ニジョウの記録
ライは空を見上げた。申し訳程度に星がチラチラと輝いている。
ライは住処である雑居ビルの屋上にいた。ここに上がってくることはめったにない。
足元には一人の男が腹を抑えてうずくまっている。
その男を、かかとで蹴って、仰向けにさせた。「ねぇ、君のボスに、伝言頼める?」
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季節は春‥‥といいたいところであるが、まだまだ肌寒い。暦の上では春であるが、三月の東京は、春を感じられる日とそうでない日が交互にやってくる。
オカダは雑居ビルの玄関を掃き掃除していた。
すれ違った商店街のうどん屋の店主に挨拶をした。
オカダはここ数日、気分が晴れない。
何かが胸につっかえているような、違和感を感じるような気がして、落ち着かないのである。
物理的に喉に小骨が刺さっているのではないかと思い、咳き込んでみるもののとれない。そもそも小骨の多い魚を食べていない。
何か自分は、大事なことを忘れているのではないか‥‥。
「こんちはぁ、宅配便でーす」と声をかけられ、オカダの思考は途切れた。
キィっとブレーキの音がし、制服を着た配達人が、トラックから降りてくる。
ずっしりと重い段ボール箱を受け取る。
配達人は、こちらにサインをお願いしまーす、どーも、と言い、足早に次の配達先へ向かった。
「オガワ物産様からりんごがたくさん送られてきまして」
オガワ物産というのは食品を取り合う専門商社だ。以前依頼を受け、社長とその妹のボディガードをしていたことがある。
トレンドと伝統のバランス感覚に優れた大変優秀な女社長であり、真心の人でもある。折に触れては、珍しい食材や貴重なワインを送ってくれるのである。今回はりんごであった。
とあるりんご農家が、春先に出荷用にと貯蔵していたりんごがなかなか捌けず困っていたらしい。これをオガワ物産の独自ルートで捌こうとしたが、お裾分けに、この雑居ビルへも送ってくれたようだ。
段ボール箱いっぱいのりんごを見て、オカダはどう調理しようかと、空を見上げて考えた。
花の香りのような、爽やかで甘い香りがオカダの嗅覚をくすぐった。
そして、本日のディナーはりんごづくしディナーとなった。タシロには牛肉を玉ねぎと一緒に甘辛く炒めたおかずをだしたが、牛肉を柔らかくするのにリンゴをすりおろし、ニンニクとショウガ、酒、醤油と一緒に30分ほどつけておいた。また、デザートにと、りんごを切って、タシロのお盆に置いた。
レンには、ハンバーガーに焼きリンゴを挟んでおいた。トモヤには、りんごを使ったドレッシングのサラダにした。ライには、丸ごと焼きリンゴにし、バニラアイスをたっぷり添えた。
「ハンバーガーにりんごって、まじかよと思ったがうめぇなぁ!」レンが笑顔で話す。「ビタミンもとれてまた、ハンバーガーが完全食に近ずいちまった」
ファストフード狂のレンは、戦闘担当で、二重の瞳と厚い唇の濃い顔が特徴である。常に柄シャツを着ている。
「りんごのドレッシングも新鮮でいいね。さっぱりして、フルーツの甘みも感じられて美味しい」と、話すのはトモヤ。金髪の優等生顔で、大きな涙袋が特徴だ。薬物全般に詳しく、レンと戦闘に出ることもある。
「焼きりんごも美味しいよ。シナモン足してくれる?」と声をかけるのが、ライ。後処理というか、爆発物に詳しい。毎食甘いものを食べているが、本人によると、常に脳味噌をフル回転しているので、糖分が常に必要らしい。
「このお肉も、柔らかくてうめぇす。白飯がすすみます」と、ご飯をかきこんでいるのがタシロだ。タシロは去年の夏、海外にいって帰ってこないニジョウという人間の代わりに、この「目的のためなら手段を選ばない何でも屋」のオーナー代行に着任した。
青白い顔をしていて目つきが悪いが、小心者かつ平和主義者で、なるべく穏やかな依頼を受けるようにするのがモットーだ。
「お気に召してよかったです。まだまだりんごはありますから。明日の朝はりんごのスムージーを飲みましょうか」と言いながら、ライにシナモンを手渡したのがオカダだ。塩顔の穏やかな青年である。役割は、この事務所のご飯担当兼調査担当。
オーナーのニジョウとは時々連絡をとっており、ニジョウはもうすぐ帰国すると聞いたところだ。
大満足のディナーの後、タシロは自室で、銀色のノートパソコンを眺めていた。依頼メールを確認している。殺し屋兼何でも屋の依頼は、メールでやってくる。詳細は書かれておらず、単語を並べただけの無愛想なものが多い。
タシロはなるべく、人を助けられる、奪還とか救出とかいう言葉のメールに対応するようにしている。
中には外国語でそもそも読めないものもあるが、時々、よくわからないメールが届くことがある。いたずらであったり、隠語を使用されていたりする。タシロは今も、ある一通のメールの内容が理解できず、首を傾げているところだ。メールには、「迦南 処分」と書かれてある。
「なんじゃこりゃ‥‥?対象は中国の人か?」はてと思っていると、コンコンと部屋がノックされた。オカダであった。
「タシロさん、これ、お夜食代わりに」とりんごのチップスを差し入れてくれた。
そういえば、階下から甘い匂いがする。タシロとオカダの部屋は五階で、ダイニングは四階、レンとトモヤが三階、ライが二階に住んでいる。一階は倉庫だ。
「いい匂いがするっすね‥‥」
「りんごのパウンドケーキを焼いていたんですよ。商店街の皆さんにもお裾分けしようと思いまして」とオカダが言う。時々商店街で買い物をするオカダは、おまけを頂く機会が多いらしく、たまにはお返しをしないとと言っていた。
「りんごチップス、ありがとうございます。あ、オカダさん、すいません、依頼メールなんすけど、これ、わかります?対象は中国の人すかねぇ?」と、タシロはオカダにノートパソコンの画面を見せた。オカダは、しばらく画面を見ていたが、「うーん‥‥心当たりがありませんね。調べてみます」と返事をした。
「ありがとうございます。あっあと‥‥」と、タシロはさらに言葉を続けた。
「明日の朝飯は、いりません。すいません、昼も。夜だけお願いしてもいいっすか?自分、少し出かけたくて」と、タシロはオカダに断りを入れた。
タシロの背後では、「パンケーキの次に流行るものランキング第1位を発表します!」と言う明るい女性タレントの声が聞こえた。
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そして翌日、朝8時、タシロは行列の真ん中ほどに立っていた。
昨日、インターネットをしていた際に、昔、タシロが好きだったキャラクターの台のリバイバルがあるとの情報を得たのだ。そう、タシロは今、商店街のパチンコ屋の開店待ちの列にならんでいるのである。
パチンコ屋の入場は、徹夜組が出ないよう、ご近所への配慮から、早く並んだもの勝ちではないようになっている。所定の時間に配られる入場整理券を得て、その列ごとに並んでからの入場だ。一桁台がひけるよう気合をいれて、タシロは、ブルーのシルク混のシャツを着てきたが、虚しくも番号は50番だった。目当ての台を打つことはできないだろう。だが、せっかく来たので久々に遊んで帰ることにした。遊んでいる間に、目当ての台が開く可能性もある。といっても、考えている事は皆同じだ。今日タシロがその台を打てる可能性は限りなく低い。
タシロはおとなしく列に並んでいるが、今日は少し肌寒い。あと2週間もすれば桜の季節だが、今日は冷たい風が吹いている。羽織りを持ってきて正解だったと、タシロは腰に巻いていたスカジャンを着た。
このスカジャンは、最近買ったものだ。元々もっていたものには龍の刺繍が入っていたが、今回は蛇だ。虎と悩んだが、蛇の方が珍しい気がして蛇にした。
ありがたい事に、オーナー代行の報酬が、月によって金額はまちまちではあるが、定期的に入るので、少しいいスカジャンを買った。青藍という青色で、蛇と桜、波の刺繍が入っている。
オカダの前には、上下グレーのスエットを着て、短い缶コーヒーを持ったニイちゃんがいる。後ろは、革ジャンとダメージデニムを履いたニイちゃんだ。デニムにはウォレットチェーンがついている。勝ったなとタシロは心の中で思った。
ウキウキしていたタシロだったが、パチンコの戦果は散々であった。お札がみるみるうちに台に吸い込まれていく。
そうだ、すっかり勝てなくなり、つまらなくなってパチンコを辞めたんだったとタシロは、若き日の事を思い出した。
昨日の時点で思い出してりゃなぁとタシロは思ったがもう遅い。昼飯の時間ももう過ぎており、腹も減った。財布の中身も寂しい。もう帰るかとタシロが思った時、一人の男がタシロの横に座った。
普段なら、隣に座った男を気にすることはない。
だが、男は背が高かった。190cm近くはあるだろうか。顔が小さくスタイルもよい。日本人離れしているといえるだろう。目や髪は黒いが鼻が高い。思わず視線を向けてしまった。モデルさんか、なんかか?とタシロは思い出そうとしたが、出てこない。テレビ等の媒体で見たわけではなさそうだ。
もう一つ、タシロの気を引いたのは男の匂いだった。一見、フローラル系の香水の香りがしていても不思議ではないくらいの男前、かつスタイルのよさだが、タシロの鼻に入ってきたのは、草原のような香りだった。どこかで嗅いだことがあるような‥‥とタシロが思った時、男が口を開けた。
「これが、パチンコというものなんですねぇ」男が言った。おぉ、日本語話すのかとタシロは思った。
「観光すか?」とタシロが聞いた。日本に観光に来た外国人が、物珍しさでパチンコ屋に入ったと思ったのだ。
「そんなところです」と男が答えた。なんとも甘くて爽やかな笑顔だ。
「でも、僕にはあまりあいませんねぇ。帰る事にしましょうかねぇ。あ、お兄さん、その台はラッキーな台だと僕は思いますよぉ」と言って、男はあっさり席を立った。やはり草原のような匂いがした。
男の背中を見ながら、「変な人だったな」とタシロは思った。台に向き直ると、台の液晶には花火が上がり、セクシーなキャラクターが拍手をしている。
「おおおおお!」いつの間にか大当たりがきていた。
昔は、当たると館内コールがされたりしたが、今はそういうことは、流行っていないらしい。タシロは一人で喜びの舞を心の中で踊った。
大当たりに興奮しながらタシロは思い出した。あぁ、あの草原の香りは、ほし草の香りだ。昔、家族で北海道に行った時に、牧場を訪ねた事がある。
妹と、こわごわと、乗馬を体験し、家族みんなで滑らかな口当たりのソフトクリームを食べた事をタシロは思い出した。だが、目の前の大当たりに興奮し、すぐ忘れた。
タシロがパチンコ屋にいるころ、オカダは四階のダイニングにいた。料理をしているわけではない。
オカダはキッチンの棚を開けた。中身を確認して、戸を閉じた。次に重厚な木製のダイニングテーブルの下を確認し、しゃがんで八脚ある椅子の下も確認した。
階段を降り、三階と二階も確認した。天井を見て、床を見た。一階に降り、倉庫のドアを開け、玄関扉も開け、雑居ビルの周りを一周した。「オカダぁ、お前、何やってんの?」とレンが声をかける。「探し物?なんか不審だよ〜」とトモヤ。
「いえ‥‥なんといえばいいのか‥‥何かがいつもと違う気がして」
「なにが違うの?」とライが尋ねる。
「なにか、いつもあるべきものがないような、ないべきものがあるような気が‥‥」とオカダが言う。
「‥‥?なんだろう、僕は何も違和感ないけどなぁ」とトモヤが首を傾げた。
「違和感‥‥そうですよね。気のせいだとは思うんですが」
オカダはまだすっきりしていないようだ。
だが、その話はお預けとなる。
ライが玄関扉から、外を見て声を上げた。
「あ。」
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タシロはご機嫌だった。結果、10万円の勝ちで終えることとなった。端数でもらった景品のヤクルトとチョコレートを手土産にタシロはご機嫌で住処に帰宅した。パチンコで勝って、この後オカダの美味い飯を食えるなんてとタシロは上機嫌だった。結局、昼飯は食わず、甘ったるい缶コーヒーを2本飲んだだけだ。タシロは腹ペコである。
玄関扉を開けて、タシロはおや、と思った。いつもであれば、夕飯前に各々が部屋で自由に過ごしているはずの静かな時間である。たまに、レンとトモヤの話し声が聞こえることはあるものの、基本的には静かな時間のはずだ。だが、今日は、上の方から賑やかな声が聞こえる。お客さんでもいるのかと、タシロは訝しがりながら階段を上がった。
ダイニングに到着すると、食器を運ぶオカダ、椅子についている、レン・ライ・トモヤ。
そして、今日はもう一人いる。黒髪、暗い瞳、モデルかと思うほどスタイルのよい男性だ。
タシロはとっさに声が出なくなった。タシロの帰宅に気付いたオカダが声をかける。
「タシロさん、お帰りなさい」
オカダの声は弾んでいた。
「タシロさん、こちら、ようやく帰国しました。やっとご紹介ができます。我々のオーナーのニジョウです」
そう、先程、ライが玄関から見つけたのは住処に向かって歩いてくるニジョウであった。
タシロはニジョウを指差し、アワアワとしている。
「どうしたんだよ」とレンが言う。
「男前すぎて、ビビったとか?ふふ」トモヤがからかう。
「ていうか、タシロちょっと臭いよ‥‥ちょっとじゃないかも」とライが眉をしかめて言う。
「ああああの、今日、パチンコ屋で会ったっすよね‥‥?」とタシロは声をどうにか振り絞った。
そうだ、パチンコ屋で会ったマネキン青年だ。
「Finally! Glad to see you.こんにちは、タシロさん。はい、僕がニジョウです。ようやく、やっと、やぁっと会えましたね」と、顔いっぱいの笑顔を向けると、右手で握手を求めた。左手には赤いナプキンを持っていた。
いつぞやにトウゴウという男から、ニジョウはイタリアマフィアの末裔で、日系人と聞いていたタシロは、アルパチーノとまではいかないとも、いかつい中年がオーナーであろうと想像していた。
だが目の前にいるのは、マネキン顔負けのスタイルの好青年であった。スリーピースのスーツがよく似合っている。年はタシロよりは年上だろう。ということは、30歳前後か。世の中はどれほど不平等なのかと思いつつ、タシロは握手に応じた。
「では、再会にかんぱぁーい!Cheers!」とニジョウは言って、各々はグラスを掲げた。ニジョウ、タシロ、オカダ、トモヤは赤ワイン。ライはアイスティー、レンはコーラハイだった。
テーブルの上には、サラダ、ローストビーフ、ガトーショコラ、りんごのパウンドケーキなどが並んでいる。中心には鯛のアクアパッツァが大皿に盛られて鎮座している。
ニジョウはアクアパッツァを手際良く取り、皿に取ると、タシロに渡した。塩気がたりなければと、ソルトミルを手渡した。くそ、性格もいいのかよと、タシロは思った。やはり世の中不平等だ。
毎日ファストフードを食べているレンの腹が見事なシックスパックなのも不平等だ。
皆、思い思いに食事を口に運ぶ。
「レンは随分戦闘力をあげたんだってぇ。オカダが褒めてたよぉ。それに、素敵な女性を守ったって聞いたよぉ。本当にレンは素晴らしい子だよぉ」とニジョウがレンを褒めそやす。なるほど、これがレンの求めていたものか。タシロがやったような、宴会芸まがいの太鼓持ちプレイではなく、具体的にどの行動が素晴らしいかを褒めている。タシロは感心していた。「いやいや、俺なんて全然っすよ‥‥ありがとうございます」レンは顔を赤らめて喜んでいる。謙遜までしている。タシロはそんなレンを見るのは初めてであった。
「トモヤ、お土産にトルコの植物図鑑を買ってきたよぉ。アラビア語だから、難解だと思うんだけど、図を見てるだけでも楽しいと思う」
トモヤは「嬉しい、僕、アラビア語の辞典持ってるんだ。早く読みたいよ〜!」と喜んだ。
「ライ、このオカダが焼いてくれたパンも美味しいよ。一切れ味見してご覧」と、ライの口にパンを放り込む。ライは当たり前のように口を開け、大人しく咀嚼して嚥下した。
まじかよ、ライさんにあーんなんてできる世界線があるのかよ。俺も小動物‥‥ではなくライさんに餌やり‥‥じゃなくて、あーんしてみてぇ〜とタシロは思った。
「とにもかくにも帰ってこられて嬉しいよぉ」とニジョウはいう。
レンは、トルコには何があるのかをニジョウに尋ね、トモヤはいつか、ローマに行きたいといい、ライは、
ギリシャも行きたいと主張した。
「さて、今夜は一晩中宴といいたい所ですが、オーナーもお疲れでしょう。長旅でしたし、時差ボケもあるかと」とオカダが片付けの支度に入ろうとした。
「そうだねぇ、もう休ませてもらおうかな。何はともあれ、みんな、ここを守ってくれて、そして、依頼に真摯に対応してくれてありがとう。みんなの誠実さには感謝しかないよ。本当に君たちは、僕にとって最高の子供たちだよ。君たちの愛を僕は感じているよ」
ニジョウのセリフは、キザでくさくて恥ずかしい内容であるが、ニジョウが言うと、とても自然に聞こえた。暖かい空気がダイニングに流れる。皆、優しい表情をしていた。
「とにもかくにも、また明日ゆっくり話そうねぇ、ちびっこたち。おやすみなさぁい」と、ニジョウは、あくびをしながら言った。
五階の管理人室ではなく、二階の奥にオーナー専用のベッドルームがあるらしい。二階の奥には、施錠されている部屋があることは知っていたが、オーナーのベッドルームだとはタシロは知らなかった。ニジョウはそこで休むらしい。
各々も自室に戻り、タシロも管理人室へ戻った。
電気もつけずに、ベッドにどさっと仰向けに寝ると、目を閉じた。今日は色々な出来事があった。パチンコ屋での出会い。秘密のオーナーの登場。タシロが見たことがないレンらの表情。タシロの知らない絆。タシロは少し動揺した。明らかに自分の役目は終わった。契約終了のときは近づいている。
ワインを飲んだこともあるのだろう、タシロはそのまま眠りに落ちていった。
ライは、自室に戻ると、机の上に目をやった。作りかけの立体パズルがこちらを見ている。3日ほど前から取り組んでいる。以前は城を模した立体パズルを作った。今回は考える事が多い。前回は120ピースほどだったが、今回は500ピース程度だろう。頭を整理するにはちょうどいい。
ライは、一つのピースを指先でつまむと、トプリと思考の海に沈んでいった。
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パチリと、レンは目を覚ました。時計の秒針が動く音と風の音がする。三時間くらい眠ったか。今は二時ごろか、とレンは思った。
先程、カタンという微かな音が聞こえた。
「侵入者がいる」とレンは直感で判断した。三階は、いや、この雑居ビル全体が真っ暗である。侵入者は二階にいる。間違いない。レンは音を立てずに銃を取ると、スニーカーをはいて、廊下に出た。
トモヤも気づいたのだろう。レンとほぼ同じタイミングで部屋から出てきた。二人で階段を無音で降りると侵入者の気配に意識を集中した。一人‥‥いや、二人か。レンはジェスチャーで、自分が左に行くからお前は右に行けと合図した。
二人は背中合わせで、進行方向にいる敵に向かって銃を構えた。
奥の部屋を改めようとしていた男が、レンに気づき、向かってくる。
レンが銃を放つが男は軽い身のこなしで避ける。「ちっ、プロの方かよ」とレンは呟いた。
男はレンに向かって拳を放つ。レンが避けようとした瞬間、拳は既にレンのみぞおちに命中していた。「ぐはっ‥‥」レンの口から声が漏れる。砲丸投げの玉が当たったような気がした。なんだよこの拳は。めちゃくちゃ重てぇ。
レンが再び拳を放とうとするが、今度は腕を取られ、背負い投げをされる。背中に激痛が走る。声を上げる間もなく、男はレンの首を掴み、迷うことなく首を絞めた。「ぅぐっ‥‥」首の骨が折れるのが早いか、首を絞められて絶命するのが早いかという状態だ。「ちきしょう!」レンは、銃を落とそうとする手に再度力を込めた。どうにか引き金をひく。男の肩に弾が当たる。男は、肩の衝撃により、レンから離れた。レンは床に手をつき、咳き込んだ。ゲホッゲホッ‥‥
タシロはその頃、夢を見ていた。夢の中でタシロはどこかに立っていた。すると、するすると梯子が空から降りてきた。タシロは梯子の一段に足をかける。この先は何があるのだろう‥‥そう思った瞬間、大きな音がして目が覚めた。
階下からきこえたのは、銃声と人が格闘している音だ。タシロは慌てて真っ暗な階段を駆け下りた。
階下では、レンが倒れていた。「レンさん!」と、タシロは駆け寄った。「これは‥‥」と思った瞬間、タシロは後頭部に衝撃を受けた。侵入者の男がタシロを攻撃したのである。タシロはあっけなく意識を失い、膝から崩れ落ちた。
タシロとレンがやられる前に、トモヤもまたもう一人の侵入者と格闘していた。侵入者はライの部屋のドアノブに手をかけようとしている。「ライ!」とトモヤが叫ぶ。侵入者はトモヤを認識すると、引き金をひいた。と、同時にトモヤも引き金を引いた。
トモヤの弾は男の肩をかすり、侵入者の弾はトモヤの脇腹に命中した。
「ちっ‥‥!」体に衝撃と激痛を受け、トモヤは床に手をつく。床に血がボトリと落ちた。
ライの部屋のドアが、ガチャリと開く。
「もういいよ」とライが静かな声で言った。
「レン、トモヤ、悪かったね」
タシロを担いでいないほうの侵入者は、ライの頭に袋をかぶせた。そして、ライとタシロを抱えて、闇の中へ消えていった。
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シンはドライマティーニをくいっと飲むと、カクテルグラスのオリーブを、ピックで刺して、自分の口に放り込んだ。
スマートフォンの通知を見て思わず笑みが溢れた。
あの忌々しいニジョウの飼い猫が手に入ったとの知らせであった。
「馬鹿な奴め」と男は呟いた。
長らく海外を転々としていたニジョウが、拠点をおいていた日本に戻るとの知らせを聞いて、男は今度こそニジョウを叩きのめすと誓っていた。
男は、世界をまたにかけるビジネスマンであり、相当なやり手と自負している。誰がなんと言おうと、そうだ。俺はやり手だ。だが、男のビジネスを常に邪魔する奴がいた。それがニジョウだ。
イタリアで、傾いたファッションブランドの買収に最初に名乗りをあげたのはうちだったのに、交渉がまとまろうとする瞬間にあいつが掠め取っていきやがった。イタリアの系譜のものに、ブランドを引き取って欲しかったからだと、責任者には言われた。
トルコでは、うちの石油タンカーが、あいつの軍事会社に攻撃を受けた。おかげで、タンカーの中に、女どもを積んでいたのが当局にバレて大変だった。法外な札束を積んでもみ消してやったが。
それにあの女どもはオークションで売れなかったやつだ。利益が出ないどころかマイナスにしてしまった。
二度もヘマをし、親父にはこっぴどく叱られた。
ゴルフクラブで殴られた後が背中にはまだ、ビッシリと残っている。この傷が消える前に、ニジョウを殺る。男はそう誓った。
奴の日本の拠点は簡単に掴めた。小汚い雑居ビルだ。
そこに何匹か猫を飼っているらしい。
猫ごと建物を吹っ飛ばしてやれと部下に指示したところ、思わぬお土産を持ってきた。飼い猫の一人、それも上等なのが、手を貸すと言ってきたのだ。
飼い猫の名前は、聞き覚えがあった。日本国内では有数の名家だ。シンの所有している会社でも付き合いがある。長らくニジョウの元で飼われていたが、転職を考えているらしい。
ニジョウを含む同僚の処分を条件に、シンの元で働いてもいいとミライは言った。
ニジョウを殺るのは、飼い猫の裏切りを知らせてからだ。裏切りを知った時のあいつの顔がみたい。
いつも薄っぺらい笑顔を浮かべているあのツラだ。
ようやくこれで、ニジョウに貸しが返せると、シンは笑った。
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トモヤは致命傷ではなかったものの、動き回ることはできず、オカダが応急処置を施した後は、部屋で横たわっていた。
「ライとタシロの行方、わかんねぇのかよ」とレンは言った。あからさまに苛々している。
「お二人の携帯はここにあります。GPSで居場所を調べることが‥‥」とオカダは言う。
「GPS?」とニジョウが言った。「タシロにはGPS仕込んでないの?」
いや、仕込んでいる。タシロがここにきた初日にオカダがタシロの鎖骨に埋め込んだ。そしてそれは、タシロのパソコンの起動装置にもなっている。
パソコンとタシロが1m以内にないと、タシロのパソコンは起動しない。
だが、タシロのGPSは追えなかった。おそらく負傷か衝撃によって故障してしまったのではないか、とオカダは説明した。
「‥‥GPSがあればいいんだねぇ。ねぇ、オカダぁ。僕の‥じゃなくて、オカダのパソコンにさ、ライに関するフォルダがあるでしょお?ちょっとそれ、見せてぇ」
オカダ、レン、ニジョウは、オカダの部屋へ行く。ニジョウはオカダのデスクに着席すると、「んーとねぇ‥‥」とフォルダをいくつも開けて確認した。
「このパソコン自体は、オーナーから頂いたものなんです。オーナーは住処を開けることが多いので、代わりにと‥」と、オカダはレンに説明した。
「あ、あったぁ。これこれぇ」ニジョウがモニターに移したのは、地図と地図上の点滅する赤い点である。
「これは‥‥」
「ライのGPS。12年前に埋め込んだやつ。どうかなぁと思ったんだけど、まだ探知できたぁ。ライを誘拐した時に埋め込んでおいたんだよね。万が一のときのためにって。ただ、当時の中国ベンチャーが開発した試作品で、精度はあんまりよくないかもぉ‥」とニジョウが説明した。
「僕がライを傷つけたのはこの時だけ。ふふふ‥‥」
そうだ、ライはシモダミライちゃん誘拐事件のミライちゃんだ。まさか、ライを誘拐した時に体内にGPSを埋め込んでいたとは。
「新宿近辺ということですね。調べます。申し訳ございませんが、四階でお待ち下さい」とオカダはモニターを見ながら言った。オカダの頭の中ではすでに調査の道筋ができていた。
30分後、オカダは四階ダイニングに降りていき、調査の結果を報告した。
「ライさんのGPSは、新宿大ガード付近を示しています。この近辺5kmにて、拉致監禁が可能そうな建物、反社関連の建物、その他オーナーと関わりがありそうな建物、その所有者の情報をリストアップしました」
オカダが、A4三枚の紙を、レンとニジョウに配る。そこには約100件ほどの、人物や会社の名前がリストアップされていた。
「さすが、新宿というべきかよ。まだ、全然しぼれてねーじゃねぇかよ。ちっ、仮に半径を5kmから3kmに絞ってもあんまかわんねぇかな」とレンが言う。確かにこのリストを一件ずつあらっては時間がいくらあっても足りないだろう。
「うーん。レン、そんなイラつかないでぇ。オカダ、ありがとう。オカダはやっぱり優秀だよ。あのねぇ、僕ね、わかる。たぶん‥‥こいつだと思う」とニジョウは一つの名前を指差した。
ニジョウの手入れされた人さし指の先には、「王希律」と書いてある。
「Wang Xilu。ワンシールゥ。シンだよ。まったく、調子に乗ってくれたねぇ‥‥」とニジョウが言う。
ニジョウの説明によると、ワン、いや、シンは、中国の河南省をルーツとする中国マフィアらしい。シンとニジョウは家同士、何世代も前から付き合いがあるということだ。イタリアマフィアのニジョウと中華マフィアのシン。良好な関係ではなく、敵対関係だ。シンは隙あらばニジョウの組織の壊滅を狙っている。
「実はねぇ、シンとは、アンカラで一悶着あったんだよねぇ‥‥諦めたと思ったのにしつこいねぇ‥‥あれはあれで愛の形なのかねぇ‥‥」
ニジョウはふぅとため息をついた。
オカダは続けた。
「ワン氏の保有する物件は地下一階から地上七階建となっています。ですが、地上部分はテナントが埋まっており、本日も通常営業しているようです。一方、地下一階の店だけは三ヶ月前に閉店しています。店の名前はカルバリー」
「カルバリーというのぉ。ふふっ、あいつらしい、なんともセンスの悪い名前だねぇ」とニジョウは言った。
そういえば、タシロが、一昨日見せたメールには、「迦南」と書いてあった。あれは、河南の意味で、ワン氏の事であったのだろうか?
オカダは疑問に思ったが、今それを明らかにしても、何の意味もないと思い、放っておくことにした。どのみち、ワン氏の元には行かねばならないのだから。
「オカダ、ここまでよく調べたよな。でもよ、一つ聞いてもいいか」とレンが険しい顔で言う。
「侵入者は二階まで上がってきた。なんでだ?お前、警報装置をオフにしていたのか?」とレンが聞いた。
そうだ、この建物は、いわゆるセコム的な警報装置がある。夜に外出する者がいないときは、つまり意図的にオフにしない限り、基本的に23時以降は、警報装置がオンになる。
「オーナーが帰ってきたことに浮かれて忘れたってのかよ」とレンが更に聞く。すると、オカダは何かを思い出したように、階下へ走っていった。
オカダは一階で止まった。
「違和感の正体はこれだったんだ‥‥!」オカダは玄関ドアを見上げて言った。そして、背伸びをし、玄関ドアの上に設置されている防犯装置を無理やり外した。
「オカダ?!」レンが驚く。
「見てください。これはセキュリティ用のセンサーではありません。プラスチックの筐体に点滅するランプをつけただけのものです‥‥」
確かに、ランプがプラスチックの中で点滅している。だけである。
「レンさん、私は、今朝、何か違和感を感じていると言いましたよね。これだったんです。ランプの点滅間隔は本来なら3秒間隔なんですが、これは4秒間隔です。一体誰が‥‥」
「オカダ、お前、ランプの点滅間隔に違和感感じてたのかよ。ヤベェな。それに、一体誰がって‥‥そんなのよぉ‥‥」とライが言うがその先の言葉が続かない。
「ライかなぁ。タシロには難しいだろうねぇ」とニジョウが言った。「まったくあの子は。本当に、ツンデレだねぇ」
ライ達の奪還には、レンとニジョウが行くこととなった。トモヤは動けない。オカダはトモヤに付き添うこととなった。
レンは横たわるトモヤに声をかけた。
「ちょっと行ってくっから、しっかり休んでろよ」
「情けなくてごめん‥‥ライを、お願い‥‥わかってると思うんだけど、ライには何か考えがあるんだと思う」
「お前が情けないんじゃなくて、俺がスーパーヒーローすぎんだな。ライが裏切り者の可能性については?」と、レン。
「‥‥違うと思う。裏切る動機がない気がする‥。何か一人で抱えちゃってるに、スーパーヒトシくん三個かな‥‥」「ふっ、ベットの例えが古ぇわ。ま、俺も同意見だけどな。あいつん中は迷路みたいになっていて、自分でも訳わかんなくなっちまってんじゃねぇかな。一言でもなんかヒントくれりゃあよぉ‥‥とにかく寝てろ。じゃあな」
トモヤの胸をブランケットの上からポンと叩くと、レンは立ち上がった。
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「あー、すげぇデジャブ。すんげぇデジャビュ。すっごくデジャブってアイドルの歌みてぇだな。坂道あたりが歌ってそうだ。あー、前にもこんなことあったよなぁ」とタシロは思った。
前回と違う点といえば、今回は椅子に座っている。前回はコンテナの床に這いつくばっていた。
足はまとめて縛られている。手は柱と棚の端に括り付けられ、横一文字になっている。両手を同時に縛るとタシロが紐を解くと考えたのだろうか。そんなテクニックはないが。
胸が開いた状態で受ける拷問は、トウゴウとの一戦で経験した際の、まるまった体勢で受ける拷問よりも恐怖感が強かった。胸を掻っ切られる恐怖と、自分は抵抗する術がなく、痛みを甘んじて全身で引き受けなければならないという恐怖が襲ってくる。
今回の奴らはトウゴウと違って、タシロから何かを引き出したいわけではなさそうだ。
頭からは血が流れ、太腿にはアイスピックが刺さっている。あと、全身が痛い。拷問は何度受けても慣れませんねぇと、タシロは頭の中で独り言を言った。
ワンこと、シンは真っ赤なベルベットのソファに座っている。痩せこけた頬と短髪が特徴の男だ。
両脇にボディガードを従えており、フロア内にも手下と思われる黒服が5名ほどいる。
ここはどうやらレストランであるらしい。入り口のドアは重たく、劇場にあるようなドアだった。防音のためなのだろう。叫んでもムダだ。まぁ、タシロにはもう、叫ぶ体力は残っていなかったが。
白と黒のモザイク模様の床。赤い照明。バーカウンター。シャンデリア。アート作品も多数配置されており、壺が見えた。立派で大きな壺だ。「死体でもいれんのかよ」とタシロは思った。
フロアの中心には噴水が見える。丸い噴水だ。中心に百合が真上を向いたような形の彫刻があり、水が溢れている。少し塩素の匂いがする。せせらぎのような音が心地よいはずだが、タシロはヒーリング効果を感じることは出来なかった。
シンのいるソファとタシロの拷問席は噴水を間に挟んで同じ直線上にあった。
「ミライくん」シンが声をかける。ライはシンの前に立っている。
「あんまりいい趣味ではないね」ライは呆れたように返事をする。ライは大きい白い布を一枚、肩から羽織り、へその前で、布を握っている。膝から下が寒そうだ。
「僕、一応いっておくけど、正真正銘の男だけど」
「美しいものに、男とか女とか関係ありますカ?」とシンはライを見つめる。ライは素っ裸になることにまったく抵抗はない。だが、シンの視線が、自分の体に意味付けをしている気がして、そしてそれが、ライの意図に反する意味付けであることに、ライは不快感を覚えた。シンはこっちへきてと、手招きした。
ライはシンに近づく。シンはライの頬を優しく撫でた後、白い布を取ろうとした。ライは手に力を入れて抵抗する。「ニジョウの首が欲しいんでしょう?」とシンが鋭い目で尋ねる。
ライは小さくため息をつき、自分の体を覆う白い布を握る手を、ゆっくりと緩めた。
「そうだね。僕のためにニジョウの首を持ってきて。僕はニジョウの首が欲しい」とライは言った。
タシロの耳にも、二人の会話は聞こえてきた。
なんの話だよ。俺だってニジョウさんって奴は気にくわねぇ。そうだ正直にいって面白くねぇ。この一年、レン達の友人になれたと思ったのに、自分は部外者だ、出て行け、追放だという声が頭の中でするようになっちまった。
せめてニジョウさんが悪人であればありがたいのに、最高レベルのハイスペ野郎ときやがる。設定にしちゃあ盛りすぎだろうが。
いや、ニジョウさんは何も悪くない。元々期間限定であることはわかっていたのに、自分はなんという小者なのか。ちくしょう。俺のくだらない感情はどうでもいい。それよりも、ライさんはどういうことだよ。ニジョウさんが、大好きなんじゃねぇのかよ。
ニジョウさんの首が欲しいってなんなんだよ!なんで、あの野郎とおっぱじめようとしてんだよ!
ライさんが何考えてんのかわかんねぇよ。タシロは
怒りと悔しさで、唇を噛んだ。唇から血が出ているが、既にそこここから、血が出ているのでよくわからなかった。
「もぉ〜ライってば〜首がほしいならそう言ってくれればよかったのにぃ。ライが望むなら首でもなんでもあげるよぉ」入り口の方から声が聞こえた。とびきりの甘い声だ。
レストランの入り口から、革靴をコツコツと音を立ててニジョウがやってくる。スリーピースを着、黒いシャツを、第二ボタンまではずし、センタープレスの黒いパンツを履いている。ライは驚いた。
ニジョウの顔は影がかかっている。表情はわからない。
「何があっても子どもを守る‥‥それが、父親の役目でしょう?だぁかぁらぁ、守りにきたよぉ」
ニジョウとシンの視線が絡み合う。
「シン、アンカラのことは謝るからぁ。その子、うちの秘蔵っ子だから返して」とニジョウが言う。
「ふん、秘蔵っ子は、てめぇを裏切って俺にコンタクトしてきたぞ。可愛い我が子に裏切られるとはな」シンは笑っている。ライは俯いている。
「うーん、裏切る裏切らないはどうでもいいんだけど‥‥僕はぁ、その子が欲しいの。必要なの。結構、苦労して‥いや、手間暇かけてぇ、手に入れたの。まあまあ大変だったんだからぁ‥‥だからぁ」
そこで、ニジョウは言葉を途切れさせた。
そして、シンを睨みつけて言った。
「返せっつってんだろ、クソボンボンが」
ニジョウの悪態に、場がシーンと静まり返る。
「なーんちゃって♡てへぺろー?ぴえん?なんでもいいやぁ。じゃ、いこうかぁ」
そういってニジョウは、シンに突進していく。両手には短刀を持っている。シンは長刀の鞘を抜いて応戦する。ニジョウが、長い足でシンの腹を蹴る。倒れ込んだシンの肩にニジョウが短刀を刺す。
「ぐっ‥‥」シンが唸る。
ニジョウが動いたことを皮切りに、シンのボディガードが動く。レンが応戦する。
「ねーぇ、シンちゃん、欲しいならさ、僕の会社の一つでも二つでもあげるよぉ。美術品でも、宝石でも。なんで、ライなのぉ?」
シンはニジョウのスネを狙う。ニジョウはかわしたが、よろける。よろけた隙に、シンはニジョウの背中に刀をすべらせる。オートクチュールのニジョウのスーツが裂け、血が滲む。
「お前がミライに一番執着してるからだよ!あと、タシロってやつにもな!アンカラの借りを返すにはお前のちびっこってやつをもらってイーブンだろぉ?!」
シンはさらに、姿勢を低くしたニジョウの後頭部を肘で殴り、膝でニジョウの顔面を蹴る。
「‥‥いったぁ!もー、シンちゃん、すごぉい。タシロのことまで、調べついたのぉ?やだなぁ、どこから漏れたんだろぉ。ネズミがいるのかなぁ〜」
ニジョウは鼻血を手の甲でぬぐった。
シンがさらに、ニジョウに攻撃をしかけようとする。だが、次の瞬間、シンは膝をついた。
「ガハッ」シンの口から血が漏れる。
ニジョウがニヤリと笑う。
「えへへ♡えへへ♡毒物に詳しい優秀な部下がいてね。まぁ、シンちゃんの部下のせいで怪我しちゃったんだけどぉ。ジャーン!刀に毒を塗ってみましたぁ!」と短刀を振ってにこにこと、血塗れの口をにっかりとし、ニジョウが笑う。
シンが付近の鏡で己の姿を確認すると、首と顔が紫色に変色している。
「僕、持久力があんまりないからねぇ♡さっさとケリをつけたくって」
「くそっ‥‥ハァッハァッ‥」シンはよろめきながら、ソファの方へ向かう。
「ニジョウ、これが何かわかるか!」とシンは己の脇にあるアタッシュケースを指差した。
ニジョウは黙っている。
「ここにはスイッチが入っている。このレストラン中に仕掛けられた爆弾のな!お前の可愛いミライが作ったんだ。お前らが追ってくるくらい予想できたからな。俺がスイッチを入れれば、みんなコッパミジンだ。ハァッハァッ」言葉を発しながらもシンの口からは血が溢れる。ガチャリとアタッシュケースを開ける。
「シンちゃんの部下もコッパミジンだよぉ」
「知るかよ!」アタッシュケースの中のスイッチをシンは拳で押す。
「シンちゃん、愛がないなぁ〜」
ドォンと奥の部屋で爆発が起こる。さらに、バーカウンターが爆発する。グラスが割れ、砂埃が立つ。
「ライ、おいで」ニジョウは瓦礫に足をかけながら長い腕をライの元に伸ばす。ライは首を振る。
「オーナー、僕は‥‥。一緒には行けない。僕は裏切り者なんだ。怪しい奴らが、チョロついているのに僕は気づいていたんだ。気づいていて、それで‥」
「裏切ったとか裏切らないとか、そんなことはどうでもいいよ。ライに忠誠を誓えなんて言った覚えもないよ。どう行動するかは、ライの判断であって、僕はそれをジャッジをする気はない。ライは自分の都合で行動すればいい。ただ、僕には君が必要だから。僕は僕の都合で言うよ。ライ、きて欲しい、こっちに」
まるで、プロポーズのようだと、タシロは思った。
ライは十二年前の事を思い出した。まだ、ライがミライだった頃だ。父親であるシモダは、悪い人間ではなかった。自分の世話をしてくれた人間たちも、けして悪い人間ではなかった。
ただ、ニジョウと出会ってしまって、ニジョウの手をとってしまった。ニジョウの白くて冷たい手。
「今の場所が、自分の居場所だと思えないなら、僕と一緒にきてみる?」と、十二年前、笑いながら声をかけてきたニジョウの手をとった。
春と冬がいりまじった季節の頃だった。
結局、自分は、この白くて冷たい手を、またとるのだろうか?
「お前はよぉ!一人で、迷路でぐるぐるしてんじゃねぇよ!くるんだよ!」レンがライの背中を蹴る。
前につんのめったライの腕をニジョウが握り、ライをひっぱり抱き抱える。
「なんともスイートな格好をしているねぇ」といって、ライにジャケットをかけてやる。
「ライ、裏切りっていう言葉は違うと思うんだぁ。これは僕の解釈だけどぉ‥‥ライは怪しい気配に気付いて、自分が何をすべきか考えたんじゃないかなぁ。その結果が、侵入者に自分をさらわせることだったんじゃあないかなぁ。たぶん、被害を最小限にするために、ライなりに考えたんじゃあないかなぁ。僕の知ってるライはそういう子だねぇ。うんうん。シンの手下に僕を狙わせて、僕が日本から脱出することまで考えてたんじゃあないかなぁ。もしくは内部からの組織の殲滅を狙った‥‥まぁ、僕の推測だけど」
「ふふふっ、お見通しってわけ‥‥」ライが呟く。
「だってぇ、12年一緒にいるんだよぉ」とニジョウが笑う。「ライ、ちょっと顔が赤いよ。恥ずかしいんでしょう。カッコつけて、全部一人で背負おうとしてるのなんて、お見通しだから、せいぜい恥ずかしがればいいよ」
「ふっ‥‥僕、ダッサ‥‥」と、ライは笑った。
天井裏でも爆発が起こったようだ。このレストランは間もなく崩落するだろう。
「くそっ‥くそっ‥」といいながら、シンはタシロの喉元にナイフをあてた。
「お前らが脱出すればこいつは殺す。殺してやらぁ!」とシンは叫んだ。
「‥‥あー‥‥すません、俺、雑魚キャラなんで、殺しても殺さなくてもエンドシナリオは変わんねぇと思います。‥‥あー、まぁ、アンタの気は晴れるのか‥‥ならそれもいいか‥‥」
天井のシャンデリアが瓦礫と共に、タシロらとニジョウらの間に落ちる。轟音が響く。
「俺は、大丈夫ッス。行ってください。俺‥バイトなんで‥」
「ダメだ、みんなで帰んだ!」とレンが叫ぶ。
「うるせぇなぁ、馬鹿野郎、全員ここでおっ死ぬ気かよ!行けよ!モブキャラにはモブキャラの最期があんだよ!ゲホッゲホッオェェ」とタシロが大声で叫び、勢いよくむせた。レンは突然のタシロの怒鳴り声に怯む。タシロは、かっこよくきめたかったのに、砂埃で咳き込みがとまらない。
さらに瓦礫が落ちてくる。ちくしょう、とレンは叫び、ニジョウらはレストランを離脱した。
「シンさん、あんたも俺と同じく哀れだな」
タシロは呟やいた。笑顔だった。
これでいい、レンとニジョウは、ヒーロー。ライはヒロイン。俺とシンとかいう奴はモブか当て馬だ。この後のストーリーはなくていい。
瓦礫がシンとタシロの上に落ち、タシロの意識は途絶えた。
◾︎◾︎◾︎
商店街の入り口にある桜が咲いた。薄ピンク色の花びらが、ひらひらとお買い物客を歓迎している。
ニジョウ、オカダ、レン、ライ、トモヤは、四階のダイニングでお茶を飲んでいた。タシロにはアフタヌーンティーの習慣はなかったが、ニジョウは昼過ぎはお茶を飲む。それに他の家人が、時々付き合うのである。
いつもなら、賑やかなティータイムであるが、今日は静かである。誰も口を開かないが、それぞれに三日前の出来事を反芻していた。
フルーティな茶葉の香りと、焼き菓子のバターの香りがする静かなティータイムであった。
オカダはアンカラで何があったのかとニジョウに尋ねた。「まぁ、アンカラっていうか、正確にはトルコ沖なんだけど‥‥トルコ沖でニュース調べてみてぇ」とニジョウが言った。オカダは素直に、スマートフォンで検索した。「‥‥なるほど」
ニュース記事によると、トルコ沖で、アンカラに本社を置く迦南グループの石油タンカーが座礁したとの記事が出ている。日本の新聞社が運営するニュースサイトのため、詳細は書いていないが、オカダは察した。
「こういうとき、てへぺろーって言うんでしょ?」と困り顔を浮かべながら、ニジョウは言った。
オカダはこれだけですか?といいたかったが、飲み込んだ。
四階でそのようなやりとりがなされているころ、一階では、一人の男がガチャリと雑居ビルの玄関ドアを開けた。ひらりと桜の花びらが、廊下に舞い降りる。
男は松葉杖をつきながら階段を上がってゆく。
「タシロに悪いことしちゃった」とライが言う。
「そうだねぇ、なんだか寂しいねぇ」とトモヤが言う。
「あいつ、最後の最後でクッソカッコつけやがったな」と、レン。
「なんか、俺、あいつが、ちっすって帰ってくる気がしてるわ。死んだとこみてねーからかなぁ」
ニジョウは静かにティーカップをすすり、「そうだねぇ‥‥」と呟いた。
その時、四人の背後で、「ちぃす」と言う小さな声が聞こえた。
ニジョウ、オカダ、レン、ライ、トモヤは振り返る。
そこには、青白くて目つきが悪く、どこで手に入れたのかと皆が思っていたスカジャンを小脇に抱えたタシロがいた。
「ちぃす」とタシロは会釈をして再度言う。
「ええーー!!」と言う声がダイニングに響く。
◾︎◾︎◾︎
「タシロ、生きてたのぉ?!」とニジョウを皮切りに皆が口々に、タシロの名前を呼んだ。
「なんか、生きてました‥‥ははは」タシロは頭を掻いた。
タシロの話によると、目を覚ますと、自分はベッドの上であった。神楽坂の女帝、つまり山うちの女将がいた。女将は「ふん、私は忠告はしたぇ」と言うだけで何も教えてくれなかった。その後、三日間休ませてもらって、スキンヘッドの手下が住処まで送ってくれたということだ。
「ニジョウさん、これ女将から預かってきました。京都の干菓子らしいす」
ニジョウの代わりにオカダが箱を開けると、そこには和三盆でできた小さなうさぎの形の干菓子がならんでいた。そして達筆な筆文字での手紙が添えられていた。
手紙の内容は以下だ。
シンの下っ端に、女将はスパイを送り込んでいた。あのレストランにもスパイはいた。女将とニジョウが懇意にしていることを知っていたスパイこと、女将の部下は、タシロを救って瓦礫の山から離脱した。
件のビルは事件のもみ消しの代わりに、女将が譲り受け、新たなビルに生まれ変わる予定だ。結果的にはニジョウのおかげで、格安で新宿の物件が手に入ったので、タシロは殺さず帰すことにした。
手紙からは白壇の香りがした。
ニジョウは手紙を読んで笑った。
「あははっ‥‥まったくあの方は僕をいつも驚かせてくれるね。‥‥ありがとう女帝。本当に素晴らしい女性だ。あなたの愛は受けとりました。次は僕が愛を返す番だね‥‥オカダぁ、とりあえずすぐに女帝にお礼の一報を。それから、物件に入る飲食店のスポンサーが必要ならいつでも教えて欲しいと伝えて」
ニジョウの目には涙が浮かんでいた。
「タシロが帰ってきて嬉しいよ。君は僕の一部だ。そして君の一部もまたそうなんだ」
ニジョウは、タシロにハグをした。タシロは訳が分からなかったが、目から涙が出ていた。
タシロには涙の理由はわからなかった。なんで俺も泣いてんだよ。ちくしょう、ニジョウさんの手のひらでコロコロ転がされてんじゃねぇよ。なんでこんなに心がジンジンすんだよ。ニジョウさんの泣き顔は美しいのに、なんで俺はこんなにきたねぇんだよ。ちくしょう、世の中は不平等だ。
数日後、ニジョウとタシロはダイニングで向かいあっていた。契約更改の話をしようと、ニジョウがタシロに声をかけたのだった。
「ニジョウさん、また、出かけられるんすね」
「うん、次はね、エジプトでビジネスの話があがっているんだぁ。質の良いアロマオイルが手に入るみたいでねぇ。まずは、僕の所有しているホテルから導入してみよぉかなぁって‥‥だから、タシロ‥‥君さえよければ」
と、契約書とペンを出した。期限は一年後となっている。
タシロは黙ってサインした。
「ありがとぉ。僕が自由に動けるのはタシロのおかげだよぉ」と言って、ニジョウは笑った。
ニジョウは出発の日、ニジョウの言葉を借りるところの、「子供たち」に声をかけた。
「ライ、実は僕もライに謝らないといけないことがあるんだよ。ライがいなくなってから、ライの部屋に入ったんだ。何かヒントはないかなって思って。そうしたらさ、机の上に、パズルがあったんだ。あれ‥‥僕、触っちゃって、そしたら崩れちゃったぁ‥‥パズルの塔のやつ。ごめんなさい。それから‥」
ニジョウは唇をライの耳元に持っていく。
「判断に迷ったら、この言葉を思い出すんだよ。もっと求めて構わないんだ。求めよさらば‥‥」
「与えられんってこと?さすがのオーナーでもキザすぎだよ。胸焼けがする」とライが遮った。
「トモヤ。トモヤは、次会う時までに戦闘力を上げておくこと。筋肉もつけておくことぉ。ボクシングのパーソナルトレーナーを手配しておいたから、来週必ず行くこと。あと、いつもレンとライのフォローありがとうね。それから、僕は自分のことをトモヤの父親だと思っているけど、兄にもなりたいと思っているからね。僕とトモヤは兄弟、だよ」
「オーナーが兄役ですかね?僕、兄に殺されるのかな」とトモヤが笑っていった。「人聞き悪いこといわないでぇ」と、ニジョウはトモヤを軽く叩いた。
「レン、レンの心は美しいね」と、ニジョウはレンの胸を人さし指でトンと叩いた。「周囲への愛と、罪の意識が同居してる。そのいびつさが、人間らしくて本当に素晴らしいよ。美しい。レンはその罪の意識に苦しむこともあるだろうけれど、僕はその罪すらも愛してるよ。苦しくなったときでも、それだけは覚えておくんだよ」
ふっと、レンは笑った。「お見通し、かよ」
タシロはそれらの言葉を横で聞いていた。オーナーのお見送りだからと気合いを入れて赤いシルク混のシャツを着た。色チ買いというやつだ。ニジョウの言葉が恐ろしくキザということは分かったが内容はさっぱりわからなかった。だが、ニジョウの言葉は心地よく、甘かった。ずっと聴いていたかった。まるで福音だ。
レンは、ヘラヘラと笑うタシロを見ながら、トモヤの言葉を思い出していた。シンのレストランへ行く前のことだ。
「ライはともかくさ、タシロが連れて行かれた理由はなんだと思う?」
「そりゃあ、ニジョウの部下だからじゃね‥‥いやでも‥‥」
「そうなんだよ、部下ならレンでも良かったんだ。むしろレンを連れ去った方が賢い選択だった気がする。僕でもよかったはずだ。どうしてタシロだったんだろう。ねぇ、タシロは、トウゴウってやつに、ここに送り込まれたって言ってたよね。だけど‥‥」
トモヤはううーんと唸る。「実はライの次にオーナーのお気に入りがタシロ‥‥だったりして。お気に入りというのは表現がいまいちかな‥‥」
「そんなことありえんのかよ。タシロの方が体重軽かったからからとかじゃねぇ?」
「いや、オーナーのことだ、きっと用意周到に人選をしてたんじゃないかな。もちろん僕もそんな風に思ったのは、オーナーが帰国してからだけど。そしてそれをワン氏は知っていた‥‥もしかするとオーナーはずっと昔からタシロを知っていたのかも。‥‥もっと言うと、ワン氏の襲撃まで把握していた可能性もあるよ‥‥」
どこからどこまでが誰のシナリオなのか、二人は混乱し、そして全てがニジョウの筋書きだったらと背中を凍らせて黙った。
「もぅいいから、お前は寝てろ!」とレンはそこで会話を打ち切った。
その後のシンとオーナーの会話でもタシロの名前が出ていた。お気に入りだとか言っていた。先日初めてあったばかりなのにおかしな話だ。タシロは自分をモブキャラとか、雑魚キャラとかいう。でも、そうじゃないかもしれない。ニジョウは、自分の使者を丁寧に綿密に計画を立てて選んだのかもしれない。でも、それをタシロに伝えるのはシャクだな、と思い、レンは黙っておくことにした。スーパースペシャルクールなヒーローは俺だ。
時刻は五時四五分。オカダはダイニングテーブルに今夜のメニューを並べた。今夜のメニューは、カレイのにつけ、全粒粉のバンズのハンバーガー、ひよこ豆のサラダ、ザクロのタルトだ。
五時五十分に、腹が減ったと騒ぎながら、階段を最初に上がってくるのがレン。時計の鐘と同時に顔を出すのがトモヤ。少し遅れてライとタシロが続く。
全員がそろうと、オカダは伝えた。
「皆さん、タシロさんは、契約更新されました。明日以降は徐々に業務に戻っていただきます。皆さんもそろそろ体を動かしたいでしょう。」
「ちびっこ」たちは一瞬食事を止め、そして三者三様にタシロの契約更改と仕事の再開を、乱暴な言葉で祝った。
そうそう、今夜タシロのGPSを取り替えなくてはね、と、オカダは思った。
「タシロさん、お味噌汁のお代わりつぎますね」
一つのストーリーにどれだけのモチーフが詰め込めるかに挑戦してみました。
詰め込みすぎて胸焼けがしましたが、よろしければ探してみてください。
ご覧くださいまして、ありがとうございました。