<十三>
♢♢♢
ねっとりとした陰湿な空間の中、まるで大浴場を独り占めしているかのように、全身をのびのびとくつろいでいた一人の青年が何かに気づいて、咄嗟に身を縮こませた。
ーーやれやれ。…分身如きが躱すとは気分が悪いなぁ。
姿を現すことなく、声音には嘆息やら何となく気怠さも混じっていた。
虚を突かれた青年は、苛立ちも露わに険しい表情と殺気だった視線をーーまるで居場所を特定したかのように、一点を睨み据えていた。
ーーお前は、やり過ぎた。消・え・ろ!
青年に赤黒い焔が包み込み、じわりと熱風混じりに肌を蝕んでいく。けれど、彼はそんなことに動じることもなく、ただただ一点を睨み据えたまま動かない。
「……こんな、こんなものが!この俺様に届くものかぁ‼︎」
大仰に両腕を振り、焔を掻き消した。が、一瞬だけ消えたに過ぎず、再び再燃する。それを忌々しげに視線だけを向けて、また一点だけを殺気を込めて見据えた。
ーーふふふ。それで凌いでるつもりか?
声の主は、嘲笑った。
確かに消した筈の焔は、燻っては火を吹きを繰り返しながら、じわじわと彼の脚を灼きーー白い骨だけにしていった。それを見て、目を大きく見開いた。
(お、俺の方が、強くなった、筈なのに)
ーー所詮は分身は人形に過ぎない。強くなれるわけがあるまい。
「く、くそっ」
己がただの分身だったことを思い出させられただけでなく、本来の役目を疎かにしていたことまで認識した途端、自分という存在が揺らぎ出す。
「…い、嫌、だ。消えたく、ない…っ」
ーーざーんねんだね。
自分の肉体が飴細工のように、ふにゃふにゃに揺らいで実体を保てなくなった。
自分が、存在が『彼』の一部だった頃に戻りつつあることに恐怖のような感覚に陥り、完全に消えてしまうならばと、『彼』に向けて《力》を放出した。
「道連れだぁーっ!」
ーー今更、遅いよ。
深淵なる瘴気が反撃虚しく、薄い膜のようなものに包み込まれて、不気味に肉の塊が蠢くみたいな動きをしてーーやがて、完全に気配が消え去った。
ーーさて身内のゴタは片づいた。……邪魔な神の猟犬を始末しないと、な。
勝手な行動をした分身の粛清した彼は、何処までも《瘴気》を見上げて、くつくつと笑う声だけが、醜い姿をした配下に囲まれた異様な空間に響き渡った。
「…っ。う、ん…」
ーーお兄様!
「う…っ、あ、ああっ」
ーーだ、駄目よっ。お兄様だけは、お兄様だけは…私が守ります!
「あっ!」
自分がどこにいるのか分からないけれど、ただ眠っていた筈の体は上体を起こしていた。どうやら、夢見が悪かったのか何なのかで飛び起きたらしい。
自分がどんな夢だったのか、いつもいつも思い出せない夢ばかりだから諦めかけたが、どうやら今回ばかりは違ったようだ。
はっきりと脳裏に浮かんだのは、瑛矢と自分の兄が自分と楽しげな日常を過ごしていた。
しかしそんな日々は、突然奪われてしまった。
優しかった兄が豹変して、両親や近所の顔馴染みまでもを猛獣のように襲い惨殺していった。
ーーお兄様!お兄様、どうされたのですか?こんなことは止めて下さい!
兄は妹の足しの言葉すら、もう聞こえていなかった。私の知る兄は、もうそこにはいなかった。
そんな中、瑛矢が問答無用で、暴走する獣と化した兄を迷いもなく、殺した。
ーー×××っ。どうしてなの?どうして、あんなに仲が良かったお兄様を!
彼は顔を背けて体がかすかに震えていたが、私は最愛の肉親を、最後の一人の兄を奪われたことに、かすかに思いを抱きかけていた感情に蓋をして罵り、彼が見ている前で自ら命を絶ったのだ。
ーー梨杏!
彼に抱かれた体は、どんどんと冷たくなっていく中で、彼の慟哭を聞いていた。
ーーあいつが、心に深い闇を飼ってなければ。
ーー神がアスラを人界に逃さなければ。
ーー俺が…早く気づいて、浄化してやってれば。
ーー俺が、俺が…人間であれば、良かったのに。
「…あーーーーそ、そんな…」
自分は知っていたことを忘れていたことを、瑛矢から話しを聞いた時には、何も感じなかったのに、今更のようにこんなにはっきりとした夢を見たことに、愕然としたのだった。
(…確かめなきゃ)
「何を確認しなくちゃいけないのかな?」
施錠されている筈の部屋に、いつの間にか瑛矢にそっくりな偀介が宙に浮かんでいた。思わず悲鳴をあげそうになるのを、両手で口を塞いだ。
「懸命な判断だ」
「…ど、うして?」
「確認しなくても、もう理解してるじゃん。…前世の君は、アスラ化した兄をあいつが始末したんだからさ。でも」
「でも?」
「そこまでは思い出せないんだな」
「な、何を言ってるの?」
「単刀直入でいうとさ。前世の君の兄だったのさ…この僕がね」
「う、嘘」
「嘘じゃない。バイラヴァとしての肉体を失った僕が死にかけていた君の兄に宿ってたんだよ」
「……」
「でもまさか、アスラ化寸前だって気づかなかった。だから、気づいてくれなかったあいつに仕返ししてた」
彼は、くくくっと笑った。
「でももう止める。これからいうことを、あいつにちゃんと話して欲しいんだ」
偀介は、真顔を私に近づけてきた。
「どうして、私に?」
「直接話したいけど、時間が惜しいんだよ」
彼の掌が、私の額に置いた。
「僕の時間は、リミットなんだよ…残念だけど」
彼の寂しげな言葉の後、一気に映像と声が私の脳裏に流れ込んで来たーー気がついた頃には、彼の姿はなかった。
ーーバイバイ……サイ。
♢♢♢
(…あ、ああー、消滅たのか…)
どうしてあんな形で生き残っていたのかが、結局は解せないまま、偀介はアスラに同化傷ついた魂となりながらも、その限界まで存在し続けていた。しかし、偀介だった気配が完全に消滅したのを感じた。
仲間であり友人でありながら、妹を守る為に、同意の上で狩りをした。ただタイミングが悪くて、彼女を深く傷つけてしまい、記憶を操作して去ったのだ。
(…無事に転生した舞織には、平穏な人生を送って欲しかった…)
けれど、彼女は自分を助けた一族の末裔として、能力者として自分の前に現れた時は息苦しさを感じた。
あの頃の記憶はないようだが、能力者特有の過去や現在、未来を視てしまう。いずれは記憶操作して消したあの日を視てしまうだろう。
(…仕方がないことか)
バイラヴァである自分がアスラ化した仲間を率先して抹殺してきた罪深さは、自分が一番よく知っている。いつかその報いを、贖いをしなければならない日が迫っていることに気づいている。
(覚悟はしてきた…後悔は、してない)
そんな背後に、前触れもなく人ならぬ気配が降り立った。
「…久しいなぁ。バイラヴァのサイ」
振り返らずとも、気配だけで容姿まで把握できてしまうーーアスラ化した元人間でも、分身ではなく、アスラそのものだということを。
「直接現れるとはな」
「今日は、ほんの挨拶だよ」
自然と体が彼の方へと振り返り、目を大きく瞠いた。
どっくんっ。
心臓が高鳴るのは、きっとアスラの姿が既知の姿をしていたから。けれどそれは、アスラが持つ能力の一つ《幻惑》が見せる、自分に関わった人間達の姿を揺らぎながら視せていた。
「本当に長かったよね」
アスラは姿を揺らがせながら、意味深な笑みを浮かべて瑛矢の体に触れてきた。
「は、なれろっ!」
アスラから離れようと、身を捩り翻した。が、がっちりと両腕を拘束されてしまい、身動きが全く取れずに焦った。
「君はさぁ。…人間の癖に、シヴァに一番大事にして貰えていいよね?」
「そんなことはない。あの方が人間であった俺を狩り人にした。残酷過ぎる運命を強いいたのに、一番大事にだって?笑わせるな!」
そう悪態吐いた瞬間、アスラに心の奥底に押し込めた《闇》を引っ張り出されていることに気づいて、口を一文字に引き結んだ。
「お遊びのような占いーー託宣如きが、精度の高い人材選びが出来る筈がないんだよ」
(…でも、託宣で選ばれたって、星見が…)
「ましてや、代替わり直前の老耄の星見如きに、元から半人半神である君が入るのは可笑しなことだからね」
(…え、何だって?)
「知らなかったんだね、やっぱり。…でもね、君の仲間の一人が気づいてたみたいだけど、もう消えたよね、あははは」
彼は、俺の反応を嘲るように笑い声を立てた。
俺の中の心の《闇》が、知らぬ間に奥深い場所で蠢き始めていたことに、気づかない程に動揺させられていたのだった。
♢♢♢
俺はアスラによって、いつの間にか懐かしい場所に飛ばされていた。
「懐かしいだなんてさ、思えるなんて可笑しいよね。人間としての儚い命を奪われた場所だというのにさ」
彼は相変わらず、笑っていた。
動揺が少しだけ鎮まり、気づけばーー聖なる地であったこの場所には、<瘴気>を纏う禍々しい姿をした魔物が自分を睥睨していた。
「ま、儀式が済んだ後は、死という穢れしか残らなかったから、魔物の巣窟になっちゃったんだよね。そう考えるとさ。シヴァがしたことって、矛盾だらけじゃん」
ふと視界が暗転し、闇に包まれた。視界が全く閉ざされた中、アスラの気配も魔物の気配も消え去った。
咄嗟に眩しさに目を閉じたけれど、それでも眩しく感じて手を翳した。
何が起きているのか、さっぱり分からない。消えた気配とは違う、どこか懐かしい気配に包まれたと感じたら、眩しさが消えた。
ーーアスラの言に惑わされてはならない。
いつものあの方の優しい声が聞こえた。
ーーアスラは、悪神の首謀者に成り下がった去った存在だ。奴の言葉に惑わされてはならない。
今は神の言葉には腑に落ちない何かが含まれている気がして、アスラの言葉に腑に落ちるものが含まれていた気もしていた。
『狂い始めていたのは、いつから?』
『狂い始めていたのは、こととは?』
『狂い始めていたのは、誰?』




