<終>
♢♢♢
アスラは、不気味な笑い声を立て始めた。
それは声でも音でもなく、詠二達の頭の中に響くもので、今までにない不快感をだった。
そのことにいち早く気づいて、それを遮断したのは、晴明の十二神将達だった。
晴明と舞織と詠二は、遮断されたことで顰めた顔を戻したり手で塞いでも仕方がないことではあったけれど、耳から手を離したりした。
そして再び、術を構築し始めることが出来た。
アスラの周囲には来訪者達が取り囲み、視えない鎖を各々が掌から放ち拘束していた。その段になって、奴は嗤うことを止めた。
「もっと愉しめるかと思っていたが、これまでということか」
あっけない落胆の言葉を吐いたかと思うと、アスラから漆黒よりも深く重く闇色の靄が噴き出してきた。それが奴を包み込むに時間は要しなかった。
ばちばちっ。
いきなりその靄が電気を帯びたかのように、稲光りのような現象を引き起こし始めた。
「…な、何事じゃ⁈」
晴明は、アスラが放つ《邪気》にぐったりとしてしまった舞織を幼女の姿で支えた。
「晴明様」
そっと彼女を支え抱き寄せる十二神将の一人である天后。
「頼んだぞ。わしはわしの役目をせねばならぬからのう」
「晴明」
少々怒気を孕んだ声がした。
「青龍か。…ちとばかり、力を貸してくれんか?」
「……」
蒼い蒼い炎のような揺らめく神気を烈しく示しながらも、無言で一振りの短剣に変化した。幼女の姿である主人に合わせた形だ。
「有難い有難い」
蒼い蒼い炎を纏った短剣は、握り心地は昔と変わりなく、熱くて冷たくもない。まるで木刀のように(失礼)。
「舞織。《結界》を張っておく。強化して己だけでも守るが良いーー天后よ、この子を頼む」
主人よりも、このか弱き人間を守れと命じる晴明を一瞥して諦観の思いを抱きながら頷いた。
(…あのお方をまだ想われてるのですね…)
妖は勿論のこと、神に近き十二神をも怯えたーー元気を持つ女人にして奥方様と、面影が似ている彼女を守りたいと言うならば、命令に従う他ない。
♢♢♢
晴明はゆっくりと立ち上がり、舞織達から離れて行く。その後ろ姿は引き留められない程の意志をーー騰蛇の《闘気》を鎧と化して纏っていた。
(こんな茶番めいた戦いを終わらせる手伝いをするのだな、晴明)
永遠にも等しい幾幾星霜も流れ去った時間の中で、やっと今頃になって現れた真実に気づいた面々の胸中は、まるで嵐のように荒れたけれどーー。
「君達も気づいたんだな。…俺達が長くかかってしまった茶番を」
神々の争いは、同じ神族や人間からしても茶番めいたというかーー暇潰しという遊戯だった。
アスラーーラーフが本来の姿に変化した。
「アスラの正体が…ラーフだったのか」
乳海攪拌が招いた厄災が、アスラの正体。
「我とよく間違えてくれたものだ」
来訪者の一人があっけらかんとした風情で、両手を空に翳した。詠二達には見知らぬ男だが。
「修羅王まで参戦する気ですか?」
「ラーフがあんなんになってちゃ仕方がないさ」
ラーフは本来の姿に変化したはいいが、歪で禍々しさが増していては、人界が持ち堪えられそうにないという見解らしい、修羅王は。
「復活に手間取った上に、あいつの運命も責任があるしな。落とし前はつけないとな」
彼の視線の先には、意外にも瑛矢の姿があった。
「運命も…?」
「直接関わってないわよ。ただラーフの仲間がね、チャンドラ神の姫にちょっかいを阻止し損ねたのよ」
意外な人物からの情報に半人獅子は、驚きに目を見開いた。
「乾闥婆王を責めないでやって。あの後の混乱状態では無理だったから」
確かに、あの乳海攪拌の後に起きた戦乱は長きに渡り、結局はシヴァ神が悲しみを伴った幕引きをしたこともあったりして、アスラを狩る猟犬を生み出すことにもなった。
修羅王がアスラだと誤認してしまっていた事実は、神々が承知だったのかどうかは今となっては記憶が曖昧で薄れてしまっていて、どうにもならなくはなった。
けれど、ラーフが暴走し始めた今は奴を斃すべきだろう。
♢♢♢
ーー……はははっ。
ラーフが笑いを多能し終えたのか、最後は疲れたように息を吐き捨てた。
ーーもうどうでも良い良い!
そう。もう戦い疲れたのだ。
だがしかし、まだまだやり足りないことが多いとも考えていたりした。
ーーふんっ!
片腕を横に払うと、稲光りを纏っていた一部が靄と一緒に弾き飛んだ。
「…がはっ!」
予期せぬ攻撃を防ぐ前に、見事に一撃を食らったのは騰蛇と青龍諸共に晴明だった。
「あ、ああ!」
天后に支えられていた舞織が頽れた。横で天后は両手を口に当てて、声もなく青褪めた。
「……っ」
騰蛇という鎧を纏っていたが、ユ予想外のラーフの《力》には防ぎきれずに直撃を食らった騰蛇も晴明も動けなくなっていた。短剣から素早く元の姿に戻った青龍が、必死の形相で主人に声をかけるが、微かにうめくだけで反応が鈍く、騰蛇もかなりのダメージを食らったからか、中々動けないでいた。
ーー飽きさせたお礼をせねばなぁ!
背を向けていた青龍に目がけて、新たな攻撃を放った。青龍に当たる寸前で、朱雀と白虎が盾となって阻んだ。
「悪い。遅くなった!」
二人の神将は一番遠い位置を守護していたから、青龍は無言で睨んだだけだ。
ーー増えたところで、憂さ晴らしの玩具だぁ!
第三波の攻撃に、太陰、玄武、天空、勾陳、六合、大裳が駆けつけて、貴人は天后と共に舞織に寄り添った。それでも、奴の攻撃は防ぐことが出来ずに膝を折ってしまった。悔しがっている暇は与えられることはなく、地を這うしか出来なかった。
「…晴、明…?」
六合が気づいた時には、主人は肉体から離れてしまっていた。幼女だった肉体では耐えきれなかったのだ。しかし、彼は霊体となっても諦めることはなかった。声なき声で、十二神将達を動かしたのだ。
(晴明様?どうして…)
十二神将と晴明が、舞織を囲んでいた。
ーー舞織は、どうか無事で…。
「…晴明様?」
晴明は十二神将の助力で、これ以上、彼女が巻き込まれないようにと、目が眩むほどの光りに包み込んだーー次に舞織が目を開けた時には、彼女自身の実家の庭に立ち尽くしていた。
(どうしてなのですか?晴明様っ)
「本当に茶番を終わらせようじゃないか」
長い沈黙が降った後、一人が言い始めたのを合図に一対二十三の戦いが始まった。ーーけれど、霊体となった晴明が不利で神の末席でありながらも主人を守ろうとして、晴明の魂は手から零れ落ちる欠片のように静かに消えた後は、戦闘放棄した形で異界へと消えるしかなかった。
ーー一気に消えたな…。
ラーフが不気味な笑みを浮かべ、暗い闇のような靄の中に消えたり現れたりして、十人となった瑛矢達はあらゆる角度や術で攻防しながら戦って、どのくらいの時間を要しただろうか。
もうラーフは勿論だが、十人もかなり疲弊し始めていた。
(どちらも、退く気は、ないか)
瑛矢は、心に秘めたことを実行する頃合いを考えていた。それはシヴァ神にすら見透かされないように隠していたことでもあったし、ここにいる来訪者こと八部衆にすら気づかれてはいないだろう。
(ーー未練は、ないとは言い難くなったが)
茶番ではないだろうかと気づいてからは、バイラヴァとしての生き方が苦しくもあり辛かった。やはり茶番だと分かった今は、未練を断ち切ってしまわなければ終わらないし、ラーフが、人間全てを標的にしないとも限らない。奴が人界で覚醒と復活するのは、想定外だった。異界のどこかだろうと考えていた。だからーー逃げ延びて、今に至っている。
「ラーフ!いい加減にしてくんないかな?」
アスラではあるがラーフと違い、神族に属す修羅王が苛立ちと気怠さ混じりに問いかけた。
どーんっ!
修羅王目がけて攻撃を放ち、それが躱されると音もない攻撃を他の八部衆に放った。が、いずれの攻撃も直撃も掠りもしなかった。
ーー相変わらずの茶番、だ。とーー
地形は完全に変容し、緑多き森は見る影もなくミサイルを撃ち込まれたか大爆発が起きたかのような有り様は、荒廃してしまった世界を現しているようだった。
「さ、サイっ、何てことをっ!」
感覚がない状態の体は、当然の如く何も感じなかったけれど、まだ視覚と聴覚だけは残っているようだ。彼の声は耳元に、目に映るのは彼の頭部。多分、抱き竦められているのか。
(とうとう、やってしまったな)
これで全てが終焉へとーー人界は人間だけの世界に戻れる、筈だ。神々の遊戯が人界に魑魅魍魎などの異物が侵入していて、非現実な存在と世界があっただけなのだから。
「サイ!消滅な!…死なないで!」
視覚が弾けて消えた。
彼に抱き竦められていた感覚が、消えた。
もう何も聞こえないーー聴覚すら、消え去った。
ーーそうまでするとは、思わなかった。
いつしか体の感覚が戻ったのかと思える程、ふわふわと水の中を揺蕩っているかのような。
ーー遊戯と、気づかれていたのには驚かされた。
ーー当然だ。私の姫なのだから。
ーーそうだな。チャンドラの娘だったとはな。
<了>




