<九>
♢♢♢
「ぬ?」
「…晴明様、如何しました?」
課長が怪訝そうな声音で、彼に顔を向けた。
「…分からぬが、何かが起きてるようじゃのう」
「よ、良くないことです?」
舞織が不安げに、ソファーから起き上がった。
「舞織は、もう少し横になってなさい」
晴明様の言葉に、素直に従った。一方の瑛矢はというと、少々マナー違反だがデスクを六つ並べた上に、昏倒したままだった。
「凶事ではないが、厄介ごとが…どう転ぶかは、分からんのう」
「詠二に…?」
「ま、問題ないじゃろう」
晴明様が言うことなら、不安もない心配もいらないだろう。だけれど、瑛矢がこんな状態にされたというのに、完全に払拭出来なかった。
一方、その詠二達の方はと言うと、小鳥遊の援護を受けて、詠二は<瘴気>を身に残しながらも、敵が降ろそうとした神ではなく、道返大神は余りにも強大な神で無理だが、神の代理であり妻でもある巫女神を降ろした。本来なら、相性が良い神を降ろしたかったけれど、穢れを一番嫌う女神だから出来なかった。
道返大神には劣るものの、人間の身で神の代行を行える唯一の存在である巫女を招いたのだ。<瘴気>をもものともしない圧倒的な<力>を持つ彼女が、彼の中で膨大な気配が漲り、陽炎のようなオーラを彼は纏い始めた。
「な、何だ?」
男は半狂乱の叫びをぴたりと止め、自分が選んだ天津甕星の依り代は、敵方の巫女神を降ろし、自分を睥睨していた。余りの圧倒的な気配に、男は尻込みをした。
(そりゃ、ビビるよな)
後方に下がった小鳥遊は、嘆息を吐いて憐れみを奴に向けた。弟弟子ながら、その依り代や憑依させる能力は、晴明様の弟子の中でずば抜けて秀でていたーーあの晴明様も感嘆するくらいに。
こうして、昔よりもコントロールされた能力を目の当たりにして、奴に同情してしまいそうになるが、巫女神は奴に向けて弓を持ち、矢を放った。
「くっ!魑魅ぁ!」
幾つもの魑魅は、矢が通り過ぎ様に掻き消されてしまいーー最後は、奴の額に突き刺さった。
(よしっ!)
だが、奴は額に矢が刺さったままで不気味な笑みを浮かべていた。
(…?何か、あるような…)
その笑みは、負け惜しみでなくて、更に怒りが憤怒に変わった。倒れることもなく、仁王立ちしたままで額の矢を自分で抜いて、地面に叩きつけるように投げた。一度だけ下を俯いてーー次に顔を上げた時には、面差しも気配も先程の奴でもなければ、もう奴自身でもなかった。
「…まさか!」
ーーふ、ふふふっ。あっはははっ!
まさかまさかのーー天津甕星を自らに降ろしたのだ。怨嗟を帯びたかの神は、詠二に負けじとばかりに、感情を剥き出しの<力>を放ちながら、彼に向けて足を踏み出した。その一歩一歩は、地面を陥没させる程の<力>を見せつけんばかりに進んでくる。
そんな様子に固唾を呑んで見守るしかないと小鳥遊は、なけなしの<力>で《結界》を張り、詠二の身を守ろうとした。振り返った彼が、らしくない柔らかな笑みを浮かべて、小鳥遊の額に手を翳した。
「な…っ?」
意識が柔らかな真綿に包まれたみたいに、遠のいていった。
どさっ。
巫女神を降ろした詠二は、倒れた小鳥遊の様子を無感情に見下ろした。
ーー邪魔をするなぁ!
よそ見するなとばかりに、奴が先に攻撃をし始めた。巫女神は、こともなげに軽く躱した。
ーーおのれぇーっ!
巫女神にあっさりと躱されれば躱されるほどに、天津甕星の憤怒と怨嗟の感情が留まれぬ程に昂っていた。
♢♢♢
いつの間にか、巫女神の手にあった弓矢を剣に変えていて、天津甕星も剣を手にしていた。ーー何合撃ち合ったか分からないくらい激しく戦っている内に、奴の体から蒸気が煙のように沸き立ち、体の表面がぼろぼろと土塊のように崩れ始めた。
「ああ…!闇に染まった人間の末路を知らぬ間に、時間が訪れましたわね…お可哀想に」
奴はもう声を発することもなく、空を見上げたまま動かなくなってしまっていた。否、人間という依り代から離れて、宙に浮いていた。地面にはまだ憤怒の言葉を必死で言っているらしいが、音にはなっていなくて、どんどんと土に混ざるように溶けていって、やがて静かに消えていくーー諦めたような表情をした天津甕星は、一雫の涙を流して空に溶けるように天昇して去った。
「あ、あれ?…小鳥遊さん!」
巫女神も用済みを悟り、詠二の体から離れていった。一瞬だけぼんやりとしていたが、地面に倒れていた彼を抱き起した。
「…ううっ。……詠二、戻ったのか?」
「は、はい!」
彼は俺に支えれながら、ゆっくりと立ち上がった。
「詠二!」
「え?た、小鳥遊…さんっ?」
彼に抱きつかれて、ぎょっと驚いた。
「心配したんだぞ?」
「…す、すみません…」
そして、小鳥遊さんから経緯を一通り聞かされた俺は、偶然が偶然を呼び込んでーー古からの因縁という怨嗟をを断ち切ったらしい。ただたとえ、怨嗟は完全には消せない。どこかにまだまだ燻っている限りは、と。
♢♢♢
小鳥遊さんに連れられて、晴明様の屋敷に向かうと、顔色が悪い舞織と意識が戻らない瑛矢の姿を見て、俺は晴明様に食ってかかった。しかし幼女姿の彼は、流石は晴明様だと再認識してしまうくらいの《力》であしらわれてしまった。
「仕方がないだろ?君があわや天津甕星の依代にされる為に注がれた<瘴気>が晴明様が護身用に与えてあった《勾玉》を介して、二人に影響してしまったんだからさ」
小鳥遊さんの言い分は正しい。俺は、第二撃で完全に撃沈した。
「舞織は、ほぼ大丈夫じゃがのう。瑛矢はわしには未知数な部分がある。天津甕星の影響かもしれんし、別の要因かもしれん。お前は残った<瘴気>を祓い清めよ、良いな?」
「はい。晴明様…」
幼子姿の彼に頭を軽く三回叩かれて、慰められた形になって嘆息を吐いた。
「小鳥遊。報告と例の件で話しがある」
二人は、奥の間へと姿を消した。舞織が一緒に祓い清めがしたいと、俺の手を引いた。彼を一人にするのに躊躇ったが、意識が戻る気配がないので彼女に従い、この屋敷の裏山にあるそこそこしっかりとした滝壷に向かった。
「まぁ、想定範囲内であったとはいえ、天津甕星を崇拝者がーー祭司が生き残っていたとは驚きました」
「うむ。祭司が生き残る手段を与えてしもうていたのが悔やまれてしまうのう」
「ですが、もう祭司は巫女によって滅びましたよ。…まだ何かあると?」
「天津甕星だけが、この地上に禍いを齎す存在ではないからのう」
「ということは……始まりだと仰るのですね」
「小鳥遊よ。道返大神様の元に行ってくれまいか?」
「…承知致しました」
彼の姿は、晴明様の前から姿を消してーー異界へと移動のと入れ替わるように、ざんばらの痩躯で長身の男性が現れた。
「赤石。久方ぶりじゃのう」
「まつろわぬ神の民が動き始めたぞ。…晴明」
赤石の言葉に、大仰しく息を吐いた。
「やれやれ。…今度は、…荒脛巾の祭司かのう」
「謎深き神を崇拝する民の長か?」
「そうじゃ…」
何故にこんなに続くのか、前世は素質はあるのだが<力>弱い弟子の一人であった詠二は、神の依代になれる一族の末裔に生まれ、先祖返りした能力を有していた。更に未知数の瑛矢は、神社の子息故か能力に秀でた素質を見て、小鳥遊にスカウトして貰ったが、果たして偶然だろうか。
「あいつは、ただの人間ではないぞ」
「何?あいつとか?」
「瑛矢とやらだ。血筋が真実ならかなりの能力者だと思うが、何となくだが」
「血筋が真実じゃと?」
「あの者に、通常の生者の<気>を感じない。どちらかと言うと…」
彼が珍しく言い淀んだので、晴明が小首を可愛く傾げた。
「騰蛇?」
「ーーどちらかと言うと、我々に近しい存在だと思う」
「え?お主らと?」
「ああ。なので、勝手に調べさせて貰った。晴明になんかあっては困るからな」
「なぬ?」
「あいつは、兄や両親に全く似ていなかったし、戸籍とやらも瑛矢の名はなかった。ただ偀介という次男がいるが、行方不明になってる」
「騰蛇よ。戸籍を見るとは頂けんが、瑛矢の名がないとは変じゃのう…偀介とやらは、双子じゃと聞いておったが…」
何が真実で何が偽りか分からないのが、吉備瑛矢という架空の存在だとしたら、このまま静観するか、あるいは彼に詰問しないといけないか。
(…藪蛇は勘弁じゃしのう)
何もない無に近い空間に、厳かな声が響き渡る。
ーーそろそろ覚醒せねばならない…我が分身よ。
対象者の弱々しい声が、問いかけた。
ーー……様?
ーーもう深傷も癒えておろう?いつまでも、ぼんやりしてるつもりでおるのだ。…時間は、もう残されてはおらん。
ーー…シヴァ神…っ。
ぼんやりしていた意識が急浮上した。
ーー奴等は、お前の居場所や…血族達の居場所を突き止めたようだ。
ーー私は、一体どのくらい眠っていたのでしょうか?
ーー二十五年くらいか。
ーー…とんでもなく寝坊をしてしまいましたね。申し訳ありません…シヴァ神よ。
意識の深層と表層の狭間で揺蕩う丸い光りと、人の姿をした思念体が発光しながら会話をしていた。
ーーでは、覚醒させて…奴を討ちます!
ーーああ。頼んだぞ。
先に、丸い光りが凝縮して弾け消え、人の姿をした思念体は、暫くの間この何もない空間に揺蕩った。




