第28章 【演目:あの日】
真っ暗いステージの中。
【あの日】の劇は何事もないかのように幕を開けた。
薄気味悪いBGMが流れ、ナレーションがおどろおどろしく始まった。
『2年前、あの秘密基地で、とある事故がありました。いえ、世間体でいうと事故と言う事になってはいますが、あれはまぎれもない『事件』だったでしょう』
そんな不穏なナレーションに朱夏は戦慄した。
『特に早乙女朱夏にとっては……。』
そう言うと、朱夏1人がステージに残された。
「……紗理奈と海馬お兄ちゃん、元気でしょうか? すっかり疎遠になってしまいましたね」
朱夏は自室でそんな独り言を言っている。部屋の外を眺めるとそこには海馬がいるであろう部屋がある。
「なんで、あの時紗理奈に本当のことを言えなかったのでしょうか。……いえ、紗理奈と海馬お兄ちゃんは大事な人。二人の事を祝福出来ない私は……惨めですね」
そんな事を言って外を覗いていると、ふいに紗理奈が現れた。
朱夏はあまりの偶然に驚いたが、紗理奈は朱夏に気が付くと笑顔で手を振った。
「あっれ! 朱夏っちじゃん!」
「お、おはようございます、紗理奈」
久しぶりに顔を合わせた紗理奈は何ら変わらない様子で手を振ってきた。
少し戸惑いながらも朱かも平然を装う。
「ねぇ、今日暇?」
「あ、え……ええ」
「なら、久しぶりに「あそこ」に行こうよ!」
昔から変わらないその笑顔に朱夏は自分のモヤモヤを一回忘れることにした。
目の前の紗理奈はいつもと何一つ変わらない笑顔を向けているのだ。
「……ふふっ! はい! 是非!」
朱夏は笑顔で紗理奈に返事した。
「じゃぁ、11時集合ね!」
そう言うと紗理奈は普通に手を振って自分の家の方へ歩いて行った。
「……私は、何を拗ねているんでしょうね」
紗理奈はいつも通りの紗理奈で、朱夏は自分の嫉妬を恥ずかしく思う。
紗理奈が角を曲がって見えなくなるまで朱夏はぼーっと眺めていた。
すると今向かっていった方向から再び紗理奈が現れる。
「……あれ?」
「朱夏っち! さっき、11時って言ったけど、やっぱり10時でもいい?」
時間の変更の話だった。
別段普通の事なのに、なんだか、紗理奈はぎこちない。
「ええ、もちろんいいですよ? 用事でもあるんですか?」
「う……うん! そう、ちょっと用事があるっしょ! じゃ、またね!」
それだけ言うと今来た道を引き返すように紗理奈はさっさと速足で去って行った。
紗理奈のなんだか落ち着きない返事に朱夏は少し違和感を覚える。
「……??」
朱夏は首を傾げながらも10時に、秘密基地へと向かう事にする。
思えば、この時から何かが変だった。
◇◇
背景が山小屋に変わるとそこには既に紗理奈が居た。
「あ! 朱夏っち! 朱夏っちもこっちへおいでよ!」
紗理奈は崖の方で景色を眺めている。
「あら、紗理奈。崖の方にいるなんて珍しいですね。何が見えますか?」
朱夏も呼ばれるがままに紗理奈の隣に立って崖から景色を眺める。
「相変わらず、綺麗ですね……」
朱夏はこの切り立った崖から眺める、山々が連なるその景色が好きだった。
切り立った崖の高さは10メートルはあり、崖からは突き出た木の枝が何本か飛び出ている。
その不気味な木々の下には川が流れており、ここまでその流れる音が聞こえてくるのだ。
しばらく黙ってその音に耳を傾け、景色を楽しんでいると視線を感じた。
朱夏はハッっとしてその視線の主である紗理奈の方を見た。
紗理奈は気が付くと柵よりも一歩後ろに下がっていた。
景色ではなくて朱夏の背中を眺めていたのだ。
「……へ?」
その顔はいつもの目を細めて笑うあの優しい表情ではない。
切羽詰まって今にも襲い掛かろうとしてきそうな恐ろしい顔だった。
「さ……さり……な?」
あまりの緊迫した表情に朱夏は一瞬恐怖を感じた。一歩後ろに下がろうすると背中に柵が当たる。
「……ねぇ……朱夏っち?」
「な、なんですか?」
逃げ場のない朱夏は異様な雰囲気におびえながら紗理奈に尋ねる。
「……どうして……あんたなの?」
「へ?」
朱夏は紗理奈の言っている意味が分からない。
「付き合ってるのは私なのに……海馬ちゃんはあんたの話ばっかり!!」
「……!?」
寝耳に水の発言に朱夏は目を見開いた。けれども、紗理奈は切迫した様子でまくし立ててくる。
「馬鹿な私でも……流石に気が付くっしょ……。海馬ちゃんと付き合ってもう半年過ぎてるのに真面に手さえ繋いでもらえない。海馬ちゃんは私の事なんて好きじゃない!!」
朱夏は自分が身を引けば上手く行くと思っていた。
けれども、朱夏は海馬の心が誰を好きかなんて知るはずもなかった。
身を引いたうえで距離までおいて、紗理奈から怒号を受けている。
朱夏は腹立たしい気持ちに満たされた。
「そんな事……そんな事を言われても困ります! 私は海馬お兄ちゃんに何もしていません! むしろ、最近はお二人の邪魔をしないように心掛けているつもりでした! それなのに……そんな事を言うなんて酷いです! 私、他に何ができるって言うんですか!?」
朱夏はこらえきれなくなり、紗理奈に思っている事を言い返した。
すると、紗理奈の表情がいびつな笑みに変わっていく。
朱夏の心はざわめいた。
「あるっしょ? 一つだけ……」
紗理奈はゆっくりとゆっくりと朱夏との距離を縮めていく。
逃げようにも、朱夏の後ろには崖。
紗理奈の手は丁度朱夏の首のあたりをめがけて伸び始める。
「死んで」
紗理奈の手がとうとう、朱夏の首を絞めた。
「くるしっ……やめ……!?」
首を絞められた朱夏は何とか逃れようと必死で暴れる。
「あんたが……あの時……本当のことを言っていれば!! 私がこんなに『後悔』することもなかったのに!!!」
「……!?」
朱夏は紗理奈の言う「あの時」が紗理奈が海馬に告白する直前のあの時の事を差している事を察した。
「……勝手に……勝手に告白して、海馬君の心をものにできなかったから、それをあの時の私のせいにして……八つ当たりで殺そうとしているのですか!? ……酷い……酷過ぎます!!!」
朱夏の心は怒りでいっぱいになる。
そして、心の底から強く思った。
「そんな事で……死にたくありません!!」
朱夏の足に今までにない力が入った。
自分の手を柵に駆けて紗理奈のお腹を蹴飛ばそうと全体重をかける。
すると蹴りを繰り出す前に、思ってもみないものが崩れ落ちた。
ガララッ!!
全体重を駆けられた柵が刺さっていた足元の地面諸共崩れ落ちたのだ。
元は大人たちの手によって手作りされただけの木の柵。
大きく成長を遂げた朱夏の体重に耐えうる強度は無かったのだ。
「え!?」
「きゃぁ!」
足元が大きく崩れ去ったことで紗理奈の手は朱夏の首から離れて宙に投げ出された。
朱夏の手は柵を強く握っている。上と芋ずる式に繋がっている柵の先端に朱夏は何とか掴まっている。そして、紗理奈は咄嗟に掴んだ朱夏にぶら下がる。
二人の足元には当然の事ながら地面は無く数十メートル下に川が流れているだけだった。
「しゅかっち……しゅかっちのせいで……!! 殺してやる……殺して……!!」
紗理奈は酷い醜い表情のまま朱夏の足をよじ登ってくる。
「ひ……ひぃぃ!! やめて!! やめてぇ!!!」
朱夏はその狂気に満ちた表情に怯えて大きく足を振った。
そう、足を振ってしまったのだ。
その結果、足を振られた紗理奈は手を滑らせた。
「あ」
小さな悲鳴のようだった。
朱夏は絶望に怯える紗理奈の顔を見た。
物理法則に任せて紗理奈の体はあっという間に地面に向かって落下を始める。
川に落ちていたら、あるいは助かったかもしれない。
けれども最悪な事に、紗理奈が落ちた真下には突き出た木の根が飛び出していた。
木の根は太い幹から何本かに枝分かれしていて、その一本は上方を向いている。
――グサッ
紗理奈の体がくの字に曲がる。腹の真ん中で、鋭い木の根が腹を貫通しているのが朱夏から見えた。
「紗理奈!! さりなああ!!!!」
大声で叫んだ時には既にもう遅かった。
朱夏は自分のしてしまった事を一瞬で後悔した。
「私が……私が足を振ったから……私が……紗理奈を蹴落として……」
けれども、朱夏には紗理奈を助けている余裕はない。
木の柵はミシミシと音を立てて今にも崩れ落ちそうだ。
朱夏は目に涙をためながらも必死で木の柵をよじ登った。
そして、崖の上まで到達すると端から下を覗いてみる。
そこには、やはり体がくの字に曲がって枝が腹に貫通している紗理奈の姿があった。
その現実に血の気が引いていく。
「私が紗理奈を殺してしまった……」
そのセリフが終わると操られている朱夏の心は限界を迎えた。
あの日の事はショックが大きすぎて、必死過ぎて、朱夏は記憶があいまいだった。
けれども、その記憶を補完するかのようなこの劇は残酷にも決定的な証拠になる。
鮮明に現実を突きつけられた朱夏の心は張り裂けた。
(あああ……あ……ああああ!!!!)
朱夏の心の中は悲鳴でいっぱいだった。
(やっぱり……やっぱりあれは夢なんかじゃなかった!!)
大人たちは寄ってたかって木の枝に紗理奈が刺さっている事実を否定した。
さらに言うと、海馬は全く別の発言をしていたという。
(やっぱり周りの人がみんなで嘘をついて私を庇ってくれたんです!! やっぱり……あの時……私が……私が紗理奈を崖から突き落としてしまったんです!!)
その時だった。朱夏の心の中で何かがもくもくと膨れ上がった。
ドス黒い感情は朱夏を支配する。
朱夏はそのドス黒い感情への拒絶反応で心の中で叫んだ。
(いや……いやあああ!!! いやあああああああああああ!!!!!)
その時だった。
「いやああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
ステージにヒステリックな朱夏の悲鳴が響き渡った。
今まで言葉を喋ることが出来なかった朱夏の人形が激しい悲鳴を上げている。
「いやあああ!! いやああああ!!!!」
明らかに錯乱している様子の朱夏に驚いたのはマリオネットだ。今までステージの端で人形を操っていた彼は慌ててステージ上に駆けあがってきた。
「なっ!? なんだ!? どうしたんだ!?」
途端に人形を操作していた金色の糸はプツンと切れて朱夏はその場で崩れ落ちる。その様子にマリオネットは目を見開いてしゃがみ込んだ。
「ええ!? 人形が……壊れた!? こんな事……初めてだ……」
マリオネットはそっと朱夏の人形を持ち上げると、マリオネットの能力で宙に浮いたままの木の板と人形を交互に見た。本来そこから繋がっているはずの金の糸はぷっつりと切れている。
「し、仕方がない。一度閉幕!! 休憩時間といたします」
ブーッ!!
マリオネットの声を合図に幕は慌てて閉まっていった。
ただ一人海馬だけがその一部始終を上方から眺めて唖然としている。
「な……なんだ……。なんだったんだ……今の劇?」
その口から洩れる声には驚きや焦燥感が漂っていた。
「僕……あんな現実……知らない」
ポツリ……。海馬はそうつぶやく。
そう、今の劇は海馬の記憶の「あの日」とは全く違っていたのだ。
「どういう事なんだ? なんで、なんで紗理奈が……あれ? でも、紗理奈はここに生きている……え!? どういう事なんだ!?」
海馬の頭の中はもう、混乱を極めていた。
「朱夏……朱夏は!? 朱夏は無事なのか!? あんなことを演じさせられて……精神が持たなかったんだ……どうしよう……!?」
先程はあの日を演じさせることでエリを起こそうと海馬は朱夏に言っていたのは、朱夏の知っている『あの日』と海馬の言っている【あの日】の内容が全く別の物だったからだった。朱夏がこんなに錯乱する『あの日』の存在を海馬は知らない。
「僕……朱夏に……この劇をやれって言っちゃってたの?」
結果的にはどうすることも出来なかったことかもしれないが、海馬は自分の発言を後悔した。
その後悔とは裏腹に海馬の体はびくともしない。
「エリは……この悪夢を見ていないのか? 全然起きない……。……悪夢……?」
海馬は自分で呟いた一言にハッとした。
「そうか……エリは悪夢のループを見続けている……。人が一人死ぬくらいじゃもう飛び起きたりしないのかも……」
海馬は自分の作戦が大失敗に終わった事を痛感する。エリ自身の悪夢への耐性について考えていなかった。朱夏だったら飛び起きる悪夢も、エリにが毎晩見ていた予知夢はもっと凄惨だった。
「くそ! 僕は……何が作戦だ! 大馬鹿野郎じゃないか!!」
海馬は自身への不甲斐なさや怒りをそのまま口した。
「いつだってそうだ……。あの日だって……」
海馬の言うあの日と、朱夏の言うあの日の中身が大きく違う。
なぜなら、海馬はあの日もこんな大失敗をしてしまったからだ。
「あの日……僕が……紗理奈も助けることが出来ていたら……こんな事にはならなかったのか!?」
海馬は紗理奈の人形に視線を向ける。
けれども、ぶら下がった紗理奈の人形はうんともすんとも言わなかった。
「僕……僕はどうしたら……」
1人だけ残ってしまった海馬はそれからもしばらく自問自答を繰り返すのだった。