなかった。木造であれば、もっと何も残ってはいなかったかもしれない、そんな状態だ。
瓦礫の山々に目を凝らせば、視覚的ではない感覚が、異常を知らせてくるものが視えた。
ーー異質な百鬼夜行の跋扈中。
何故こんなものが、マンションの焼け跡に跋扈しているのか。それは、この火災が人災では無く、妖が絡んでいる他ない証拠だが。
「…妖なんて、生易しいものじゃない」
「瑛矢?頭痛か?」
「…つっ。…確か、ローマの火神の神官から、聞いたことがある気が…」
彼は頭痛を感じているのに、何かを思い出した記憶喪失者の如く、必死の形相で言葉を紡いだ。
「…口伝えで、聞かされた話し、だったーーマグマの悪魔だと」
「瑛矢。もう寄せってば!」
余りにも見ていられないくらいに、顔色は青褪めていて、表情は苦痛に歪んでいた。
「そう、…悪魔と呼ばれていたんだ」
彼の体が大きく傾いたかと思うと、どうやら立っていられなくなって、両手両膝を地面につけて四つん這いになった。
「おい!瑛矢、大丈夫なのかよ!」
肩を揺らすと、微かに呻きながらも、言葉を継いだ。
「ぜ、全身が、マグマで出来た巨体の、…怪物が…支配する山の岩石の欠片を持ち去ると、奴が目覚める。…その、欠片を取り戻すだけに留まらずに、持ち去った者を無残に焼き殺すまでどこまでも追い詰めていくんだ…普段どこに居て、どうやって地上へ現れるかは分からない。…もしも、奴の仕業なら…岩石の痕跡が、ある筈だ…」
彼は全身で息を吐き出して、先程の苦痛が嘘のように立ち上がった。
「瑛矢?」
俺は目を瞬かせて、彼を見た。先程の状態が演技ではないことは、明らかではある。しかし余りにも、あっさりと痕跡がないくらいに、いつもの彼に戻っていたので、追求は止めておいた方が良さそうだ。
「変な顔して、どうした?」
「…何でもない。たださ、ヴォルなんちゃらって…何、それって思ったけど」
「え?あ、俺、何か…」
「話しが長くなりそうだから、ストップな!」
彼の口の前に、掌を翳して遮った。
「マグマがどうとかって、何?」
「マグマの怪物… ヴォルカナリスだ」
瑛矢は瓦礫の山に入って行き、頭を左右に動かしながら、必死で何かを探し出そうとしていた。俺も、瓦礫の山に入って、岩石の欠片だから普通じゃない石を探してみた。
異質な百鬼夜行は、何かに縛られているのか、それとも単に気に入ったのか、瓦礫の山からは出ようとはせずに、マンションの敷地内を彷徨うばかりだった。
瓦礫の山は、煤けたコンクリート片やコンクリートの壁、焼けた本の一部、真っ黒になってしまった玩具くらいで、物珍しい石などは見当たらなかったのだがーーある場所に差し掛かった時、もう完全に鎮火しているというのに、未だに燻り続けている箇所を見つけた。その場所は、百鬼夜行がいるど真ん中だ。
「瑛矢!」
彼を大声で呼んだら、それだけで解ったのか、真っ直ぐ走って来た。
「…ああ、間違いない。あれだ」
「でもさ、何か百鬼夜行が守ってるみたいな?」
「そうだな。珍しいことではあるけど、な」
確かに異質な百鬼夜行なら、化け物から何かを守るなんてことは、術者の常識ではあり得ないことだ。
「百鬼夜行には、散って貰おうか?」
俺が率先して、百鬼夜行を祓った。
ぶわっ!
祓い終えた瞬間、焔が吹き出した。
「おわっと!」
俺達は慌てて、後方に退いた。
どうやら、百鬼夜行の中心に岩石の欠片と共に、ヴォルカナリスというマグマの怪物が潜んでいた。その姿は、辛うじて人型をしているが、焔で体の輪郭が曖昧で、巨体にも見えなくもなかった。
(熱いっ!)
凄まじい熱風に、喉や肌が本当に灼けるかと痛いくらいに熱かった。
「やはり、ヴオルカナリスだったのかぁ〜」
不意に能天気な声が背後でして振り返ると、何となく既視感を感じる人物が立っていた。
「詠二。余所見するなっ!」
彼が焦りの声ではなく、怒りの声を上げて来た。それもその筈だーー容赦なく、弾丸のように降り注ぎ始めた溶岩の塊が、俺達を攻撃対象にして来たのだ。
《結界》なんて無意味だと知らしめるように、余所見をしなくても、擦りかけても威力は半端なく火傷を負わされてしまう。
「いい加減、求めろよ。…瑛矢?」
能天気さの声の主は、瑛矢に問いかけ続けていた。彼の横顔は、ひくひくと引き攣らせて、必死で何かを堪えていた。
彼の加勢は、瑛矢のプライドよりも何か大切なものを破壊してしまうことへの警戒心が、それを許していないように思えて、俺は何も言えずにある術を行使してみることにした。
ふわふわとした綿が、晴れた空から降ってきた。それは異様に冷たくもあり、季節外れと土地柄積雪は余りないのにという疑問だった。
「上手くいったや。…ヴァーマ・ティーヴを召喚してみたんだ。駄目元でさ」
「え?何?」
お互い、季節外れの寒さに、白い息を吐いた。大粒の綿のような雪は、緩やか降り続けていた。それに加えて、アイスピックのような鋭い氷柱が折れたような物体が、綿雪に混ざって降り注いだ。これには流石に、命の危機を感じた。
「敷地の外に避難しよう!」
俺は瑛矢の腕を引いて、マンションの敷地外に出た。
「あーあー、何てことをしてくれただよぉ〜」
先程から見物人みたいにいる瑛矢に似た彼は、興醒めしそうだとも呟いた。
「消え失せろっ!」
瑛矢の鋭い怒声に、彼は渋々の体で姿を消した。一体、何者であれ、彼が酷く嫌悪を抱いている人物らしい。追求したら、手痛い目に遭いそうだ。
(スルーが一番だな)
「で?あれは、一体何だ?」
「運良く、マグマの怪物と相殺する化け物、かな…多分」
「はぁ?」
運良く、その効力が現れ始めていた。マグマの怪物は、ヴァーマ・ティーヴに羽交い締めにされて、怪力でマグマの中にめり込み、蒸気が吹いている。氷を溶かす勢いの焔と、熱を奪い切るまで離れることを止めない怪物との鬩ぎ合いは、どちらが勝つのかは予想はし難い。だが、この方法しか思いつかなかったから、仕方なく見守る他ない。
時折、何かが砕ける音や軋む音をさせながら、マグマの怪物の威力が削がれていった。このままだと、マグマの怪物が斃れるだろうか。
「…舞織直伝の召喚術が、役に立つといいけど」
しまったと、俺は口を手で押さえたが、心の声を言葉にして言ってしまったものは、取り消し不可能だ。
「舞織の、か…通りで」
瑛矢が鼻で笑った。人が初めてやった術を莫迦にされて、ムカっ腹が立った。
「お前も、策がなかったみたいじゃないか!」
彼は俺をひと睨みして、あらぬ方向に向きを変えて、何かを探している風な仕草をして、小さく息を吐き捨てた。
「ーー小さくなってきたみたいな?」
彼が小首を傾げて、マンションの敷地内での怪物同士の戦いに、ほんの少しの変化が起きたようだ。
「…効果、有りか?」
彼女には、相応の礼をしなくてはいけないなと思っていたらーー。
どぉーんっ!
ばらばらっ。
こつんつ、かつんっ。
一度だけ凄まじい爆発音がした。その後は石のような物が、マンションの敷地内外で降り注ぎ、俺達は必死で躱した。
「あっぶねぇー」
マンションの瓦礫以外は、もう何も存在なっていた。百鬼夜行は、勿論だが。
「ま、何とか…片づいた、よな?」
俺は彼を見遣ると、何かに気づいたらしくしゃがみ込んで、地面を触り拾い上げた。
「げっ!目玉か、それ?」
俺が覗き込むと、それは周囲は黒焦げではあったが、赤く光る目玉のようであった。徐ろに、瑛矢がギュッと握り締めたら、墨が崩れるような音を立てた。立ち上がりながら、手を開くと地面にことりと音を立て、足で踏まれて消えたのだった。
(…目玉がまだ動いていたから、焦ったけど…)
あんななあっさりと、握って踏まれて潰れて消滅するとは思わなかった。
「さて、帰るか?」
「あ、うん。…何か疲れたし」
彼も疲れた顔で、マンションを一瞥した。俺も何となく同じことをして、駅の方へと足を向けた。
「《窮奇》の次が、マグマの怪物って…ハードなのが続くって、何かの予兆かな?」
「さぁな。…こんな仕事をしてるんだ。まぁ、当然の流れかもな」
「…だよなぁ、多分」
二人でこんなやり取りしていたが、更なる事態への入り口だとまでは。良き仕様がなかった。
「ふふふ…あはは。…瑛矢は呑気でいいよねぇ〜」
瑛矢に似た彼は、駅へと向かう後ろ姿を眺め、夜空に浮かぶ細い新月を見上げて手を翳した。
「もうすぐそこまで、奴等が人間の、神の領域を侵そうとしてるに、ね」
《嫦娥》が手始めに狙われ、《窮奇》や今回の化け物は、ただの余興に過ぎなかったのだ。そんなことは、晴明も瑛矢達も気づいてはいない。
「ふふふ。…気づいた僕ですら、どうにも出来ないというのになぁ?」
自分が瑛矢の前に現れれば、何かを読み取ってくれることを期待したのだが、残念ながらハズレだったらしい。
「まぁ、まだ猶予があるから……また、遊んでやろうかなぁ」
彼は不気味な笑い声を立てて、その場から忽然と姿を消した。